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5月18日の礼拝の内容です。

2025-05-17 07:50:00 | 日記
5月18日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.197.433.466.29です。
礼拝のオンライン配信のアドレスはhttps://youtube.com/live/JrmO_HWNksg?feature=shareです。

礼拝説教      使徒16:1~5「福音を伝えるために」    2025.5.18

 私たちの教会では、先週に1人の姉妹を天に送りました。戦後、まもなく聖書と出会い、教会の看板に書いてある聖書の箇所を読み、教会に導かれて、洗礼を受けられます。そして約80年に近い信仰生活を守られて来ました。病の中でも、神の導きに感謝しつつ、神の御国を待ち望みながら歩まれ、神のみもとに行かれたのです。感謝に満ちた信仰生活でした。人はいろいろな人生を歩んでいきます。その人その人の人生です。同じ人生はありません。その人固有の人生です。イエス・キリストへの信仰を持って、人生を送っていくことに意味をその姉妹は、私たちに見せてくださいました。神に信頼し、周りに感謝して生きる。私たち1人1人もそのような人生であって欲しいと願うのです。

 伝道者パウロは、そのイエス・キリストの福音と出会って、迫害者から伝道者に変えられたのです。イエス・キリストの福音はパウロを大きく変えました。イエス・キリストの福音を伝える喜びにあふれてあるのです。もちろん、伝道の厳しさ、ユダヤ人からの迫害、様々な困難がパウロを襲っていきます。しかし、イエス・キリストの福音を伝えることができる喜びにあって、そのような困難を乗り越えていくのです。今日の聖書の箇所は、パウロによる第2回伝道旅行の最初の様子が書かれてあります。パウロとバルナバによる第1回伝道旅行が行われました。この伝道旅行の結果として、多くの異邦人がイエス・キリストの福音に触れて、信仰へと導かれていきました。イエス・キリストへの福音がユダヤ人から異邦人に伝えられていく中で、教会は大きな問題を抱えるようになりました。その問題を解決するために、教会の人々はエルサレムの教会に集まって、第1回エルサレム会議を開いて、大切なことを決議しました。その決議とは、神によって救われるためには、イエス・キリストの福音を信じるだけでいいというものでした。モーセの律法を守ることも割礼を受けることも必要ではなくなったのです。

 そのエルサレム会議を受けて、パウロは、バルナバに声をかけて、第1回伝道旅行に行った教会をもう一度訪問して行こうというものでした。そこまでは良かったのですが、同行者としてマルコと連れて行くかどうかで、パウロとバルナバの間で、意見が激しく衝突し、ついに別行動を取ることになってしまいました。そのことは悲しい出来事でしたが、神によって力を受けて、パウロはシラスと共にシリア州やキリキア州を回って教会を力づけていくのです。一方でバルナバはマルコと共にキプロス島に向かって船出して行きます。使徒言行録は、これからパウロの伝道旅行を追っていくことになります。その理由として、使徒言行録の著者のルカがパウロと同行するようになったからです。

 パウロは第2回伝道旅行を始める前に、第1回伝道旅行で行った教会を再び訪問することを計画していました。その計画に基づいて、伝道旅行がスタートして行きます。パウロはデルベとリストラにも行くのです。この時に、リストラで次のようなことが起っていました。

使徒14:19~22
ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバと一緒にデルベへ向かった。二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。

 リストラで、パウロはユダヤ人から石を投げられ、死んでしまったと思われる状態になってしまったのです。弟子たちが死んでしまったと思われたパウロを取り囲み、助けていくのです。パウロは命の危機を味わったのです。逃げてデルベに向かい、伝道活動をしながら、引き返して、リストラに戻って行きます。一度、死にそうになったのにも関わらず、再びリストラに戻って行く勇気には驚きます。そして、第2回伝道旅行が始まって行くと、またリストラに行くのです。そこで、ある人物に出会います。それがテモテです。パウロの手紙の中でテモテへの手紙があります。そのテモテです。リストラで、信者のユダヤ婦人の子で、ギリシャ人を父親に持つテモテと出会います。テモテは、リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人あったとあります。パウロはこのテモテを一緒に伝道旅行の同伴者として連れて行きたいと考えました。

 この時に、テモテに割礼を授けています。どうして、パウロはテモテに割礼を授けたのでしょうか。エルサレム会議での決定は、神に救われるためには、イエス・キリストを信じるだけでいいということになりました。モーセの律法を守ることも割礼を受ける必要もなくなったのです。パウロはやっとキリストの教会が勝ち取ることができた決定なのに、それを無視するかのようにテモテに割礼を施しています。教会の教えとは逆行しているようなことをあえて、パウロは行っているのです。それも、伝道旅行の同伴者になるテモテに割礼を施ししています。エルサレム教会の決定から、本来ならあえて、割礼を施すべきではないと思います。どうして、パウロはテモテに割礼を施したのでしょうか。

 これには理由がありました。テモテは母がユダヤ人ですが、父親はギリシャ人でした。テモテが信者だけであれば、割礼を受ける必要はなかったのでしょう。しかし、パウロはテモテに伝道者として、一緒に活動するようにしていくのです。そのために、その地方に住んでいるユダヤ人の手前、テモテに割礼を施したのです。父親がギリシャ人であることを、皆が知っていたからです。リストラ地方にユダヤ人への伝道のために、ユダヤ人に配慮する必要を、パウロは感じて、テモテに割礼を施したということです。パウロとシラスと、そして、リストラから合流したテモテと、方々の町々を巡回して、エルサレム教会が決めた規定を守るようにと、人々に伝えていきます。こうして、教会は信仰に強められ、日ごとに人数が増えていきます。

 パウロは、この時にテモテに割礼を施したことを次のようにいっています。

1コリント9:19~23
わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。

 ここにはキリスト者の自由という考えがあります。キリスト者はすべての人々に対して、自由な者です。誰からも束縛されることはありません。その一方で、キリスト者はすべての人の奴隷であるともいいます。すべての人々に仕えるという考えです。ここで、パウロは、わたしは、誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりましたといいます。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人に救いを伝えるためです、といいます。律法に支配されている人に対しては、パウロ自身は、律法に支配されている訳ではありませんが、律法に支配されているようになりましたというのです。その理由は、律法に支配されている人を、イエス・キリストの救いに導くためだというのです。

 パウロは、すべての人に対してはすべての者になりました。何とかして、イエス・キリストの救いに預かって欲しいと願っているからだといいます。イエス・キリストの福音のためなら、パウロは何でもしますというのです。それは、パウロ自身がイエス・キリストの福音に共に預かる者となるためだといっています。パウロの福音を伝える強い気持ちが出ています。そのような思いで、伝道旅行に出て行っています。だから、どんなに困難なことが起っても、前に向かって進んでいこうとしています。

 私たち自身が、イエス・キリストと出会った時、福音を伝えてくれた人がいました。このようなパウロのような思いを持っていたのでしょうか。今度は、私たちが、福音を伝えていくのです。イエス・キリストの福音は、すべての人々へ希望と喜びと感謝を与えることができるのです。先に紹介した姉妹は、そのことを証ししてくださいました。私たちも、そのような信仰生活を送っていきたいと心から願うのです。

祈り 神よ。あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。パウロの伝道に対する思いを聞きました。すべての人々に、福音によって、良き人生を送って欲しいという願いから来ています。私たちはもう一度、福音に出会った喜びを確認することができますように導いてください。そして、この福音に出会ったことによって得ることができる良き人生を、1人でも多くの人々に伝えることができるように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


5月14日の祈祷会の内容です。

2025-05-13 20:18:00 | 日記
祈祷会   サムエル記上10:1~16「サウルが王となるしるし」  2025.5.14

 サムエルはイスラエルの最後の士師といっていいでしょう。そのサムエルによって、イスラエルの最初の王となるサウルが誕生するのです。イスラエルは士師から王へと指導者が代わっていくことになります。それは、イスラエルの人々が神に王を求めたからです。イスラエルを導いたのは神ご自身です。それが、イスラエルの人々は敵との戦いの中で、敵が王を中心に戦っている姿を見て、自分たちにも王が欲しいと求めたことになります。イスラエルの人々が神に王を求めたことは、サムエルにとっては悪に見えました。それは、神を捨てて、人間の王を求めるということだからです。神もサムエルに、人々が王を求めることは、わたしを捨てて、他の神々を求めることだといっています。偶像礼拝になるからです。それでも、神は、イスラエルの人々が王を求めることを許可していきます。神の許しの中で、サムエルはサウルをイスラエルの新しい王としていくのです。

 10章の最初には、サムエルがサウルに油を注ぐ場面が出ています。メシア(油注がれた者)です。ただ、10章全体を見ますと、サウルがイスラエルの王となっていく場面ですが、サムエルは個人的に、秘密裏にサウルに油を注がれています。それでは、イスラエルの王になったという意味を、どのようにイスラエルの人々全体に伝えていくのだろうと思います。すると、10章の後半になると、サムエルはイスラエルの人々全体をミツバに集めます。そして、サムエルは、今まで自分たちを導いてくださったのは、神だ。しかし、あなたがたはその神を捨てて、王と求めた。だから、これから王を選ぶということで、くじ引きをしていきます。そのくじ引きによって、ベニヤミン族が選ばれ、最後にくじ引きによって、サウルが王として選ばれて、人々に紹介するという流れになっていきます。イスラエルに新しい王が選ばれるためには、このような流れが必要だったのでしょうか。

 10章の前半は、サムエルがサウルに油を注ぎました。そのサウルに対して、自分が王として選ばれた意味を、3つのしるしによって、理解させようとしています。サムエルはサウルに油を注いでから「主があなたに油を注ぎ、御自分の嗣業の民の指導者とされたのです」といいます。次に、王となったしるしを3ついいます。1つは、今日サムエルから去って行く時に、ラケルの墓の脇で2人の男と出会う。2人は「あなたが見つけようと出かけて行ったろばは見つかりました。父はろばのことを忘れて、あなたたちのことを気遣って、息子のためにどうしたらよいかといっています」といいます。

 2つは、そこから先に行くと、タボルの樫の木まで行くと、そこで、ベテルに上る3人の男に出会います。1人は子ヤギを3匹連れ、1人はパン3個を持ち、1人はぶどう酒を1袋持っています。サウルに挨拶し、2個のパンをくれますから、受け取りなさいといいます。

 3つは、ペリシテ人の守備隊がいる場所に向かい、町に入る時、琴、太鼓、笛、竪琴を持った人々を先頭にして、聖なる高台から下って来る預言者の一団に出会います。彼らは預言する状態になっています。主の霊がサウルに激しく降り、サウルも預言者と同じように共に預言する状態になり、サウルは別人のようになるというのです。これらのしるしがサウルに下ったら、サウルはしようと思うことは何でもしなさいといいます。どのような意味なのでしょうか。神がサウルと共にいるということです。

 サムエルはサウルに私より先にギルガルに行くようにいいます。やがてサムエルもサウルのもとに行き、焼き尽くすささげものと、和解のささげものをささげましょうといいます。サムエルが行くまで7日間待っていてくださいと願っています。

 このようなサウルが王となったしるしを、サムエルは3つ行われると話しています。サウルがサムエルと別れて帰途についた時、神はサウルの心を新たにされるのです。3つのしるしは、その日のうちに起ったといいます。ペリシテ人の守備隊のいる町に入ると、預言者の一団がサウルを迎え、神の霊が激しくサウルに降ります。サウルは預言者のただ中で預言する状態になりました。前からサウルを知る人々は誰でも、預言者と一緒になって預言するのを見て、サウルもまた預言者の仲間というようになります。ことわざにもなったとあります。

 サウルは預言状態からさめると聖なる高台に行きます。この時にサウルのおじがサウルたちに「お前たちはどこに行っていたのだ」と聞きますと、サウルは「ろばを捜しに行きましたが、見つからなかったので、サムエルのもとに行きました」と答えます。次にサウルのおじは「サムエルがお前たちに何をいったか話しなさい」と聞きますと、サウルは「ろばが見つかったと教えてくれました」と答えます。この時に、サウルはサムエルが語った王位のことは、おじに話さなかったのです。その時でないとサウルは判断したのでしょう。サムエルはサウルに油を注ぎ、イスラエルの王としました。そのサウルのために、王となったしるしとして3つのことをいいます。そのようにして、王となったことを知らせようとしたのです。このしるしを見て、私は聖霊降臨節(ペンテコステ)を思い出します。

使徒2:1~4
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 イエス様の弟子たちに聖霊が降り、イエス・キリストの福音を理解することができるようになったのです。そして、ここに教会が誕生しました。聖書の中にはいろいろなしるしがあります。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございました。サムエルがサウルに油を注ぎ、イスラエルの王としました。そのことをサウルに理解させるために、サムエルは3つのしるしがあることを伝え、その通りになっていきます。その3つのしるしによって、よりはっきりとその意味の深さを語っているのです。私たちにとってのしるしとは何でしょうか。それは、イエス・キリストの十字架そのものです。感謝です。この感謝をイエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                            」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)


5月11日の礼拝の内容です。

2025-05-10 11:57:00 | 日記
5月11日の礼拝の内容です。讃美歌は、351.403.405.412.26です。
礼拝のオンライン配信のアドレスはhttps://youtube.com/live/mJQFuy_i2_Y?feature=shareです。

礼拝説教     使徒15:36~41「主の恵みに導かれて」   2025.5.11

 私は、この礼拝の中で使徒言行録を読んでいます。使徒言行録は、キリスト教の教会の最初の様子を記しています。ここから私たちの教会の歩みの参考になると信じているからです。今日の聖書の箇所は、第2回伝道旅行の準備の様子が記されています。ここに悲しい現実が起っています。それはパウロとバルナバの対立です。使徒言行録は「そこで、意見が激しく衝突し、彼らは別行動をとるようになって」と、あります。このパウロとバルナバの対立の意味を考えていきたいと思います。

 その前に、話が急に変わることを許してください。旧約聖書の創世記の後半にヨセフ物語というのがあります。ヨセフ物語は創世記37章から50章にかけて書かれてあります。ヨセフは12人兄弟でした。これがイスラエルの12部族のもとになっていきます。ヨセフは父ヤコブにとって年寄り子でした。また愛するラケルの子どもでもあります。ヤコブはどの息子よりも可愛がり、特別な服を作ってあげました。他の兄弟たちは父ヤコブがどの兄弟よりもヨセフを可愛がるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すことはできなかったのです。ある日、兄弟たちはヨセフを殺そうとしました。しかし、結果的にヨセフをエジプトへ奴隷として売ることになったのです。父ヤコブのヨセフに対する溺愛から、そのような悲しい事件が起ってしまったのです。エジプトに奴隷として売られていったヨセフは、エジプトの宮廷の役人の者となっていきました。奴隷としての日々、またはある事件によって、牢獄に入れられて囚人として苦しい日々を過ごすことになりました。

 ヨセフにはある力がありました。それは夢を解く力です。ある時に、エジプト王が2つの夢を見ました。その王の夢の意味を誰も解くことができませんでした。しかし、ヨセフが王の夢を解き明かすことができたのです。牢獄に閉じ込められていたヨセフは、牢獄から出され、王の前に立たされて、王の見た2つの夢の意味を解き明かします。それは、これからエジプトには7年間、豊作が続く。その後、7年間、大飢饉が起るというものでした。ヨセフは王の前で、夢の意味を解き明かすだけでなく、その解決方法を具体的に指示したのです。そのために、エジプト王はヨセフをエジプトの大臣に任命して、エジプトに今後起る危機を乗り越えるために、その役割を与えられたのです。7年間の大豊作が始まりました。その間にヨセフはできるだけ食べ物を倉庫に備蓄するように指示するのです。大豊作が終ると、今度は、7年間の大飢饉が始まっていきました。大飢饉はエジプトだけではなく、世界中に広がっていきます。カナンに住んでいたヤコブとその家族たちもその影響を受けることになりました。食べ物がなくなっていくのです。人の命に関わることです。父ヤコブは息子たちにエジプトに行って、食べ物を買ってくるように命じるのです。

 食べ物を買うために、ヨセフの兄弟たちは、エジプトに行くのです。そこでエジプトで大臣をなったヨセフと再会することになります。結果的に、ヨセフの働きによって、エジプト人は大飢饉から命をつなぐことができました。また、世界中の人々も、ヤコブとその家族も、命をつなぐことができたのです。ヨセフがエジプトに行かなければ、大飢饉から人々を救うことができなかったのかもしれません。この時にヨセフは次のようにいっています。

創世記50:20
あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。

 ここに書かれてありますように、ヨセフの兄弟たちは、ヨセフに対して、奴隷としてエジプトに売ってしまうということをしましたが、そのことによって、世界中の人々の命を大飢饉から救うことができたのです。神は悪を善にも変えることができることをいっています。

 さて、話は戻って、使徒言行録にいきます。イエス・キリストの福音がユダヤ人から異邦人へと伝えられていきました。パウロとバルナバによって第1回伝道旅行が行われて、ますます異邦人への伝道が進んでいきました。その時に、教会は大きな問題を抱えるようになりました。それは、人が神によって救われるためには、イエス・キリストを信じること、モーセの律法を守ること、割礼を受けることなどが条件として入って来ました。その結論を得るために、エルサレムでの教会会議が行われて、人が神によって救われるためには、イエス・キリストを信じることにのみ、救われることが確認されました。このエルサレム会議の決定をパウロとバルナバはすべての教会に向けて発信するのです。ここまでパウロとバルナバは一緒になって、神のために、教会のために働いて来ました。どちらが欠けていてもダメだったと思います。

 そして、パウロによって、第2回伝道旅行の計画がバルナバに伝えられます。その内容は、第1回伝道旅行で行った先の教会の様子をもう一度見て来るというものでした。一度、行ったからいいではないかということではなくて、もう一度訪問して、教会の様子を見てくる、サポートして行こうということで大切な旅行になるはずでした。ここで大きな問題が起って来ます。マルコを連れて行くかどうかで、パウロとバルナバの間で激しい衝突が起ってしまうのです。使徒13:13「パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネ(マルコ)は一行と別れてエルサレムに帰ってしまった」とあるように、第1回伝道旅行の時に、マルコは途中でエルサレムに帰ってしまったのです。どのような理由で帰ったのかははっきりとは分かりませんが、伝道旅行の困難に耐え切れずに、帰ってしまったのだろうと想像できます。バルナバは、マルコをもう一度連れて行きたいと思ったのです。一度失敗しても、やり直すチャンスを与えてたいと思ったのでしょう。バルナバ、慰めの人といわれる意味も分かります。

 しかし、パウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は連れて行くべきではないと考えたのです。バルナバの意見とパウロの意見とどちらが間違って、どちらが正解ということができるのでしょうか。どちらも正解ということができるでしょう。そこで、意見が激しく衝突してしまうのです。あのバルナバならパウロに折れるのではないかと思いますが、ここで全く妥協の様子は出て来ません。マルコの未来を考えての思いだったのでしょう。悲しいことに、このような意見の対立が起っていることを、しっかりと受け止める必要があると思います。教会の中に、いろいろな意見の対立が起って来ることはあることなのです。

 悲しいかな、とうとうパウロとバルナバは別行動をとることになってしまいます。バルナバはマルコを連れて、キプロス島へ向かって船出しました。一方、パウロはシラスを選び、教会の兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発します。そして、シリア州やキリキア州を回って教会を力づけて行きます。パウロとバルナバが別行動とることになってしまったこと、これは悲しい現実だと思います。できれば、このようなことにならない方がよかったと私は思います。しかし、大きな視点で見ると、第2回伝道旅行が1つではなくて、2つになったと考えることもできます。全世界に、イエス・キリストの福音を広めていくということからすれば、素晴らしいこととなっていきます。人間的な対立も、神は大きな視点で、それを良き方向と変えてくださるということにつながっていきます。パウロの言葉に次のようなものがあります。

ローマ8:28
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

 パウロは、バルナバとの対立の結果として、このような言葉を語ったのでしょうか。人と人との間にも対立は起ってしまいます。教会の中でも対立は避けることができません。そのような人間の対立も神は用いて、素晴らしい御業と変えてくださるのです。パウロとバルナバの対立、そしてヨセフとその兄弟たちに対立を見てきました。そのような対立を神はすべて良い方法へと導いてくださったのです。ここで人の対立はいいといっているのではありません。人の対立は起ってしまいます。それで、悲しむのではなくて、それでも神はその対立をも良き方向へと導いてくださる信仰が大切だと思います。私たちの教会もいろいろな意見があると思います。それをも神は良き方法へと導いてくださると信じることが大切なのです。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。聖書からパウロとバルナバの激しい衝突の場面を見てきました。そのことで二人は別行動を取ることになってしました。でも、それは伝道活動がより活発になるように、神は導いてくださったのです。私たちは人間的な視点だけではなく、神への大きな視点を持って、信仰生活を送ることができますように、守り導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


5月7日の祈祷会の内容です。

2025-05-06 19:48:00 | 日記
祈祷会     サムエル記上9:14~27「神がサウルを王にする」   2025.5.7

 サムエル記はイスラエルの歩みの中で、神政政治から王政政治に変わっていくことが書かれてあります。もともと、イスラエルの人々の中では、自分たちに王が欲しいという欲求がありました。それは、イスラエルの人々は長く近隣のいろいろな民族と戦いを繰り返して来ました。その戦いの中で、敵となる他民族では戦いのリーダーとしての王がいて、王が人々を率いて戦っていたからです。イスラエルの人々は自分たちにもそのような戦いのリーダーとしての王の必要性を感じていたのです。

 イスラエルの人々がサムエルを通して神に王を求めた時、サムエルはその王を求めることは悪と受け止めていました。それは、今まで、神が王としてイスラエルを戦いの中で導いて来たのです。それは神を捨てて、人間である王と求めることになるからです。神も反対のようでした。神は、イスラエルの人々は、わたしがイスラエルの上に王として君臨することを退けているというのです。更に、イスラエルの人々はエジプトから導き上った日から今日まで、彼らのすることは、わたしを捨てて他の神々に仕えることだったとさえいうのです。

 しかし、それでも、神はイスラエルの人々が王を求める欲求に対して受け入れるようにサムエルにいいます。「人々がいうままに彼らの声に聞き従いなさい。今は彼らの声に聞き従いなさい。ただし、警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい」といいます。王の権能をひとことでまとめると、王の奴隷になるということでしょう。そして、サムエルは警告として「あなたがたが選んだ王のゆえに、あなたがたは泣き叫ぶ。しかし、主はその日に、あなたたちには答えてはくださらない」といいますが、人々はサムエルの声に聞き従おうとせずに、どうしても王が必要と主張するのです。主はサムエルに「彼らの声に聞き従い、彼らに王を立てなさい」といいます。

 そして、イスラエルの中で初めての王が選ばれるのですが、それはサウルという人物です。サウルはベニヤミン族でした。美しい若者で、彼の美しさに及ぶ者はイスラエルには誰もいなかった。人々の誰よりも肩が上の分だけ背が高かったのです。イスラエルの人々の中で初めて王として選ばれるサウルは、イケメンで背が誰よりも背が高かったというので、一目で目立った人物だということが分かります。サウルがイスラエルの王として選ばれることですが、最初にサウルの父のろばが数頭、姿を消してしまいました。それで、父の命令で、サウルは若者を一人連れてろばを捜しに行くことになりました。これがサウルとサムエルの出会いに導かれます。目に見えない神の導きがあるのです。

 サウルは父のろばを捜しに出かけて行ったのですが、なかなか見つめることができないのです。サウルは疲れて、一緒にいる若者に「もう帰ろう。これだけ捜してもろばはみつからない。ろばは諦めよう。父が心配しているから」といって家に帰ろうとします。その時に、若者はサムエルのことをいいます。「近くの町に神の人サムエルがいます。あえば、何か教えてくれるでしょう」というと、サウルは「分かった。でも、その人に持参する物は何もない」というと、若者は「ここに4分の1シュケルの銀があります。これでいかがでしょうか」というと、サウルは「それはいい。さあ行こう」となっていくのです。若者の言葉がなければサウルとサムエルの出会いはなかったのでしょうか。

 そして、今日の聖書の箇所になります。サウルと若者は、神の人サムエルがいる町に入ろうとしていきます。サムエルもその町に入って行こうとします。実は、前日に神はサムエルに「明日の今ごろ、わたしは1人の男をベニヤミンの地からあなたのもとに遣わす。あなたは彼に油を注ぎ、わたしの民をペリシテ人の手から救う。民の叫び声がわたしに届いたので、わたしは民を顧みる」と伝えています。何と、神ご自身がイスラエルの王となるサウルを指名しているのです。人々から選んだのではなく、神ご自身がサウルを王として選んでいくのです。この意味はとても大きいです。そしてサムエルがサウルに会うと、神はサムエルに「わたしがあなたにいったのはこの男のことだ。この男がわたしの民を支配する」と告げています。

 町に入る城門でサウルは、サムエルが先見者であることを初めて知ります。サムエルはサウルに「わたしが先見者であり、先に聖なる高台に行きなさい。今日はわたしと一緒に食事をしてください。明朝、あなたを送り出す時、あなたの心にかかっていることをすべて話します。いなくなったろばはすでに見つかっています。全イスラエルの期待は誰にかかっていると思いですか。あなたにです」と告げています。この時にサウルは「わたしはイスラエルで最も小さな部族でベニヤミンの者です。そのベニヤミンでも最小の一族です。どんな理由でわたしにそのようなことをいわれるのですか」と答えています。非常に謙遜な態度でいることが分かります。

 サムエルはサウルらを広間に導き、招かれた人々の上座に席を与えました。30人程が招かれていたとあります。サムエルはサウルに特別な料理を用意していました。この時にサウルはサムエルと一緒に食事をしたのです。聖なる高台から町に下って、サムエルはサウルと屋上で話っていきます。屋上で共に寝たというのでしょう。朝早く起きて、サムエルはサウルに、一緒にいる若者を先に行かせるようにいいます。神の言葉を聞かせるためという理由です。若者は先に行きます。そして10章の最初に、サムエルは油の壺を取って、サウルの頭に油を注ぎます。個人的に秘密裏に、油を注いでいることが気になります。こうして、サウルはイスラエルの最初の王として、立っていくことになります。神によってイスラエルの王として指名されたサウルが、今後どのような歩みをしていくのか見ていくことになります。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りに時を与えてくださり、ありがとうございました。あなたは、サウルをイスラエルの最初の王として指名されました。どのような思いがあって、サウルを王として指名されたのでしょうか。その後に、サウルの歩みは悲しいことにつながっていきます。あなたの御心を少しでも知ることができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                                」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)


5月4日の礼拝の内容です。

2025-05-03 20:14:00 | 日記
5月4日の礼拝の内容です。讃美歌は、210.200.451.458.78.88です。
礼拝のオンライン配信は、「瀬戸永泉教会」YouTubeチャンネルから入ってください。

礼拝説教      使徒15:30~35「励ましに満ちた決定」    2025.5.4

 5月の最初の日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から神に感謝したいと思います。この礼拝を通して、私たちの1週間の歩みがより豊かなものとなりますように願います。礼拝では、使徒言行録を読んでいます。教会の初めの歩みが書かれてあります。イエス・キリストの福音は、ユダヤ人から異邦人に伝えられていきます。アンティオキアに初めての異邦人教会が誕生しました。その教会を拠点として、パウロとバルナバによる第1回伝道旅行が行われました。この伝道旅行の結果として、多くの異邦人が、イエス・キリストの福音を受け入れ、洗礼を受けて、教会に加わっていきました。

 そのアンティオキア教会で、大きな問題と混乱が起きてしまいました。それは、ファリサイ派から信者になった人々がユダヤからやって来て、「あなたがたが救われるためには、イエス・キリストを信じるだけでなく、モーセの律法を守り、割礼を受けなければならない」といったのです。ここで問題になったことは、キリスト教の信仰にとってとても重要な内容です。いかにして、人は神によって救いを得ることができるかということです。イエス・キリストの十字架の死と復活はどのような意味を持つかということです。神によって救われるためには、イエス・キリストの十字架の贖いを信じることと、モーセの律法を守ること、割礼を受けること、この3つが必要だというのです。この問題に対して、パウロとバルナバと、ファリサイ派から信者になった人々の間で、激しい意見の対立と論争が生じたのです。

 この救いの本質の問題に関して、使徒や長老たちと議論するために、パウロとバルナバ、その他数名の者がエルサレム教会に行って、協議することになったのです。それが、第1回エルサレム会議といわれるものです。エルサレムに到着すると、パウロとバルナバは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎されました。パウロたちは、神が自分たちと共にいて、異邦人に対して、多くの人々が救いを受け入れて、教会に加わっていったことをすべて報告していきます。また、ファリサイ派から信者になった人々は「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」といって、議論になっていきます。

 このエルサレム会議で重要な役割をしたのがペトロです。ペトロは、異邦人コルネリウスとの出会いから話していきます。地中海沿岸のカイサリアの町にコルネリウスという人がいました。イタリア隊と呼ばれる部隊の百人隊長でした。コルネリウスは信仰心があつく、一家そろって神を畏れ、人々に多くの施しをし、絶えず神に祈っていたのです。コルネリウスは異邦人でありながら、熱心なユダヤ教徒のようでした。そのコルネリウスを神は選ばれるのです。一方で神は、ペトロにも働きかけます。ペトロはこの時に、近くの町にいました。ペトロは祈るために、屋上に上がって行きます。昼との12時ごろでした。ペトロは空腹を覚え、何か食べたいと思ったのです。家の中では、人々が食事の準備を整えていました。ペトロはここで幻を見るのです。天が開いて、大きな布のような入れ物が、四隅に吊るされて、地上に下りて来ました。その中にはあらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていました。それは、旧約聖書で汚れた動物とされていたものです。そして、声があって、「ペトロよ、身を起して、屠って食べなさい」というのです。しかし、ペトロは「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」と答えます。すると、また声があって、「神が清めた物を清くないなどと、あなたはいってはならない」というのです。このようなことが三度、ペトロに起りました。
 このペトロの見た幻の中で、神のご計画を知ることになります。それまでユダヤ人たちは、自分たちは清い存在で、異邦人は汚れていると考えていました。それが、その清いとか、汚れているとかの壁がなくなったことを知るのです。その清い者と汚れている者の壁は、イエス・キリストの十字架の血による贖いによって、清められてなくなってしまったのです。

 コルネリウスの所に、ペトロが行った時に、ペトロは「あなたがたもご存じの通り、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは律法で禁じられていました。けれども神は私に、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とかいってはならない、お示しになりました。それで、私は、あなたの招きを受けた時に、すぐに来たのです」と答えています。そして、コルネリウスらに、イエス・キリストの福音を語っていきます。「イエスについて、この方を信じる者は誰でもその名によって罪の赦しが受けられる」と証していくのです。ペトロがコルネリウスらに福音を語っていると、御言葉を聞いているコルネリウスらに聖霊が降っていきます。この時に、割礼を受けている、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人に上にも注がれているのを見て、大いに驚いています。異邦人が異言を語り、また神を賛美しているのを聞いたからです。そこで、ペトロは「私たちと同じように聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったい誰が妨げることができますか」といって、コルネリウスらに、イエス・キリストの名によって、洗礼を受けるようにといっています。多くの異邦人が洗礼を受けることができました。

 このペトロのコルネリウスとの出会いが、次のようにいうことができたのです。「人の心をお見通しになる神は、私たちに与えてくださったように、異邦人にも聖霊を与え、彼らも受け入れたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、私たちと彼らとの間に何の差別もなさいませんでした。私たちは、主イエスの恵みによって救われていると信じているのですが、これは異邦人も同じことです」といっています。このエルサレムの会議の結果は、イエス・キリスト信じる信仰によってのみ、人は救われるということになったのです。ここで大切なことは、エルサレム会議ですから、人の集まった会議で決まったように思いますが、そうではなくて、神がそのように導いておられるということです。

 エルサレム会議が終って、使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選んで、パウロやバルナバと一緒にアンティオキア教会に派遣することを決めます。選ばれたのが、ユダとシラスでした。彼らは兄弟たちの中で指導的な立場にいた人たちでした。使徒たちは、人を派遣することと、手紙を書いて彼らに持たせるのです。その手紙の内容は、イエス・キリストを信じるのみによって人は救われるというものです。使徒たちは、アンティオキア教会に対して、人と手紙を持たせて、よりエルサレム会議の決定をはっきりと伝えようとしています。

 さて、パウロとバルナバ、ユダとシラスは、見送りを受けて、出発し、アンティオキア教会に到着すると、教会員全体を集めて、手紙を渡します。アンティオキア教会の人々は、それを読み、励ましに満ちた決定を知って喜びました。この手紙の内容では、神によって救われるには、イエス・キリストの信仰と、モーセの律法を守ること、割礼を受けることに対する答えが書かれてあります。ファリサイ派から信者になった人々によって、混乱が生じた教会を建て直すために、開かれたエルサレム会議の決定の内容です。どうすれば、神の救いを得ることができるかという、信仰の基本的なことが書かれてあるのです。この内容は、今後の教会の歩みを決定的なものとしました。このエルサレム会議の決定は、後のキリスト教の歩みの大きな影響を与えたのです。この時から、キリスト教はユダヤ教を離れて、ユダヤ教は全く別の宗教となっていくのです。

 神の救いに預かるためには、イエス・キリストの十字架の贖いを信じるだけでいいのです。それ以外は、何もありません。アンティオキア教会の人々の喜びはとても大きなものでした。エルサレム教会からの手紙は、励ましに満ちた決定が書かれてありました。その大きな喜びの中で、教会の歩みは進んで行きます。ユダとシラスは預言する者でもあったので、いろいろと話をして、アンティオキア教会の兄弟たちを励まし、血からづけ、しばらく滞在した後で、アンティオキア教会の兄弟たちから送別の挨拶を受けて見送られ、エルサレム教会に帰って行きました。しかし、パウロとバルナバはアンティオキア教会にとどまって教え、他の多くの人々と一緒に主の言葉を告げ知らせて行きました。

ローマ3:19~24
さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

 ここに神の救いの内容が書かれてあります。イエス・キリストの十字架の死と復活を信じることによってのみ、私たちは救われるのです。これが、神の救いのすべてです。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。エルサレム会議の決定の内容を知ったアンティオキア教会の人々の大きな喜びを知りました。それは、神の救いの内容が改めて、示されたものでした。イエス・キリストの十字架の死と復活、それを信じることだけが、私たちの救いを完成させるものです。この基本に立って、神への信仰を持って、歩むことができますように、私たちを守り導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。