
小学校の時の授業の中で、一番強烈に覚えているのは、なんといっても、カエルやフナの解剖だった。
理科は通常の教室とは別の理科室という教室に移動して授業があった。
通常の教室では机は二人用で、二人ずつ並んでいたが、理科室の机は4人か6人(どっちかだったと思う)で一つの机に「班」のように座って授業を受けていた。
理科室ではいくつかの実験・実習があった。
アルコールランプを使った実習は楽しかったのだが、解剖の実習となると、これはもう私はダメだった。
メスのようなものでフナやカエルの体を切り刻み、体の内部を調べるのだが、普段料理で魚をさばいている人などにとっては平気なことかもしれないが、そういうことをやっていなかった私にとっては、食べるわけでもないのに、体を切り刻むのが残酷に思えてしかたなくて。
あと、単純に気持ち悪く感じた・・というのもあった。
解剖している時、教室の中でいくつもの「班」が解剖を同時にやっているわけだから、強烈なにおいが教室中に充満。
その「匂い」だけでも、クラクラしそうだった。
また、決定的だったのは、解剖が終わったフナやカエルの死骸を、ゴミのように捨てたこと。これは、授業そのものに、幼心に疑問を持ったし、強烈に目に焼き付いている。
私の前の代の生徒たちも、私の後の代の生徒たちも同じことをやっていたのだろうが、いくら授業とはいえ、それを考えるたびに複雑な思いを持ったものだった。
解剖をしている時、案外女生徒のほうが肝が据わっていて、ひるむ男子生徒を横目に、女生徒が「しょうがないわね」とばかりに、フナやカエルの体を切っていった。
その光景を思い出すと、いざという時は女のほうが肝が据わっているのかもしれないと、実感したものだった。
あのシチュエーションでは、私を含む男子生徒は、チキンだったと思う。
あの時は私は、幼心にちょっと自分が情けなくもなった。
その一方で、食べるわけでもないのに、命のあるフナやカエルを切り刻むのに抵抗もあったので、女の子が作業するのを見て、「よくできるなあ・・」とも思った覚えはある。
もっとも、女の子にしたって、好き好んで切り刻んでいるわけでもないわけで、あくまでも授業の一環なので、「誰かがやらなきゃいけないんでしょ。男の子がやらないなら、しょうがないから私がやるわよ」という心境だったのだろう。
ともあれ、解剖という授業は、私にとっては罪悪感を覚えた唯一の授業ではあった。
逆に言えば、罪悪感というものを教えてくれたのが、この授業だったということにもなる。
まあ、なんにせよ、犠牲になったカエルやフナにとっては、食べ物になることもなく、子供の実験道具にされて殺されたわけだから、恨みを持っていたとしてもおかしくない気はする。
解剖という授業の狙いが、どういうものであったにしろ、人ぞれぞれ授業から学ぶものに違いがあるのだとしたら、私にとっては解剖は、そういう授業ではあった。
もちろん、生物の謎を解き明かしたり、医学の進歩のためや、事件の解明などのためには、解剖というのは必要な作業であることは確かだと思う。
人間の解剖だってあるわけだから。
だが、人間の解剖というのは、尊厳にも関係するし、そうそうおいそれとできるものではない。
出来るのは限られた職種の人たちだろう。
それに比べたら、フナやカエルは、解剖の対象としては、ハードルの低いものなのかもしれない。
そんなハードルの低い解剖ですら、私はひるんでしまった。自分は幼心に、将来、解剖などをする仕事は、絶対に無理だと思った。
あの時、フナやカエルの体を解剖のために切り刻んだ女子たちは・・きっと、ひるむ男子たちのことをだらしなく思ったんだろうなあ。
小学校の理科の授業で、フナやカエルなどの解剖をやった時、あなたは平気でしたか?
言霊百神