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9月1日の礼拝の内容です。

2024-08-31 20:14:00 | 日記
9月1日の礼拝の内容です。讃美歌は、18.57.81.197.91‣1です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/0C4sKERSIts?feature=shareです。

礼拝説教      使徒11:1~10「3度あったこと」    2024.9.1

 9月の最初の日曜日を迎えました。今日は9月1日です。防災の日でもあります。関東大震災から101年目を迎えました。日本に住んでいるといろいろな災害が起って来ます。地震や台風などによる被害です。台風10号の影響がまだまだ残っています。地球温高化の影響で、今年の夏は異常な熱さが続きました。台風のおかげで少しは涼しくにはなりましたが、まだまだ熱さは続くのでしょう。雨も台風も今まで以上に強く激しくなっているように感じます。そのような災害に対する意識を持つことも大切なことです。

 使徒言行録の10章では、イエス・キリストの福音がユダヤ人から異邦人に伝えられていくことが書かれてありました。ペトロがコルネリウスに伝えていくということでした。ここで大切なことは、使徒2章で起ったペンテコステの出来事が、ここでも起っているという事実です。ユダヤ人に起ったことが異邦人でも起っているということです。今日の使徒言行録の11章の最初の部分は、ペトロがエルサレムに戻って、教会の人々に異邦人が神の言葉を受け入れたということを報告しています。ペトロが行く前に、使徒たちやユダヤにいる兄弟たちは、異邦人が神の言葉を受け入れたことを耳にしていました。

 ペトロがエルサレムに上って来た時に、割礼を受けている者はペトロを非難して「あなたは割礼を受けていない者たちのところに行き、一緒に食事をした」といいます。問題は、ペトロが異邦人にイエス・キリストの福音を伝えたことではなくて、割礼を受けていない者たちと交わり、一緒に食事をしたことです。エルサレム教会ではもともとユダヤ地方に住んでいたユダヤ人が洗礼を受けて、教会に加わっていました。いわゆるヘブライ語を話すユダヤ人でした。一方でギリシャ語を話すユダヤ人もいました。この人たちは、ステファノの殉教の時の迫害で、多くの者がエルサレムを脱出し、サマリヤやアジアの方に逃げて行くのです。もともとユダヤ地方に住んでいたユダヤ人は、それまでユダヤ教を熱心に守ってきた人々でした。割礼を受けて、律法を熱心に守っていました。

 イエス様の使徒たちが聖霊を受けて、イエス・キリストの福音を理解することができたとしても、それまでの慣習をどのように受け止めたらいいのか、ある意味で過渡期だったということができます。割礼を受けたユダヤ人で、イエス・キリストの福音を受け入れて、洗礼を受けて、教会に加わったとしても、今までの慣習と、新しいイエス・キリストにある新しい信仰生活をどのように過ごしていいのか戸惑うことになっていくのです。それで、イエス・キリストを信じて生きていく生活は、イエス様の十字架を信じることと、割礼を受けて、律法を守る必要があると考えていました。ペトロに対して、割礼を受けた信仰者たちは、異邦人と一緒に食事をしたことを問題にしています。それは、ペトロ自身がいっていますが、「あなたがたもご存じの通り、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています」(使徒10:28)のことです。

 割礼を受けた信仰者は、まだまだ律法の中に生きていたことが分かります。イエス・キリストの福音を信じることと、割礼を受けることと律法を守ることが大切だというのです。ペトロは、ここで自分が見た幻のことを話します。自分が見た幻をそのまま話しています。内容的には、使徒10:9~16とまったく同じです。ペトロは、この幻を3回見ることになりました。この3回というのがとても大切なキーワードになっています。ペトロはヤッファにいました。ペトロは祈るために屋上に上がっていきます。昼の12時ごろ、ペトロは空腹を覚え、何か食べたいと思いました。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、天が開いて、大きな布のような入れ物が、四隅に吊るされて、地上に下り来るのを見たのです。その中には、あらゆる動物、地を這うもの、空の鳥が入っていました。そして、天使が「ペトロよ、身を起し、屠って食べなさい」といいました。ペトロは「主よ、とんでもないことです。清きない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」と答えています。すると、天使は「神が清めた物を、清くないなどと、あなたはいってはならない」と答えました。このようなことが3回起っているのです。

 レビ記11章には、清いものと汚れたものに関する規定が書かれてあります。地上の動物の中で、食べてよい動物は、これであると具体的に指名されています。ここで食べてよいものと食べてはならないものがはっきりと分けられています。旧約聖書の中では、神の前で、何が清いものか。何が汚れているものかをはっきりと区別することが求められていました。この食べ物に関する規定を破ることことは、律法を破ることと同じです。ある人々が神の前に汚れているものをささげた時に、その人々は神のから出た火で焼かれてしまいました。ペトロをはじめ、ユダヤ人はこの食べ物に関する規定をずっと守って来ました。その流れで、ユダヤ人は清いもの、異邦人は汚れたものと区別するようになっていて、ペトロがいったように、ユダヤ人は外国人である異邦人と交際したり、訪問したり、することは許されていないとされてきたのです。

 イエス・キリストの福音が、ユダヤ人から異邦人に伝えられている流れで、このような異邦人に対する考えを乗り越えることは容易なことではなかったのです。しかし、ここでは大切なことがあります。キリスト者として生きるために、救われた者としてあるために、どうあるべきかが問われているのです。イエス・キリストの十字架を信じることと、それ以外に求められることはあるかということです。ユダヤ人にとって、ユダヤ教徒にとって大切なことは割礼を受けることと律法を守ることでした。割礼を受けたユダヤ人の信仰者がペトロに問うていることです。彼らは、教会に加わるためには、イエス・キリストを信じて洗礼を受けるとと、割礼を受けることと律法を守ることは必要であると考えていたのです。

 使徒パウロは、このキリスト者として必要なことを明確にローマ書で論じています。ここからはローマ書を引用しながら考えてみたいと思います。

ローマ3:19~20
さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

 ここでパウロがいっているように、神の教えである律法を守ることは人にはできないということです。律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからですとあります。律法の役割は、人に罪人であることを自覚するためなのだというのです。割礼を受けた人々が、キリスト者として必要なことは、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じることと割礼を受けることと律法を守ることとなれば、救われることの意味があいまいになってしまいますし、矛盾することが起って来ます。信仰と律法は全く反することだからです。律法を守ることができないから、イエス・キリストの十字架の救いを信じるからです。では、どのように救われるのでしょうか。

ローマ3:21~26
ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。

 人は律法を行うことによっては、神の前では正しい者とされることはできないとありました。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けることができないとされていました。しかし、ここに神の義が示されていくのです。私たちの罪がイエス・キリストを十字架につけて殺してしまったのです。これは神に対する大きな罪です。しかし、イエス・キリストの十字架の死と復活は、すべての人々の罪を贖うものでした。私たちが負うべき十字架の死を、神の子イエス・キリストが代わりに十字架について死んでくださったこと、このことは私たちの罪の身代わりとなってくださったのです。私たちは、そのイエス・キリストが十字架でしてくださったことを信じて、受け入れ、洗礼を受けて、教会に加わることによって、救いに預かることができるようにしてくださったのです。これが、キリスト者としての完全な救いの内容です。イエス・キリストの十字架だけが、救いの根拠となっているのです。このことを聞いている私たちは、私たちが神の前で救われるために必要なことは、イエス・キリストの十字架への信仰のみです。この福音によって、私たちは完全な神の救いを受けることができるようにしてくださったのです。

祈り 私たちが救われるために必要なことは何をみてきました。割礼を受けたユダヤ人とペトロの話の中で、イエス・キリストの救いがユダヤ人から異邦人に伝えられていく中で、信仰と律法の関係をみてきました。律法の役割とは何か、それがイエス・キリストの十字架の救いとどのように関係するかをみてきました。イエス・キリストの十字架のみが、私たちに必要なことであることを確認することができました。ただ、律法の役割をしっかりと受け止めることができるように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


8月28日の祈祷会の内容です。

2024-08-27 20:23:00 | 日記
祈祷会    士師記9:1~20「アビメレクとヨタム」   2024.8.28

 士師記6~8章にかけて士師ギデオンのことが書かれてありました。イスラエルの人々が、神の目に悪とされたことを行ったがために、神は怒り、敵としてミディアン人を送りました。ミディアン人の支配によって、イスラエルの人々は苦しみ、神に助けを求めて叫びました。神はその叫びを聞いて憐れみ、士師ギデオンを送ったのでした。士師ギデオンは勇者300人と共に敵ミディアン人13万5千人と戦い、勝利します。ギデオンは残ったミディアン人を追撃して行き、イスラエルの人々は一時的な平和を手に入れることができました。

 士師ギデオンは神への信仰者として考えられていましたが、晩年はそうではない面も見られました。イスラエルの人々は、敵ミディアン人を撃退した士師ギデオンとその子どもたちに、自分たちの王になって欲しいと願いましたが、ギデオンは拒否しました。その理由は、神がイスラエルの王であるからだというものでした。その後、ギデオンはイスラエルの人々に戦利品としての金の耳輪などを求めてました。多くの金があつまり、それでギデオンはエフォド(大祭司の祭服の前掛け)を作り、自分の町オフラに置いたのです。ギデオンは多くの妻がいて、70人の息子がいました。また、シケムにいた側女も1人の子を産み、アビメレクと名付けました。こうして、ギデオンは長寿を全うして死に葬られました。ギデオンが死ぬと、イスラエルの人々はまた神の目に悪とされることを行うようになってしまいます。バアルに従い、バアル・ベリトを自分たちの神としました。イスラエルの人々は、すぐに神を忘れてしまったのです。ギデオンの行為も顧みることがなくなってしまいました。

 ギデオンは仲間300人と共に敵のミディアン人と戦ったことより、信仰者というところがありますが、晩年は悲しいかな、罪と思われることを犯してしまったのです。聖書は人間の弱さをそのまま描いています。このギデオンの弱さが、士師記9章で実際の事件として起こっていくのです。それは、ギデオンの家族の問題から悲劇として展開されていきます。ギデオンの晩年ですが、多くの妻があり、70人の息子たちがいたとあります。また、シケムにいた側女の子アビメレクがいました。このアビメレクは成長する中で、側女の子として、70人の息子たちからいろいろな差別を受けていたと思われます。この9章では、ギデオンではなくて、エルバアルという名前が使われています。

 そのアビメレクですが、シケム(母親の生まれた町)に来て、母方のおじたちに会い、おじたちと母の家族が属する一族全員に「シケムのすべての首長にこう言い聞かせてください。あなたたちにとって、エルバアルの息子70人全部治められるのと、1人息子に治められるのと、どちらが得か。ただし、わたしが、あなたたちの骨であり肉であるということを心に留めてください」といいました。これを聞いた人々は「これは我々の身内だ」と思い、その心がアビメレクに傾いていきます。彼らがバアル・ベリトの神殿から銀70をとってアビメレクに渡します。アビメレクはそのお金で命知らずのならず者を数名雇い入れ、自分に従うようにしました。アビメレクはオフラにある父の家に来て、自分の兄弟であるエルバアルの子70人を1つの石の上で殺してしまいました。末の子ヨタムだけは身を隠して生き延びたのです。アビメレクにとって自分の兄弟70人を殺すことは、仕返しだったのかもしれません。そこまで兄弟を憎んでいたのでしょう。

 シケムのすべての首長とベト・ミロの全員が集まり、赴いて、シケムの石柱のあるテレビンの木の傍らでアビメレクを王としたのです。(ここでは一部地域の王ということで、イスラエル全体の王ということではありません)このことがヨタムに知らされると、ヨタムはゲリジム山の頂に行き立って、大声を張り上げていいます。「シケムの首長たちよ。わたしのいうことを聞いてください。そうすれば、神はあなたたちのいうことを聞いてくださる」と。詩を作り、木々が、だれかに油を注いで、自分たちの王にしようとして、オリーブの木、いちじくの木、ぶどうの木に頼んでいきます。これらの木は断っていきます。最後に、すべての木々は茨にお願いします。茨が王となるという話をしながら、アビメレクを王としたことを批判しています。

 ヨタムは「さて、あなたたちがアビメレクを王としたが、それが誠意ある正しい行動だろうか。エルバアルとその一族を正当に遇し、彼の手柄にふさわしく報いることだろうか。わたしの父はあなたたちのために戦い、命をかけて、あなたたちをミディアンの手から救い出した。ところが今日、あなたたちはわたしの父の家に背いて立ち上がり、その息子70人を1つの石の上で殺し、女奴隷の子アビメレクを、ただ自分たちの身内だからというだけで、シケムの首長たちの上に立てて王とした。もし今日、あなたたちがエルバアルとその一族に対して誠意をもって正しく行動したのなら、アビメレクと共に喜び祝うがよい。もしそうでなければ、アビメレクから火が出て、シケムの首長たちとベト・ミロをなめ尽くす。またシケムの首長たちとベト・ミロから火が出て、アビメレクをなめ尽くす」といい、逃げ去るのでした。

 ここまで見てくると、ギデオンの罪の結果が出ています。ギデオン、エルバアルが父親であり、その息子たちの争いです。一人生き残った末の子ヨタムと女奴隷(ヨタムの表現)の子アビメレクとの争いです。その争いに、シケムの首長たちが巻き込まれているのです。この問題の根にエルバアルの晩年の罪があるのです。このような問題はいろいろな時代に起っているものです。人間の罪の歴史がここにあります。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時をありがとうございます。ギデオンの家族間の問題について見てきました。家族間にいろいろな問題が起って、それが大きくなって、多くの人々を巻き込み、悲劇につながっていきます。人間の罪の現実と、神の教えである律法を守ることに意味を考えていきたいと思います。神の思いを知ることができるように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                               」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)


8月21日の祈祷会の内容です。

2024-08-20 12:20:00 | 日記
祈祷会       士師記8:18~35「ギデオンの晩年」    2024.8.21

 士師記6~8章にかけて士師ギデオンのことが書かれてあります。そもそもイスラエルの人々が、神の目に悪とされることを行ったから、神は怒り、イスラエルの人々を7年間、ミディアン人の手に渡されたのです。イスラエルの人々はミディアン人からの苦しみを受けて、神に助けを求めてました。神はイスラエルの人々の叫びに応えて、士師ギデオンを送ったのです。最初に出て来るギデオンは、ミディアン人に奪われるのを恐れて、酒ふねの中で小麦を打っていました。精神的に弱い部分を見せていました。そのようなギデオンですが、ミディアン人と戦うために、300人の勇士と共に戦う、勝利するなど勇気を持っていきました。後から戦いに参加して不満を持ったエフライムの人たちには、相手の言い分を立てる仕方で対応するなど指導者として優れた面を持つようになりました。食糧の援助を断ったスコトの人々とペヌエルの人々には強い態度で出ていきました。いろいろな面で成長し、神への信仰者としてのギデオンの姿を見ることができます。

 ギデオンはミディアン人の2人の王であるゼパとツァルムナに対して、逃亡している所を捕らえました。ギデオンは2人にタボルであった自分の身内が殺されたことをいい、2人の王を殺すことを決めます。最初は、長男イエテルに殺すようにいうのですが、彼は恐れてすることができず、ギデオン自身が2人の王を殺しました。この時に、2人の王のらくだの首にかけてあった三日月形の飾りを取っています。これが、ギデオンの罪となっていきます。

 イスラエルの人々は、ギデオンに「ミディアン人の手から我々を救ってくださったのはあなたですから、あなたはもとより、御子息が我々を治めてください」といいます。これは、ギデオンにイスラエルの王になって欲しいということです。イスラエルの王が誕生するのはもっと後のことですが、この時にはすでに王を求める心がイスラエルの人々の中にあったことが分かります。ここでギデオンは「私はあなたたちを治めない。息子もあなたたちを治めない。神があなたたちを治めされる」といって、拒否します。このギデオンの対応は神への信仰ということから素晴らしい対応ということができます。ここまではギデオンの神への信仰の素晴らしさを見ることができますが、この後、ギデオンの晩年、悲しい結果となっていきます。

 ギデオンはミディアン人の2人の王かららくだの首にかけてあった三日月形の飾りを取っていました。ギデオンはイスラエルの人々に「あなたたちにお願いしたいことがある。各自戦利品として手に入れた耳輪を私に渡して欲しい」と願うのです。敵は金の耳輪をしていたそうです。イスラエルの人々は「喜んで差し上げます」と答え、衣を広げて、そこに各自戦利品の耳輪を投げ入れました。耳輪の目方は金1700シェケルだったそうです。約20キロです。その他に三日月形の飾り、垂れ幕、王たちがまとっていた紫布の衣服などです。ギデオンはそれらの金でエフォド(大祭司が身に着ける物の1つ)を作り、自分の町オフラに置きました。これは何を意味するかというと、ギデオンはイスラエルの王のなることは否定しましたが、祭司になることを願ったと思います。自分自身が神に仕える祭司になり、自分の栄光を持ちたかったのでしょう。これは、神の意志に反することでした。ここで神の罰は出ていませんが、すべてのイスラエルの人々がギデオン自身を神とあがめるようになり、罪を犯すようになりました。人々は姦淫にふけるようになり、ギデオンとその一族にとって罠となっていくのです。ミディアン人はイスラエルの人々によって、征服されたので、もはや頭をもたげることができず、ギデオンの時代40年に渡って、イスラエルは平穏であったとあります。

 それでも、ギデオンの晩年は、神への信仰とは遠いものとなっていきます。ギデオンには多くの妻がいて、息子が70人を数えました。シケムにいた側女も1人の子を産みアビメレクと名付けました。やがて、ギデオンは長寿を全うして死にました。ギデオンが死ぬと、イスラエルの人々はまたもバアルに従って姦淫して、バアル・ベリトを自分たちの神としました。イスラエルの人々は、周囲のあらゆる敵の手から救ってくださった神を心に留めることがなくなりました。イスラエルのために尽くしたギデオンのすべての功績にふさわしい誠意を示すこともしなかったのです。

 ギデオンと300人の勇士が命をかけてミディアン人と戦ったことは、どのような意味があったのでしょうか。ギデオン自身も、神への信仰を持ちながら、自らが祭司としてふるまうことを願いました。多くの妻を持ち、そこからギデオン自身とその子どもたちに悲劇が及ぶようになっていきます。イスラエルの人々は、再び神への信仰はなくなり、簡単にバアルを信じていくようになっていく、このイスラエルの人々の罪の重さを深く感じるのです。どうして、イスラエルの人々は、どんなにひどい目にあっても、神への信仰を捨て、バアルへの信仰を持つようになっていくのでしょうか。人間としての罪の深さを、イスラエルの人々は私たちに教えてくれます。それでも、神へイスラエルの人々と共に歩んでくださるのです。

祈り 神よ。聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。ギデオンの晩年について見てきました。信仰者ギデオンが、金を集め、大祭司の身に着けるエフォドを作りました。神への思いから、自分の思いが強くなっていきました。多くの妻を持ち、70人の子どもたちがいて、そこで多くの問題が生じて来ます。ギデオンが死んで、イスラエルの人々はまたバアルの神を信じるようになってしまします。人間の弱さを感じます。そのようなイスラエルの人々に対して、神は離れることはなく、共に歩んでくださいます。私たちも神への信仰を強く持って歩むことができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                              」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志))


8月18日の礼拝の内容です。

2024-08-17 12:57:00 | 日記
8月18日の礼拝の内容です。讃美歌は、197.361.433.470.27です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/E-qEt9vBMDE?feature=shareです。

礼拝説教      使徒10:44~48「聖霊を受けた人たち」    2024.8.18

 8月の第3日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から神に感謝したいと思います。この礼拝を通して、私たちの1週間の歩みが豊かなものとなりますように願います。

 先週の木曜日は、8月15日でした。79年前にあった終戦記念日でした。8月は平和について、戦争のついて考える時です。79年という年月は流れましたが、新たな思いで、戦争の悲惨さと平和の大切さを受け止める時としたいと願います。同じような悲劇が繰り返すことがないようにと心から祈るのです。

 使徒言行録を読んでいます。使徒言行録は初めての教会の様子を描いています。使徒10章からは、大きな転換をもたらしています。それは、イエス・キリストの福音がそれまではユダヤ人だけに与えられていたのが、ここからはユダヤ人以外の異邦人、つまりすべての人々に与えられていくのです。最初の人は、コルネリウスという人でした。使徒言行録の中心は、イエス様の弟子たちではなく、聖霊です。神によって送られた聖霊はいろいろな働きをしていきます。使徒10章から異邦人に、イエス・キリストの福音が伝わって行くといいましたが、その流れは聖霊が天使を送って進めていくのです。

 まず、天使はコルネリウスに語りかけました。「コルネリウス、あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられている。今、あなたは、ペトロをあなたの家に招きなさい」といいます。天使の言葉を受けて、コルネリウスは、3人をペトロのいる家に送りました。次に、天使はペトロに働きかけます。ペトロが家の屋上で、祈り時をしている時に幻を見せるのです。天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅に吊るされて、地上に下りて来るのを見るのです。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていました。そして、天使はペトロに「ペトロよ、身を起し、屠って食べなさい」といいます。ペトロは「主よ、とんでもないことです。清くないもの、汚れたものは何一つ食べたことがありません」と答えます。天使は「神が清めたものを、清くないなどと、あなたはいってはならない」といいます。そのようなことが3度も起るのでした。ペトロは今見た幻をついて1人で思案に暮れていると、コルネリウスから送られた3人が、ペトロの家に着きました。ペトロに天使は「3人があなたを探しに来ている。立って下に行き、ためらわないで、一緒に出発しなさい」といいます。ペトロはその3人を、家に招き入れて、泊まらせ、次の日に、その人たちと共に出発します。コルネリウスの家に向かって行きます。

 コルネリスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていました。ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝みました。ペトロはコルネリウスを起して、「お立ちください。私もただの人間です。」と答えます。ペトロはコルネリウスとその関係者に「あなた方も知っている通り、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問することは、律法で禁じられています。けれども神は私に、どんな人をも清くないものとか、汚れているものとかいってならないと、お示しになりました。それでお招きを受けたので、すぐに来たのです」と答えます。コルネリウスは、自分が天使に導かれたことを話してから、「よくおいでくださいました。今私たちは皆、神があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです」と答えます。

 ペトロはコルネリウスに「神が人を分け隔てないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れれるのです。イエス・キリスト、この方こそ、すべての人の主です。平和を告げ知らせて、ユダヤ人に送ってくださった御言葉を、あなた方はご存じでしょう。神は聖霊と力によって、イエス・キリストに油を注がれました。イエス様は方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべて癒されたのです。神がいつも御一緒だったからです。しかし、エルサレムで人々は、イエス様を十字架にかけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエス様を、3日目に復活させ、人々に現わしてくださいました。しかし、それはユダヤ人全体ではなく、神によって選ばれた証人、イエス様が死者の中から復活した後、御一緒に食事をした私たちに対してです。イエス様は、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、人々に宣べ伝え、力強く証しするようにと、私たちにお命じになりました。また預言者も皆、イエス様について、この方を信じる者は誰でもその名によって罪に赦しが与えられる、と証しています」と告げます。

 そして、今日の聖書の箇所です。ペトロがこれらの言葉をなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降ったのです。使徒2:1~4で起ったペンテコステの出来事が、まさにここで同じように起っているのです。割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれているのを見て、大いに驚いています。異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからです。そこでペトロは「私たちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったい誰が妨げることができましょうか」といいます。そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じています。それからコルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願っています。

 聖霊の働きによって、イエス・キリストの福音がユダヤ人から、異邦人に伝えられていくことができていきました。これから本格的な異邦人伝道が始まっていくのですが、これから教会は大きな壁と向き合うことになります。それはユダヤ人キリスト者の壁です。使徒11章の初めを見ますと、ペトロがエルサレムに戻って、異邦人がイエス・キリストの福音を受け入れ、聖霊が降ったことを話します。この時に、割礼を受けていた者たちはペトロを批判して、「あなたは割礼を受けていない者たちの所へ行き、一緒に食事をした」といいます。ペトロがコルネリウスに最初に出会った時に、「ユダヤ人は外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは律法で禁じられています」と説明していることが、ここで問題となっていくのです。ここでペトロは天使を通して、自分の身に起ったことを丁寧に説明して行きます。それで、一時的には了解してもらったかもしれません。やがて、アンティオキア教会を拠点として、バルナバとパウロによる第1回伝道旅行が始まります。異邦人伝道が本格化していくことになります。

 この第1回伝道旅行を通して、多くの異邦人が福音を受け入れていくことになります。異邦人伝道が進んで行く中で、ユダヤ人キリスト者の中で、問題が本格化していきます。使徒15章には、初めてのエルサレム会議が行われます。ここで、異邦人伝道のために必要な話し合いが持たれます。あるユダヤ人キリスト者がやって来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなた方は救われない」と教えていました。つまり、イエス・キリストの福音に預かるためには、信仰だけではなく、割礼を受けて、律法を守らなければならないということです。バルナバやパウロとその人たちの間で、激しい意見の対立と論争が生まれてしまいました。ペトロはその議論の中で「神は聖霊を与えてくださり、私たちがイエス・キリストの福音に預かることができるようにしてくださいました。それを、今度は異邦人にもイエス・キリストの福音に預かることができるようにしてくださったのです。私たちが守ることができなかった律法を守るようにいうのですか。私たちはイエス・キリストの恵みによってのみ救われると信じているのです。これは異邦人も同じことです」といいました。そして、エルサレム教会の指導者であったヤコブは「わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはいけません。偶像に備えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞殺した動物の肉と血を避けるようにとしましょう」と結論づけました。

 これは当時の教会の問題を解決するために必要な内容だったのでしょう。このような内容は、今はなく、イエス・キリストの信仰のみが大切なこととされています。神は私たちの罪の赦しをずっと前から計画されていました。ユダヤ人を通して、罪とは何か。罪を贖うために何が必要か。そして、神のイエス・キリストの十字架の死と復活です。このイエス・キリストの十字架の死と復活を信じることによってのみ、救われるです。救われるということは、最後の審判の時に、裁き主であるキリストから、あなたの罪は私が十字架で赦した。だから、あなたは神の祝福に入り、永遠の命が与えられるということです。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。ペトロによって、コルネリウスらの伝道が進んでいきました。彼らはペトロから洗礼を受けて、教会に加わっていきました。やがて、異邦人教会が誕生していくのでしょう。教会は、その後、いろいろな困難にあいますが、聖霊の助けによって、すべての人々への伝道が進んでいきます。その伝道の流れは止まることはありません。今も、教会を通して、イエス・キリストの福音が語られ、信じる者が起こされていくのです。感謝です。この感謝を、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


8月18日の礼拝の内容です。

2024-08-17 12:52:05 | 日記
8月18日の礼拝の内容です。讃美歌は、197.361.433.470.27です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/E-qEt9vBMDE?feature=shareです。

礼拝説教      使徒10:44~48「聖霊を受けた人たち」    2024.8.18

 8月の第3日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から神に感謝したいと思います。この礼拝を通して、私たちの1週間の歩みが豊かなものとなりますように願います。

 先週の木曜日は、8月15日でした。79年前にあった終戦記念日でした。8月は平和について、戦争のついて考える時です。79年という年月は流れましたが、新たな思いで、戦争の悲惨さと平和の大切さを受け止める時としたいと願います。同じような悲劇が繰り返すことがないようにと心から祈るのです。

 使徒言行録を読んでいます。使徒言行録は初めての教会の様子を描いています。使徒10章からは、大きな転換をもたらしています。それは、イエス・キリストの福音がそれまではユダヤ人だけに与えられていたのが、ここからはユダヤ人以外の異邦人、つまりすべての人々に与えられていくのです。最初の人は、コルネリウスという人でした。使徒言行録の中心は、イエス様の弟子たちではなく、聖霊です。神によって送られた聖霊はいろいろな働きをしていきます。使徒10章から異邦人に、イエス・キリストの福音が伝わって行くといいましたが、その流れは聖霊が天使を送って進めていくのです。

 まず、天使はコルネリウスに語りかけました。「コルネリウス、あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられている。今、あなたは、ペトロをあなたの家に招きなさい」といいます。天使の言葉を受けて、コルネリウスは、3人をペトロのいる家に送りました。次に、天使はペトロに働きかけます。ペトロが家の屋上で、祈り時をしている時に幻を見せるのです。天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅に吊るされて、地上に下りて来るのを見るのです。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていました。そして、天使はペトロに「ペトロよ、身を起し、屠って食べなさい」といいます。ペトロは「主よ、とんでもないことです。清くないもの、汚れたものは何一つ食べたことがありません」と答えます。天使は「神が清めたものを、清くないなどと、あなたはいってはならない」といいます。そのようなことが3度も起るのでした。ペトロは今見た幻をついて1人で思案に暮れていると、コルネリウスから送られた3人が、ペトロの家に着きました。ペトロに天使は「3人があなたを探しに来ている。立って下に行き、ためらわないで、一緒に出発しなさい」といいます。ペトロはその3人を、家に招き入れて、泊まらせ、次の日に、その人たちと共に出発します。コルネリウスの家に向かって行きます。

 コルネリスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていました。ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝みました。ペトロはコルネリウスを起して、「お立ちください。私もただの人間です。」と答えます。ペトロはコルネリウスとその関係者に「あなた方も知っている通り、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問することは、律法で禁じられています。けれども神は私に、どんな人をも清くないものとか、汚れているものとかいってならないと、お示しになりました。それでお招きを受けたので、すぐに来たのです」と答えます。コルネリウスは、自分が天使に導かれたことを話してから、「よくおいでくださいました。今私たちは皆、神があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです」と答えます。

 ペトロはコルネリウスに「神が人を分け隔てないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れれるのです。イエス・キリスト、この方こそ、すべての人の主です。平和を告げ知らせて、ユダヤ人に送ってくださった御言葉を、あなた方はご存じでしょう。神は聖霊と力によって、イエス・キリストに油を注がれました。イエス様は方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべて癒されたのです。神がいつも御一緒だったからです。しかし、エルサレムで人々は、イエス様を十字架にかけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエス様を、3日目に復活させ、人々に現わしてくださいました。しかし、それはユダヤ人全体ではなく、神によって選ばれた証人、イエス様が死者の中から復活した後、御一緒に食事をした私たちに対してです。イエス様は、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、人々に宣べ伝え、力強く証しするようにと、私たちにお命じになりました。また預言者も皆、イエス様について、この方を信じる者は誰でもその名によって罪に赦しが与えられる、と証しています」と告げます。

 そして、今日の聖書の箇所です。ペトロがこれらの言葉をなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降ったのです。使徒2:1~4で起ったペンテコステの出来事が、まさにここで同じように起っているのです。割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれているのを見て、大いに驚いています。異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからです。そこでペトロは「私たちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったい誰が妨げることができましょうか」といいます。そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じています。それからコルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願っています。

 聖霊の働きによって、イエス・キリストの福音がユダヤ人から、異邦人に伝えられていくことができていきました。これから本格的な異邦人伝道が始まっていくのですが、これから教会は大きな壁と向き合うことになります。それはユダヤ人キリスト者の壁です。使徒11章の初めを見ますと、ペトロがエルサレムに戻って、異邦人がイエス・キリストの福音を受け入れ、聖霊が降ったことを話します。この時に、割礼を受けていた者たちはペトロを批判して、「あなたは割礼を受けていない者たちの所へ行き、一緒に食事をした」といいます。ペトロがコルネリウスに最初に出会った時に、「ユダヤ人は外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは律法で禁じられています」と説明していることが、ここで問題となっていくのです。ここでペトロは天使を通して、自分の身に起ったことを丁寧に説明して行きます。それで、一時的には了解してもらったかもしれません。やがて、アンティオキア教会を拠点として、バルナバとパウロによる第1回伝道旅行が始まります。異邦人伝道が本格化していくことになります。

 この第1回伝道旅行を通して、多くの異邦人が福音を受け入れていくことになります。異邦人伝道が進んで行く中で、ユダヤ人キリスト者の中で、問題が本格化していきます。使徒15章には、初めてのエルサレム会議が行われます。ここで、異邦人伝道のために必要な話し合いが持たれます。あるユダヤ人キリスト者がやって来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなた方は救われない」と教えていました。つまり、イエス・キリストの福音に預かるためには、信仰だけではなく、割礼を受けて、律法を守らなければならないということです。バルナバやパウロとその人たちの間で、激しい意見の対立と論争が生まれてしまいました。ペトロはその議論の中で「神は聖霊を与えてくださり、私たちがイエス・キリストの福音に預かることができるようにしてくださいました。それを、今度は異邦人にもイエス・キリストの福音に預かることができるようにしてくださったのです。私たちが守ることができなかった律法を守るようにいうのですか。私たちはイエス・キリストの恵みによってのみ救われると信じているのです。これは異邦人も同じことです」といいました。そして、エルサレム教会の指導者であったヤコブは「わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはいけません。偶像に備えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞殺した動物の肉と血を避けるようにとしましょう」と結論づけました。

 これは当時の教会の問題を解決するために必要な内容だったのでしょう。このような内容は、今はなく、イエス・キリストの信仰のみが大切なこととされています。神は私たちの罪の赦しをずっと前から計画されていました。ユダヤ人を通して、罪とは何か。罪を贖うために何が必要か。そして、神のイエス・キリストの十字架の死と復活です。このイエス・キリストの十字架の死と復活を信じることによってのみ、救われるです。救われるということは、最後の審判の時に、裁き主であるキリストから、あなたの罪は私が十字架で赦した。だから、あなたは神の祝福に入り、永遠の命が与えられるということです。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。ペトロによって、コルネリウスらの伝道が進んでいきました。彼らはペトロから洗礼を受けて、教会に加わっていきました。やがて、異邦人教会が誕生していくのでしょう。教会は、その後、いろいろな困難にあいますが、聖霊の助けによって、すべての人々への伝道が進んでいきます。その伝道の流れは止まることはありません。今も、教会を通して、イエス・キリストの福音が語られ、信じる者が起こされていくのです。感謝です。この感謝を、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。