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石ころ

今朝のみことばマルコ9章から 「私も連れてって」



イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。(マルコ9:2)

 せっかくイエスさまに救われたのだから、私も高い山に連れて行って頂きたい。もし、そこまでしなくても・・なんて思うなら、イエスさまの十字架は、私にとってその程度のものってことになるではないか・・。

 お弟子は12人居たのに連れて行かれたのは3人だけだった。連れて行く者をイエスさまは選ばれる。
連れて行かれた者には、大切なものを捨てて来たという実績があった。
ペテロもヨハネもヤコブもそれぞれ親や生活の基礎である舟を捨てて、声をかけられるとすぐに従っていた。

それは、彼らにはイエスさま以外に、もう何もないということである。だからイエスさまも彼らのすべてになってくださった。


 マリヤがイエスさまを受け入れるためには、いいなずけのヨセフも世も捨てなければできないことだった。
アブラハムも故郷を捨てて神に従った。そうして、信頼しきって付いてくるイサクを神に捧げた。そう、あの時確かに彼は、一瞬でもイサクを捨てなければあそこまではできなかった。
パウロも人の栄光をすべて捨てた。

いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。(マルコ8:35)

 彼らは捨てていのちを得た。人由来のものをイエスさまに差しだして天の栄光を得た。人生に置いて、神の前にそのように信仰告白の実績を積めるチャンスがあれば、それは実に恵まれた事だと思う。

マルコの一章には「すぐに」という言葉が頻繁に出てくる。
捧げることを求められるときには、間髪を容れずにということが必至である。それは常々心にあることがむき出しになる瞬間であって、その一瞬に十字架を私たちがどのように評価しているのかということが現われる。それは恐ろしくもあり喜びでもある。
私たちも「神の国が力を持って到来しているのを見る」ことができるのではないか・・それを否定する者にはなりたくない。

三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。(マタイ)27:46

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コメント一覧

ムベ
ありがとう!
勇ましく聞こえるのですが、すごい弱さの中で言って居ます。
でも、知っているのです。弱っているときの言葉の方が真実に近いって・・。

私たちはただ、何を願うかということですよね。
カオリン
ある人が言いました。
「パンを裂くまでキリストに従う者は多い。しかし彼の受難の杯を飲む者は少ない。彼の奇跡を敬う者は多い。しかし彼の十字架の恥に従う者は少ない。」と。

「主の悲しみをも共にしたいと願って居ます。
そりゃあ・・喜びの方がずっと嬉しいのですが、この世に居る限り、悲しみは尽きることがありません。」このように言える石ころさん、すごいです。
ムベ
追伸
確かに、信仰生活の中ではとっても眠くなってしまうときがありますね。
ほどほど・・という誘惑がやってきます。
新共同訳よく分かります。ありがとうございます。

信仰のがんばり所というものがあるのは事実です。でも、
それができるのは、イエスさまが私たちに親しく触れていて下さるということから成りたっているのですから、
すべての力は神からでているのですが・・。
ムベ
二度に渡って・・ありがとうございます
アーメン アーメン
十字架で至聖所の幕が裂かれたときから、信じる者には何も隠されてないのでしょう。みことばを通してイエスさまに触れることは日常となり、私たちを取り巻く信仰の先人達を身近に感じ・・、御国までもが決して遠く離れたものではないのだと知りました。この体の生き死にによらずに・・。だって聖書にそうかいてありますものね。

彼らがそうであったということは、私たちもそうでありうるのです!彼らは決してカトリックの言う聖人偉人ではなく、私たちと同じ兄弟であり姉妹ですもの。
ただ、彼らはその人生のすべてをもって主を愛しました。そうして神の喜びと成りました。

「わたしの喜びをともに喜んでくれ」と言われる主に在って、今私のできること、主の悲しみをも共にしたいと願って居ます。
そりゃあ・・喜びの方がずっと嬉しいのですが、この世に居る限り、悲しみは尽きることがありません。
御国に着いたときにイエスさまに拭って頂きましょう。かって足を洗って頂いた時のように・・。その時に涙がなかったら・・それは恥ずかしいですね。
カオリン
イエス様は山に登られる時に何故三人を連れて行かれたんだろうと思い巡らせてみました。

「ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。」(新共同訳 ルカ9-32)
主と共に山に登り、共に祈り(祈るために山に登られた。9-28)、目を覚ましているなら主の栄光を目撃するんだ!と。
彼らは、父なる神の声も聞きました。
生きたまま天に上ったエリヤと死んだけど遺体の無いモーセも目撃しました。

「見たり」「聞いたり」した事実が弟子達の心に確信として強く刻まれ、信仰に伴う行動へと変化していくのでしょう。

パウロもまた光の輝きを見、イエスの声を聴いています。アナニヤが言ったことは、「・・あなたにみこころを知らせ、義なる方を見させ、その方の口から御声を聞かせようと・・その方のために、すべての人に対して、あなたの見たこと、聞いたことの証人とされるのです」(使徒22-14.15)

黙示録を書いたヨハネだってそうです。
新しいエルサレムが、まるでヨハネの上に下って来ているかのように、はっきりと見聞きして、それを私達に証ししてくれているんです。

天のものが下に下って来るのか、地の者が上に上ってなのか分かりませんが、確かに、見たり聞いたりは私達にも可能なんですね。

証し人にはなりたくないけど、証しはしっかりと私の内に持っておきたい!もっともっと広く深く高く長く知りたい、イエスさまを!!!。
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