主の振るわれる愛の鞭は懲らしめるものじゃなく導くものだと私は感じている。私の経験では結果として誤りのない方向に導かれ、良きを得させようとしてくださった事を知っているから。その時は分からなくても後にその懲らしめの意味を知る時、成長の肥やしになっている事を知る。
成長とは少しはましな人間になると言うような事じゃなくて、主と歩んだ年月、その間の主との交わり、そして確かにされる希望。主のくださる平安、安息をより深く知るということ。
だから現実がどうであるか、良いか悪いかはあまり関係が無く、自分の信仰の中にすべてがある。妄想系みたいだけど、こんなにコロコロ変わる捕らえどころのない世の中という現実よりは、私にはずっと確かな事実。
この世は影だとsaltさんはいつも言われるけれど、確かに真実な輝きも光もない薄っぺらなこの世界が反転して、不動の輝きに満ちた世界を垣間見ることができるのがキリスト者!そこで主に見える望みは、この世のいかなる現実も決して奪うことができない確かな希望。その望みに今この世界で生きることができる。
今はこの世界でもう少し主と生きよう。此処でしか聞けない、今しか知ることができない、此処でしか出来ないことがある。主のお導きはとても細やかで、要求される前からすでに必要は満たしていてくださる。そのことは私の中に置いてもそうなのだから。
私は、主を知らせていただく毎にこの世の歩みを重んじることを教わっている。以前はこの世界から逃げるように、なんとかこの仕事だけ終わったら早く御国に行きたいものだとそんなことばかり考えていた。目の前のことに追われて仕方なく生きているような・・。
主は決してこの世に絶望することを望んではおられない。イエス様は、罠をもうけて近づくパリサイ人や律法学者をも決して無視なさらず、忍耐の限りを尽くして教え続けられた。憎しみと苦痛を与えるだけの鞭はイエス様ご自身が受けてくださった。

「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」(詩篇23:3.4)