何処で生まれて、どんな人が親であるか知っており、私たちと一緒に大きくなったと言う場合「その人の事は何もかも知っている。」と人は思うのです。
それほどにイエスさまは完全な人になって下さり、人の病も弱さも食べて行く苦労も、隣近所の人々・・そう、私たちと同じように経験してくださったのです。
でも、そのことで、故郷の人々にはイエスさまを、救い主である神の御子と信じることが難しくなりました。
神のわざをなさる神の御子イエスを知っているのか、人の弱さを担われた人の子イエスを知っているのか・・私たちがその両方を知ることが出来る事は本当に幸いです。
この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」(ヨハネ3:2)
イエスさまを否定するパリサイ人であっても、ニコデモという人はイエスさまが神の子であることを、わざによって知ることができました。
イエスさまが、パリサイ人達に願っておられることはこのような出会いでしょう。彼は、弟子たちにはできないイエスさまを葬る役割を果たしました。
王室の役人が息子の病気を癒して下さいと願いにやってきました。
彼は息子のいやしの計画を持ってやって来ました。
「イエスさまが急いで家に来て、息子に手を置いて病気を癒して下さる。」という・・そして、息子が元気になるそのわざを彼が目の前で見るという計画でした。
しかし、イエスさまの「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」そのおことばは彼の計画を否定しました。
イエスさまの答えは「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」でした。役人が頂いたのはみことばだけでした。
彼には王室の役人としてのそれなりの力も権威もあったでしょう。力尽くでイエスさまを引っ張って行くことが出来る立場だったと思いますが、彼はお言葉だけを頂いて帰って行きます。
このことが「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」と言われた言葉に対しての彼の答えです。
彼は、まだ何も目の前で見ては居なかったのです。それも大事な息子のいのちがかかっていることなのに、みことばだけを頼りにして帰って行きました。
私たちも聖書のことばを頼りに生きています。まだ見ては居なくても、まだ問題の最中にあっても「平安があるように」というみことばによって平安を得るのです。
みことばが永遠のいのちを約束しているから、見てもいない未来を、そのことばに託して御国への望みを抱いています。
その時、イエスさまのことばは私たちに事実となります。そのわざによって私たちは、イエスさまを神の御子と感謝にあふれて礼拝します。
ありふれた日常の中で、みことばが生きて働く神の言葉であることを、家族ぐるみで経験させてくださり、その積み重ねによっていよいよ主を喜ぶ礼拝を導いて下さいます。
コメント一覧
石ころ
保護者
石ころ
石ころ
保護者
最新の画像もっと見る
最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事