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あぁ…

2009-12-30 08:38:00 | ひとりごと
今日は、あと、前から書きたかった加藤和彦さんのことをアップしたかったり、深夜の「朝まで生つるべ」坂崎さん惜しい事件を書き記したかったり、ドラドラで出来ないならカッコ仮で、2009の諸々総括(記録)したりしたいんだけど、怒涛のアップが出来る自信はイマイチない。

朝 2

2009-12-27 07:48:00 | ひとりごと

(台北の朝だいたい6時、さっきとは微妙に違う時間)

当たり前のようにくる明日は当たり前に来ない
当たり前のこだけど、目の当たりにすると衝撃

会いたい人には会っておきたい、そんなお話



その日はやってくる、ある日やってくるとわかっていたよ。でも、もう少し「覚悟」の「予感」みたいなものがあるんじゃないかと、弱い体だけに思ってた。

何故ならもっと長生きするだろうと思ってたおじいちゃんが、最終的な死因は「肺炎」で亡くなった時も、入院したと連絡を受けた時は、また帰ってくると思った。
交通事故など超緊急の救急救命しか受け付けないために、術後もすぐに他で入院先を探さねばいけない病院、
近所の医者→祖父が死んだ病院→紹介された病院→(ここだけ救急車)救命病院 とたどりつき、内臓の激しい癒着で緊急オペとなり、さすがに覚悟か?と、母と私が思った夜からも祖父は生還した。(まだ祖母が寝はじめた頃で、電話も出来たので夜中1人でも大丈夫だからついててあげなさいという頃だった)

あの時も紹介された病院で、よく自家用車で来られましたね、何故救急車を呼ばなかったのだろうと驚かれた。だから、どんなに近くてもジンクスでなく、祖母の搬送先は骨折の時も(毎日の通いにこっちが大変でも)、亡くなった時も別の病院を探してもらった。

そんなこんなで、祖父は「肺炎」覚悟してください、と言われてから、かなり苦痛そうだったのが痛々しかったけれど、はじめは会話も出来たし、孫全員が話せるのに間に合ったし、二夜ほどあったので、交替で(徒歩2分なので)祖母を見つつ母と私も何度となく会いにいけた。ほぼ最後に近い時まで意識もあったようだ。(だから痛いのが可哀想だったけど)

祖父の場合、生きることに執着があった。それは自分の人生だから、そして置いていく病気の叔母(娘)とうちのおばあちゃんが心配だったから。うちのおばあちゃんには母と私がいてまだ安心して任すよと常に言ってたけど、叔母は心配でならなかったみたいだ。(だから叔母が翌年亡くなった時は、本当に祖父が迎えにきた気がした)

戦争や何度も手術を乗り越えた祖父もさすがに、自分で「今度はもうあかん」と母に言ったそうだ。

なので、家族は医者に言われてから「覚悟か…」と、「大丈夫」と言いながら祖父と別れを意識して話すことが出来たし、何より本人が覚悟して逝った。

死因は肺炎でも、死に至る過程など、祖父は死ななくてよかったかもというところでは納得していないが、

祖父にもう明日は来ない。
明日は祖父はお浄土にしかない。

というのは、「わかって」見送れたので、「その時」には納得している。

祖母の場合、それは日常の中の、心配な出来事ではあったが、それまでも2回、自宅に看護士さんがきてくれた処置で解消出来たこと、と外から見える様子では思えたので

ちょっと心配なので救急車呼びましょうと看護士さんから言われても、心配だけども病院で処置をされたら帰って来れると母も私も、祖母も思っていた。信じてた。

運よく当直医が専門科の先生で、通常夜中の搬送ではしてもらえない(レントゲンまで)、内視鏡映像診断もして家族にも説明があった。最初は2人だったので検索後母が祖母につき、私が説明を受けたのだが、
「若者ならば即断手術ですが老齢なのでリスクが…。これが自然治癒するのは奇跡的だとは思うがないとも言い切れないから、期待しすぎないで希望は持ちたいかと思うが…覚悟はしていただいたほうが、そして連絡してあげたい方にはご連絡お願いします」

そして叔母や叔父やいとこが集まった頃に、先生はもう一度説明してくださったそうだ。

また、私が「奇跡が起きない代わりに、死んでしまう前に内臓破裂ということにもなれば、相当痛いと思うが」と聞くと、「そうならなくとも痛みが強まれば、点滴に痛み止めを入れますからね」

祖母の死因は直腸捻転である。

私があの時にやった体位変換が原因だったらどうしよう。
骨の脆さと血管の脆さは尋常でないのをかかりつけの先生から言われてたし、外見にも想像が容易なので気はつけていた。また、体が腰で歪んでいたので腸捻転も怖いなとあげていた病名だった。

でも、まさかそんなに内臓の壁も尋常でなく薄かったとは…。

でもそれは、先生も画像見てここまではと驚かれたし、それを説明いただいた。(しかし、捻転手前の腸壁は若者のより綺麗なピンク色で驚きましたとも)

看護士さんにも、すごく体力もある方で健診行って「明日退院や~」って電話もらった方が、朝方退院前に捻転起こして…って、老齢の方にはあるケースみたいね、と、珍しくないから仕方ないと。

だから祖父と逆で、突然すぎたけど死因には納得している。最後にあたる時間に受けた処置や対応してくださった方の誠意もあって。

そして、祖父と違い体力のなかった祖母は、捻転といえ少し空間があったからゼロじゃない奇跡のおかげか、痛みににぶくなっていたのか、破裂を起こす前にその時はきた。
画像検査前に少し朦朧としていたのが意識が戻り、苦しそうであったが、「私(名前)やで、おるで、お母さんもおるで、大丈夫やで」に少し安心したようにうなずいた。そして母と私が交互に握った手を握り返してくれた。
それがちゃんとした最後の会話かも。

そのあとは、ずっと意識朦朧だったのか、時々意識はあったのか、何か話そうとしているように見えた時もあったのだが、呼吸をするのが精一杯で、私たちが声をかける他は、祖母からはもう言いたくても何も言えない状態だった。

痛みも訴えられなかったのか感じてなかったのか…。

ただずっと話しかけていた。
機会の数値がゆっくり下がっていく。それが祖母の言葉であるかのように祖母と機会を見つめながら、話し続けていた。

搬送後約6時間。
搬送されてからも検査結果を聞くまでは、母も私も、多分本人もまた帰れると思っていたのに、わずか5時間。

6年間で、頑張って学習(?)しようとした「覚悟」なんて、なんの役にもたたない時間。

ただ、祖母が苦しい時間が短かったのが幸いなだけ。

だから、祖父と反対で、さようならがちゃんと出来なかったのが悲しい。


当たり前にくると思っていた明日は祖母には来ない。
あの朝、6時は祖母には来なかった。

「祖母の明日は来ない」と、一字一字胸に勢いよい活版印刷の文字が、カツカツと書かれたような一瞬。

当たり前にくる明日、祖母のある意味退屈な朝、ある意味今日もきたという朝が、例えでなく「来ないかもしれない」と理解する努力をする時間はなかった。

6年間の蜜月と交換だったのかも。

もう一度だけ、誕生日ケーキを食べて、クリスマスケーキを食べて、お雑煮を祝って、3月にはばら寿司を食べて、私の誕生日ケーキを食べて、桃の花が咲くのを見て…、

老衰で死期が近いとわかれば、思いきって背骨の心配しすぎず車椅子に乗せて直接桃を見せたのに。
おんぶして二階はこんな家にしたんだよ、とベランダで日光浴させたのに。

(先があると思うからこそ、骨が崩れて神経を傷つけたりとかが怖くて、無茶は出来なかったの。整骨医が練習する?って言ってもほぼ怖がってたのに「座りたい」と夜中にたまに言う。ベッドをあげるだけで満足な時がほとんどだが、何度かは整骨医の見よう見まねで、ベッドの縁に腰かけるような感じで落ちないように支えていたりもしたけど、ちゃんと車椅子に乗れたらよかったね~)

やりきれない思いに悔しい涙も枯れても、生きているだけでありがたかった。生きているだけで希望は持とうとすればもてた。でも焦りもした。

祖母に手が必要になり、私に意味が出来た。

同級生の中には、事故や自殺でもう居ない人がいる。
事故なんて家族だけでなく本人もなんの覚悟もない時に、もう明日は来なくなる。

比べるものではないが…。

若くして亡くなる人もいる中、祖母は享年90だし。

事故よりは突然でもなく、老齢でもあった。

それでも、
当たり前にくると思っている明日が来ない
というのは、衝撃である。

会いたい人には会っておかなきゃ。




2009-12-27 06:16:00 | ひとりごと

(台北の朝だいたい6時、ホテルから)

♪やりきれないこんな思いが今日の雨を降らせても
新しいこの朝がいつものようにはじまる
こんなふうにこんなふうに
生きていきたいんだ
生きていきたいんだ♪

水曜どうでしょうのエンディングテーマで知った樋口さんの曲がふいに浮かびました。

やりきれないこんな思いが、であってたかな?やりきれないこんな思いに、だっけか?

新しい朝なんだけど「いつものように」はじまる
という「いつものように」が更にやりきれなさに追い討ちをかける日々が何年もありましたけど

当たり前のようにくる明日は当たり前に来ない

その日はやってくる、ある日やってくるとわかっていたよ。でも、もう少し「覚悟」の「予感」みたいなものがあるんじゃないかと、弱い体だけに思ってた。


もっと長生きするだろうと思ってたおじいちゃんは、ホームから病院に出向いての健康診断に行ってOKだと、叔父から電話をもらって二日後だかに、具合が悪くなって入院した。
最終的な死因は「肺炎」。
でも健康診断の時に、何か抗生物質の薬を出されていたらしい。でも風邪じゃないらしい。じゃあどこ?
祖父はその我慢強さと真面目さと頑固さゆえに、意外に一番入院したり手術した回数の多い人で、戦争で結核もらって帰還しただとか(帰国してからなのか話がよくわからない)、ともかくそれでえらいめにあって、お陰で生涯足を引き摺ることになった。(片足の長さが変わったので)
後も、胃腸の潰瘍やら癒着やらでずっと通院し薬をもらっていた。ある時、家に行くと薬のうちのひとつが並べられてた。(プラボトルに入った飲み薬?)
驚いて聞いたら「嫌いやから飲まない」のだそうだ。「じゃあ、先生に言わないと。先生は飲んでると思ったはるよ?必要なら変えてもらうとか、要らない薬なら止めてもらうとか、こんなん並べてたって…」と言っても、「先生には言うな」

薬ばかり飲み続けなくてはならなくて、薬が嫌いだったこともあるが、先生に出してもらった薬を副作用が出るわけでもないのに「嫌いだから変えて」とか「飲んでないけど大丈夫」とか言うのが悪いという気持ちが強かったみたい。微妙さはわかるだけに言わなかった。そのうち薬も変わったし。

そんな人だから想像はついたけど、モノが抗生物質だよ?
ホームの担当者は、うちのじいさんが頑固に飲まないから方っておいたらしいけど、無理矢理飲ませるとか、飲まないけどと医者に聞くとか、だいたいなんで薬が出たかは説明があるはずなのに放置するなんて、怠慢だ。

私は祖父が入院して、健康診断OKだったのに何故?…のまま。ただ、今は入院したんだからここの医者が検討して治療してくれるだろうし、今思う疑問には答えてくれると思ってた。結果は違い期待は裏切られたが。

薬のいきさつを聞いたのは亡くなってからだった。最初に医者に説明する担当者の話を叔父から聞いたとか自分もそこにいたとかはっきりしない叔母から母を経て私は知った。

「おかしいやん!」
そう思ったところで、叔父はそそくさとホームにお礼の挨拶に行き荷物を引き取っていた。

うちは喪主なので、亡くなってからやることは多い。祖母の世話もはしょれない。

ホームに入ることになり1年。それまでも叔母(祖父からしたら娘)が病気だったり、長い事情のために祖父はそちらと同居していた。かといって家政婦さんの来ない日や時間(居る間でも)、実質叔母が必要な時に世話に行っていたのは元気な頃は母である祖母で、姉である母。私も介護タクシーが今ほどバリエがなかった時、うちの車の助手席だとフルフラットになるからと眼科通院は私が行っていた。

祖父も自力で歩いて(健康な大人で徒歩6分かな?)通院していたが、心配になってくると主に母が、母がダメな時は私が車で送迎していた。
私が行くと看護婦さん(当時)先生に挨拶がてら、「どうですか?」と、たまなので聞いたり「おじいちゃん薬嫌いやから飲みたがらないこともある…」とか人のことなら聞ける、または聞かずにおれないで聞いたり出来る(苦笑)から、聞いたりね。

でも普段生活してるのは叔父たちとなので、日常の変化は祖父が言わないとわからない。叔父は表面的な人なので。祖父と同居することでどれだけ叔父は叔母のことでも助かったか(叔母は心強かったか)、家が援助を受けられたか、従姉妹が結果お金にルーズになったくらい可愛いがられていたか(苦笑)、それを考えたら、祖父が叔父に世話になっている…というのはほんとに数年のことなのだ。
しかも言った通り、かなりいざと言うときはうちから人間は行ってるし。
叔父も定年退職したんだからもっとちゃんと見ててあげてとか言いたいけど、相性もあるしで、祖父がだんだん老化で難しいことが増えて、何かあるとうちに電話がかかるようになった。

でも入院した時の第一連絡先、ホームに入っての連絡先も叔父が名乗りをあげた。話が不透明なので、とかいざ鎌倉はうちなので連絡先はうちにして欲しい、と希望したいが、ねんねばぁば第一の生活でもあったので、実質祖父の生活した家は叔父んちなのでお願いすることになった。

でもいつも何か釈然としなくなるのだ。

最後の入院になる時も、結局いまだに母と私は疑問を抱えたまま。健康診断先のカルテ開示申請をしたところで、ホーム担当者の話は今さら聞けないと母が遠慮がち。ホーム主催者はいい奥さんなんだと母は言う。私は「なら、奥さんにこんなことがありましたと、その人を雇い続けるなら教えるつもりで言ってもいいはず」と言ったけど。
また入院したところのカルテ開示申請もしたかったが、従姉妹の仕事場と関係あるので避けたほうがいいと母が考えてたし、今さら生き返らないし、私はその頃持病で毎日元気というわけにいかなかったので諦めた。

今も、私が元気でこの日に何をとか何処にとかに対応出来たら、大事なことは言わない祖父に何が起きてたか、自分たちの納得のためにもやれればよかったと思っている。というか自分にその元気がなかったことが悔やまれる。

でも無理したら祖母介護のパターンに支障が出て、祖母もだが母が困るのも困るし…。

ずいぶんと横道にきた。



ファイト

2009-12-13 00:54:00 | ひとりごと
たたかう君の歌を
たたかわないやつらが笑うだろう

ファイト♪

そこしか覚えてないんだけど、中島みゆきさんの「ファイト」

別方向から考えると、そこが必要だったということで…。

先週の日曜日の午後をもう一度やりなおせたら楽だろう、と思う。
最初の私の勘に従って過ごしていたらこうはならなかったはずだと。
でも結局は自分が決めたことだから何かの勉強だと思うしか気がやすまらないよね。
自分が決めてる中に他人が放つ流れ玉があっても、予測を超えて残忍にめりこむとは、他人が知人だけに衝撃も大きい。
こんな攻撃をしかけてくるとは、残念で仕方ない。

癒えそうで癒えない傷をまたえぐられながら、かさぶたも出来ぬ間に、また私は私のたたかいをゆこう。