2012年7月6日
道元禅師に「衆寮箴規(しゅりょうしんぎ)」という著作があります。これは現代風にいえば禅の修行道場のルールブック、修行僧のマニュアルのようなもので、現代の竹友寮のあり方も、基本的にこの衆寮箴規に根拠を置いており、不定期ですが、不肖私も寮生たちに時折この著作の講義をして、修行僧の心がまえを説いています。
この中では、年長の人々には素直に従い、年少の者には慈しみをもって接し、しどけない格好をせず、無駄な話をせず、ひたすら釈尊や祖師方の尊い行いを辿り、仏道に精進せよ、といった修行生活の奨励事項や禁忌事項が26項目にわたって縷々述べられているのですが、記述をよく読むと、これが記された鎌倉時代がどんな時代であったのかということが随所に浮かび上がって来ます。例えば、以下のような項目があります。
「寮中、弓箭兵杖(きゅうぜんへいじょう)、刀剣甲冑等の類を置くべからず。およそ百(もも)の武具は置くべからず。もし腰刀等を蓄うる者は、即日に須らく寺院をおい出すべし。総じて悪律儀の器は寮内に入るべからず。」
要するに、刀や弓矢、鎧などの武器を寺院の中に入れてはいけないということで、今でいえば、銃やナイフは所有禁止というところでしょうか。
仏道修行の場に殺生の道具である武器の類を持ち込まないというのは、あまりにも当然のことのように思われますが、こういったことが禁止項目に盛り込まれ、「即刻追い出せ」とまで言っておられるということは、実際に武器を持ち込んでいた者がいて、なお、持ち込む者がいる可能性があったということでしょう。
衆寮箴規が著されたのは宝治3年(1249年)、道元禅師50歳の折のことでしたが、この2年前の宝治元年(1247年)には宝冶合戦という鎌倉幕府の内乱が起きるなどしており、政情はいまだ不安定で、永平寺は深山の懐の内にあるとはいえ、修行僧たちも寺の内外に不穏な空気を全く感じずにはいられなかったことでしょう。
加えて、現代の我々と異なり、明日の糧食にも事欠くような環境にあったであろう当時の永平寺の修行僧の境遇、心境を思い、彼我の違いの大きさを実感しながら、現代における宗侶の養成機関はいかにあるべきかという大きな問題にあたらめて心をいたす昨今であります。