そのような時、主人がガサガサと捜し物を始めた。「どうしたの」「ガソリンスタンドのカード知らんか?」と言う、「そんなの私は知らないよ。」「車検に出すときに、どこかに仕舞ったと思うけど・・入れたはずの所にないねん。」「いつも車に鍵も掛けないで放っておくから盗られたんと違うか?」「もう一回、車の中を見てくるわ」主人は、ばたばたと出て行った。
「イエスさま。主人に思い出させて下さい。そうしたら私は平安のうちに従いますから。」と祈る。
出てくるとも思えなかったので、「ああ、これでたぶん私は行かないことになるだろう。」と変な安心をしていたのだけれど、
主人の大きな声を玄関に聞いたとき、すべてを悟って「やはり行くべきなのか」と思った。
「有った!有った!フッと缶の中に入れたことを思い出した。」と飛び込んで来た。「良かったな。スッとしたな。今、祈っていたよ。」と告げると、主人は嬉しそうに「イエスさまに感謝や」と言い残して再びそそくさと出て行った。
私はそれほど嬉しくもなかったけれど約束をしたのだからと、覚悟を決めて出かけることにした。
道中もあぜ道を選んで、畑や田を覗き込むように道草を食いつつ歩く。シロツメクサが生えている畦を行くとき、「イエスさま。もう一つお願いがあります。四つ葉を見つけさせてください、そうしたら幸せな気持ちで従えますから。」と主にお話した。
でも、四つ葉は見つからないまま・・体は前進し、心は遠くに逃げて行く。
そんな時、シロツメクサを追っていた目に、カエルがグサリと突き刺された、一本の茎が飛び込んできた。まるでカエルの草のようにそれは一体化して、黒くカンピンタンに渇いていた。
庭の梅の木にムカデやトカゲが刺さっているのを見たことはあるけれど、その草はわずかに20cmほどの茎だったから、こんなのを見たのは初めてで珍しくて、しばらくすべてを忘れて見とれていた。
モズがこんな低いところに降りてきたのかと・・、そんなことを考えていたらなんだか楽しくなって、なんだか元気が出て来て、その日はとにかく主のみこころに楽しく居ることが出来た。
その日はそれだけのことだったのだけれど、やはりなんだか悲しくて、いろいろと思い巡らせてた時、イエスさまが生け贄となって下さったこと、イエスさまの低く低くなってくださったことなどが、ワッと心に吹き出して瞬間あのカエルと重なった。
十字架にかかってくださったイエスさま。渇いてくださったイエスさま。ああ、このことをおっしゃりたかったのか・・このことを教えて下さっていたのかと・・。
幸せになる四つ葉ではなく、死ぬべき十字架。低く低くなって侮られ、嘲られる死。注ぎ尽くしてカンピンタンになるのだと・・。
主よ。そんなことができるのでしょうか・・。そのような栄光を受けることに恐れを感じるけれど、もし、そんなことがこの身に成るなら、なんと晴れがましいことだろう。
そして、その日に受け取ったものは、ある姉妹が送って下さっていた聖別への備えのご本。受けるべきものを受けよとのお導き。
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石ころ
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