石ころ

生まれる前から主を喜んでいた(ヨハネの福音書1章)

 

神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。
この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。
彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。(6~8)

 

バプテスマのヨハネは母エリサベツの胎にいるとき、マリヤの胎に居られるイエスを喜んで踊った。彼は生まれる前から、キリストを知らせる使者の光栄を大いに喜んでいた。

 

エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた。(ルカ1:41)

 

バプテスマのヨハネの生涯は、世の闇を照らす救い主を待ち望む人々に、イエス・キリストが世に来られたことを証して、洗礼を授けてキリストを迎え礼拝する道を備えた。

 

すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。(9~10)

 

サタンがこの世を横取りする前から、世もイエスのことばによって造られたものであった。しかし誰もイエスを知らなかった。神である主はすべての人の造り主であり、信じようと信じなかろうと、イエスに知られずに存在している人は一人も居ないのだ。

 

あなたこそ私の内臓を造り母の胎の内で私を組み立てられた方です。
あなたの目は胎児の私を見られあなたの書物にすべてが記されました。私のために作られた日々がしかもその一日もないうちに。(詩篇139:13.16)

 

しかし、人は誰も自分自身の造り主を覚えていない。それは聖霊によって思い出させて頂くことである。
一人ひとり神の良き計画を持って造られた命だが、賢い進化論信仰を彷徨っている間に、時をすり減らして救いを失って行くのである。

 

バプテスマのヨハネがイエスを知っていたのは、母のエリサベツの胎内で知ったことであり、聖霊によってすべてを備えられ、喜びのうちに光栄な役割を記憶したのである。

 

この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。(11~12)

 

神の子とされることと、永遠の滅びに定められることの分かれ目は、イエスを私の救い主と告白したことによる。それ以外に神は何も要求されない。すべての必要はキリストがご自身で準備してくださったからである。

 

どんなに無学で無知であろうと、貧しくて捧げ物がなくても、自分自身を捧げようとしても失敗ばかりで良い働きが出来ない者も、死にかけている老人であっても、幼子が「イエスさま」と御名を呼んだだけでも、主は心の中の小さな小さな信仰を掬いあげてくださる。十字架の強盗の救いのように・・。

 

キリストはそのために罪なき命を支払ってくださった。神の御前にとんでもなく高額な代金が支払われている命なのである。

このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。(ローマ5:2)

 

この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(13)

 

イスラエルやキリスト教の血筋に拠ることではなく、神のキリストの血の洗いによって生まれたのである。
キリストは弟子たちに跪いてその足を洗われた。私たちの足をも、激しい恥と苦痛の十字架の血に拠って、全ての罪を洗いきよめてくださったのである。

 

一人ひとりを母の胎で組み立ててくださった主が、良く帰って来たと罪の世の汚れを洗って迎えてくださるのである。御許に帰って来たことだけで喜んで、永遠のいのちの交わりに入れてくださる。


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