玖波大歳神社

神社についての歴史と知識

禁忌について

2014-06-15 19:28:16 | 日記
 現代における神社の在り方を考える上で清浄とそれに対応する「穢れ」・「禁忌」は避けて通ることの出来ない要素であるので少し述べておきます。

 古くから各共同体ごとに異なった「忌」の慣習は存在していただろうが、禁忌は律令が定められ、式を施行していく時代に確立していったものと思われる。
 そのために、「古事記」・「日本書紀」が編纂された時代にはまだ禁忌を具体的に取り入れることが出来なかったと思われる。伊奘諾尊が黄泉の国から戻り、阿波の水門と速吸名門の海峡の流れが急すぎて筑紫の日向の橘の小戸の檍原で着ているものを脱ぎ祓い、身を削ぐように洗い清め滌いだ事が祓詞として現代の修祓で唱えられるとはこの時代には考えられなかったのではないだろうか。祓詞における「穢れ」と「唐六典」などにより大陸の影響を受けた「六色の禁忌」とは意味が全く違うと考えるべきである。「穢れ」は禊祓を行うことによって全て祓へ清められる方が神話の流れ上良かったのであろう。

 「穢れ」以外に祓詞に出てくる「禊祓」「禍事・罪」についても少し触れておく。
「諸々の禍事・罪・穢れ」があって禊ぎ祓うのであるが、「禍事」とは畏れるべき悪しき事(自然の猛威・神々の怒り・死・病等)であり、罪とはその畏れるべき悪しき事を呼び起こす原因または不吉な禁忌を破る行為で、大祓の「天津罪」「国津罪」「許々太久罪」を代表的な罪だとすれば、それは①神聖を穢す罪、祭りを穢す罪、②農耕社会秩序を乱す罪、③命あるもの、命を終えたものを傷め損なう罪、④人倫を犯す罪、⑤呪いをなす罪、⑥特別な穢れ災いを受ける罪などを挙げる事が出来る。
 それを取り除くために行う①祓へとは着衣を全て脱ぎ祓うことでありそれは、体内等に停滞している物を取り除くことを意味し、②禊とは清らかな水で身を削ぐように滌(濯)ぎ、本来の霊魂を体内に注ぎ、元の状態に戻ることを意味していたが、平安時代には大祓の参加者に清浄を求めており、清らかな上にも更なる清浄を期することを目的とした儀式になったと言える。祓への方法としては「爪等身体の一部を含む財物没収罪を購う儀式(贖いの法)」「撫物・人形・解縄・茅輪・祓麻・祓刀・木綿・布・麻布・幣・大麻・切麻・散米・豆撒き・餅撒きなど水に流す物や祓い清める物や差し出す物を用いた儀式(触浄と名付けるのが適当と思われる)」等が見られる。また、更なる清浄を求める「禊祓」で取り除かれる「穢れ」に、死穢・産穢・月事は含まれていなかったし、天武天皇十年七月丁酉の条に「天下に令して悉に大解除せしむ。此の時に当たりて、国造等、各祓い柱ぬひ一口を出して解除す」とあり、大祓に際し人柱を用いるということは死そのものを「罪・穢れ」と考えていたとは思えない。

 しかし、律令時代になると、神祇令第十一条の祭祀奉仕者の禁忌規定にあるように神事期間の前後においては、喪を弔い、病を問い、宍を食うことを得ざれ、亦刑殺を判らざれ、罪人を決罰せざれ、音楽を作さざれ、穢悪の事に預からざれという「六色の禁忌」が基本となり、次のように穢限などが定められていった。

延喜臨時祭式穢忌条・改葬傷胎条 延喜式完成 醍醐天皇延長五年(九二七) 延喜式施行 冷泉天皇康保四年(九六七) 穢    限

一 人の亡骸(人死)                      三十日
  改   葬
  胎児四ヶ月以上の流産(傷胎)

二 人の出産                           七日
  胎児三ヶ月以下の流産(傷胎)

三 六畜の死体(六畜死) 牛・馬・羊・猪・犬・鹿         五日(「西宮記」では七日)

四 六畜の出産                         三日
  六畜の肉を食す(宍を喫む)

弘仁式 嵯峨天皇弘仁十一年(八二〇)には次のものなどがある。

問疾(病人見舞い) 三日(延喜式で削除)
失火 神事の時に当たる場合は七日間を忌む

 また『蜻蛉日記』・『古今著聞集』などに「神事及び吉事一般に関与することなく、自宅や寺院などの便宜の場所に引き寵もって、神宮神社に参詣することは勿論、公務公事に就くことをも憚った。」とあり、死穢(亡骸のケガレ)の場合の忌み方について見受けられる。

更に、延喜臨時祭式の触穢条を見ると、「甲処にケガレが発生し、乙人がそこへ行き着座してきた場合、乙人と乙人と共に居る人は皆“触穢”したものと見なす。更に丙人が乙人の処へ行けば、丙人のみ穢れたと判断する。」とか、「甲処で触穢した乙人が丙処へ行き、着座した場合は、丙処に居る人は皆穢れるが、そこへ来た丁人は穢れない。」など穢れの伝染についても示されている。律令の頃からこの触穢と共に続柄による忌服の期間も共存している。こういった状況が明治時代になるまで続いていたと思われる。

 明治時代に入ると、明治五年二月二十五日の太政官第五十六号布告に「自今産穢不及憚侯事」として産穢は遠慮するには及ばないとし、明治五年三月十日の触穢禁忌忌服方法では「死人ヲ取扱者ハ三日ノ後沐浴参宮ノ事但葬式ニ随ヒ及死者同座ノ者ハ沐浴致候ヘハ翌日ヨリ参宮不苦候事」として、三日後沐浴して参宮して良い。葬儀に同席した者は沐浴すれば翌日より参宮して良いとし、「墓参ノ者沐浴ノ後参宮不苦侯事」として墓参りした者は沐浴して参宮して良いこととした。また、明治五年六月十三日の太政官第百七十七号布告では「死葬二預リシ者神社参詣ノ件神社参詣ノ輩自今死葬ニ預リ侯モノト雖モ当日ノミ可相憚事」として産穢に続き死穢の穢限三十日であった古制を改め、一日と減じた。更に、明治六年二月三十日の太政官第六十一号布告では「自今混穢ノ制被廃侯事」として触穢の制を全廃した。そして、明治七年十月十七日の太政官第百八号布告で服忌令京家の制を廃し武家の制を用いるようにした。つまり、続柄による忌服のみを残そうとしたのである。

 ただ、神宮においては触穢を残し次のように定めている。
神宮法規 明治三十五年
墓参会葬ニ付遠慮ノ件 死体ニ触レシ者     五日
埋葬ニ立チ会イシ者                二日
墓参会葬及葬家ニ立入リシ者           当日
神宮規定
勤務を遠慮する場合 死体に触りたとき       三日
墓参、会葬および葬家に立ち入ったとき      当日

 そもそも「忌む」とは、縁起が悪いとか汚いものとして避けると言う意味があり、亡骸や土葬された者や出産時や月経時を不浄とイメージしてきていたことが窺える。そのイメージを明治政府は払拭しようとしたが律令制度からの慣習を壊すことが出来きらなかったように感じられる。

 現代においては、土葬の時代にイメージされていた亡骸の穢れも土葬された亡骸からの白骨(五体不具)の穢れも、火葬によって不浄のイメージは薄らいできているようであり、会葬に当たっても現在は死臭等も感じさせないように葬祭業者が配慮しており、触穢は意義を失って来ている。産穢についても病院で清潔に行われており、月経についても、CM等で見受けるように清潔に保つ用品が開発されて不浄のイメージは無くなってきている。また、葬儀の後すぐに職場に復帰して日常生活をしている現代の状況を見ていると、一定期間を設けて引き籠もる「忌服」は意味を失っている。また、葬儀の場が穢れていると考えると、家には、屋船皇神等がおり、水神様や竈神様のお坐します台所で、水や米を始め様々な霊が宿っているものを調理したり、亡骸の前に供えたりする行為は神々に対して不敬に当たるのではないだろうか。埋葬にしても大地主大神に対して不敬に当たるのではないだろうか。逆に現世から幽界に帰る神聖なものとして扱うべきであり、ただ現世に残った人々の別れに対する感情が悲しみを生み出しているのであって死も葬儀も不浄なものではない。「忍び手」も故人に対する思いのため音をたてることの出来ない心情の表れであって、穢れとは無関係なものとすべきであろう。不浄でなければ葬儀において修祓をすることの是非を考える必要もない。私たちは死に対しても埋葬に対しても穢れと考える慣習を無くす努力をすべきではないだろうか。加えて、神事等に関してのみ「忌」の慣習が幅を利かせていることは不自然としか言いようがない。これも是正するよう取り組むべきだと思う。

 魏志倭人伝に「停喪十余日」とあるがこれは通夜のことなのか、忌服のことなのか、また、魏志倭人伝が示す倭国がどの国を指しているのか。戦国時代を始め、多くの死者や傷病人を出した時代でも、「忌服令」は守られていたのだろうか。神事に携わる神職の忌の期間が一般より短い事は本末転倒ではないだろうか。穢れは不浄と言うイメージだけでなく、日常とは異なる心の状態・ケガレの対象に感情が揺れ動き、正常に日常を過ごせない状態をも含み「気枯れ」・「異枯れ」と解釈することが正しいのか、また、不意に思いがけず、はからずも受ける傷と言う意味で「怪我れ」と解釈することが正しいのか、等々素朴な疑問数え切れないほどあり、「忌み」の有効性を決定付けることは難しいのではないだろうか。

 現代社会において、禊祓の儀式によって刑法上の罪が赦されるわけではないし、目の前のきたなく汚れた状態が清潔になるわけでもない。現代の禊祓は清らかな上にも更なる清浄を期することを目的とした「禊祓」であると考えることが自然である。禊祓の対象としての「穢れ」があるから禊祓が必要であり、「穢れ」があればこそ禊祓は機能的に存在し、また、存在価値が認められるのである。だとすれば、禊祓で清められる「穢れ」のみ「穢れ」とすべきである。出来れば、禊祓を、塵芥埃が溜まるのと同様に、人の心にも、鬱積停滞するものを穢れとみなし、罪についても大祓の「天津罪」「国津罪」「許々太久罪」ではなく、知らず知らずのうちに犯した罪とみなし、それらを祓へ清めることを意味していると考え、仮に「罪・穢れ」が無い人についても清らかな上にも更なる清浄を期することを目的としたもので常に行うべきものと捉えるべきであろう。自然発生的現象であり、その事態が鎮まるまで忌み慎み、その後禊ぎによって浄化されると言う慣習になっている存在も、死も葬儀もそれらによる「異枯れ」等々も「穢れ」とは考えず、「汚れ」の状態を排除して清浄な空間を創り、禊祓の効力によって更にその場所を神聖化すると考えていかなければ禊祓の存在そのものが意義を失うことになるであろう。

服 忌 表

死去された方                 忌                服

父母      実父母            五十日             十三ヶ月
         養父母           五十日             十三ヶ月
         継父・嫡母・継母       十日              三十日
         夫の父母          三十日            百五十日

祖父母     父方 祖父母         三十日             百五十日
         母方 祖父母         二十日              九十日

曾祖父母   父方 曾祖父母       二十日              九十日
         母方 曾祖父母        な し             な し
高祖父母   父方 高祖父母         十日             三十日

        母方 高祖父母        な し              な し
夫                      三十日             十三ヶ月
妻                      二十日               九十日

子      家を継承する子        二十日               九十日
       その他の子女          十日              三十日

孫      家を継承する孫          十日              三十日
        その他の孫           三日                七日

曾孫・玄孫                   三日               七日

兄弟姉妹   兄弟姉妹          二十日               九十日
        異父 兄弟姉妹        十日              三十日                         

伯叔父母  父方 伯叔父母         二十日               九十日
        母方 伯叔父母         十日               三十日

甥・姪    兄弟姉妹の子           三日                七日
       異父 兄弟姉妹の子       二日                 四日

従兄弟姉妹   父の兄弟姉妹の子     三日                七日
          母の兄弟姉妹の子     三日                七日

※ 忌の期間に該当する方は、なるべく神社への御参拝・外出・派手な事等をご遠慮下さい。
  服の期間に該当する方は、故人のことを心に留めておられても、御参拝には何ら差し支えございません。

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