浅草富士浅間神社 〈正式社名 浅間神社 浅草神社の兼務社〉 東京都台東区浅草
2月1日に浅草神社を参拝しました。帰宅後ブログ作成のためにネットで色々調べていたところ、浅草寺のHPに浅草富士浅間神社の記載がありました。そこで、過去に浅草富士浅間神社に参拝していることを思い出し、調べてみると令和元年9月に参拝していました。その時にはブログの記事しませんでしたので、ここに書くことにしました。
浅草神社 被官稲荷神社〈浅草神社の境内社〉
浅草富士浅間神社
【住 所】東京都台東区浅草5-3-2 Mapion
【御祭神】木花開耶姫命(このはな さくやひめ の みこと)
【創 建】不詳(本殿より発見された棟札から元禄年間(1688年-1703年)の創建と推測)
【歴 史】
【植木市】 5月・6月最終土日の4日間
浅草富士浅間神社 令和元年9月12日撮影
鳥居


手水舎

社殿

社殿の中

本殿外観 本殿・諸資料群・境内地は台東区有形民俗文化財






境内の掲示

浅間神社
台東区浅草五丁目三番二号
浅間神社は、富士山への信仰に基き勧請された神社で、神体とし で「木造木花咲耶姫命坐像」を安置する。
創建年代は不明だが、『浅草寺志』所収「寛文十一年江戸絵図」に表記があり、江戸時代初期の寛文十一年(一六七一)までには鎮座していたようである。現在の鎮座地は、約ニメートルほどの高みを成しているが、中世から江戸初期にかけて、関東地方では人工の塚、 あるいは自然の高みに浅間神社を勧請する習俗があったとされてお り、当神社の立地もそうした習俗に基くものと思われる。
江戸時代には浅草寺子院修善院の管理のもと、修験道による祭祀が行われ、江戸を代表する富士信仰の聖地として、各所の富士講講員たちの尊崇を集めた。明治維新後は浅草寺の管理を離れ、明治六年には浅草神社が社務を兼ねることとなり、現在に至っている。
本殿は、平成九・十年の改修工事によって外観のみ新たに漆喰塗がほどこされたが、内部には明治十一年建築の土蔵造り本殿が遺されている。さらに、この改修工事に伴う所蔵品調査により、江戸時代以来の神像・祭祀用具・古文書などが大量に確認された。
これら、本殿・諸資料群・境内地は、江戸時代以後の江戸・東京に おける富士信仰のありさまを知る上で貴重であり、
平成十一年三月、台東区有形民俗文化財に指定された。
祭礼は、毎年七月一日の「富士山開き」が著名でまた、五・六月 の最終土・日曜日には植木市が開催されている。
平成十二年三月
台東区教育委員会
2月1日に浅草神社を参拝しました。帰宅後ブログ作成のためにネットで色々調べていたところ、浅草寺のHPに浅草富士浅間神社の記載がありました。そこで、過去に浅草富士浅間神社に参拝していることを思い出し、調べてみると令和元年9月に参拝していました。その時にはブログの記事しませんでしたので、ここに書くことにしました。
浅草神社 被官稲荷神社〈浅草神社の境内社〉
浅草富士浅間神社
【住 所】東京都台東区浅草5-3-2 Mapion
【御祭神】木花開耶姫命(このはな さくやひめ の みこと)
【創 建】不詳(本殿より発見された棟札から元禄年間(1688年-1703年)の創建と推測)
【歴 史】
明治六年(1873) 神仏分離令により「浅草神社」の兼務社となる。(それまでは別当寺浅草寺子院修善院が管理)
明治十一年(1878) 本殿を再建。
昭和二十年(1945) 東京大空襲で拝殿を焼失。(戦後になり拝殿が再建)
平成十年 (1997) 鳥居を建立
平成十年 (1997) 本殿の改修工事(外側に漆喰塗を施工)。
平成二十八年(2016)境内に富士塚を築く。
【例大祭】7月1日(富士山山開きの日)明治十一年(1878) 本殿を再建。
昭和二十年(1945) 東京大空襲で拝殿を焼失。(戦後になり拝殿が再建)
平成十年 (1997) 鳥居を建立
平成十年 (1997) 本殿の改修工事(外側に漆喰塗を施工)。
平成二十八年(2016)境内に富士塚を築く。
【植木市】 5月・6月最終土日の4日間
浅草富士浅間神社 令和元年9月12日撮影
鳥居


手水舎

社殿

社殿の中

本殿外観 本殿・諸資料群・境内地は台東区有形民俗文化財






境内の掲示

浅間神社
台東区浅草五丁目三番二号
浅間神社は、富士山への信仰に基き勧請された神社で、神体とし で「木造木花咲耶姫命坐像」を安置する。
創建年代は不明だが、『浅草寺志』所収「寛文十一年江戸絵図」に表記があり、江戸時代初期の寛文十一年(一六七一)までには鎮座していたようである。現在の鎮座地は、約ニメートルほどの高みを成しているが、中世から江戸初期にかけて、関東地方では人工の塚、 あるいは自然の高みに浅間神社を勧請する習俗があったとされてお り、当神社の立地もそうした習俗に基くものと思われる。
江戸時代には浅草寺子院修善院の管理のもと、修験道による祭祀が行われ、江戸を代表する富士信仰の聖地として、各所の富士講講員たちの尊崇を集めた。明治維新後は浅草寺の管理を離れ、明治六年には浅草神社が社務を兼ねることとなり、現在に至っている。
本殿は、平成九・十年の改修工事によって外観のみ新たに漆喰塗がほどこされたが、内部には明治十一年建築の土蔵造り本殿が遺されている。さらに、この改修工事に伴う所蔵品調査により、江戸時代以来の神像・祭祀用具・古文書などが大量に確認された。
これら、本殿・諸資料群・境内地は、江戸時代以後の江戸・東京に おける富士信仰のありさまを知る上で貴重であり、
平成十一年三月、台東区有形民俗文化財に指定された。
祭礼は、毎年七月一日の「富士山開き」が著名でまた、五・六月 の最終土・日曜日には植木市が開催されている。
平成十二年三月
台東区教育委員会
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