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8月27日の祈祷会の内容です。

2025-08-26 19:33:00 | 日記
祈祷会      サムエル記上17:41~58「ゴリアトに勝つダビデ」  2025.8.27

 イスラエルの最初の王サウルの時代のことです。イスラエルはペリシテ人と戦うことになりました。イスラエルの人々の歩みは絶えることのない戦いの歴史です。これは私たち人間自身の歴史でもあります。イスラエル対ペリシテ、ペリシテの陣地から1人の戦士が進み出て来ました。その名をゴリアトといい、ガド出身で、背丈は約3mあります。完全な武装をしています。ゴリアトは立ちはだかって、イスラエルの陣地に向かって呼ばわって「わたしはペリシテ人、お前たちはサウルの家臣、1人を選んで、わたしの方に下りて来させよ。その者にわたしと戦う力があって、もしわたしが敗れれば、我々はお前たちの奴隷となろう。だが、わたしが勝てば、お前たちは我々の奴隷となるのだ。今日、わたしはイスラエルに挑戦する。相手を1人出せ。一騎打ちだ」といいます。それを聞いたイスラエルの全軍は、恐れおののくです。

 そこで登場して来るのがダビデです。サウルは、この時には神やサムエルから王としての役割を外されているのですが、実際は、イスラエルの王であり続けています。ダビデにとって、ペリシテ人ゴリアトとの戦いは、イスラエルの歴史の中で英雄として登場する舞台となっていきます。ベツレヘムで羊飼いだった少年ダビデが、イスラエルの英雄となっていきます。ゴリアトの前で、イスラエル軍の誰も、サウルも恐れおののいています。ダビデの登場ですが、ダビデの兄たちが、この戦いに出ていました。父のエッサイはダビデに、戦場にいる兄たちに食事を届けるようにといいます。そのためにダビデは、戦いの場に行き、兄たちに食事を届ける時に、敵陣からのゴリアトと出会うことになります。大男のゴリアトに、味方のイスラエル軍のすべてが恐れおののいている姿を見て、ダビデは1人でゴリアトに向かって行く決意をします。

 ダビデは思います。なぜ、神に選ばれた生ける神の戦列が、あのペリシテ人に恐れおののいているのかということです。ダビデはサウルのもとに来て、「あの男のことで、だれも気落ちしてはなりません。僕が行って、そのペリシテ人と戦いましょう」といいます。サウルは「お前が出てあのペリシテ人と戦うことはできはしまい。お前は少年だし、向こうは少年の時から戦士だ」とダビデにいいます。ここでダビデは、自分が羊飼いで、獅子や熊と戦い勝利して来たことを話し、獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるに違いありません」といって、必ず勝利することをいいます。サウルはダビデに戦いに出て行くことを許し、自分の装備を貸しますが、ダビデはそのような装備は慣れていないので返し、自分の杖を手に取ると、川岸から滑らかな石を5つ選び、身に着けていた羊飼いの投石袋に入れ、石投げ紐を手にして、そのペリシテ人に向かって行くのです。

 いよいよダビデとゴリアトの戦いが始まっていきます。ゴリアトは盾持ちを先に立て、ダビデに近づきます。ゴリアトは見渡し、ダビデを認め、ダビデが血色の良い、姿の美しい少年だったので、侮るのです。ゴリアトの思いと違っていたのでしょう。きっと強そうな相手が出て来ると思い描いていたのでしょう。それが少年だったので侮ったと思います。ゴリアトはダビデに「わたしは犬か。杖を持って向かって来るのか」といい、自分の神々によってダビデを呪い、更に「さあ来い。お前の肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう」といいます。ダビデは「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはイスラエルの神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。今日、主はお前をわたしの手に引き渡される。主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まっているすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される」といいます。

 ゴリアトは身構え、ダビデに近づいて行きます。ダビデも急ぎ、ゴリアトに立ち向かうため戦いの場に走って行きます。ダビデは袋に手を入れて小石を取り出すと、石投げ紐を使って飛ばし、ゴリアトの額を撃ちました。石はゴリアトの額に食い込み、ゴリアトはうつ伏せに倒れます。ダビデは石投げ紐と石1つで、このペリシテ人に勝ち、ゴリアトを打ち殺しました。ダビデは走り寄って、ゴリアトの上にまたがると、ゴリアトの剣を取り、さやから引く抜いてとどめを刺し、首を切り落とすのです。戦いとはいえ、残酷なことです。ダビデの勝利となりました。ペリシテ軍は自分たちの勇士が殺されたのを見て、逃げ出して行きます。イスラエル軍は追って行き、勝利を確実なものとします。

 少年ダビデが、ペリシテ人の大男ゴリアトを倒して、イスラエルの英雄となっていきます。このダビデとゴリアトの戦いは、神とペリシテ人の神との戦いでもあります。神が勝利していくことが、ダビデの勝利によって証明されるのです。旧約聖書の時代、イスラエルをはじめ、多くの民族があって、その存在感をかけて戦っていくのです。各民族にはそれぞれの神々がいました。民族間の争いは、神と神との戦いということもできます。その中で、イスラエルの神が勝利していく、それが本当の神は誰かという答えとなっていくのです。イスラエル対ペリシテの戦いで、大男ゴリアトの前で、恐れおののいているイスラエル、またはサウル、神を信じるダビデが登場して来て、少年ダビデが、神が共にいてくださる、共に戦ってくださるという信仰を持って、ゴリアトとの戦い、勝利していく、イスラエルがいかに神を信じて歩んでいくのかを教えているのです。

 私たちも日々の生活の中で、いろいろなことが起って来ます。目の前に大きな試練が起ることがあります。大きな困難や苦しみが襲ってくることもあります。そのような私たちは、どうして行けばいいのか分からない、神を信じることもできない、目の前に絶望しか見えない時があります。そのような私たちに、ダビデの行動は、神がいつも私たちと共にいてくださることを教えてくださっています。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。ダビデとゴリアトの戦いをみてきました。戦いは本当に残酷なものです。人間は、このような戦いを繰り返し行って来ています。その中で、神を信じて生きることの意味をダビデの歩みを通して考えていくことができますように導いてください。この願いをイエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                            」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)


8月24日の礼拝の内容です。

2025-08-23 14:49:00 | 日記
8月24日の礼拝の内容です。讃美歌は、457.504.515.533.29です。
礼拝のオンライン配信は、「瀬戸永泉教会」YouTubeチャンネルから入ってください。

礼拝説教     使徒18:1~11「あなたと共にいる主」    2026.8.24

主の平安を祈ります。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から神に感謝したいと思います。この礼拝を通して、私たちの1週間の歩みがより豊かなものとなりますようにと祈ります。

 使徒言行録を読んでいます。パウロの第2回伝道旅行の様子が書かれてあります。パウロの伝道はアジアからヨーロッパに移っていきます。先週はアテネでの伝道でした。アテネでの伝道では、それまでのようにユダヤ人による迫害は起きなかったのです。パウロは自分のアテネ伝道を振り返って、次のように書いています。

1コリント2:1~5
兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。

 アテネからコリントへ行った時のパウロの言葉です。アテネでの伝道、私にすれば、素晴らしい説教と伝道活動だと思いました。ユダヤ教の影響を受けていないアテネの町の人々に、人々の思いに沿った伝道活動でした。本当に大切な伝道方法です。しかし、パウロ自身は、アテネでの伝道の結果を「わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」といっています。アテネの町はギリシャ哲学が盛んでした。また、いろいろな偶像が多くあって、信心深いところもあったのです。パウロなりに、アテネの人々のギリシャ哲学のことを思い、いろいろな知識を用いて説教していきました。その結果として、パウロの悩みは深いものとなっていったようです。アテネでの伝道、パウロにしてみれば、自分の知恵を最大限使っての伝道だったのでしょう。それを、パウロは反省して、福音を語る時、優れた言葉や知恵を用いない、ただイエス・キリスト、それも十字架につけられたイエス・キリスト以外、何も知るまいと心に決めたとまでいっています。

 しかし、パウロにとってアテネでの経験は、よい方向へと導かれる大きなきっかけとなっていきます。イエス・キリストの福音を伝えること、それは人間の知恵によらず、ただ十字架につけられたイエス・キリストをのみを語ることが、伝道の本質を見い出したのです。このように、伝道旅行での失敗の経験は、次の伝道活動に生かされていくのです。あの伝道者パウロ、本当に素晴らしい活動を行ったパウロ、彼自身も大きな失敗や挫折がありました。そのことを知ると、何かホッとするような思いになってしまいます。そして、コリントでの伝道が始まって行きます。コリントでの伝道の結果として、パウロは2つの手紙を新約聖書にのせることになっています。

 パウロはアテネからコリントに入って行きます。ここで、パウロは1組の夫婦と出会います。アキラとその妻プリスキラです。ローマでのユダヤ人による暴動が起って、クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近、イタリアから来たのです。この夫婦の仕事はテント造りでした。パウロもテント造りで同業者だったということになります。パウロはこの夫婦の家に住み込んで、一緒に仕事をすることができました。パウロは伝道しながら、テント造りの仕事をしていました。同じユダヤ人同士で、仲間が与えられたことはパウロじよってうれしいことです。この夫婦は後もパウロの伝道活動を支えてくれる存在となっていくのです。

 パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシャ人の説得に努めていきます。シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエス様であることを力強く証していきます。しかし、ユダヤ人が反抗し、口汚くののしったので、パウロは服の塵を振り払って、「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く」といっています。パウロの伝道方法は、まず新しい町に行きますと、その町にあるユダヤ人の会堂からはじめていきます。この姿勢は、どの町での変わることがないのです。もちろん、アテネの町のようにユダヤ人の会堂がない場合は、そうではありません。フィリピの町のようにユダヤ人の会堂がない場合でも、ユダヤ人が集まる場所に行って、伝道をはじめていきます。パウロの伝道旅行を見ていくと、その通りになっていき、ユダヤ人に語り、ユダヤ人から迫害を受けることになっていきます。そのような流れから、もうユダヤ人には伝道しない。異邦人だけに伝道していくかといえば、その通りにはなりません。まず、ユダヤ人から伝道していくのです。

 パウロの中には同胞であるユダヤ人に対して、深い思いがあります。そのパウロの思いは次の言葉から分かってきます。

ローマ9:2~4
わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。

 パウロは同胞であるユダヤ人に対して、イエス・キリストの福音を受け入れて欲しいと深く願っていました。どんなに攻撃や迫害されても、その姿勢は変わらないのです。パウロは第2回伝道旅行で、コリントの町に入って行きました。そこでは、アテネでの伝道の結果を受けて、深い傷を負うことになりました。自分の伝道方法に悩みを持ち始めていたのです。また、コリントの町をはじめ、いろいろま町々や村々に入って伝道していきますが、ユダヤ人の激しい抵抗、迫害を経験していきます。ユダヤ人の救いに深い思いを持っているがゆえに、伝道の困難を感じていました。パウロでもどうしていけばいいのか分からない状態にあったのです。あのパウロがそのような伝道のスランプに入っていました。

 そのような時に、ある夜のこと、主は幻の中でパウロに「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」といわれるのです。この主の語りかけは、パウロの大きな勇気を与えることになりました。パウロは、神をあがめるティティオ・ユストという人の家に移りました。彼の家は、ユダヤ人の会堂の隣だったのです。そして、奇跡が起りました。何とユダヤ人会堂の会堂長であるクリスポが、一家をあげて主を信じるようになりました。本当に驚くべきことです。ユダヤ人の反対の中で、その中心人物である会堂長クリスポが一家をあげて主を信じるようになったのです。また、コリントの多くの人々もパウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けたのです。パウロは1年半、コリントに留まって、人々に神の言葉を伝えていきます。このようなコリントでの働きがあって、2つのコリントへの信徒への手紙が生まれているのです。

 パウロのコリントでの伝道活動の様子をみてきました。深い傷を負いながらの活動でした。そして、悩めるパウロに神の言葉がありました。この神の言葉によって、パウロは再び伝道者として立ち上ることができたのです。私たちはパウロのような状況ではありませんが、伝道の困難を感じています。教会員の高齢化、教会会計の減少、若者が教会に来ないなどなどです。そのような私たちに、神は、パウロに語った言葉を今、語ってくださいます。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。この町にはわたしの民が大勢いるからだ」と。さあ、顔をあげて、イエス・キリストの福音を伝えていきましょう。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。パウロの悩みをみました。苦しみをみました。その時に、あなたの言葉を聞きました。パウロは再び立ち上がることができました。私たちも、あなたの言葉を聞いて、立ち上っていくことができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


8月20日の祈祷会の内容です。

2025-08-19 19:48:00 | 日記
祈祷会    サムエル記上17:26~40「戦いの準備をするダビデ」  2025.8.20

 イスラエルの王サウルの時代に、イスラエルはペリシテ人との戦いの中にありました。ペリシテ軍は一方の山に、イスラエル軍は谷を挟んでもう一方の山に陣取りました。ペリシテの陣地から1人の戦士が進み出てきました。その名をゴリアトといいガド出身で、身長は2.8mもあり、しっかりと武装していました。ゴリアテは立ちはだかり、イスラエルの戦列に向かって「今日、わたしはイスラエルの戦列に挑戦する。相手を1人出せ。一騎打ちだ」と呼ばわりました。サウルとイスラエルの全軍は、このペリシテ人ゴリアトの言葉を聞いて恐れおののくのです。イスラエルの側では誰一人、出て行くことはできません。ゴリアトは少年の頃から戦士であり、戦いに慣れていて、絶対に勝つ自信があったのでしょうか。そうでなければ、このような戦いを仕掛ける勇気はないと思います。その絶対的な自信が、ゴリアトの敗北の理由となっていくような気がします。

 そこにダビデが登場するのです。ダビデは、サムエル記上16章で、サムエルを通して油を注がれています。ここでは、サウル王の心の病のために、竪琴の名手として登場して来ます。サウル王が心の病で苦しんでいる時に、ダビデは傍らで竪琴を弾きますと、サウル王は心が安まって気分が良くなっていきます。このようにダビデの役割は、竪琴の名手としての働きでした。この17章では、戦いの勇士として登場して来るのです。ダビデはユダのベツレヘムの出身で、エッサイの息子でした。エッサイには8人の息子たちがいました。上の3人は、この時にペリシテ人との戦いに出ていました。末っ子がダビデだったのです。ダビデは行ったり来たりして、サウルに仕えたり、ベツレヘムの父の羊の世話などをしていました。ある日、エッサイはダビデに、「戦地で戦っている兄たちに、食事をもって行きなさい。そして、兄たちの安否を確かめ、そのしるしをもらって来なさい」と命じました。

 ダビデは翌朝、父が命じたものを担いで出かけました。戦地に着き、兄たちに食料を渡します。そこにペリシテ人ゴリアテが出て来て、一騎打ちを求め、叫びます。イスラエル兵は皆、ゴリアトを見て、後退し、甚だしく恐れています。ダビデは周りにいる兵に「あのペリシテ人を打ち倒し、イスラエルからこの屈辱を取り除く者は、何をしてもらえるのですか。生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は一体何者ですか」と聞いています。ここで兵士は、ゴリアトに挑戦し、戦い、勝利した者には、サウル王から御褒美をもらえるといいました。ダビデにとって問題は、サウル王からの御褒美ではなく、なぜ、神に選ばれたイスラエルが、1人のペリシテ人の前で恐れおののいているのかということです。この時に、ダビデが他の兵と話しているのを見て、長男エリアブは「何をしにここに来たのか。荒れ野にいるあの少しばかりに羊を誰に任せて来たのか。お前の思い上がりと野心はわたしが知っている。お前が来たのは、戦いを見るためだろう」とダビデに腹立てていいます。ダビデは反論して「わたしが今、何をしたというのですか。話をしているだけではありませんか」といいます。ダビデのいったことはサウル王に知られることになります。

 ダビデはサウル王に「あの男のことで、だれも気を落としてはなりません。僕が行って、あのペリシテ人と戦いましょう」といいます。サウル王は「お前が出てあのペリシテ人と戦うことなどできはしまい。お前は少年だし、向こうは少年の時から戦士だ」といって、無理だというのです。少年と大男ゴリアトの戦いでは、勝敗が目に見えている、ダビデの敗北は明白だというのです。人間的な視点で見れば間違いのないことだと考えます。しかし、ダビデはサウル王に「僕は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。その時には、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。わたしは獅子も熊も倒して来たのですから、その無割礼のペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみましょう。生ける神の戦列に挑戦したのですから」と強くいっています。ダビデは更に「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手から、わたしを守ってくださるに違いありません」と強くサウル王にいいます。

 サウルはダビデに「行くがよい。主がお前と共におられるように」といって、戦いに出ることを承知します。サウル王は自分の装束をダビデに着せました。しかし、当然のようにサウルの武具はダビデには合いません。ダビデはサウル王に「こんなものを着たのでは、歩くこともできません。慣れていませんから」と答えて、サウル王の装束を脱ぎ去り、自分の杖を手に取ると、川岸から滑らかな石を5つ選び、身に着けていた羊飼いの投石袋に入れ、石投げ紐を手にして、そのペリシテ人ゴリアトに向かって行きます。いよいよダビデとゴリアトの戦いが始まろうとしていきます。

 ペリシテ人の大男ゴリアトの前に恐れおののくイスラエルの兵士たち、その中で、ダビデだけが恐れることなく、戦いに出て行くことができるのでしょうか。ダビデ自身もいっているように羊飼いとしての経験、獅子や熊との戦いがあり、勝利して来た経験があり、またイスラエル軍が生ける神の戦列と理解していたからでしょうか。ダビデは、羊飼いとして、また竪琴の名手として、神との交わりがあり、神がダビデと共にいてくださり、守り導いてくださっているという経験の中で、ゴリアトの前に出て行くことができたのでしょう。私たちは、このダビデの神への信仰と行動を見て、何を学ぶことができるのでしょう。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。巨大な敵であるゴリアトの前に、少年ダビデは戦いに出て行こうとします。神が共にいてくださり、必ず勝利を与えてくださるという信仰があったのでしょう。私たちもダビデの信仰と行動から、何を学ぶことができるのでしょうか。私たちも大きな困難と試練を前にして、神の導きを信じて歩むことができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                                」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)


8月17日の礼拝の内容です。

2025-08-16 16:28:00 | 日記
8月17日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.352.402.474.27です。
礼拝のオンライン配信は、「瀬戸永泉教会」YouTubeチャンネルから入ってください。

礼拝説教      使徒17:28~34「神の中に生きている」     2025.8.17

 8月13日~16日までは、日本ではお盆でした。日本の大切な仏教行事として毎年、この時期に守られています。お盆は先祖の霊を迎え、供養するのです。先祖が浄土から現世戻って来る期間とされています。このように日本に住んでいるといろいろな宗教の影響を受けていることが分かります。特に、神道や仏教の影響下の中で生きているといってもいいと思います。その中で、キリスト者として生きる意味を考えていきたいと思います。

 使徒言行録を読んでいます。使徒言行録は、イエス・キリストの福音がエルサレムから当時の中心地であったローマにまで伝えられる内容が書かれてあります。今日の聖書の箇所は、パウロの第2回伝道旅行の中のアテネでの伝道の様子が書かれてあります。当時のアテネの町はギリシャ哲学の中心地でした。アリストテレス、ソクラテス、プラトンなど有名な哲学者が生まれました。またエピクロス派やストア派などの学派も誕生しました。その一方で多くの神々もあったのです。その中には名前がついていない神も多くありました。前に、アテネの町を疫病が蔓延し、多くの人々がなくなったということがありました。このようにアテネの町は哲学と宗教の盛んな環境にあったのです。

 そのアテネの町に、パウロは1人で入りました。聖徒言行録ではパウロはアテネの町に入って、至る所で偶像があるのを見て憤慨したと書いています。イエス・キリストの福音を伝える必要性を強く感じたのでしょうか。パウロはアテネのアレオパゴスの真ん中に立って、アテネの町の人々にイエス・キリストの福音を語り始めます。アテネでの説教といわれるものです。それまでのパウロの説教は、ユダヤ人や神をあがめる人々へのものがほとんどでした。ところが、このアテネでは、旧約聖書のことを全く知らない人々が対象となっていて、そこでの説教として非常に注目されています。

 パウロはまず、アテネの人々が多くの神々を信じていること、また神に名がついていないことをあげて、アテネの人々が信仰のあつい方だと認めて、話し始めていきます。多くの神々の祭壇があること、知られざる神と刻まれている祭壇を見つけて、あなたがた知らずに拝んでいるもの、それをお知らせしましょうと始めていきます。ここからパウロは聖書の神をそのまま伝えていきます。神は天地を創造された方であること、この世界とそのすべてを造られた方、神は天地の主だから、人の手で造った神殿には住むことはないこと、人の手によって仕えてもらう必要もないこと、すべての人間の命と息を与えてくださった方、神は1人の人からすべての民族を造り出して、地上の至る所に住まわせ、季節を決め、人々の居住地の境界を決められたということです。このことは人に神を求めさせるためであり、人々が神を探し求めさえすれば、神を見出すことができるということです。パウロはここであるギリシャの詩人の詩を引用して「我らは神の中に生き、動き、存在する」「我らもその子孫である」といっています。

 人々が自分の中を見つめると、神を見い出すことができるといっているのです。そして、ここで私たちは神の子孫であるといっています。私たちはまさしく神から生まれ、神の子、神の子孫です。だから、神である方を、人間が造った金や銀、石などの像と同じものと考えてはいけないというのです。私たち人間は、神によって造られたのです。そのことを人間の罪は、自分を本当に造ってくださった方を忘れてしまっています。そのことが長く続きました。神はこのような無知の時代を、大目に見てくださっていましたということです。しかし、今は、どこにいる人でも皆、悔い改めるようにと、命じているとパウロはいいます。この悔い改めの意味は、悪いことをやめて、良いことをするということではありません。方向転換を意味しています。今まで、人間は自分中心にいきていましたが、本来は、神を中心に生きていくということです。

 パウロは、「神が先に選ばれた1人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです」といっています。神によって選ばれた1人の方というのは、イエス・キリストであることがすぐに分かります。

 私たちの住む世界にはいろいろな宗教があります。身近なところでは、神道や仏教です。私たちの日常生活はそのような宗教の影響を受けて生活しています。その宗教の影響を避けることはできません。この世界にはいろいろな多くの宗教が存在しています。私たちがキリスト教で生きるというのは、それがすべてになってしまいます。キリスト教だけが、この世界にあって唯一の救いなのだということです。神が先に選ばれた1人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからだといいます。聖書によると、神は私たちを造ってくださいました。私たち人間は神に似せて造られたのです。神から特別な存在として創造されたのです。神を愛するために、人間は創造されたといってもいいと思います。しかし、人間はアダムとエバの時代に、神を愛さない道を選びました。神から離れて生きる道を選んだのです。そのことを罪といいます。罪を犯した人間に死が入って来ました。人間は自分の犯した罪によって死ぬことになったのです。そのようなわけで、私たち人間は死ぬ存在となり、誰もが死んでいきます。

 人が死んだらそれで終りと考えてしまいますが、実はそれでは終らないのです。最後の審判というのが待っているのです。それが、イエス・キリストがこの世を正しく裁く日を決められたという意味です。マタイの25章に分かりやすく書いてあります。

マタイ25:31~34,41,46
人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。

 人の子であるイエス・キリストが再臨する時に、この世の終りが来て、最後の審判が行われるのです。この世に生きた1人1人が、イエス・キリストの前に出て、どう生きたかが審判されていくのです。右に分けられた人は神の国へと招かれます。左に分けられた人は、永遠の火、永遠の罰を受けるとあります。最後の審判があることをパウロはここでいっています。すべての人間は罪人であり、右に行くことができる人は誰もいません。すべての人が左に行くことになります。永遠の火、永遠の罰を受けるということです。永遠の火、永遠の罰とはどのような世界なのでしょうか。

 イエス・キリストに選ばれて、右に行くことができる人がいます。それがキリスト者です。私たちは罪人であり、誰一人神の赦しを得ることができません。しかし、イエス・キリストが十字架にかかり、私たちの罪のために死んでくださいました。そして、3日後に復活してくださったのです。このイエス・キリストの十字架による罪の贖い、赦しを信じることによってのみ、私たちは赦されて、右に行くことができ、神の国に入る資格を与えられるのです。イエス・キリストを信じることによって救われるといわれますが、最後の審判の時に罪が赦されて、神の国に入り、永遠の命と復活の命を与えられていくのです。

 神は私たち人間を創造された時、神に似る者として造られたといいました。それは、私たち1人1人に自由意志が与えられているということです。その与えられた自由意志で、私たち自身1人1人の責任がここで求められています。私たちがキリスト教を信じて生きるということは、絶対的なものを持って生きるということです。その上で、いろいろな宗教と共に生きることが求められています。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。私たちはいろいろな宗教の中で生きています。でも、あなたのみを唯一の神を信じて生きています。イエス・キリストを信じることによってのみ救われることを確信して生きることができますように導いてください。また、いろいろな宗教のある中でどのように生きていけばいいのか知恵を与えてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


8月13日の祈祷会の内容です。

2025-08-12 10:11:00 | 日記
祈祷会     サムエル記上17:1~25「ダビデとゴリアト」    2025.8.13

 サムエル記上16章で、ダビデが初めて登場して来ます。神はサウルに変わって新しいイスラエルの王としてダビデを選んだのです。では、サウルはイスラエルの王でなくなるかといえば、そうではなく王のままです。神はサムエルを通して、ダビデに王としての油を注ぎますが、まだイスラエルの王とにはなっていません。ダビデがイスラエルの王となるのは、サウルが戦死し、サムエル記下になってからです。16章でのダビデの役割は、神の霊がサウルから離れて、サウルが心の病となってしまいました。いろいろな悪夢を見るようになっていくのです。サウルの苦しみの中で、ダビデは竪琴の名手として登場して来るのです。サウル王が悪夢で苦しむ、その時にダビデはサウル王の傍らで竪琴を引きながら、癒しを与えるというものです。サウルが苦しむ時、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が安まって気分が良くなることができました。

・17:1~3、イスラエルとペリシテの戦い
 ペリシテ人がイスラエルとの戦いに備えて、軍隊を招集します。一方、サウルとイスラエルも兵を集結し、エラの谷で陣を敷き、戦いに備えます。ペリシテ軍は一方の山に、イスラエル軍は谷を挟んでもう一方の山に陣取りました。

・17:4~11、ペリシテ人ゴリアトの登場
 ペリシテ軍の陣地から1人の戦士が進み出て来ます。その名をゴリアトといい、ガド出身で、背丈は6アンマ半(約2.8m)でした。頭に青銅の兜をかぶり、身には青銅のうろこのあるとじの鎧を着、足には青銅のすね当てを着け、肩には青銅の投げ槍を背負っていました。槍の柄には機織りの巻き棒のように太く、穂先は鉄でできていました。ゴリアトの前には盾持ちがいたのです。ゴリアトは立ちはだかり、イスラエルの戦列に向かって呼ばわって「どうしてお前たちは、戦列を整えて出て来るのか。わたしはペリシテ人、お前たちはサウルの家臣、1人選んで、わたしの方へ下りて来させよ。その者にわたしと戦う力があって、もしわたしを討ち取るようなことがあれば、我々はお前たちの奴隷となろう。だが、わたしが勝ってその者を討ち取ったら、お前たちが奴隷となって我々に仕えるのだ」といいます。更に、ゴリアトは続けて「今日、わたしはイスラエルの戦列に挑戦する。相手を1人出せ。一騎打ちだ」と叫びます。ゴリアテの声を聞いたサウルとイスラエルの全軍は恐れおののくのです。

・17:12~25、ダビデの登場
 ダビデは、ユダのベツレヘムの出身で、エッサイの息子でした。エッサイには8人の息子がいました。エッサイはサウルの時代、人々の間で長老だったということです。エッサイの3人の息子たちも戦いに出ていました。長男エリアブ、次男アビナダブ、三男シュンマです。ダビデは末っ子でした。このダビデは行ったり来たりして、サウルに仕えたり、ベツレヘムで父の羊の世話などをしていました。さて、エッサイはダビデに「兄さんたちに、この炒り麦1エファと、このパン10個を届けなさい。陣営に急いで行って兄さんたちに渡しなさい。このチーズ10個は千人隊長に渡しなさい。兄さんたちの安否を確かめ、そのしるしをもらって来なさい」といいます。

 サウルとイスラエルの兵は皆、ペリシテ軍とエラの谷で戦っていました。ダビデは父の命令を聞いて、翌朝早く起き、羊の群れを番人に任せ、父が命じたものを担いで出かけました。ダビデが陣営に着くと、兵は鬨の声をあげて、戦線に出るところでした。イスラエル軍とペリシテ軍は、向かい合って戦列を敷いていました。ダビデは持参した物を武具の番人に託すと、戦列の方に走って行き、兄たちの安否を尋ねるのです。ダビデが兄たちと話している時に、ペリシテ人のゴリアトがペリシテ軍の戦列から出て来て、いつも言葉を叫びました。この声をダビデは聞いたのです。イスラエルの兵は皆、ゴリアトを見て後退し、甚だしく恐れるのです。

 イスラエルの兵は「あの出て来た男を見たか。彼が出て来るのはイスラエルに挑戦するためだ。彼を討ち取る者があれば、王様は大金を賜るそうだ。しかも、王女をくださり、更にその父の家にはイスラエルにおいて特典を与えてくださるということだ」といいます。ダビデは周りに立っている兵に「あのペリシテ人を打ち倒し、イスラエルからこの屈辱を取り除く者は、何をしてもらえるのですか。生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は一体何者ですか」と聞きます。

 まもなくダビデは、ペリシテ人ゴリアトとの1対1の戦いに出て行きます。相手は巨人で戦いの勇者です。一方でダビデはまだ少年でした。人間的な視点では、この戦いはまったく無謀な戦いになります。圧倒的にダビデが不利なことは、誰の目にも明らかでした。それを分かってもダビデは戦いに出て行こうとします。ダビデはゴリアトとの戦いの前に、何を確認して出て行くことができたのでしょうか。自分の命がかかっているのです。恐れることはなかったのでしょうか。

 私たちの人生にも、このような大きな試練と向き合うことが起って来ます。その時に、どう立ち向かうことができるのでしょうか。このダビデのように、大胆に出て行くことができるようになるためには、何が私たちには必要なことでしょうか。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。大きな敵を前にしてダビデは、恐れることなく戦いに出て行こうとします。大きな壁に、私たちは人生の中で出会います。その時に、私たちはその大きな壁に恐れて、ひるんでしまいます。その大きな壁を避けていこうとします。でも、また新しい大きな壁と出会うことになります。大きな壁とどう向き合い、克服していけばいいのかを神の知恵を教えてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                              」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)