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自切俳人。じきるはいど。
これ、北山修さんのことである。別名。あるいは仮名だったのかな?
北山さんはミュージシャン、精神科医、作詞家、ラジオのパーソナリティなど多彩な面をお持ちの方で、本当に多才な方。
ミュージシャンとしては、やはり「元フォーク・クルセダーズ」のメンバーだったというイメージが個人的には強い。
今回取りあげる、この「孤独のマラソンランナー」という曲は、北山さんが自切俳人という別名を使って発表した曲である。
私が初めてこの曲を聴いたのは、確かラジオだったと思う。
じきるはいど・・?聞いたことがない、妙な名前。たぶん芸名なのだろうと思った。
それが北山さんのことであることを知ったのは、少し後になってから。
聞いた瞬間、その出だしのメロディに私は親近感を持った。
というのは理由があった。
高校一年の頃に作った自作曲のうちの1曲と、出だしのメロディが似ていたからだった。
確か私の自作曲は「ここに ひとり」というタイトルだった。
「孤独のマラソンランナー」と「ここにひとり」。
なにやら、相通じるものも感じた。
もちろん、その自作曲を作った頃は、この「孤独のマラソンランナー」という曲はまだなかったので、盗作したわけではなかった。
たまたま、「孤独のマラソンランナー」の出だしのメロディが、似ていただけだ。
ただ、似ていたのは「出だし」だけだった。
曲としての出来は、私の自作曲など、この曲には及びもつかなかった。まあ、当たり前か(笑)。
でも、出だしのメロディが似ていた・・というだけで、この「孤独のマラソンランナー」は私にとって、親近感を感じる曲になった。
歌詞のほうは、若者がひたすら前を向いて走りつづけていく内容だった。
歌詞もメロディも、聞いて、深く感動したとか、心に突き刺さった・・とか、そういう印象ではなかった。ちょっと、教科書などに載せられてもおかしくない歌詞だと思った。
歌詞は、その歌よりももっと昔にあったフォークソング・・例えば「若者たち」という曲などに通じる印象で、青春ソングとでも言えそうで、その時点でも多少「古さ」みたいなものも感じた。
その意味では、優等生的、、、というか、文部省推薦歌っぽさも感じないではなかった。
でも、妙に心に残った。
こういう歌が全く作られなくなってしまったら、さみしいよね・・などと思ったもんだった。
なので、こういう歌がまた新たに作られたことに、なにやらホッとした覚えがある。
そう、ホッとできる歌であった。
ある意味、フォークソングの「良心」みたいな歌だったのだと思う。
世の中には、反動というものがある。
この歌が登場した時期は、前述の「若者たち」のような甘酸っぱい青春ソングが主流だった時期を過ぎ、その反動みたいな音楽が受けていたような時期だった印象がある。
そんな中で出てきたこの歌は、大ブレイクしたというほどではなかった。
どちらかというと、流れの端っこのほうで、ひっそりと佇んでいたようにも思える。
でも、そんな「ひっそり感」を密かに愛する人もいたこともまた確かだったと思う。
主流が変わっても、その主流を愛する人ばかりでもないのだ。
きっと、いつの時代も。
「孤独のマラソンランナー」。あまり人には言わなかったけど、当時の私が親しみを感じ、密かに愛した曲。
https://www.youtube.com/watch?v=H6QOPmSsFl0
むしろ、世間的に広く知られて、持て囃されている音楽は、必ずしも「名曲」という訳ではない。
混濁とした昨今では、極めて顕著なことです。
だんぞうさんの、研ぎ清まされた刃のような感受性だからこそ、「孤独なマラソンランナー」の価値を見出だしたのですね。
だんぞうさんのオリジナル楽曲の方も気になります(笑)
私が最も愛するミュージシャン、エルヴィス・プレスリーによる楽曲にも「ロンリー・マン」というものがあります。
やはり聴いていて、淋しくなる、素朴なバラードです。
華やかで賑やかなロックンロールやポップスよりも、たまには、そういう楽曲を耳にしながら、心身共にゆっくり休みたいときがありますよね。
私の感受性など、ありきたりなもんだと思いますが、この曲は、なんとなく自分のアンテナに引っかかった、、、そんな感じです。
あまり人には言わなかったけど、密かに好きだった、、、そういう曲です。
私の自作曲「ここにひとり」は、つたなすぎて、人前では今更歌えないです(笑)。
ただ、「孤独のマラソンランナー」と出だしのメロディーは似てます。
でも、それだけです(笑)。
エルビスは、バラードにも定評ありましたよね。
「今夜はひとりかい」とか「アスクミー」とか。