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8月14日の祈祷会の内容です。

2024-08-13 19:55:00 | 日記
祈祷会        士師記8:1~17「ギデオンの働き」    2024.8.14

 イスラエルの人々が神に対して悪を行ったために、神は敵であるミディアン人を送りました。神に対して悪を行うということは、先住民と交わることと、先住民の拝む神々を礼拝することでした。ミディアン人はイスラエルの人々を苦しめます。そのミディアン人の苦しみを受けたイスラエルの人々は、神に対して苦しみ、助けを叫び求めるのです。そのイスラエルの人々の叫びを聞いた神は、士師としてギデオンを送るのでした。士師としてギデオンは、ミディアン人と戦うことになります。

 敵のミディアン人は総勢13万5千人の兵士がいました。ギデオンのもとには3万2千人の兵士が集まりました。神は兵士の数が多いといい、結果的に300人の兵士と戦うことになります。実際の戦いとなっていきます。まともに行けば勝利することは困難です。ここで奇襲攻撃を行うのです。ギデオンは300人の兵士を3つの部隊に分けます。それぞれに角笛と空の水がめとその水がめの中には松明を入れたのです。ギデオンと3隊に分かれた300人の兵士がそれぞれの配置につきました。深夜の更の初めに敵陣の端に着いた時に、角笛を吹き、持っていた水がめを砕きました。3つの隊はそろって角笛を吹き、水がめを割って、松明を左手にかざし、右手で角笛を吹き続け、「主のために、ギデオンのために剣を」と叫びました。各自持ち場を守り、敵陣を包囲したので、敵の陣営は至る所で総立ちになり、叫び声をあげて敗走していきます。300人が角笛を吹くと、主は、敵の陣営の至る所で、同士討ちを起され、その軍勢は逃走していきます。このようにして、ギデオンと300人の兵士は、敵のミディアン人に勝利をすることができていきます。

 ここで完全な勝利というのではなくて、敗走するミディアン人を、イスラエル人の中で、ナフタリ、アシェル、全マナセから集まり、追撃しました。ギデオンは使者をエフライム山地の至る所に送って、「下って来て、ミディアン人を迎え撃ち、ヨルダン川を占領せよ」といいました。エフライム人は皆集まって、その通りにしました。エフライム人はミディアン人の2人の将軍、オレブとゼエブを見つけて殺しました。ここで、エフライム人はギデオンに対して不満をいいます。「あなたはミディアンとの戦いに行く時、私たちを呼ばなかったが、それはどういうことか」と、いいます。ギデオンはエフライム人の不満を受け止めて、私たちの働きよりも、あなたたちの働きが大きい、それは、ミディアン人の2人の将軍を打ち取ったからだといいました。ギデオンはそのようにいったので、エフライム人の憤りは和らぎました。ここで、ギデオンはエフライム人と争うことは望まず、和解することの望み、その通りに行動して行きました。考えてみれば、ギデオンは敵と戦うことと同じイスラエル人と戦うことも想定していたと思われます。

 ギデオンはヨルダン川に着きました。ギデオンの率いる300人と共にヨルダン川を渡りました。疲れ切っていたましたが、なおもミディアン人を追撃していました。ヨルダン川を渡るとガドの人々の地になります。すぐにスコトの町があります。ギデオンはスコトの町の人々に「わたしたちにパンを恵んでいただきたい。300人は疲れ切っている。私はミディアンの王ゼパとツァルムナを追っているところだ」といいました。しかし、スコトの指導者たちは、「私たちがあなたの軍隊にパンを与えなければならないというからには、ゼパとツァルムナの手首をすでに捕えているのか」というのです。ギデオンは「そうか。それなら主が2人の王を私の手にお渡しになる時に、私はお前たちのその身を荒れ野の茨ととげで打ちのめす」警告しました。ギデオンはそこからペヌエルに上って、パンを求めました。ペヌエルの人々もスコトの人々と同じような答えをしました。そこでギデオンはペヌエルの人々に「私が無事に帰って来たなら、この塔を倒す」と答えるのです。ギデオンとその300人が命をかけて、ミディアン人と戦っているのに、全く、援助する気がないということです。同じイスラエル人ですが、このようなことも起ってしまうことをギデオンは悲しく思ったことでしょう。

 ミディアン人の2人の王ゼパとツァルムナは、約1万5千人の軍勢を率いてカルコルにいました。敗残兵でした。すでに剣を携えた兵士12万人が戦死していたのです。ミディアン人は安心して、カルコルにいたとあります。遠い地だから、ここまではギデオンも追って来ないと考えていたのでしょうか。ギデオンは敵の陣営を攻撃しました。2人の王は、一度は逃げましたが、ギデオンたちはその後を追いかけ、捕えました。こうして、ギデオンは戦いから帰って来ました。ギデオンはスコトの人々の中から1人の若者を捕らえて尋問し、スコトの指導者と、長老77人の名を書かせました。ギデオンはスコトの人々の所に行って「あなたたちは、かつて私たちを嘲笑い、私たちがあなたの疲れ切った兵士たちにパンを与えなければならないというからには、2人の王の手首をすでに捕えているのかといったが、見るがよい、これが2人の王だ。」といいました。ギデオンは町の長老たちを捕らえ、荒れ野の茨ととげをもって、スコトの町の人々に思い知らせました。また、ペヌエルの塔を倒し、町の人々を殺していくのです。

 ギデオンの戦いを見る時に、苦難に満ちたものだと思います。ミディアン人13万5千人の敵と戦う時に、味方300人で戦うことになりました。一度、勝利しても、戦いは続き、敗残兵を追撃して行きます。その時に、エフライム人はギデオンを激しく責めます。また、スコトの人々とペヌエルの人々は、ギデオンと300人の兵士がパンを求めることを拒否されてしまうのです。ギデオンはエフライム人には融和を持って対応しますが、スコトの人々とペヌエルの人々には強硬な姿勢で臨みました。いろいろな思い、またはいろいろな困難があっても、それを乗り越えて、士師としてギデオンはここまでやって来ました。ギデオンの士師としての振る舞いには頭が下がります。ずっとここのままの姿勢であって欲しいと願いますが、人間は難しいものです。その後のギデオンはどのようになっていくのでしょうか。

祈り 神よ。聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございました。ギデオンの働きをみてきました。素晴らしい働きだったと思います。神を信じて、従っていく。どのような困難があっても、神を信頼して、前進していきます。そのようなギデオンの歩みをみて、私たちも習い、そのような神への信頼を持って歩むことができるように守り導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                                」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)


8月11日の礼拝の内容です。

2024-08-10 20:24:00 | 日記
8月11日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.194.394.436.88です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/10Ix8XhqV_k?feature=shareです。

礼拝説教     使徒10:39~43「罪の赦しが与えられる」    2024.8.11

 使徒10:43「また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証しています。」となっています。イエス様の名前を信じる者はだれでも、イエス様の名によって罪の赦しが受けられることについて、今日は考えていきたいと思います。

 使徒言行録10章からは、新しい展開になっています。イエス・キリストの福音がユダヤ人から異邦人に伝わっていくことが書かれてあります。実際には、ペトロからコルネリウスへです。聖書の初めには、神の天地創造のことがあり、人間全体のことが書かれてありますが、創世記12章からは、アブラハムのこと、ユダヤ人のことが書かれてあります。神はユダヤ人を選んで、神の救いを実現していくことを計画されていきます。

 神に造られた人間は、神の前に生きる時に、どう生きたかが問われているのです。人類最初の人アダムとエバによって、人間は罪を犯してしまいました。その罪ついて、旧約聖書は丁寧に書いています。神の教えを守ること、十戒を始めとする律法、ユダヤ人には神の民として、神の律法を守ることが求められていました。しかし、実際にはユダヤ人は神の律法を守ることができないのです。そのために、ユダヤ人はその罪を神の前でいかに償うことができるかが、書かれてあります。それは、人間の罪を動物に委ねるのです。動物、特に家畜は神へのささげものとしてささげられます。実際には、家畜は殺されて、血が流され、肉が焼かれて神へのささげものとなっていきます。ユダヤ人は、自分たちの罪を家畜に委ねて、家畜がユダヤ人に代わって、罪の裁きを受けることになります。そのようにして、罪の赦しが行われるのです。そのような罪の贖いのことが何度も行われるです。

 そして、新約聖書のイエス・キリストになっていきます。イエス・キリストは神の子として地上に、私たち人間の世界にやって来られました。神の子でありながら、神の子の身分を捨てて、私たちと同じ人間となってくださったのです。罪は犯しませんでしたが、私たちの味わう苦しみと悲しみと悩みをすべて経験してくださいました。そして、最後はエルサレムで、十字架について死んでくださったのです。この神の子イエス・キリストの十字架の死は、私たちすべての人間の罪の赦し、罪の贖いとなっていきます。かつて、ユダヤ人が自分たちの罪を、飼っている家畜に罪を負わせたように、私たちは自分たちの罪をすべて、イエス・キリストに負わせたのです。そして、十字架につけて殺してしまいました。神の子を十字架につけることは大きな罪となっていきます。

 しかし、私たちの罪が神の子イエス・キリストを十字架にかけて殺してしまったこと、それが神によって、私たちの罪の赦しということにつながっていくのです。これこそが、イエス・キリストを通じての神からの福音ということになります。私たちの罪が、私たち自身への罪の赦しとなっていくのです。これが神のご計画の中にありました。このような形で、神は私たちの罪を救おうとされているのです。

 ペトロはコルネリウスとその関係者に語ります。「神は人を分け隔てることはありません。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神の受け入れられるのです。神がイエス・キリストによって、この方こそ、すべての人の主です。平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなた方に伝えます。神は聖霊と力によって、イエス・キリストに油を注がれた者としてくださいました。イエス・キリストは方々を歩いて人々を助け、悪魔に苦しまれていた人々をすべて癒されました。神が共にいてくださったからです」と。

 ペトロは、イエス・キリストの働きについて話しています。イエス・キリストは神の言葉を語り、多くの苦しめる人々をその奇跡の力によって癒してくださいました。そして、エルサレムで起ったイエス・キリストの十字架の死について話していきます。ペトロは、「私たちは、イエス・キリストがエルサレムでなさったすべてのことの証人です。人々はイエス・キリストを木にかけて殺してしまいました。しかし、神はこのイエス・キリストを3日目に復活させ、人々の前に現わしてくださいました。しかし、それは民全体ではなく、前もって神の選ばれた証人、つまり、イエス・キリストが死者の中から復活した後、御一緒に食事をした私たちに対してです」といいます。ペトロはコルネリウスに、イエス・キリストの歩みを丁寧に説明し、特に、エルサレムで起ったイエス・キリストの十字架の死を話しています。イエス・キリストの死は、そこにいたすべての人々に知らせました。

 しかし、イエス・キリストは十字架の死から3日目に復活してくださったのです。この時に、復活のイエス・キリストに出会った人々は、すべての人々ではありませんでした。それは、イエス・キリストの弟子たち、復活されたイエス・キリストは、自ら進んで弟子たちにあってくださいました。裏切られても、見捨てられても、出会ってくださいました。ガリラヤ湖畔で、悲しむ弟子たちに、自らの復活の姿で出会ってくださり、一緒に食事もしてくださったのです。ペトロは、御一緒に食事をした私たちに対してですと告白しています。

 それから、イエス・キリストを通しての救いの意味を話していきます。ペトロは、「イエス・キリストはご自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、私たちにお命じになりました」と、話します。

 ここに、イエス・キリストは、生きている者と死んだ者との審判者であるお方であるとペトロがいっています。マタイ25:31~46では、イエス・キリストが再臨する時に、すべての国の人々は、イエス・キリストの前に集まられると書かれてあります。羊飼いが羊と山羊を分かるように、人々も右と左に分かられるといいます。右に分けられた人々は神の祝福が与えられ、左側に分けられた人々は神から呪いを受けるとあります。神の祝福として、永遠の命が与えられ、神の呪いとして、永遠の罰を受けるとなっています。

 聖書には、最後の審判という考えがあります。イエス・キリストが再臨する時に、すべて生きている者と死んだ者は、イエス・キリストのみ前に立たせられる。そこで、生前にどのように生きたのかという最後の審判を受けることになります。人間の罪のために、すべての人々はすべて神の呪いを受けるしかなかったのですが、イエス・キリストが十字架にかかって死んで、3日目に復活してくださったこと、自分の罪を赦して下さったことを信じ、告白し、洗礼を受けることによって、罪が赦された者となって、神の祝福に入ることができるのです。この最後の審判の時に、イエス・キリストの贖いがあることによって、イエス・キリストを信じる者には、神の祝福に預かることができる。つまり、神の祝福として、永遠の命に預かることができる者とされていくのです。そのことをペトロは、コルネリウスに丁寧に語っていきます。

 最後に、ペトロは「また、預言者も皆、イエス・キリストについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが与えられる、と証しています」と、告げています。このイエス・キリストの救いと、キリストの再臨の時に、最後の審判のことを、コルネリウスに告げるのです。今まで、ユダヤ人だけに語られていたことが、ここで初めて、異邦人にも語られているのです。神の救いとは、本当は厳しい内容だと私は思います。神によって造られた私たち1人1人は、その神によって与えられた自由意志によって、自分がその生涯で、神に対して、どのように生きていたのかが問われているのです。それが、キリストの再臨の時に、最後の審判の時に、問われるのです。すべての人々は、神から裁きを受けることになり、永遠の罰を受けることになるのです。

 しかし、イエス・キリストが十字架について死んでくださったこと、この十字架の死と復活によって、私たちのすべての罪が赦されたのです。罪が贖われたのです。私たちはただ、このイエス・キリストの十字架の死が、私たちの罪の赦しになることを信じますといい、教会で洗礼を受けて、キリスト者になることによってのみ、最後の審判の時に、本来なら、罪が裁かれるはずなのに、キリストが、この者は、私の十字架を信じてくれた、だから、無罪であるといってくださり、神の祝福が与えられて、永遠の命を与えてくださるのです。ペトロがコルネリスに語っているイエス・キリストの救いの業の大きさ、大いなる恵みを覚えるのです。これこそが福音となっていくのです。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。あなたが、イエス・キリストを通して、してくださったことの大きな恵みに感謝します。この神の愛にしっかりと答えることができる者として受け止めてください。心から願います。この感謝を、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。


8月7日の祈祷会の内容です。

2024-08-06 19:43:00 | 日記
祈祷会     士師記7:15~25「ギデオンと300人」    2024.8.7

 8月6日は、広島に原爆が投下されて79年目を迎えました。昨日の朝からNHKでその記念式典の様子が放送されていました。一発の原爆で、一瞬にして多くの人々の命を奪ってしまいました。それまであったに日常生活が一瞬にして奪われてしまったのです。原爆慰霊碑には「安らかに眠ってください。過ちは繰返しませぬから」と書かれてあります。戦争というのがいかに愚かで、多くの人々の命を奪い、多くの人々に苦しみを与えるのかを何度も経験して来ました。二度と同じ過ちは繰り返さないという誓いが込められています。現在はどうでしょうか。

 士師記を学んでいます。士師記6~8章は、士師ギデオンの話になります。イスラエルとミディアンとの戦いのことが書かれてあります。ミディアン人は約13万5千人の兵士、イスラエルは3万2千人の兵士で戦うことになります。話の始まりは、イスラエルの人々が神の目に悪とされることを行ったからです。先住民と交わり、先住民の拝む神々を拝んでしまったからです。神は怒り、イスラエルの敵としてミディアン人を送りました。ミディアン人からの苦しみを受けて、イスラエルの人々は神に助けを求めて叫ぶのです。イスラエルの人々の叫びを聞いて、神は士師としてギデオンを送るのです。ギデオンは立ち上がって、イスラエルの人々を率いて、ミディアン人と戦うことになります。

 圧倒的な数のミディアン人を前にして、ギデオンの導かれたイスラエルの人々はどのような気持ちだったのでしょうか。敵13万5千人に対して味方は、3万2千人です。ギデオンもイスラエルの人々ももっと戦う仲間が欲しかったと思います。しかし、神の答えはそれと反対のものでした。数が多すぎるというのです。その理由は、あなたの民は多すぎるので、ミディアン人とその手に渡すわけにはいかないといいます。渡せば、イスラエルの人々は神に向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったというからだというのです。そこで、神はギデオンに、イスラエルの人々3万2千人の兵士に「今、恐れおののいている者はこの場を去れ」といいなさいといいます。そうすると、2万2千人の人々が去って行きます。残った数は1万人です。敵13万5千人たいして、自分たちは1万人です。いったい、どうなってしまうのでしょうか。それでも、神は多すぎるといいます。そして、ギデオンに、イスラエルの兵士たちを水辺に連れて行け、そして、水を飲ませよ。その水の飲み方で、戦いに出て行くべき兵士を決めるといいます。水辺に来て、多くの兵士が犬のように舌で水をなめました。膝をかがんで水を飲む者は戦いに出て行ってはならない。水を手ですくってすすった者だけが戦いに行ってもいい者だといいます。ここで残った兵士の数は300人でした。

敵ミディアン人との戦いの前に、ギデオンは300人の兵士と戦いに行くことになります。非常に不安だったと思います。戦いの前に不安になっているギデオンに対して、神は、従者プラを連れて、敵陣に下り、敵の人々が何を話しているのかを聞け、そうすれば戦いの勇気が与えられて、敵陣の中を下っていくことができるといいます。神の言葉を受けて、ギデオンは従者プラを連れて、敵陣まで下り、敵の人々が何を話しているのを聞こうとします。敵陣に下りますと、ミディアン人はイナゴのように数多く、平野に横たわっていました。らくだも海辺の砂のように数多く、数え切れなかったのです。ギデオンは聞きます。敵の1人の男が仲間に夢の話をしていました。「わたしは夢を見た。大麦の丸いパンがミディアン人の陣営に転がり込み、天幕まで達して一撃を与え、これを倒し、ひっくり返した。こうして天幕は倒れてしまった」といいます。仲間は「それは、イスラエルの者ギデオンの剣に違いない。神は、ミディアン人とその陣営を、すべてギデオンの手に渡されたと答えています。それを聞いたギデオンは大いに戦う勇気を与えられました。

ギデオンはその夢の話と解釈を聞いてひれ伏して、イスラエルの陣営に行きます。そして、「立て。神はミディアン人の陣営をあなたたちの手に渡してくださった」といいます。そして、いざ戦いになって行きます。ギデオンは300人を3つの小隊に分けます。全員に角笛と空の水がめを持たせました。その水かめの中には松明を入れさせ、彼らにいいます。「わたしを見て、わたしのするとおりにせよ。わたしが敵陣に端に着いたら、わたしとわたしの率いる者が角笛を吹いたら、あなたたちの敵陣全体を包囲して角笛を吹き、主のために、ギデオンのためにと叫ぶのだ」と。ギデオンと彼の率いる者が、深夜の更の初めに、敵陣の端に着いた時、ちょうど歩哨が位置についたところでした。彼らは角笛を吹き、水がめを砕きました。3つの小隊はそろって角笛を吹き、水がめを割って、松明を左にかざし、右手で角笛を吹き続け、「主のために、ギデオンのために剣を」と叫びました。各自持ち場を守り、敵陣を包囲したので、敵の陣営は至るところで総立ちになり、叫び声をあげて、敗走しました。300人が角笛を吹くと、神は敵の陣営の至るところで、同士討ちを起され、その軍勢は逃走して行きました。いわゆる奇襲攻撃です。夜中に、攻撃を受けて、敵陣は同士討ちをして、敗走して行きました。このような戦い方があるのだと教えられます。

ギデオンに率いられたイスラエルの勝利のことが書かれてあります。イスラエルの勝利があれば、ミディアン人の敗北があるわけです。士師記8:10には「剣を携えた兵士12万が、すでに戦士していた」とあります。戦争で、12万の兵士がすでに戦死していたとあるのをみると、深い悲しみになります。人間の歴史は、戦争の歴史といいてもいいでしょう。この戦争の歴史から学び、戦争を起さない歩みをするために必要な知恵を、私たちは学んでいるでしょうか。広島原爆投下79年目を迎えて、核兵器のない世界を目指すといいながら、核を巡る状況は悪化しています。戦争のない世界をつくるために、私たちは何が必要なのでしょうか。その知恵を神から与えられたいと心から願います。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございました。士師記より、ギデオンと300人の戦いについて見てきました。このような戦いによる勝利について知りました。一方で、日曜日には平和聖日を守りました。戦争のない世界が来ることを願いました。8月6日には広島に原爆が落とされて、79年目を迎えました。8月9日には長崎にも原爆が投下されました。そのような悲劇を忘れることがなく、戦争のない世界のために、私たちに何ができるのかをあなたからの知恵を与えて欲しいと心から願うのです。どうか、世界の平和のために、世界の戦争の終結のために祈ることができるようにしてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                             」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)


8月4日の礼拝の内容です。

2024-08-03 20:44:00 | 日記
8月4日の礼拝の内容です。讃美歌は、58.351.371.372.26です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/crq5BXAIpE4?feature=shareです。

礼拝説教     使徒10:34~38「キリストによる平和」    2024.8.4

 8月の最初の日曜日を迎えました。日本基督教団の教会暦では、平和聖日となっています。もう79年前になります。日本は敗戦を迎えました。この戦争で、約300万人がなくなったといわれています。戦争全体では、どのくらいの人々がなくなったのでしょうか。多くの人々の死と多くの悲しみをもたらしました。特に、私たちは8月6日の広島での原爆投下、8月9日の長崎の原爆投下、そして8月15日の終戦の時を迎えました。戦争を体験した人と、私のように戦争を体験していない人では、戦争に悲惨さに対する思いは違うと思います。経験していないことでも戦争の悲惨さを知り、戦争をしてはいけないことを伝えていく必要があります。

 前に勤めていた平和学園では、毎年8月6日前後に、広島平和の旅というものを実施していました。特に、8月6日の広島で記念式典に参加することがメインでした。その時に、広島平和資料館に行き、被爆の様子を知り、日本基督教団広島教会の礼拝に出席します。その後、広島教会の方から被爆体験を聞くことなどを生徒と共にしていました。もうすでに亡くなった方ですが、その方の被爆体験を聞いた時には、原爆の悲惨さを深く知ることができました。二度とあってはならないことだと思いました。

 平和聖日を覚える時に、私たちは何をすることができるでしょうか。平和への祈りです。今、世界ではウクライナとロシア、パレスチナのガザでの戦争のことを覚えます。1日も早く、戦争が終ることを神に祈っていきましょう。

 今日は、使徒言行録からキリストの平和について考えていきたいと思います。使徒言行録は、初期のキリスト教の様子を描いています。聖霊を受けた弟子たちが、イエス・キリストの福音を同胞のユダヤ人に伝えていきます。使徒10章から、ここからは新しい展開に入って行きます。それは、イエス・キリストの福音がユダヤ人から異邦人に伝えられていくということです。これは簡単なことではなかったのです。多くの困難や課題がありました。でも、その困難や課題を乗り越えて、イエス・キリストの福音が伝えられていくのです。使徒言行録の中心は、イエス様の弟子たちかと思えば、そうではなく、聖霊の働きです。

神ご自身が行動して行くのです。イエス・キリストの福音が初めて、異邦人に伝えられていくといいました。最初の人物がカイサリアに住んでいたローマの百人隊長コルネリウスでした。コルネリウスは、神への信仰心があつく、一家そろって神を畏れ、ユダヤ人の多くの施しをし、絶えず神に祈っていたのです。最初に、聖霊はコルネリウスに働きかけます。午後3時の祈りの時に、天使が「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられている。今、人を送ってヤッファにいるペトロを呼びなさい」といいます。その天使の声を聞いたコルネリウスは3人を送りました。

今度は、ペトロに働きかけます。ペトロは祈るために屋上に上がって行きました。昼の12時ごろでした。ペトロは空腹を覚え、何か食べたいと思いました。階下では人々が食事の準備をしているのです。ペトロは幻をみます。天が開いて、大きな布のような入れ物が、四隅につるされて地上に下りて来るのを見るのです。そこには、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていました。天使は「ペトロよ、身を起して、屠って食べなさい」といいました。旧約聖書のレビ記11章には、清いものと汚れているものの区別が書かれてあります。具体的には、食べてもよいものと食べてはならないものと分けられているのです。ペトロをはじめユダヤ人は、ずっとその決まりを守って来ました。食べてはならないものは食べてこなかったのです。

旧約聖書では、神の前に、清いものと汚れているものを分けることが求められていました。日常生活の中で、そのことを意識するために、食生活というのでしょうか。食べてもよいもの食べてはならないものと厳格に分けていたのです。ユダヤ人たちは、その教えをしっかりと守って来たといわれています。ペトロのその食べてよいものと食べてはならないものを区別していて、「主よ、とんでもないことです。清くないもの、汚れたものは何一つ食べたことがありません」とはっきりと答えています。ここから神は大きな計画の変更を行うのです。天使は「神が清めたものを、清くないなどと、あなたはいってはならない」と答えています。このようなことが3回ありました。その3回の幻が示されたことで、ペトロはその幻の意味を考えるようになっていきます。

そのペトロのもとへコルネリウスから送られた3人が着きます。天使はペトロに「わたしが彼らをよこした。ためらわないで一緒に出発しなさい」といいます。そこで、ペトロは3人を迎え入れ、泊まらせました。次の日にペトロはその3人とカイサリアで待っているコルネリウスのもとに向かって行くのです。カイサリアでは、ペトロの到着を待っているコルネリウスがいました。コルネリウスは親類や親しい人を呼び集めて待っていたのです。ここでペトロとコルネリウスの出会いです。ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝みました。ペトロはコルネリウスを起して、「お立ちください。わたしもただの人間です」と答えます。ペトロが周りをみると、大勢の人々が集まっていました。そこでペトロは「あなたがたも知っているとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くないものとか、汚れているものといってはならないと、お示しになりました。だから、来たのです」といいます。コルネリウスはペトロに「よくおいでくださいました。今、わたしたちは皆、神があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです」と答えています。

ユダヤ人のペトロだけでは、神の大きな変更を受け止めることができませんでした。しかし、聖霊を通して、いや天使を通して、その神のご計画の変更を受け止めることができるようになっていくのです。ずっと守ってきたものを、急に変更することを受け止めることは難しいものでした。しかし、聖霊はそれを乗り越えることができる力をペトロに与えたのでした。そして、ここからペトロがコルネリウスに初めて、異邦人のための説教を行うのです。イエス・キリストの福音を伝えていくのです。

ペトロは「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れ正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。神がイエス・キリストによって、この方こそ、すべての人の主です。平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存じでしょう。」と語っていきます。

ヤッファでペトロが見た幻がありました。昼の12時ごろ、祈るために屋上に上ったのです。ペトロは空腹を覚え、何か食べたいと思いました。人々は食事の準備をしているのです。ペトロは自分を忘れたようになり、天が開き、大きな布のような入れ物が四隅に吊るされて、地上に下りて来るのを見るのです。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていました。そして、天使が「ペトロよ、身を起し、屠って食べなさい」といいます。ペトロは「主よ、とんでもないことです。清くないもの、汚れたものは何一つ食べたことがありません」と答えます。すると、天使は「神が清めたものを清くないなどと、あなたはいってはならない」と答えています。このようなやり取りが3回ありました。このやり取りは、神の大きな計画の中にあったのです。これは変更というのではなく、最初から神によって、計画されていたことでした。

神の救いは、ユダヤ人を通して、すべての人々に及んでいくということです。ユダヤ人に与えられていた神の救いが、ユダヤ人を通して、すべての人々、すべての異邦人に及んでいくのです。神の救いは、ペトロからコルネリウスへ、そして、すべての人々に伝えられていくというのです。キリストの平和を考える時に、このように神の救いが、すべての人々に与えられていく。イエス・キリストの福音がユダヤ人から異邦人へ伝えられていく。このことが本当の平和だと私は考えます。もちろん、戦争がないことや戦争が終ることが平和になるということです。それ以上に、イエス・キリストの福音が、すべての人々に与えられていく、伝えられていくことが、神が与えてくださる真の平和です。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。私たちは平和聖日を守りました。今から79年前の悲劇を決して忘れることがありませんように、同じ過ちを繰り返すことがありませんように守り導いてください。今、世界で起っている戦争を止めてください。私たちはそのことを祈ることしかできません。これ以上に悲しみを増やすことがありませんように、心から願います。イエス・キリストの福音がすべての人々に伝えられていきます。神の平和が与えられていくことに深く感謝します。この感謝を、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。