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8月21日の祈祷会の内容です。

2024-08-20 12:20:00 | 日記
祈祷会       士師記8:18~35「ギデオンの晩年」    2024.8.21

 士師記6~8章にかけて士師ギデオンのことが書かれてあります。そもそもイスラエルの人々が、神の目に悪とされることを行ったから、神は怒り、イスラエルの人々を7年間、ミディアン人の手に渡されたのです。イスラエルの人々はミディアン人からの苦しみを受けて、神に助けを求めてました。神はイスラエルの人々の叫びに応えて、士師ギデオンを送ったのです。最初に出て来るギデオンは、ミディアン人に奪われるのを恐れて、酒ふねの中で小麦を打っていました。精神的に弱い部分を見せていました。そのようなギデオンですが、ミディアン人と戦うために、300人の勇士と共に戦う、勝利するなど勇気を持っていきました。後から戦いに参加して不満を持ったエフライムの人たちには、相手の言い分を立てる仕方で対応するなど指導者として優れた面を持つようになりました。食糧の援助を断ったスコトの人々とペヌエルの人々には強い態度で出ていきました。いろいろな面で成長し、神への信仰者としてのギデオンの姿を見ることができます。

 ギデオンはミディアン人の2人の王であるゼパとツァルムナに対して、逃亡している所を捕らえました。ギデオンは2人にタボルであった自分の身内が殺されたことをいい、2人の王を殺すことを決めます。最初は、長男イエテルに殺すようにいうのですが、彼は恐れてすることができず、ギデオン自身が2人の王を殺しました。この時に、2人の王のらくだの首にかけてあった三日月形の飾りを取っています。これが、ギデオンの罪となっていきます。

 イスラエルの人々は、ギデオンに「ミディアン人の手から我々を救ってくださったのはあなたですから、あなたはもとより、御子息が我々を治めてください」といいます。これは、ギデオンにイスラエルの王になって欲しいということです。イスラエルの王が誕生するのはもっと後のことですが、この時にはすでに王を求める心がイスラエルの人々の中にあったことが分かります。ここでギデオンは「私はあなたたちを治めない。息子もあなたたちを治めない。神があなたたちを治めされる」といって、拒否します。このギデオンの対応は神への信仰ということから素晴らしい対応ということができます。ここまではギデオンの神への信仰の素晴らしさを見ることができますが、この後、ギデオンの晩年、悲しい結果となっていきます。

 ギデオンはミディアン人の2人の王かららくだの首にかけてあった三日月形の飾りを取っていました。ギデオンはイスラエルの人々に「あなたたちにお願いしたいことがある。各自戦利品として手に入れた耳輪を私に渡して欲しい」と願うのです。敵は金の耳輪をしていたそうです。イスラエルの人々は「喜んで差し上げます」と答え、衣を広げて、そこに各自戦利品の耳輪を投げ入れました。耳輪の目方は金1700シェケルだったそうです。約20キロです。その他に三日月形の飾り、垂れ幕、王たちがまとっていた紫布の衣服などです。ギデオンはそれらの金でエフォド(大祭司が身に着ける物の1つ)を作り、自分の町オフラに置きました。これは何を意味するかというと、ギデオンはイスラエルの王のなることは否定しましたが、祭司になることを願ったと思います。自分自身が神に仕える祭司になり、自分の栄光を持ちたかったのでしょう。これは、神の意志に反することでした。ここで神の罰は出ていませんが、すべてのイスラエルの人々がギデオン自身を神とあがめるようになり、罪を犯すようになりました。人々は姦淫にふけるようになり、ギデオンとその一族にとって罠となっていくのです。ミディアン人はイスラエルの人々によって、征服されたので、もはや頭をもたげることができず、ギデオンの時代40年に渡って、イスラエルは平穏であったとあります。

 それでも、ギデオンの晩年は、神への信仰とは遠いものとなっていきます。ギデオンには多くの妻がいて、息子が70人を数えました。シケムにいた側女も1人の子を産みアビメレクと名付けました。やがて、ギデオンは長寿を全うして死にました。ギデオンが死ぬと、イスラエルの人々はまたもバアルに従って姦淫して、バアル・ベリトを自分たちの神としました。イスラエルの人々は、周囲のあらゆる敵の手から救ってくださった神を心に留めることがなくなりました。イスラエルのために尽くしたギデオンのすべての功績にふさわしい誠意を示すこともしなかったのです。

 ギデオンと300人の勇士が命をかけてミディアン人と戦ったことは、どのような意味があったのでしょうか。ギデオン自身も、神への信仰を持ちながら、自らが祭司としてふるまうことを願いました。多くの妻を持ち、そこからギデオン自身とその子どもたちに悲劇が及ぶようになっていきます。イスラエルの人々は、再び神への信仰はなくなり、簡単にバアルを信じていくようになっていく、このイスラエルの人々の罪の重さを深く感じるのです。どうして、イスラエルの人々は、どんなにひどい目にあっても、神への信仰を捨て、バアルへの信仰を持つようになっていくのでしょうか。人間としての罪の深さを、イスラエルの人々は私たちに教えてくれます。それでも、神へイスラエルの人々と共に歩んでくださるのです。

祈り 神よ。聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。ギデオンの晩年について見てきました。信仰者ギデオンが、金を集め、大祭司の身に着けるエフォドを作りました。神への思いから、自分の思いが強くなっていきました。多くの妻を持ち、70人の子どもたちがいて、そこで多くの問題が生じて来ます。ギデオンが死んで、イスラエルの人々はまたバアルの神を信じるようになってしまします。人間の弱さを感じます。そのようなイスラエルの人々に対して、神は離れることはなく、共に歩んでくださいます。私たちも神への信仰を強く持って歩むことができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                              」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志))


8月18日の礼拝の内容です。

2024-08-17 12:57:00 | 日記
8月18日の礼拝の内容です。讃美歌は、197.361.433.470.27です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/E-qEt9vBMDE?feature=shareです。

礼拝説教      使徒10:44~48「聖霊を受けた人たち」    2024.8.18

 8月の第3日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から神に感謝したいと思います。この礼拝を通して、私たちの1週間の歩みが豊かなものとなりますように願います。

 先週の木曜日は、8月15日でした。79年前にあった終戦記念日でした。8月は平和について、戦争のついて考える時です。79年という年月は流れましたが、新たな思いで、戦争の悲惨さと平和の大切さを受け止める時としたいと願います。同じような悲劇が繰り返すことがないようにと心から祈るのです。

 使徒言行録を読んでいます。使徒言行録は初めての教会の様子を描いています。使徒10章からは、大きな転換をもたらしています。それは、イエス・キリストの福音がそれまではユダヤ人だけに与えられていたのが、ここからはユダヤ人以外の異邦人、つまりすべての人々に与えられていくのです。最初の人は、コルネリウスという人でした。使徒言行録の中心は、イエス様の弟子たちではなく、聖霊です。神によって送られた聖霊はいろいろな働きをしていきます。使徒10章から異邦人に、イエス・キリストの福音が伝わって行くといいましたが、その流れは聖霊が天使を送って進めていくのです。

 まず、天使はコルネリウスに語りかけました。「コルネリウス、あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられている。今、あなたは、ペトロをあなたの家に招きなさい」といいます。天使の言葉を受けて、コルネリウスは、3人をペトロのいる家に送りました。次に、天使はペトロに働きかけます。ペトロが家の屋上で、祈り時をしている時に幻を見せるのです。天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅に吊るされて、地上に下りて来るのを見るのです。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていました。そして、天使はペトロに「ペトロよ、身を起し、屠って食べなさい」といいます。ペトロは「主よ、とんでもないことです。清くないもの、汚れたものは何一つ食べたことがありません」と答えます。天使は「神が清めたものを、清くないなどと、あなたはいってはならない」といいます。そのようなことが3度も起るのでした。ペトロは今見た幻をついて1人で思案に暮れていると、コルネリウスから送られた3人が、ペトロの家に着きました。ペトロに天使は「3人があなたを探しに来ている。立って下に行き、ためらわないで、一緒に出発しなさい」といいます。ペトロはその3人を、家に招き入れて、泊まらせ、次の日に、その人たちと共に出発します。コルネリウスの家に向かって行きます。

 コルネリスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていました。ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝みました。ペトロはコルネリウスを起して、「お立ちください。私もただの人間です。」と答えます。ペトロはコルネリウスとその関係者に「あなた方も知っている通り、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問することは、律法で禁じられています。けれども神は私に、どんな人をも清くないものとか、汚れているものとかいってならないと、お示しになりました。それでお招きを受けたので、すぐに来たのです」と答えます。コルネリウスは、自分が天使に導かれたことを話してから、「よくおいでくださいました。今私たちは皆、神があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです」と答えます。

 ペトロはコルネリウスに「神が人を分け隔てないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れれるのです。イエス・キリスト、この方こそ、すべての人の主です。平和を告げ知らせて、ユダヤ人に送ってくださった御言葉を、あなた方はご存じでしょう。神は聖霊と力によって、イエス・キリストに油を注がれました。イエス様は方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべて癒されたのです。神がいつも御一緒だったからです。しかし、エルサレムで人々は、イエス様を十字架にかけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエス様を、3日目に復活させ、人々に現わしてくださいました。しかし、それはユダヤ人全体ではなく、神によって選ばれた証人、イエス様が死者の中から復活した後、御一緒に食事をした私たちに対してです。イエス様は、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、人々に宣べ伝え、力強く証しするようにと、私たちにお命じになりました。また預言者も皆、イエス様について、この方を信じる者は誰でもその名によって罪に赦しが与えられる、と証しています」と告げます。

 そして、今日の聖書の箇所です。ペトロがこれらの言葉をなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降ったのです。使徒2:1~4で起ったペンテコステの出来事が、まさにここで同じように起っているのです。割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれているのを見て、大いに驚いています。異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからです。そこでペトロは「私たちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったい誰が妨げることができましょうか」といいます。そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じています。それからコルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願っています。

 聖霊の働きによって、イエス・キリストの福音がユダヤ人から、異邦人に伝えられていくことができていきました。これから本格的な異邦人伝道が始まっていくのですが、これから教会は大きな壁と向き合うことになります。それはユダヤ人キリスト者の壁です。使徒11章の初めを見ますと、ペトロがエルサレムに戻って、異邦人がイエス・キリストの福音を受け入れ、聖霊が降ったことを話します。この時に、割礼を受けていた者たちはペトロを批判して、「あなたは割礼を受けていない者たちの所へ行き、一緒に食事をした」といいます。ペトロがコルネリウスに最初に出会った時に、「ユダヤ人は外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは律法で禁じられています」と説明していることが、ここで問題となっていくのです。ここでペトロは天使を通して、自分の身に起ったことを丁寧に説明して行きます。それで、一時的には了解してもらったかもしれません。やがて、アンティオキア教会を拠点として、バルナバとパウロによる第1回伝道旅行が始まります。異邦人伝道が本格化していくことになります。

 この第1回伝道旅行を通して、多くの異邦人が福音を受け入れていくことになります。異邦人伝道が進んで行く中で、ユダヤ人キリスト者の中で、問題が本格化していきます。使徒15章には、初めてのエルサレム会議が行われます。ここで、異邦人伝道のために必要な話し合いが持たれます。あるユダヤ人キリスト者がやって来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなた方は救われない」と教えていました。つまり、イエス・キリストの福音に預かるためには、信仰だけではなく、割礼を受けて、律法を守らなければならないということです。バルナバやパウロとその人たちの間で、激しい意見の対立と論争が生まれてしまいました。ペトロはその議論の中で「神は聖霊を与えてくださり、私たちがイエス・キリストの福音に預かることができるようにしてくださいました。それを、今度は異邦人にもイエス・キリストの福音に預かることができるようにしてくださったのです。私たちが守ることができなかった律法を守るようにいうのですか。私たちはイエス・キリストの恵みによってのみ救われると信じているのです。これは異邦人も同じことです」といいました。そして、エルサレム教会の指導者であったヤコブは「わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはいけません。偶像に備えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞殺した動物の肉と血を避けるようにとしましょう」と結論づけました。

 これは当時の教会の問題を解決するために必要な内容だったのでしょう。このような内容は、今はなく、イエス・キリストの信仰のみが大切なこととされています。神は私たちの罪の赦しをずっと前から計画されていました。ユダヤ人を通して、罪とは何か。罪を贖うために何が必要か。そして、神のイエス・キリストの十字架の死と復活です。このイエス・キリストの十字架の死と復活を信じることによってのみ、救われるです。救われるということは、最後の審判の時に、裁き主であるキリストから、あなたの罪は私が十字架で赦した。だから、あなたは神の祝福に入り、永遠の命が与えられるということです。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。ペトロによって、コルネリウスらの伝道が進んでいきました。彼らはペトロから洗礼を受けて、教会に加わっていきました。やがて、異邦人教会が誕生していくのでしょう。教会は、その後、いろいろな困難にあいますが、聖霊の助けによって、すべての人々への伝道が進んでいきます。その伝道の流れは止まることはありません。今も、教会を通して、イエス・キリストの福音が語られ、信じる者が起こされていくのです。感謝です。この感謝を、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


8月18日の礼拝の内容です。

2024-08-17 12:52:05 | 日記
8月18日の礼拝の内容です。讃美歌は、197.361.433.470.27です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/E-qEt9vBMDE?feature=shareです。

礼拝説教      使徒10:44~48「聖霊を受けた人たち」    2024.8.18

 8月の第3日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から神に感謝したいと思います。この礼拝を通して、私たちの1週間の歩みが豊かなものとなりますように願います。

 先週の木曜日は、8月15日でした。79年前にあった終戦記念日でした。8月は平和について、戦争のついて考える時です。79年という年月は流れましたが、新たな思いで、戦争の悲惨さと平和の大切さを受け止める時としたいと願います。同じような悲劇が繰り返すことがないようにと心から祈るのです。

 使徒言行録を読んでいます。使徒言行録は初めての教会の様子を描いています。使徒10章からは、大きな転換をもたらしています。それは、イエス・キリストの福音がそれまではユダヤ人だけに与えられていたのが、ここからはユダヤ人以外の異邦人、つまりすべての人々に与えられていくのです。最初の人は、コルネリウスという人でした。使徒言行録の中心は、イエス様の弟子たちではなく、聖霊です。神によって送られた聖霊はいろいろな働きをしていきます。使徒10章から異邦人に、イエス・キリストの福音が伝わって行くといいましたが、その流れは聖霊が天使を送って進めていくのです。

 まず、天使はコルネリウスに語りかけました。「コルネリウス、あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられている。今、あなたは、ペトロをあなたの家に招きなさい」といいます。天使の言葉を受けて、コルネリウスは、3人をペトロのいる家に送りました。次に、天使はペトロに働きかけます。ペトロが家の屋上で、祈り時をしている時に幻を見せるのです。天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅に吊るされて、地上に下りて来るのを見るのです。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていました。そして、天使はペトロに「ペトロよ、身を起し、屠って食べなさい」といいます。ペトロは「主よ、とんでもないことです。清くないもの、汚れたものは何一つ食べたことがありません」と答えます。天使は「神が清めたものを、清くないなどと、あなたはいってはならない」といいます。そのようなことが3度も起るのでした。ペトロは今見た幻をついて1人で思案に暮れていると、コルネリウスから送られた3人が、ペトロの家に着きました。ペトロに天使は「3人があなたを探しに来ている。立って下に行き、ためらわないで、一緒に出発しなさい」といいます。ペトロはその3人を、家に招き入れて、泊まらせ、次の日に、その人たちと共に出発します。コルネリウスの家に向かって行きます。

 コルネリスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていました。ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝みました。ペトロはコルネリウスを起して、「お立ちください。私もただの人間です。」と答えます。ペトロはコルネリウスとその関係者に「あなた方も知っている通り、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問することは、律法で禁じられています。けれども神は私に、どんな人をも清くないものとか、汚れているものとかいってならないと、お示しになりました。それでお招きを受けたので、すぐに来たのです」と答えます。コルネリウスは、自分が天使に導かれたことを話してから、「よくおいでくださいました。今私たちは皆、神があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです」と答えます。

 ペトロはコルネリウスに「神が人を分け隔てないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れれるのです。イエス・キリスト、この方こそ、すべての人の主です。平和を告げ知らせて、ユダヤ人に送ってくださった御言葉を、あなた方はご存じでしょう。神は聖霊と力によって、イエス・キリストに油を注がれました。イエス様は方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべて癒されたのです。神がいつも御一緒だったからです。しかし、エルサレムで人々は、イエス様を十字架にかけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエス様を、3日目に復活させ、人々に現わしてくださいました。しかし、それはユダヤ人全体ではなく、神によって選ばれた証人、イエス様が死者の中から復活した後、御一緒に食事をした私たちに対してです。イエス様は、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、人々に宣べ伝え、力強く証しするようにと、私たちにお命じになりました。また預言者も皆、イエス様について、この方を信じる者は誰でもその名によって罪に赦しが与えられる、と証しています」と告げます。

 そして、今日の聖書の箇所です。ペトロがこれらの言葉をなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降ったのです。使徒2:1~4で起ったペンテコステの出来事が、まさにここで同じように起っているのです。割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれているのを見て、大いに驚いています。異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからです。そこでペトロは「私たちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったい誰が妨げることができましょうか」といいます。そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じています。それからコルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願っています。

 聖霊の働きによって、イエス・キリストの福音がユダヤ人から、異邦人に伝えられていくことができていきました。これから本格的な異邦人伝道が始まっていくのですが、これから教会は大きな壁と向き合うことになります。それはユダヤ人キリスト者の壁です。使徒11章の初めを見ますと、ペトロがエルサレムに戻って、異邦人がイエス・キリストの福音を受け入れ、聖霊が降ったことを話します。この時に、割礼を受けていた者たちはペトロを批判して、「あなたは割礼を受けていない者たちの所へ行き、一緒に食事をした」といいます。ペトロがコルネリウスに最初に出会った時に、「ユダヤ人は外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは律法で禁じられています」と説明していることが、ここで問題となっていくのです。ここでペトロは天使を通して、自分の身に起ったことを丁寧に説明して行きます。それで、一時的には了解してもらったかもしれません。やがて、アンティオキア教会を拠点として、バルナバとパウロによる第1回伝道旅行が始まります。異邦人伝道が本格化していくことになります。

 この第1回伝道旅行を通して、多くの異邦人が福音を受け入れていくことになります。異邦人伝道が進んで行く中で、ユダヤ人キリスト者の中で、問題が本格化していきます。使徒15章には、初めてのエルサレム会議が行われます。ここで、異邦人伝道のために必要な話し合いが持たれます。あるユダヤ人キリスト者がやって来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなた方は救われない」と教えていました。つまり、イエス・キリストの福音に預かるためには、信仰だけではなく、割礼を受けて、律法を守らなければならないということです。バルナバやパウロとその人たちの間で、激しい意見の対立と論争が生まれてしまいました。ペトロはその議論の中で「神は聖霊を与えてくださり、私たちがイエス・キリストの福音に預かることができるようにしてくださいました。それを、今度は異邦人にもイエス・キリストの福音に預かることができるようにしてくださったのです。私たちが守ることができなかった律法を守るようにいうのですか。私たちはイエス・キリストの恵みによってのみ救われると信じているのです。これは異邦人も同じことです」といいました。そして、エルサレム教会の指導者であったヤコブは「わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはいけません。偶像に備えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞殺した動物の肉と血を避けるようにとしましょう」と結論づけました。

 これは当時の教会の問題を解決するために必要な内容だったのでしょう。このような内容は、今はなく、イエス・キリストの信仰のみが大切なこととされています。神は私たちの罪の赦しをずっと前から計画されていました。ユダヤ人を通して、罪とは何か。罪を贖うために何が必要か。そして、神のイエス・キリストの十字架の死と復活です。このイエス・キリストの十字架の死と復活を信じることによってのみ、救われるです。救われるということは、最後の審判の時に、裁き主であるキリストから、あなたの罪は私が十字架で赦した。だから、あなたは神の祝福に入り、永遠の命が与えられるということです。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。ペトロによって、コルネリウスらの伝道が進んでいきました。彼らはペトロから洗礼を受けて、教会に加わっていきました。やがて、異邦人教会が誕生していくのでしょう。教会は、その後、いろいろな困難にあいますが、聖霊の助けによって、すべての人々への伝道が進んでいきます。その伝道の流れは止まることはありません。今も、教会を通して、イエス・キリストの福音が語られ、信じる者が起こされていくのです。感謝です。この感謝を、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


8月14日の祈祷会の内容です。

2024-08-13 19:55:00 | 日記
祈祷会        士師記8:1~17「ギデオンの働き」    2024.8.14

 イスラエルの人々が神に対して悪を行ったために、神は敵であるミディアン人を送りました。神に対して悪を行うということは、先住民と交わることと、先住民の拝む神々を礼拝することでした。ミディアン人はイスラエルの人々を苦しめます。そのミディアン人の苦しみを受けたイスラエルの人々は、神に対して苦しみ、助けを叫び求めるのです。そのイスラエルの人々の叫びを聞いた神は、士師としてギデオンを送るのでした。士師としてギデオンは、ミディアン人と戦うことになります。

 敵のミディアン人は総勢13万5千人の兵士がいました。ギデオンのもとには3万2千人の兵士が集まりました。神は兵士の数が多いといい、結果的に300人の兵士と戦うことになります。実際の戦いとなっていきます。まともに行けば勝利することは困難です。ここで奇襲攻撃を行うのです。ギデオンは300人の兵士を3つの部隊に分けます。それぞれに角笛と空の水がめとその水がめの中には松明を入れたのです。ギデオンと3隊に分かれた300人の兵士がそれぞれの配置につきました。深夜の更の初めに敵陣の端に着いた時に、角笛を吹き、持っていた水がめを砕きました。3つの隊はそろって角笛を吹き、水がめを割って、松明を左手にかざし、右手で角笛を吹き続け、「主のために、ギデオンのために剣を」と叫びました。各自持ち場を守り、敵陣を包囲したので、敵の陣営は至る所で総立ちになり、叫び声をあげて敗走していきます。300人が角笛を吹くと、主は、敵の陣営の至る所で、同士討ちを起され、その軍勢は逃走していきます。このようにして、ギデオンと300人の兵士は、敵のミディアン人に勝利をすることができていきます。

 ここで完全な勝利というのではなくて、敗走するミディアン人を、イスラエル人の中で、ナフタリ、アシェル、全マナセから集まり、追撃しました。ギデオンは使者をエフライム山地の至る所に送って、「下って来て、ミディアン人を迎え撃ち、ヨルダン川を占領せよ」といいました。エフライム人は皆集まって、その通りにしました。エフライム人はミディアン人の2人の将軍、オレブとゼエブを見つけて殺しました。ここで、エフライム人はギデオンに対して不満をいいます。「あなたはミディアンとの戦いに行く時、私たちを呼ばなかったが、それはどういうことか」と、いいます。ギデオンはエフライム人の不満を受け止めて、私たちの働きよりも、あなたたちの働きが大きい、それは、ミディアン人の2人の将軍を打ち取ったからだといいました。ギデオンはそのようにいったので、エフライム人の憤りは和らぎました。ここで、ギデオンはエフライム人と争うことは望まず、和解することの望み、その通りに行動して行きました。考えてみれば、ギデオンは敵と戦うことと同じイスラエル人と戦うことも想定していたと思われます。

 ギデオンはヨルダン川に着きました。ギデオンの率いる300人と共にヨルダン川を渡りました。疲れ切っていたましたが、なおもミディアン人を追撃していました。ヨルダン川を渡るとガドの人々の地になります。すぐにスコトの町があります。ギデオンはスコトの町の人々に「わたしたちにパンを恵んでいただきたい。300人は疲れ切っている。私はミディアンの王ゼパとツァルムナを追っているところだ」といいました。しかし、スコトの指導者たちは、「私たちがあなたの軍隊にパンを与えなければならないというからには、ゼパとツァルムナの手首をすでに捕えているのか」というのです。ギデオンは「そうか。それなら主が2人の王を私の手にお渡しになる時に、私はお前たちのその身を荒れ野の茨ととげで打ちのめす」警告しました。ギデオンはそこからペヌエルに上って、パンを求めました。ペヌエルの人々もスコトの人々と同じような答えをしました。そこでギデオンはペヌエルの人々に「私が無事に帰って来たなら、この塔を倒す」と答えるのです。ギデオンとその300人が命をかけて、ミディアン人と戦っているのに、全く、援助する気がないということです。同じイスラエル人ですが、このようなことも起ってしまうことをギデオンは悲しく思ったことでしょう。

 ミディアン人の2人の王ゼパとツァルムナは、約1万5千人の軍勢を率いてカルコルにいました。敗残兵でした。すでに剣を携えた兵士12万人が戦死していたのです。ミディアン人は安心して、カルコルにいたとあります。遠い地だから、ここまではギデオンも追って来ないと考えていたのでしょうか。ギデオンは敵の陣営を攻撃しました。2人の王は、一度は逃げましたが、ギデオンたちはその後を追いかけ、捕えました。こうして、ギデオンは戦いから帰って来ました。ギデオンはスコトの人々の中から1人の若者を捕らえて尋問し、スコトの指導者と、長老77人の名を書かせました。ギデオンはスコトの人々の所に行って「あなたたちは、かつて私たちを嘲笑い、私たちがあなたの疲れ切った兵士たちにパンを与えなければならないというからには、2人の王の手首をすでに捕えているのかといったが、見るがよい、これが2人の王だ。」といいました。ギデオンは町の長老たちを捕らえ、荒れ野の茨ととげをもって、スコトの町の人々に思い知らせました。また、ペヌエルの塔を倒し、町の人々を殺していくのです。

 ギデオンの戦いを見る時に、苦難に満ちたものだと思います。ミディアン人13万5千人の敵と戦う時に、味方300人で戦うことになりました。一度、勝利しても、戦いは続き、敗残兵を追撃して行きます。その時に、エフライム人はギデオンを激しく責めます。また、スコトの人々とペヌエルの人々は、ギデオンと300人の兵士がパンを求めることを拒否されてしまうのです。ギデオンはエフライム人には融和を持って対応しますが、スコトの人々とペヌエルの人々には強硬な姿勢で臨みました。いろいろな思い、またはいろいろな困難があっても、それを乗り越えて、士師としてギデオンはここまでやって来ました。ギデオンの士師としての振る舞いには頭が下がります。ずっとここのままの姿勢であって欲しいと願いますが、人間は難しいものです。その後のギデオンはどのようになっていくのでしょうか。

祈り 神よ。聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございました。ギデオンの働きをみてきました。素晴らしい働きだったと思います。神を信じて、従っていく。どのような困難があっても、神を信頼して、前進していきます。そのようなギデオンの歩みをみて、私たちも習い、そのような神への信頼を持って歩むことができるように守り導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                                」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)


8月11日の礼拝の内容です。

2024-08-10 20:24:00 | 日記
8月11日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.194.394.436.88です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/10Ix8XhqV_k?feature=shareです。

礼拝説教     使徒10:39~43「罪の赦しが与えられる」    2024.8.11

 使徒10:43「また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証しています。」となっています。イエス様の名前を信じる者はだれでも、イエス様の名によって罪の赦しが受けられることについて、今日は考えていきたいと思います。

 使徒言行録10章からは、新しい展開になっています。イエス・キリストの福音がユダヤ人から異邦人に伝わっていくことが書かれてあります。実際には、ペトロからコルネリウスへです。聖書の初めには、神の天地創造のことがあり、人間全体のことが書かれてありますが、創世記12章からは、アブラハムのこと、ユダヤ人のことが書かれてあります。神はユダヤ人を選んで、神の救いを実現していくことを計画されていきます。

 神に造られた人間は、神の前に生きる時に、どう生きたかが問われているのです。人類最初の人アダムとエバによって、人間は罪を犯してしまいました。その罪ついて、旧約聖書は丁寧に書いています。神の教えを守ること、十戒を始めとする律法、ユダヤ人には神の民として、神の律法を守ることが求められていました。しかし、実際にはユダヤ人は神の律法を守ることができないのです。そのために、ユダヤ人はその罪を神の前でいかに償うことができるかが、書かれてあります。それは、人間の罪を動物に委ねるのです。動物、特に家畜は神へのささげものとしてささげられます。実際には、家畜は殺されて、血が流され、肉が焼かれて神へのささげものとなっていきます。ユダヤ人は、自分たちの罪を家畜に委ねて、家畜がユダヤ人に代わって、罪の裁きを受けることになります。そのようにして、罪の赦しが行われるのです。そのような罪の贖いのことが何度も行われるです。

 そして、新約聖書のイエス・キリストになっていきます。イエス・キリストは神の子として地上に、私たち人間の世界にやって来られました。神の子でありながら、神の子の身分を捨てて、私たちと同じ人間となってくださったのです。罪は犯しませんでしたが、私たちの味わう苦しみと悲しみと悩みをすべて経験してくださいました。そして、最後はエルサレムで、十字架について死んでくださったのです。この神の子イエス・キリストの十字架の死は、私たちすべての人間の罪の赦し、罪の贖いとなっていきます。かつて、ユダヤ人が自分たちの罪を、飼っている家畜に罪を負わせたように、私たちは自分たちの罪をすべて、イエス・キリストに負わせたのです。そして、十字架につけて殺してしまいました。神の子を十字架につけることは大きな罪となっていきます。

 しかし、私たちの罪が神の子イエス・キリストを十字架にかけて殺してしまったこと、それが神によって、私たちの罪の赦しということにつながっていくのです。これこそが、イエス・キリストを通じての神からの福音ということになります。私たちの罪が、私たち自身への罪の赦しとなっていくのです。これが神のご計画の中にありました。このような形で、神は私たちの罪を救おうとされているのです。

 ペトロはコルネリウスとその関係者に語ります。「神は人を分け隔てることはありません。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神の受け入れられるのです。神がイエス・キリストによって、この方こそ、すべての人の主です。平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなた方に伝えます。神は聖霊と力によって、イエス・キリストに油を注がれた者としてくださいました。イエス・キリストは方々を歩いて人々を助け、悪魔に苦しまれていた人々をすべて癒されました。神が共にいてくださったからです」と。

 ペトロは、イエス・キリストの働きについて話しています。イエス・キリストは神の言葉を語り、多くの苦しめる人々をその奇跡の力によって癒してくださいました。そして、エルサレムで起ったイエス・キリストの十字架の死について話していきます。ペトロは、「私たちは、イエス・キリストがエルサレムでなさったすべてのことの証人です。人々はイエス・キリストを木にかけて殺してしまいました。しかし、神はこのイエス・キリストを3日目に復活させ、人々の前に現わしてくださいました。しかし、それは民全体ではなく、前もって神の選ばれた証人、つまり、イエス・キリストが死者の中から復活した後、御一緒に食事をした私たちに対してです」といいます。ペトロはコルネリウスに、イエス・キリストの歩みを丁寧に説明し、特に、エルサレムで起ったイエス・キリストの十字架の死を話しています。イエス・キリストの死は、そこにいたすべての人々に知らせました。

 しかし、イエス・キリストは十字架の死から3日目に復活してくださったのです。この時に、復活のイエス・キリストに出会った人々は、すべての人々ではありませんでした。それは、イエス・キリストの弟子たち、復活されたイエス・キリストは、自ら進んで弟子たちにあってくださいました。裏切られても、見捨てられても、出会ってくださいました。ガリラヤ湖畔で、悲しむ弟子たちに、自らの復活の姿で出会ってくださり、一緒に食事もしてくださったのです。ペトロは、御一緒に食事をした私たちに対してですと告白しています。

 それから、イエス・キリストを通しての救いの意味を話していきます。ペトロは、「イエス・キリストはご自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、私たちにお命じになりました」と、話します。

 ここに、イエス・キリストは、生きている者と死んだ者との審判者であるお方であるとペトロがいっています。マタイ25:31~46では、イエス・キリストが再臨する時に、すべての国の人々は、イエス・キリストの前に集まられると書かれてあります。羊飼いが羊と山羊を分かるように、人々も右と左に分かられるといいます。右に分けられた人々は神の祝福が与えられ、左側に分けられた人々は神から呪いを受けるとあります。神の祝福として、永遠の命が与えられ、神の呪いとして、永遠の罰を受けるとなっています。

 聖書には、最後の審判という考えがあります。イエス・キリストが再臨する時に、すべて生きている者と死んだ者は、イエス・キリストのみ前に立たせられる。そこで、生前にどのように生きたのかという最後の審判を受けることになります。人間の罪のために、すべての人々はすべて神の呪いを受けるしかなかったのですが、イエス・キリストが十字架にかかって死んで、3日目に復活してくださったこと、自分の罪を赦して下さったことを信じ、告白し、洗礼を受けることによって、罪が赦された者となって、神の祝福に入ることができるのです。この最後の審判の時に、イエス・キリストの贖いがあることによって、イエス・キリストを信じる者には、神の祝福に預かることができる。つまり、神の祝福として、永遠の命に預かることができる者とされていくのです。そのことをペトロは、コルネリウスに丁寧に語っていきます。

 最後に、ペトロは「また、預言者も皆、イエス・キリストについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが与えられる、と証しています」と、告げています。このイエス・キリストの救いと、キリストの再臨の時に、最後の審判のことを、コルネリウスに告げるのです。今まで、ユダヤ人だけに語られていたことが、ここで初めて、異邦人にも語られているのです。神の救いとは、本当は厳しい内容だと私は思います。神によって造られた私たち1人1人は、その神によって与えられた自由意志によって、自分がその生涯で、神に対して、どのように生きていたのかが問われているのです。それが、キリストの再臨の時に、最後の審判の時に、問われるのです。すべての人々は、神から裁きを受けることになり、永遠の罰を受けることになるのです。

 しかし、イエス・キリストが十字架について死んでくださったこと、この十字架の死と復活によって、私たちのすべての罪が赦されたのです。罪が贖われたのです。私たちはただ、このイエス・キリストの十字架の死が、私たちの罪の赦しになることを信じますといい、教会で洗礼を受けて、キリスト者になることによってのみ、最後の審判の時に、本来なら、罪が裁かれるはずなのに、キリストが、この者は、私の十字架を信じてくれた、だから、無罪であるといってくださり、神の祝福が与えられて、永遠の命を与えてくださるのです。ペトロがコルネリスに語っているイエス・キリストの救いの業の大きさ、大いなる恵みを覚えるのです。これこそが福音となっていくのです。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。あなたが、イエス・キリストを通して、してくださったことの大きな恵みに感謝します。この神の愛にしっかりと答えることができる者として受け止めてください。心から願います。この感謝を、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。