Be Natural

気取りも なんのてらいもなく  あるがままの自分を 感性の赴くままに そんな独りよがりの書き捨て日記です。

故桜井研次さんを偲びながら往時の思い出に浸ってみました。【その④突然Vava’u島へ転勤辞令】

2024-09-15 12:31:00 | 日記

 

先日のこと、偶然にもトンガ王国に派遣されていた協力隊の先輩隊員OBが

この記事をみつけ、懐かしくご覧いただいたとのコメントをいただきました

 

日々の生活に追われ、続きを投稿せずブランクができてしまいましたが

またTongaの続きを記事にさせていただきたいと思います。

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【これまでの要約】

1982年1月末に日本を出発し FIJI, SAMOAを経由して

ようやくTongaに赴任したところ

アナカン(別送荷物)も届いてない状態で

現地訓練との名目ながら、実際には機関長として鮪延縄漁船に乗り込み

2航海目の操業の途中

 

Tonga史上最大とも言われたハリケーンに遭遇し

首都のあるTongatapu島は高潮で島のほとんどが壊滅的被害を受け

その復旧作業に忙殺されることとなったものの

陸上での生活が送れるようになってカルチャーショックを受けながらも

それなりに日々の生活を楽しめるようになったのでした。

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その後、当時付き合っていたGFが

女子中高の進学校で働いていたため夏休みを使って

格安航空券などない時代に夏のボーナスをはたいてTongaまで遊びにきてくれ

島内の名所を案内したりと
 
Tongatapu島の南側にある
’Oholei Beachという海岸の洞窟の中で
トンガ料理とFire Danceなどのショーが観られる場所




こちらは、当時2軒しかなかったHotelのひとつ
Joe’s Hotelの屋上レストランで
コックをしていたオカマの自称Sukiyaki Sakamoto(通称スキ)と
 
このオカマ、以前お話した17年トンガで専門家をしていた
川上晋さんの家で女中をしていたため
日本料理もどきをつくってくれるし
日本人のことをとても良くわかってるので
ちょくちょくレストランを訪れては雑談してました。
 
 

そんな風に

限られた時間の中で精神的にも安らぎの時間を過ごしていたのですが

 

GFが帰国した途端

突然、首都のあるTongatapu島から北へ366kmほどの位置にあるVava’u島(Neiafu)への

転勤を命じられ

ビックリしながら辞令に従いフェリーに乗船

とはいえなんせ

当時、協力隊員としては初めてのVava'u転勤

 

鮪延縄漁船もあるし、その他にも鰹の一本釣り漁船に巻き網船もあり

ただでさえ、大型商船の船乗りだったため

それまで触ったこともないような小型のエンジンや機器に呆れてたのに

 

離島では 数十馬力の漁民のエンジンや船外機と聞いて

いったいどうなることやらと思いつつ赴任したのですが

 

住居は、アメリカ平和部隊あがりで

SPC(South Pacific Community)という組織で働いていた人間が

休暇で一時帰国するため、その間彼の家で住んでくれと言われ

眺めの良いコテージに掃除から洗濯、賄いまでしてくれる女中さん付きで

Vava’u勤務も悪くはないなと喜んでいたのですが・・・

Vava'uに着任して1・2週間

そんな風に気楽に過ごしていたところ

休暇で一時帰国していたアメリカ人が戻ってきて

『もう出ていってくれ』と冷たく言われ

(ようするに現地人にあまり好まれてない人物だったので、

帰国中に泥棒に盗まれないように番人代わりにしたかっただけ)

 

実は、転勤もそれが理由で当時のイギリス人水産局長に交渉して辞令を出したとわかり怒り心頭

 

職場は、Neaifu港の端の水産局のVava’u支局

(右側の建物は、援助で建てられた冷凍庫と漁具倉庫)

事務棟は小さな平屋の建物に支局長室と会議室

中央にトイレとシャワールームがあるのみ

 

そこの手前にWorkshopがあり、小型エンジンの保守整備というよりも修理業務が私の任務

私にとってはオモチャのような小さな漁船のエンジンを

現地のメカニックと一緒に油まみれになって整備するのが日常となったのですが

 

なんせその頃、初めて島で暮らす日本人

(Tongaにも首都のNuku’alofa には戦前から移民してきた日本人が居て、

短期間でしたがVava’uにも、百貨店もどきの雑貨屋があって

そこへマネージャーとして日本人が雇われてた時代がありました。

田中邦衛さん主演の”トンガ冒険家族”のモデルとなった方)

 

人格者で心優しい支局長のサポートもあって

何もない僻地での不便な生活でしたが精神的には癒されてましたねぇ

↑ 左端が支局長のNaita 右端が助手のメカニックのFalanisi

あと水産局で見習いスタッフだった若者のMa’afuと

 

 

 

↓ 彼女は事務所のクラーク Langimaa

とても優しい性格でお世話好きで

金曜になると『洗濯物出しなさい』って言われ

渡すと週末家で洗濯してくれてました。

 

↓ここが半島の先っぽの彼女の自宅

日曜日にウム(休日のご馳走)を食べにおいでと誘われて

道なき道のオフロードをバイクで訪問していた時の一枚

 

話を戻して、そんな訳で糞ったれのアメリカ人から追い出され

支局長がなけなしの予算から

別の貸しコテージを借りようとしてくれたのですが

どうにも毎月の費用を捻出するのが大変そうだとわかり

 

かわりにと

漁具倉庫兼、ローカル職員の寝泊りに使ってた掘っ立て小屋を改造して

提供してくれたのですが・・・

(一番下の紺と朱色に塗ったトタンの小屋が住居、

その上の段にトイレとシャワールームを作ってくれたのですが

それが完成するまでは肥え溜め式の小屋しかなく

小は夜だけ海に向かって立ちショ〇ベン

〔夜中の真っ暗闇でも目敏いトンガ人から「Masa!昨日海にオシッコしてたろ」とからかわれながら〕

大は便意を催すと堪らず水産局までバイクを走らせなければならず、苦労しました。)

引っ越した時にはまだ電気がなく

なんとかランプを買ったもののホヤがなく

炎を大きくすると真っ黒な煙が出るので

こんなマッチの灯りのような中で夜を過ごしていました。

それでも、一応キッチンに水道、冷蔵庫にテーブルやタンスまで置いてくれて

ありがたいなぁと感謝しましたねぇ

寝室側はこんな感じ

この写真を撮った時には なんとか電気も通してくれて

裸電球でもありがたかったなぁ

別の水産局のスタッフが独り暮らしじゃあ寂しいだろうと

子猫をくれ、それ以降大切な家族の一員となりました(笑)

なんせ島でたった一人の日本人

動物園のパンダ状態で、毎日子供達が集まってきて大変でした(笑)

右手の人物は、近くの漁具小屋で寝泊まりしてた離島の人物で

毎日映画に誘ってくれたり雑談の相手をしてくれるのですが

毎晩我が家に入り浸って帰ろうとしないため

ある日、玄関の扉に『何人も入室禁止!!!』と貼り紙をしたのに

『この”何人”って、オレは入ってないよね?』と馬耳東風

まあ、それでも彼のおかげで面白おかしく過ごせるようになりました。

 

(↓この日は年に一度の王様が来島してのお祭りイベントの日)

(トンガ風に巻スカートとfalaniという飾りをつけて正装)

(真ん中のお兄ちゃんが子猫をくれたHenma)

オンボロの掘っ建て小屋でしたが

現地人がいつも気軽に遊びに来てくれて

”これぞ協力隊員”って気がして、辛さよりむしろ嬉しかったですねぇ。

 

 

さて、それではまたVava'uのことに話を戻すと

大型の客船が来ると

上陸する観光客を狙って島中の車が大集結

(ただのトラックで荷台がバス代わり)

Vava'u島は、入り組んだ入り江と島影で風や波が遮られ

Port of Refuge(天然の避難港)と呼ばれる、世界中のヨット乗りの憧れの土地のため

いつもたくさんのヨットが訪れていました。

 

これはさっきの掘っ立て小屋からの夕陽

こちら↓は、Vava'u島のランドマーク Mt. Talauと

見えにくいですが放し飼いの黒豚

こちらはTongatapuにある Tonga Club, Yacht Club, Nuku’alofa Club同様

それなりにハイソなメンバーだけが入場してビリヤードや酒を楽しめる

Vava’u Club

協力隊員も外国人特例で入れることができたので

町のスーパーのビールが売り切れると、焦って駆け込んでました。(笑)

 

こちら↓は、月に一度ほど週末になるとバナナ倉庫が生バンドのディスコになるのですが

大切な社交場なので おばあちゃんから孫娘まで、家族揃って来場してましたねぇ

(要するにチャラい男にナンパされないよう)

 

↓ これがそのディスコ

蛍光灯の下でしたが、大事な男女の出会いの場所(笑)

 

お次は、ボートでしか行けないのですが

観光名所のひとつ”Ana Pekepeka”

英語で言うと Swallows Cave

自然にあいた鍾乳洞のような洞穴で蝙蝠やツバメの棲家

小型ボートなら中まで入れるんです。

 

お次は、Ana Uku (英語でMariners' cave)

 

↓ 中央の色の濃い部分が穴になっていて

潜ってその穴を10mほど進んで浮上すると

内部には空気のある大きな空洞あるので

息ができるのと、外側から入る光に照らされて

内側から外を眺めるとまさに青の洞窟

そんな景色に魅了されてお気に入りの場所だったので

日曜日になると住居の掘っ立て小屋の前に係留していた

水産局のボートで、毎週のように潜りに行ってました。

日曜日はトンガでは憲法で定められた安息日

なので、いつもお供は子猫のみ(笑)

ついでに素潜りでサザエや高瀬貝(ボタンにする巻貝ですが、これが結構美味)を獲って酒の肴に

 

あと、オフの時間に過ごしていた場所のひとつが

島で最もモダンな施設だった Paradise Hotel

たしかアメリカ人の年寄りの大富豪が、若いオーストラリア女性と結婚して

半分趣味にように経営していた五つ星級リゾートホテル

いくつものコテージの客室とアメリカンスタンダードなレストランがあって

定員10名ほどの双発のプロペラ機を所有して

海側にはマリーナがあって

モーターボート数隻とスキューバ、水上スキーなどの貸し出し。

 

共同経営者が、グリーンベレーあがりのPieterというドイツ系アメリカ人で

彼も飛行機の操縦免許をもってたので

チャーターで隣国のアメリカンサモアやフィジーからの

お客があると送迎したりしてました。

(Pieterはマリーナ経営と飛行機の操縦が担当)

 

ホテル側のオーナーは

建物の資機材をアメリカやオーストラリアから輸入して

ローカルの若者に手伝わせ、自ら率先してカーペンターのごとく

溶接したりコテージの増設してました。

 

その後、Paradise Hotelは、オーナーが子供たちの将来のことを考えてなのか

Tonga政府に売却してその後国営となったのですが

20年ほど前に失火によるものなのかメインの建物が火事で焼失し

いまは廃墟のような施設になってしまったようです。。。

 

ドイツ系アメリカ人のPieterとはとても仲良くしていて

休日モーターボートでお客を案内している時に

自分が水上スキーしたくなったからボート操縦してと頼まれたりしてましたねぇ。

 

その後、ホテルが売却されたときに

水上飛行機に買い替え

Vava’uを拠点に首都のあるTongatapu島や

Tongaの北端の諸島

もうSamoaの方が近い Niuatoputapu島やNiuafo’ou島

トンガ富士と呼んでたKao島やTofua島への観光飛行とかしていましたが・・・

 

年齢的にももう引退しちゃっただろうなぁ

(たしか私より20歳以上年上でした)

 

 

その他、なんせVava’u島は

王国の中でも比較的自由な空気で

(Tongatapuは王家や貴族に支配されてる感あり) 

風光明媚なうえに常夏の地だったので

 

特にオーストラリアやニュージーランドからの移住者や

年金生活を気楽に過ごしているOZ,NZの年寄りも住みついていて

ほとんどは、Guest Houseと呼ぶ最も安価な宿(当時は素泊まり一泊T$3~T$5)

を利用していましたが

 

こんな瀟洒な家を建てて暮らしたりしてる移住者もいて羨ましかったですね。

(とはいえ、外国人は土地を買うことはできないので借地)

 

↓は、以前日本人マネージャーを雇っていた雑貨屋

通称Otoと呼ばれていたお店

私の住んでいた掘っ立て小屋がこの店の横から下った場所にあって

お隣さんだったのと 

店の経営者の娘と仲良しだったので

食料品を買いにいっては、値切り交渉しながら談笑してました(笑)

 

島のメインの収入源はなんといっても

世界中から寄港するクルーズ客船の観光客が落とすお金

接岸できるような港はないので

水深のある湾内に錨をおろし

救命艇兼用のボートでお客をピストン輸送

荷台に幌をかけ、木製のベンチを置いただけのトラックが観光バス代わり

クルーズ船が入港すると島中のトラックが港に集結してました。

客船が来るとわかると

事前に燃料を補給しておこうと

島にひとつだけのガソンリンスタンドに集まるのですが

なんせ手動のポンプ一台のみ

(透明のガラスの容器にハンドポンプで地下の燃料を汲み上げて

注文した量にセットしたパイプに届いたらオーバーフロー。 

その後ホースへのコックを開けて給油する仕組み)

 

こちらは、舗装された滑走路を持つ新飛行場

ジェット機が離着陸できるほどの長さを持たないため

基本プロペラ機のみで

当時は、首都のNuku’alofa (Ha’apai経由)からの国内便と

American Samoaへの国際線のみ

 

(近年は、Whale Watching観光が人気となってFiji便もできたそうです)

こちらは、新飛行場ができる前まで使われてた赤土の滑走路の旧飛行場

島の北端に滑走路ギリギリで作られたため延伸ができずそのままで放置されてました。

↓これは国内線のTonga Airの1982年当時の一機

(Tonga冒険家族のドラマ撮影隊(田中邦衛さん)が帰る時に撮影した一枚)

 

Vava’u島での交通手段と言えば

道路が本島の比較的平坦な部分だけしかなかったため

 

ヒョロヒョロした半島を先っぽや離島へは

 

船外機のボートが主要交通手段

そんな朝夕の通勤・通学時の風景です。

 

トンガ冒険家族のドラマ撮影隊が来ていた時のひとこま

撮影がお休みの日にAna Ukuを案内した時に中原ひとみさんと

 

ドラマの監督(工藤栄一さん)

学生時代夢中になって視聴していた”傷だらけの天使”の監督さんなんですよ。

この集合写真の一番奥の中央が田中邦衛さん

実は撮影隊がVava’u島に到着した時に

助監督さんがコーディネーターをしていた川口正徳OB(その③で紹介した)に連れられて

Vava’uのことを一番知ってる日本人として私のところへ挨拶に来たのですが

 

それがあの”掘っ立て小屋”

茣蓙に座って一緒に瓶ビールのラッパ飲みをオススメしたのですが

 

あまりの環境に絶句して衝撃を受けたらしく

『撮影期間中は、ホテルの隣でCateringを頼んでるので

三食ずっと食べに来ない』

『夜は田中邦衛さんや撮影スタッフで飲み会するのでそこにも是非』

とお誘いしてくれ

 

2週間くらいだったでしょうか

その期間は毎晩田中邦衛さんの話が面白くて

ビールも好き放題飲んで リッチな食事が食べられて

 

Vava'u生活の中でも忘れられない思い出を作っていただきました。

 

 

【その⑤に続く:たぶん

 

 

 

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