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見えないもの

2010-12-26 09:57:00 | ひとりごと
この前の法事は、故人の宗派なので「南無妙法蓮華経」でした。(うちは「南無阿弥陀仏」の中でも一番簡単なの)
だから、おっさん(お坊様)のお話も少し違うのだけど、普遍的なお話は宗教と無縁でいたい人にも聞ける話だと思う。

最近は目に見えないものを軽んじる傾向にあるようで…

というお話で、例としては短いフィルムを見られたら、家族葬はかまわないのだかそこの家族はおっさん、つまりお経不要だと。何故かと尋ねると、お経なんて意味わからんもん唱えてもうても意味ないと。
それは違うんですね、…というあたりは宗教的な話になりますか。
意味がわかれば尚よいが、意味がわからずともお経は聞いてるだけでよい。お経は俗世に生きる私たちで言えば食物に値するので、供物をしていることになる。また、あちらに私たちが思っていると伝えることにもなり、また、あちらからこちらの様子を伺って安心してもらえることにもなる…というような。

わからないから、見えないものは意味がないと切り捨てていくのはどうでしょう…。

そんなお話でしたでしょうか。

私はその時に何を考えていたかというと、確かに目に見えないものが軽んじられるようになってはきてるかもしれん…とかいうことと。

ちょっとズレるかもしれないけど、縁、血縁について考えていた。

距離的に近い親戚と、ずっとちかしくしていたけど、近年疎遠化している。一方で、距離はそこそこだけど付き合いは普段祖父が代表していたので、私にはほぼ名前しかしらない親戚と、祖父母やその兄弟などの法要で会う機会が増えた。私も年齢があがったので、上の方とも話せるようにもなり、また私より年若のものも故人との関係で参列するので存在をお互いに認識した。

昨年、「そうか、私にははとこが8人いたんだ!」と改めて驚いたり、何を期待するわけではないが、ちょっと安心したり嬉しい気持ちにもなった。が、よーくよーく考えると祖父には兄弟が多かったので、そこの孫は他にもいて…つまり私には8人以上のまだ見ぬはとこもいるわけだ。あと、はとこと自覚してなくてもっと子供の時に会ってたお兄さんとか…。

へぇー
である。

ほかに祖母方の親戚は多くはないし、距離も遠く、手紙のやりとりがあるくらいだったが、昨年、小学生の時に会ったかも以来におあいした。話だけは祖母と母から聞いていて、尊敬しちゃうような一家で、おそれ多いというか、かえって気後れしちゃうかと思っていたが、気さくな方で、ユニークなとこもあり、もっとお会いしたくなるような方たちだった。
他にも距離は一応大阪だけど、お話するには私が子供だった親戚の方と話せた。お子さんがいらっしゃらないので、きっかけもつかめなかったが、祖母の母?祖母?の出の田舎に話に聞いていた私は祖母たちと一度訪ねたかった、というとまだ親戚がいらっしゃるらしく、遊びにおいでーと言ってくださった。

普段、法事でもないと会えない人たちではあるが、ここに縁のある人がいるんだな、と思うと閉塞していくばかりにみえた世界が広がった。勿論血縁だけでなく、お嫁さんは血のつながりはないのだが。

また、ちかしく付き合い過ぎると、(風習もある田舎だし)おかしなもので、というかだからこそのありがちに面倒になったりもするのだろうが、法事以外に機会がないかしら?とか思ってるくらい。

初めて会ったはとこも、法事のおかげで数回になり、名前で直接読んだりできるようになり、自分やまわりにない世界を生きている彼らの世界を知りたくなったりして。8人のうち親しくなるかも?なのは2人であるが、なんだか面白そうじゃない?

生まれてから昨年まで一度も会ってないのに、この親近感はなんだろう。他人でもそういう雰囲気の人はあるのだが、これが縁?お互いは知らないがその親やそのまた親のことはそれぞれの立場から知っている。

目に見えなかった人たちが目に見えるとこに現れて、先々はわからないけど、ちょっとわくわくしている私がいる。

同じに(?)、存在や聞き伝え話を知っていた人と実際会い、次はいつなのかわからないけど、距離の近い親戚より、価値観までは言い過ぎやねんけど…、何か惹かれるものがあり、お互いに「どうしているだろう」「元気かな」と思いあう。そこには普段、メールや電話がいきかうわけも、記念日に必ず贈り物が届くわけでもない。(いいものがあれば届けたい時に送るけどね)何も関わりなく1年が過ぎることもある、何か起きててもわからないままに。でも「思いあっている」ような気がする。

それは近くで、仕方なく正月に挨拶にきたり、自分の都合ですりよったり離れたりしている叔父叔母やいとこたちとは心の距離が違う。

近づき過ぎると変わる思いもあるかもしれないが、そうでもない、見えない感覚を持ち合わせてるんじゃないかと思う人が、何人かいる。

また、風習があったり年寄りは頑固だったり、普段はそれぞれの家族で大事にしてもらってくださいよ、と思うおばちゃんたちも、気持ちのどこかで、何かあったら呼んでや!って感じる人がいる。なんだか他の人に面倒がられてるおばちゃんが私にはちょっと愛しいとこあったりするんね。

それは血なのか、他人でもあることかと思うが。不思議やね~。

あと、私には実は母の次に血の濃い人が4人いる。父と腹違いの弟妹だ。むこうがどう思ってるか知ってるか知らないけど、差し支えなければ、私は会ってみたいのだな。何を望むわけでなく…、あ、憎悪とかがなければいいにこしたことはない。驚いて、そうなんですか?では、もう一生会うか会わんかわからないけど、さようならになってもいい感じで、会ってみたい。

他人の中から相方を見つけるのも大変だけど、まぁ可能性は無限よね、諦めなければ、相当人口分。
でも血縁は、数が限られる。なんか不思議じゃないか?

近い親戚とうまくいってないから逃避?そこ埋めろ?(諦めも含め努力はしてる)

ただそれだけじゃないんだな。そういう時期が重なっただけで、近い親戚とそこそこつきあえてる時からうっすら気になっていたことではあるから。

親戚に限った話でもうこの量ですけども他人→友達(一部→他人)なんかの巡り合わせも、実際の距離と気持ちの距離と…。思いあがりかもしれないけど、「思い合ってる感」とか、目に見えないというか、言葉にしないとわからない伝わらないことがあるという一方、目に見えない縁をひたすら感じる人とかいる。

男女問わず片思いかもしれんけどね、それでも、何も感じないよりは仕合わせだと思ったりするんですよ。