Fukuoka-Hangzhou

Back up blog

本サイト↓
http://blue.ap.teacup.com/salsa2001/

『長江文明の探求』& 野生種から栽培種への転換 

2013-09-17 08:00:39 | 日記
九州博物館に行く。展示されていたものは既に写真や図表でみたものばかりだが、実際に自分の目で確認することが重要だと思う。特に今回よかったのは玉そうの実物が見れたこと。

玉そうの写真は此処で↓
http://www.nipic.com/show/1/24/0c9ae485ffbc642a.html
http://kanazawa45.files.wordpress.com/2009/10/091017e69dade5b79ee383bbe889afe6b89ae58d9ae789a9e999a2-67.jpg


『長江文明の探求』 
監修:稲盛和夫 梅原猛、安田嬉憲共著 写真:竹田武史 新思索社 2004年初版。 

「稲作の起源辺境説」 この図が多くを語る。まさに野生稲の北限で最古の稲作遺跡が分布する。
http://blue.ap.teacup.com/applet/salsa2001/3341/trackback


こういう事だろう。 野生種は多年草で栄養繁殖する為、通常種子はつけない、環境の変化などでたまに付けることはあるが、これでは栽培種にはならない。しかし北限にある野生種は10万年ごと(?)に訪れた氷河期に生存の危機を迎える。

その時生物がとる戦略は「種を大量に作り次の世代に希望を繋げること」 すなわちその個体は死滅しても次に環境が一時的にでも改善された時に子孫を大量に増やすこと。 それが繰り返される時期に種子を大量につくる変異株が優勢となる。そうなるとこで栽培種に適したものが生まれる。それを人が選抜するということ。

即ち、栽培種の出現は人間の行為のみならず、イネ科の植物の生存戦略が必要だったということだろう。 そういう意味では栽培種の出現はヒトと稲自身の共同作業だったということだろう。 この点で最初から1年生で種子繁殖をする小麦の栽培化と稲を同列で議論してはいけないことが理解できた。

ここでもダーウィンの言葉が思い出される。

「強いものが生き残るのでも、賢いものが生き残るのでもない。生き残るものは変化するもの」


最新の画像もっと見る

コメントを投稿