「冬蜂紀行日誌」(2009)・《絶筆》

「冬蜂の死にどころなく歩きけり」(村上鬼城)という句に心酔した老人の日記

小説・「センチメンタル・バラード」・《四》

2010-12-29 00:00:00 | Weblog

2009年12月29日

ボクは夢をみることがある。恋人を、何よりもまず愛しています。ボクには仕事があります。ボク達は生活しています。おまわりはいません。恋人は安産しました。交通巡査たちは木刀を抜いた。何のために。仕事のためにだろうか。生活のためにだろうか。交通の整理に木刀はいらない。国会議事堂は、木刀では守れない。だが、彼らはたたかいを開始した。おかしい。誰とたたかっているのか。砂煙があがって、彼等は国会議事堂へかけ出していく。彼等の敵は誰か。ボクにはわからない。討論すべきだろうか。誰と。すべきではない。生活を守るためにたたかうのです。しあわせをかちとるためにたたかうのです。平和のためにたたかうのです。たたかいをなくすためにたたかうのです。ボクには、愛してない恋人には、守るべき生活がない。生活とは安産のことか。それとも流産のことか。ボクの前に、おまわりが倒れていた。ボクが倒したのではない。ボクはたたかわなかった。足音がする。ボクの恋人が来たのだ。公園で会うことになっていた。しかし愛についての不毛な討論はよそう。ボクは愛していないのだし、恋人も愛していない。たたかいがはじまっているのよ。いつもたたかっているのよ。たたかわなければいけないのよ。ボクと恋人の生活は、ゴハンをたべることと、活字を拾いよみすることのはざまから生まれるだろうか。たたかいって何ですか。戦争ははじまっていないか、あるいはもうおわったのではないですか。続いているのですか。馬鹿らしい。恋人は見た。恋人の前におまわりが倒れていた。

【補説】恋人は、私を「たたかい」へと誘う。そう、いつもそうなのだった。でも、私はたたかわない。なぜか。私は「戦争」の中で生まれたから。私が「生きる」ことによって、多くの人々を「殺した」から。「戦争」は「死者」を作るだけ。「平和のための戦争でも人は死にます」。そう言う私を残して、恋人(たち)は去っていった。

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