5月18日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.197.433.466.29です。
礼拝のオンライン配信のアドレスはhttps://youtube.com/live/JrmO_HWNksg?feature=shareです。
礼拝説教 使徒16:1~5「福音を伝えるために」 2025.5.18
私たちの教会では、先週に1人の姉妹を天に送りました。戦後、まもなく聖書と出会い、教会の看板に書いてある聖書の箇所を読み、教会に導かれて、洗礼を受けられます。そして約80年に近い信仰生活を守られて来ました。病の中でも、神の導きに感謝しつつ、神の御国を待ち望みながら歩まれ、神のみもとに行かれたのです。感謝に満ちた信仰生活でした。人はいろいろな人生を歩んでいきます。その人その人の人生です。同じ人生はありません。その人固有の人生です。イエス・キリストへの信仰を持って、人生を送っていくことに意味をその姉妹は、私たちに見せてくださいました。神に信頼し、周りに感謝して生きる。私たち1人1人もそのような人生であって欲しいと願うのです。
伝道者パウロは、そのイエス・キリストの福音と出会って、迫害者から伝道者に変えられたのです。イエス・キリストの福音はパウロを大きく変えました。イエス・キリストの福音を伝える喜びにあふれてあるのです。もちろん、伝道の厳しさ、ユダヤ人からの迫害、様々な困難がパウロを襲っていきます。しかし、イエス・キリストの福音を伝えることができる喜びにあって、そのような困難を乗り越えていくのです。今日の聖書の箇所は、パウロによる第2回伝道旅行の最初の様子が書かれてあります。パウロとバルナバによる第1回伝道旅行が行われました。この伝道旅行の結果として、多くの異邦人がイエス・キリストの福音に触れて、信仰へと導かれていきました。イエス・キリストへの福音がユダヤ人から異邦人に伝えられていく中で、教会は大きな問題を抱えるようになりました。その問題を解決するために、教会の人々はエルサレムの教会に集まって、第1回エルサレム会議を開いて、大切なことを決議しました。その決議とは、神によって救われるためには、イエス・キリストの福音を信じるだけでいいというものでした。モーセの律法を守ることも割礼を受けることも必要ではなくなったのです。
そのエルサレム会議を受けて、パウロは、バルナバに声をかけて、第1回伝道旅行に行った教会をもう一度訪問して行こうというものでした。そこまでは良かったのですが、同行者としてマルコと連れて行くかどうかで、パウロとバルナバの間で、意見が激しく衝突し、ついに別行動を取ることになってしまいました。そのことは悲しい出来事でしたが、神によって力を受けて、パウロはシラスと共にシリア州やキリキア州を回って教会を力づけていくのです。一方でバルナバはマルコと共にキプロス島に向かって船出して行きます。使徒言行録は、これからパウロの伝道旅行を追っていくことになります。その理由として、使徒言行録の著者のルカがパウロと同行するようになったからです。
パウロは第2回伝道旅行を始める前に、第1回伝道旅行で行った教会を再び訪問することを計画していました。その計画に基づいて、伝道旅行がスタートして行きます。パウロはデルベとリストラにも行くのです。この時に、リストラで次のようなことが起っていました。
使徒14:19~22
ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバと一緒にデルベへ向かった。二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。
リストラで、パウロはユダヤ人から石を投げられ、死んでしまったと思われる状態になってしまったのです。弟子たちが死んでしまったと思われたパウロを取り囲み、助けていくのです。パウロは命の危機を味わったのです。逃げてデルベに向かい、伝道活動をしながら、引き返して、リストラに戻って行きます。一度、死にそうになったのにも関わらず、再びリストラに戻って行く勇気には驚きます。そして、第2回伝道旅行が始まって行くと、またリストラに行くのです。そこで、ある人物に出会います。それがテモテです。パウロの手紙の中でテモテへの手紙があります。そのテモテです。リストラで、信者のユダヤ婦人の子で、ギリシャ人を父親に持つテモテと出会います。テモテは、リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人あったとあります。パウロはこのテモテを一緒に伝道旅行の同伴者として連れて行きたいと考えました。
この時に、テモテに割礼を授けています。どうして、パウロはテモテに割礼を授けたのでしょうか。エルサレム会議での決定は、神に救われるためには、イエス・キリストを信じるだけでいいということになりました。モーセの律法を守ることも割礼を受ける必要もなくなったのです。パウロはやっとキリストの教会が勝ち取ることができた決定なのに、それを無視するかのようにテモテに割礼を施しています。教会の教えとは逆行しているようなことをあえて、パウロは行っているのです。それも、伝道旅行の同伴者になるテモテに割礼を施ししています。エルサレム教会の決定から、本来ならあえて、割礼を施すべきではないと思います。どうして、パウロはテモテに割礼を施したのでしょうか。
これには理由がありました。テモテは母がユダヤ人ですが、父親はギリシャ人でした。テモテが信者だけであれば、割礼を受ける必要はなかったのでしょう。しかし、パウロはテモテに伝道者として、一緒に活動するようにしていくのです。そのために、その地方に住んでいるユダヤ人の手前、テモテに割礼を施したのです。父親がギリシャ人であることを、皆が知っていたからです。リストラ地方にユダヤ人への伝道のために、ユダヤ人に配慮する必要を、パウロは感じて、テモテに割礼を施したということです。パウロとシラスと、そして、リストラから合流したテモテと、方々の町々を巡回して、エルサレム教会が決めた規定を守るようにと、人々に伝えていきます。こうして、教会は信仰に強められ、日ごとに人数が増えていきます。
パウロは、この時にテモテに割礼を施したことを次のようにいっています。
1コリント9:19~23
わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
ここにはキリスト者の自由という考えがあります。キリスト者はすべての人々に対して、自由な者です。誰からも束縛されることはありません。その一方で、キリスト者はすべての人の奴隷であるともいいます。すべての人々に仕えるという考えです。ここで、パウロは、わたしは、誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりましたといいます。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人に救いを伝えるためです、といいます。律法に支配されている人に対しては、パウロ自身は、律法に支配されている訳ではありませんが、律法に支配されているようになりましたというのです。その理由は、律法に支配されている人を、イエス・キリストの救いに導くためだというのです。
パウロは、すべての人に対してはすべての者になりました。何とかして、イエス・キリストの救いに預かって欲しいと願っているからだといいます。イエス・キリストの福音のためなら、パウロは何でもしますというのです。それは、パウロ自身がイエス・キリストの福音に共に預かる者となるためだといっています。パウロの福音を伝える強い気持ちが出ています。そのような思いで、伝道旅行に出て行っています。だから、どんなに困難なことが起っても、前に向かって進んでいこうとしています。
私たち自身が、イエス・キリストと出会った時、福音を伝えてくれた人がいました。このようなパウロのような思いを持っていたのでしょうか。今度は、私たちが、福音を伝えていくのです。イエス・キリストの福音は、すべての人々へ希望と喜びと感謝を与えることができるのです。先に紹介した姉妹は、そのことを証ししてくださいました。私たちも、そのような信仰生活を送っていきたいと心から願うのです。
祈り 神よ。あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。パウロの伝道に対する思いを聞きました。すべての人々に、福音によって、良き人生を送って欲しいという願いから来ています。私たちはもう一度、福音に出会った喜びを確認することができますように導いてください。そして、この福音に出会ったことによって得ることができる良き人生を、1人でも多くの人々に伝えることができるように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。