7月20日の礼拝の内容です。讃美歌は、18.56.459.470.29です。
礼拝のオンライン配信は、「瀬戸永泉教会」YouTubeチャンネルから入ってください。
礼拝説教 使徒17:10~15「聖書を調べる喜び」 2025.7.20
7月の第3日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを神に心から感謝したいと思います。この礼拝を通して、私たちの1週間の歩みがより豊かなものとなりますようにと心か願います。
使徒言行録を読んでいます。使徒言行録はキリスト教の最初の歩みを書いています。イエス・キリストの福音がエルサレムから始まって、当時の世界の中心であるローマまで伝えられていきます。今読んでいるのは、パウロによる第2回伝道旅行の様子を見ています。この第2回伝道旅行は、イエス・キリストの福音がアジアからヨーロッパにまで伝わっていきます。フィリピ、テサロニケ、そしてベレヤです。このパウロらによる伝道旅行ですが、厳しく困難な道のりだと思います。フィリピでは、1人の占いの霊に取りつかれた女性を助けたことによって、着ている物を脱がされて、鞭打ち、投獄を味わいました。テサロニケでは、パウロらの宣教によって、神をあがめる多くのギリシャ人や、かなりの数のおもだった婦人たちも信仰に入っていきました。しかし、ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起し、町を混乱させて、キリスト者になったヤソンの家を襲い、パウロたちを民衆の前に引き出そうとして捜しました。しかし、パウロたちが見つからなかったのです。実は教会の兄弟たちが、直ちに夜のうちにパウロたちをベレアに送り出しました。ベレアでは、テサロニケのユダヤ人たちがベレアでもパウロによって、神の言葉が宣べ伝えられていることを知ると、そこへ押しかけて来て、群衆を扇動し騒がせたのです。それで、教会の兄弟たちは直ちにパウロを送り出すのです。このような困難は宣教活動が行われています。
イエス・キリストの福音を伝えることはパウロたちにとって命がけでした。イエス・キリストの福音を語ることによって、信じる者たちが多く与えられていくことは幸いなことでした。しかし、ユダヤ人たちなどの反対にあい、迫害を受けることになっていきます。このパウロたちの働きを見ると、本当にすごいなあと思ってしまいます。自分ならできない、こんなに危険なことが待っているのなら、逃げてしまうかもしれないと思ってしまいます。それでも、どんなに厳しい迫害を受けても、パウロたち前に進んでいきます。イエス・キリストの福音を語るために、自分のすべてをかけているのです。それがパウロたちにとって幸せなことなのでしょう。
今日はベレヤでも出来事をみることになります。パウロたちはベレヤに到着すると、いつものようにユダヤ人の会堂に入って行きます。このベレヤのユダヤ人の特徴が出ています。「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人より素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた」(17:11)という内容です。その結果として、「そのうちに多くの人々が信じ、ギリシャ人の上流婦人や男たちも少なからず信仰に入った」(17:12)ということです。
このベレヤのユダヤ人の特徴はとても素晴らしいものです。「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人より素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた」(17:11)という内容です。ここを読んでいて、いろいろなことを考えてしまいました。この出来事は今から2000年前のことです。聖書というのは、当然、旧約聖書になるはずです。ベレヤのユダヤ人が非常に熱心に御言葉を受け入れていたということです。ただ、一方的に受け入れていたわけではなくて、その内容が本当かどうかを、毎日、聖書を調べていたということです。今のように、聖書が数多く印刷されて、誰でもが自由に聖書を手にすることは難しい状況でした。だから、指導者からいわれた神の教えを、多くの人々はそのまま受け入れるしかないのかと考えてしまいます。しかし、そうではないということです。
自分たちの視点で、聖書の言葉を読み、毎日、聖書を調べていたということです。どうして毎日、聖書を読むことができたのだろうか。どうしてと不思議に思ってしまいます。ふと、想像すると、ユダヤ人の会堂の責任者たちが、1つの聖書を持っていて、それを毎日出して、ある程度自由に読むことができたのではないと考えます。それでも、多くの人々が、1つの聖書を自由に読むことは困難なのではないと思います。当時のユダヤ人たちは、どれほどの人々が文字を読むことができたのでしょうか。更に、誰でもが自由に聖書を手にして、読むことができたとしても、どうして、旧約聖書と、パウロが語るイエス・キリストがつながっていると思うことができたのでしょうか。
さて、私たちのことを考えてみたいと思います。今、私たちは誰でもが自由に聖書を手にして、読むことができています。では、どれくらい聖書を読んでいるのでしょうか。私たちが手にしている聖書は、すごいあついです。見てください。こんなにもあつく、多くの内容があります。私たちは聖書を読むとしても、新約聖書を中心に読んでいると思います。いかがでしょうか。そうではなくて、すべて読んでいるという人もいるでしょう。でも、どうしても新約聖書は、イエス・キリストのことが中心に書いてあるとので読みやすく、読んでいるというのが一般的だと思います。教会の説教でも、新約聖書が読まれて、そこから説教がなされることが多いと感じています。これは、私の勝手な偏見かもしれません。どうしても、旧約聖書はあつく、そして、戦争の記事が多く書いてあるので、避けてしまう傾向があるのではないでしょうか。また、内容も多岐に渡り、読むこと事態が困難として、避けられることが多いのです。
私は今、日曜日の礼拝は新約聖書、そして祈祷会は旧約聖書として読み続けています。今、祈祷会ではサムエル記上を読み続けています。毎週、教会の皆様にメールやラインで内容を送っています。ただ、希望されていない方には送っていませんが。先週の水曜日の内容は、サムエル記上15:1~17のところでした。神はサムエルと通して、サウル王にアマレク人に対する聖戦のことがいわれています。少し、読ませていただきます。
サムエル記上15:1~3
サムエルはサウルに言った。「主はわたしを遣わして、あなたに油を注ぎ、主の民イスラエルの王とされた。今、主が語られる御言葉を聞きなさい。万軍の主はこう言われる。イスラエルがエジプトから上って来る道でアマレクが仕掛けて妨害した行為を、わたしは罰することにした。行け。アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない。」
ここでは神がサムエルを通して、サウル王に、アマレク人を討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない。アマレク人を一切、滅ぼし尽くせというのです。その理由が、イスラエルがエジプトから上って来る道でアマレクが仕掛けて妨害した行為があったからというのです。この聖戦ということが、現在の今、イスラエルとハマスの戦い、ガザで起っていることと重なってしまいます。ますます、旧約聖書とパウロの宣教の内容の関りが分からないということになってしまいます。
これからは私の想像ですが、旧約聖書はこのような聖戦の考えだけではありません。聖戦の考え方はありますが、ほんの一部に過ぎません。おそらく、ベレヤの人々は、イザヤ書53章を読んでいたと考えます。
イザヤ書53:3~5
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。
ここから、この神の僕が、イエス・キリストだと理解することができたのではないか、それは、毎日、ベレヤの人々が聖書に触れて、読み、調べることができた環境があったからだと思います。私たちはベレヤのユダヤ人より、恵まれた環境あります。各自が聖書を持っています。そして、自由に聖書を読み、調べることができています。分からないことがあれば教会の仲間に聞くこともできます。今は、スマホを使って自由に検索し、調べることができます。このことに感謝し、聖書を読む時を大切にしていきましょう。私は自分が牧師になったことを感謝しています。仕事とはいえ、毎日、聖書を読むことができるからです。そして、聖書から多くの恵みをいただいています。旧約聖書を読むことは忍耐と困難があります。でも、祈祷会では旧約聖書を読み続けています。多くの人に祈祷会に参加してほしいと願っています。一緒に聖書を読み、祈り合っていきたいと願います。
祈り 神よ、あなたのことを多くの方がと共に礼拝することができましたことを心から感謝します。ベレヤのユダヤ人のことをみてきました。毎日、聖書を読み、あなたの恵みをより深く知ることができていました。私たちも、ベレヤのユダヤ人に習い、聖書を読み、あなたの恵みをより深く知ることができますように、聖書を読む楽しみを見い出すことができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。