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7月20日の礼拝の内容です。

2025-07-19 20:22:00 | 日記
7月20日の礼拝の内容です。讃美歌は、18.56.459.470.29です。
礼拝のオンライン配信は、「瀬戸永泉教会」YouTubeチャンネルから入ってください。

礼拝説教      使徒17:10~15「聖書を調べる喜び」  2025.7.20

 7月の第3日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを神に心から感謝したいと思います。この礼拝を通して、私たちの1週間の歩みがより豊かなものとなりますようにと心か願います。

 使徒言行録を読んでいます。使徒言行録はキリスト教の最初の歩みを書いています。イエス・キリストの福音がエルサレムから始まって、当時の世界の中心であるローマまで伝えられていきます。今読んでいるのは、パウロによる第2回伝道旅行の様子を見ています。この第2回伝道旅行は、イエス・キリストの福音がアジアからヨーロッパにまで伝わっていきます。フィリピ、テサロニケ、そしてベレヤです。このパウロらによる伝道旅行ですが、厳しく困難な道のりだと思います。フィリピでは、1人の占いの霊に取りつかれた女性を助けたことによって、着ている物を脱がされて、鞭打ち、投獄を味わいました。テサロニケでは、パウロらの宣教によって、神をあがめる多くのギリシャ人や、かなりの数のおもだった婦人たちも信仰に入っていきました。しかし、ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起し、町を混乱させて、キリスト者になったヤソンの家を襲い、パウロたちを民衆の前に引き出そうとして捜しました。しかし、パウロたちが見つからなかったのです。実は教会の兄弟たちが、直ちに夜のうちにパウロたちをベレアに送り出しました。ベレアでは、テサロニケのユダヤ人たちがベレアでもパウロによって、神の言葉が宣べ伝えられていることを知ると、そこへ押しかけて来て、群衆を扇動し騒がせたのです。それで、教会の兄弟たちは直ちにパウロを送り出すのです。このような困難は宣教活動が行われています。

 イエス・キリストの福音を伝えることはパウロたちにとって命がけでした。イエス・キリストの福音を語ることによって、信じる者たちが多く与えられていくことは幸いなことでした。しかし、ユダヤ人たちなどの反対にあい、迫害を受けることになっていきます。このパウロたちの働きを見ると、本当にすごいなあと思ってしまいます。自分ならできない、こんなに危険なことが待っているのなら、逃げてしまうかもしれないと思ってしまいます。それでも、どんなに厳しい迫害を受けても、パウロたち前に進んでいきます。イエス・キリストの福音を語るために、自分のすべてをかけているのです。それがパウロたちにとって幸せなことなのでしょう。

 今日はベレヤでも出来事をみることになります。パウロたちはベレヤに到着すると、いつものようにユダヤ人の会堂に入って行きます。このベレヤのユダヤ人の特徴が出ています。「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人より素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた」(17:11)という内容です。その結果として、「そのうちに多くの人々が信じ、ギリシャ人の上流婦人や男たちも少なからず信仰に入った」(17:12)ということです。

 このベレヤのユダヤ人の特徴はとても素晴らしいものです。「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人より素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた」(17:11)という内容です。ここを読んでいて、いろいろなことを考えてしまいました。この出来事は今から2000年前のことです。聖書というのは、当然、旧約聖書になるはずです。ベレヤのユダヤ人が非常に熱心に御言葉を受け入れていたということです。ただ、一方的に受け入れていたわけではなくて、その内容が本当かどうかを、毎日、聖書を調べていたということです。今のように、聖書が数多く印刷されて、誰でもが自由に聖書を手にすることは難しい状況でした。だから、指導者からいわれた神の教えを、多くの人々はそのまま受け入れるしかないのかと考えてしまいます。しかし、そうではないということです。

 自分たちの視点で、聖書の言葉を読み、毎日、聖書を調べていたということです。どうして毎日、聖書を読むことができたのだろうか。どうしてと不思議に思ってしまいます。ふと、想像すると、ユダヤ人の会堂の責任者たちが、1つの聖書を持っていて、それを毎日出して、ある程度自由に読むことができたのではないと考えます。それでも、多くの人々が、1つの聖書を自由に読むことは困難なのではないと思います。当時のユダヤ人たちは、どれほどの人々が文字を読むことができたのでしょうか。更に、誰でもが自由に聖書を手にして、読むことができたとしても、どうして、旧約聖書と、パウロが語るイエス・キリストがつながっていると思うことができたのでしょうか。

 さて、私たちのことを考えてみたいと思います。今、私たちは誰でもが自由に聖書を手にして、読むことができています。では、どれくらい聖書を読んでいるのでしょうか。私たちが手にしている聖書は、すごいあついです。見てください。こんなにもあつく、多くの内容があります。私たちは聖書を読むとしても、新約聖書を中心に読んでいると思います。いかがでしょうか。そうではなくて、すべて読んでいるという人もいるでしょう。でも、どうしても新約聖書は、イエス・キリストのことが中心に書いてあるとので読みやすく、読んでいるというのが一般的だと思います。教会の説教でも、新約聖書が読まれて、そこから説教がなされることが多いと感じています。これは、私の勝手な偏見かもしれません。どうしても、旧約聖書はあつく、そして、戦争の記事が多く書いてあるので、避けてしまう傾向があるのではないでしょうか。また、内容も多岐に渡り、読むこと事態が困難として、避けられることが多いのです。

 私は今、日曜日の礼拝は新約聖書、そして祈祷会は旧約聖書として読み続けています。今、祈祷会ではサムエル記上を読み続けています。毎週、教会の皆様にメールやラインで内容を送っています。ただ、希望されていない方には送っていませんが。先週の水曜日の内容は、サムエル記上15:1~17のところでした。神はサムエルと通して、サウル王にアマレク人に対する聖戦のことがいわれています。少し、読ませていただきます。

サムエル記上15:1~3
サムエルはサウルに言った。「主はわたしを遣わして、あなたに油を注ぎ、主の民イスラエルの王とされた。今、主が語られる御言葉を聞きなさい。万軍の主はこう言われる。イスラエルがエジプトから上って来る道でアマレクが仕掛けて妨害した行為を、わたしは罰することにした。行け。アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない。」

 ここでは神がサムエルを通して、サウル王に、アマレク人を討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない。アマレク人を一切、滅ぼし尽くせというのです。その理由が、イスラエルがエジプトから上って来る道でアマレクが仕掛けて妨害した行為があったからというのです。この聖戦ということが、現在の今、イスラエルとハマスの戦い、ガザで起っていることと重なってしまいます。ますます、旧約聖書とパウロの宣教の内容の関りが分からないということになってしまいます。

 これからは私の想像ですが、旧約聖書はこのような聖戦の考えだけではありません。聖戦の考え方はありますが、ほんの一部に過ぎません。おそらく、ベレヤの人々は、イザヤ書53章を読んでいたと考えます。

イザヤ書53:3~5
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。

 ここから、この神の僕が、イエス・キリストだと理解することができたのではないか、それは、毎日、ベレヤの人々が聖書に触れて、読み、調べることができた環境があったからだと思います。私たちはベレヤのユダヤ人より、恵まれた環境あります。各自が聖書を持っています。そして、自由に聖書を読み、調べることができています。分からないことがあれば教会の仲間に聞くこともできます。今は、スマホを使って自由に検索し、調べることができます。このことに感謝し、聖書を読む時を大切にしていきましょう。私は自分が牧師になったことを感謝しています。仕事とはいえ、毎日、聖書を読むことができるからです。そして、聖書から多くの恵みをいただいています。旧約聖書を読むことは忍耐と困難があります。でも、祈祷会では旧約聖書を読み続けています。多くの人に祈祷会に参加してほしいと願っています。一緒に聖書を読み、祈り合っていきたいと願います。

祈り 神よ、あなたのことを多くの方がと共に礼拝することができましたことを心から感謝します。ベレヤのユダヤ人のことをみてきました。毎日、聖書を読み、あなたの恵みをより深く知ることができていました。私たちも、ベレヤのユダヤ人に習い、聖書を読み、あなたの恵みをより深く知ることができますように、聖書を読む楽しみを見い出すことができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


7月16日の祈祷会の内容です。

2025-07-15 21:19:00 | 日記
祈祷会      サムエル記上15:1~17「神に従うということ」    2025.7.16

 神は、ここでサムエルを通して、サウルにアマレク人との戦いをするように命じています。サムエルはサウルに「主はわたしを遣わして、あなたに油を注ぎ、主の民イスラエルの王とされた。今、主が語られる御言葉を聞きなさい」といいます。そして、具体的に「イスラエルがエジプトから上って来る道でアマレクが仕掛けて妨害した行為を罰することにした。行け。アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない」(15:2~3)といいます。

 ここでは聖戦という考えがあります。この聖戦という考え方に、私たちは戸惑いと、どうして愛なる神が、このような残酷なことをいうのだろうかと考えてしまいます。一般の人々が聖書を読む時に、1つのつまずきにもなっていると思います。現在起っているイスラエルとハマスとの戦い、ガザで起っているニュースなどを見て聞いて悲しく思ってしまっています。この聖戦の考えが、今のイスラエルとハマスとの戦いで起っていること、一切を滅ぼせという命令がイスラエルの攻撃で、ガザで起っていると見てしまうからです。

 この聖戦という考え方は、旧約聖書に出てきます。創世記22章にはアブラハムがその息子イサクをささげる場面が出てきます。アブラハムとサラに与えられた1人息子イサク、それはアブラハムの希望でした。アブラハムもサラも高齢になって、息子を与えるという神の約束があっても、なかなか実現できなかったことがあり、アブラハムもサラも、神の約束の実現を信じていませんでした。それでも、神はその約束が実現したのです。イサクを与えるということが実現したことは大きな希望となっていきました。それを神はアブラハムから奪うように、息子イサクを焼き尽くすささげものとしてささげよとの命令がありました。それをアブラハムは神の言葉に従い、ささげようとします。その時に、神はアブラハムの行為を止めて、アブラハムの神への信仰を試したことがありました。ここから学ぶことは、すべてのものは神のものであるということです。私も、その家族も、持っているものも、この世のすべては神のものであるということです。その神への思いが、聖戦という形であるのだと思います。

 このアマレクをすべて滅ぼせという神の命令を、サウルは従うことがここで求められているのです。実際は従わないことで、サウルは神に捨てられて、サムエルに捨てられて悲しい最後と遂げるようになっていきます。イスラエルの人々がエジプトを出た時に、アマレク人との戦いになった記事(出エジプト記18:8~16.申命記25:17~19)から、このように神の言葉が出て来たのです。

 いよいよ、サウルのイスラエルとアマレク人との戦いになっていきます。サウルが兵士を招集しています。歩兵が20万、ユダの兵は1万となっています。何と数の多いことだと思います。サウルは戦いの前にカイン人にアマレクの地から出て行くようにいいます。その理由は、イスラエルの人々がエジプトから出た時に、親切にしてくれたというものでした。カイン人はアマレクの地から立ち退きます。サウルはアマレク人を討ちます。アマレクの王アガグを生け捕りにし、その民をことごとく剣にかけて滅ぼしました。しかし、サウルと兵は、アガグ、および羊と牛の最上のもの、初子ではない肥えた動物、小羊、その他何でも上等なものは惜しんで滅ぼし尽くさず、つまらない、値打のないものだけを滅ぼし尽くしました。神がサムエルとサウルにいった言葉を守らなかったのです。サウルと兵は、目の前に家畜などの上等なものは欲しくなって、自分たちのものとしました。つまらないものは、どうでもいいので、滅ぼし尽くしたということなっていきました。

 主はサムエルに「わたしはサウルを王として立てたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしの命令を果たさない」と告げます。その神の悔やむ思いを聞いたサムエルは、深く心を痛め、夜通し主に向かって叫んだというのです。神とサムエルの思いをどのように受け止めればいいのでしょうか。

 サムエルがサウルと会おうとすると、「サウルはカルメルに行って自分のために戦勝碑を建て、そこからギルガルに向かって下った」という知らせが届きました。サウルは何と、アマレク人との戦いの勝利に、この勝利は自分の功績として受け止め、自分のための戦勝碑を建ててしまうのです。

 サムエルがサウルにあうと、サウルはサムエルに「主の御祝福があなたにありますように。わたしは主の御命令を果たしました」と答えています。サムエルは「それなら、わたしの耳に入るこの羊の声、わたしが聞くこの牛の声は何なのか」とサウルに聞きます。サウルは「兵士がアマレク人のもとから引いて来たのです。彼らは主への供え物にしようと、羊と牛の最上のものを取って置いたのです。他のものは滅ぼし尽くしました」と答えます。サウルは、最上の羊や牛を残したのは兵士のしたことで、それも神へのささげものにするためだったといっています。サウルは自分の罪を認めていません。兵士のせいにしています。サムエルはサウルに「やめなさい。あなたにいわねばならないことがある。昨夜、主がわたしに語れたことだ」といいます。サウルは「お話ください」と答えます。サムエルは「あなたは、自分自身の目には取るに足らぬ者と映っているかもしれない。しかしあなたはイスラエルの諸部族の頭ではないのか。主は油を注いで、あなたをイスラエルの王とされた」といって、その後、神の言葉を語っていきます。

 サウルは神の言葉に聞き従おうとしていません。サウルは表面的には神に従おうとしていますが、実際には、自分の思いを優先していっています。そのために神に捨てられていくことになっていきます。ここでサウルが神から求められていることは神の言葉に従うということです。徹底的にです。そのことが求められています。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございました。聖戦、神にすべてを従うということがここで求められていることを学びました。イスラエルにサウルが王と立てられました。神ご自身がサウルを王として選ばれたのです。その神がサウルを王として立てたことを嘆いているのです。どうして、サウルは神の言葉に聞き従うことができなかったのでしょうか。サウルも思いを知り、神に従う意味を考えさせてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                             」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)


7月13日の礼拝の内容です。

2025-07-12 20:10:00 | 日記
7月13日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.211.430.459.26です。
礼拝のオンライン配信は、「瀬戸永泉教会」YouTubeチャンネルから入ってください。

礼拝説教      使徒17:1~9「死者の中からの復活」     2025.7.13

 がん哲学外来という言葉を聞いたことがありますか。教会では、10月19日の教会創立137周年記念日礼拝の時に、特別講演会として、がん哲学外来の提唱者である樋野興夫先生とお呼びして、お話を聞く予定です。今回の企画は、教会の皆様に、がん哲学外来のことを知って欲しいと願いがあります。がん哲学外来のことは、信徒の友で何度か特集されました。がん哲学外来については、そのホームページの最初に次のような言葉が書かれてあります。

多くの人は、自分自身または家族など身近な人ががんにかかったときに初めて死というものを意識し、それと同時に、自分がこれまでいかに生きてきたか、これからどう生きるべきか、死ぬまでに何をなすべきかを真剣に考えます。一方、医療現場は患者の治療をすることに手いっぱいで、患者やその家族の精神的苦痛まで軽減させることはできないのが現状です。そういった医療現場と患者の間にある“隙間”を埋めるべく、「がん哲学外来」が生まれました。科学としてのがんを学びながら、がんに哲学的な思考を取り入れていくという立場です。そこで、隙間を埋めるために、病院や医療機関のみならず、集まりやすい場所で、立場を越えて集う交流の場をつくることから活動を始めました。2009年、この活動を全国へ展開をしていくことを目指し、樋野興夫を理事長に「特定非営利活動法人(NPO法人)がん哲学外来」を設立しました。2011年には、隙間を埋める活動を担う人材の育成と活動を推進するために「がん哲学外来市民学会」が市民によって設立されるとともに、「がん哲学外来コーディネーター」養成講座も始まりました。こうして、がん哲学外来が“対話の場”であるメディカルカフェという形で全国に広がり、現在ではメディアで取り上げられるほど注目されるようになりました。また、地域の有志による運営、病院での常設などのほか、さまざまな形で協力してくださる企業も増えてきました。

以上が、がん哲学外来のホームページで出て来る「がん哲学外来とは何か」という文章の一部です。人が自分や家族ががんになった時に、どう対処すべきかということを話し合うカフェという形で行われています。私は今、愛知国際病院のホスピスでチャプレンとして働いていますが、患者さんや家族、またはスタッフとの関りの中でいろいろなことを考える機会をいただいています。自分や家族ががんになるということは死を考えることになります。普段には考えることを避けていた死を、どうしても考える必要性を受け止めることになります。私は、10月19日の講演会の準備として、日本キリスト教団金城教会を会場として行われているがん哲学金城カフェに、今年1月から行くようになりました。第3火曜日の午後に行われています。カフェの中心は、1つが4.5人のグループになって、その中で自由に話すことができます。その中にはがんの方やその家族の方々にいて、それぞれの思いを語ってくださいます。誰かに話すことによって、少しでも前向きな思いになることができると思います。ホスピスでも患者さんや家族の思いを聞く中で、死への恐怖が口から出てきます。死にたくない。死が怖い。素直な思いです。考えてみれば、誰もが死を迎える時がやって来るのですが、いざ、その時になると、本当に辛いものだと感じています。

少し、がん哲学外来の話が長くなってしまい、申し訳ありません。今日の使徒言行録の内容は、パウロの第2回伝道旅行、テサロニケでの伝道の様子が書かれてあります。イエス・キリストの福音がアジアからヨーロッパに伝えられていきます。ヨーロッパの最初の地は、フィリピでした。このフィリピの場所で、ユダヤ人の祈りの場である川で、リディアという女性に出会いました。このリディアの家がフィリピの教会の拠点となっていくのです。パウロたちは1人の女性を助けたために、ひどい目にあいました。裸にされて激しい鞭打ちを受け、牢に閉じ込められました。不思議な神の導きがあって、牢の看守と家族の救いのことが書かれてありました。その後、テサロニケに行くのです。テサロニケでは、ユダヤ人の会堂がありました。パウロはいつものように、ユダヤ人が集まっている場所に入って行きました。このユダヤ人の会堂には、ユダヤ人だけではなく、神をあがめる多くのギリシャ人や、かなりの数のおもだった婦人たちがいました。パウロはここで3回の安息日にわたって、聖書を引用して論じ合います。

使徒17:3
「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」と、また、「このメシアはわたしが伝えているイエスである」と説明し、論証した。

 このパウロの話を聞いて、何人かのユダヤ人、神をあがめるギリシャ人、かなりの数のおもだった婦人たちが信じるようになっていったのでした。その後で、ユダヤ人のねたみにあい、騒動になっていきます。ユダヤ人たちがパウロたちを当局者に訴えていくのですが、その内容が「彼らが皇帝の勅令に背いて、イエスという別の王がいるといっています」というと、これを聞いた群衆や町の当局者たちは動揺していきます。

 キリスト教の歩みを見ていきますと、最初、ユダヤ人の抵抗にあっていきました。その時に、守ってくれるのがローマ帝国だったのです。使徒言行録を読んでいますが、ユダヤ教から出て来たキリスト教は、最初はユダヤ教の中の一派と考えられていました。キリスト教はユダヤ教の中でも間違った教えとして攻撃の対象となっていったのです。パウロの伝道旅行を読んでいくと、ユダヤ人の迫害化の中で、伝道していく様子が書かれてあります。そのキリスト教を守ってくれたのがローマ帝国でした。しかし、時代が進んでいくと、ローマ帝国によるキリスト教迫害が起っていくようになります。ヨハネの黙示録などは、その影響の中で書かれてあります。

 ローマ帝国は、大きな領土を抱えていて、何よりも大切にしていたのは、領土内が平和で安定していることでした。大きなローマ帝国内を治めるために、1つの象徴が必要でした。それがローマ皇帝だったのです。ローマ皇帝内に住んでいる者はローマ皇帝に対する忠誠が求められていきました。それは政治的な理由からでした。何よりも、平和で安定が大切だったのです。しかし、キリスト教徒は、神ご自身が真の支配者であると信じていました。それ以上の者を拝むことは偶像礼拝として禁じられていたからでした。後に、キリスト者は、神か、ローマ皇帝かと問われる時がやって来ます。その時に、多くのキリスト者は、神のみをわが主と拝み、ローマ皇帝を拝むことを拒否して、迫害を受けるようになっていくのです。

 このパウロのテサロニケでの伝道は、後のキリスト教の歩みを象徴していくようになっていくのです。人々にとって日常の生活のことは大切なことです。日々の生活の中で追われて、いろいろな悩みの中で私たちは生きているのです。これはいつの時代でも変わることのことだと思います。パウロが語った聖書の言葉「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活する。このメシアはわたしが伝えているイエスである」は、キリスト教の本質をいっています。死者の中からの復活です。この死者の中からの復活は、この世の歩みを越えて、後の世の歩みのことを示しています。いわゆる神の国での生活です。

 最初に、私は10月19日の特別講演会の話をしました。がん哲学外来ことです。自分や家族ががんとなった時に、どう生きるかということを考えていこうとするものだと思います。私たちは今まで、一緒に信仰生活を守って来た兄弟姉妹を、神のみもとに送って来ました。そして、いつかは私たちも神のみもとに行く時がやって来ます。私たちは今を真剣に生きています。しかし、それだけではありません。死者の復活を信じています。真の神を信じています。今生きている地上の歩みだけではなく、後の新しい歩みのことも知っています。そうです。神と共にある生活です。

ヨハネの黙示録21:1~4
わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

 私たちは、この神の国を待ち望みながら、生きていくのです。私たちはいつかこの地上の世界を去って行きます。そして、神による神の国での生活、神と共にある生活を待ち望むのです。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。いつかくる死のことを考えながら、でもあなたによって、私たちに約束されている神の国ついて考えてきました。死は、やはり怖いものです。でも、いつかその日を迎える時がやって来ます。恐れながらも、その先にある神の約束を信じて歩むことができる者となることができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


7月9日の祈祷会の内容です。

2025-07-08 19:51:00 | 日記
祈祷会   サムエル記上14:38~52「イスラエルの最初の王サウルの歩み」   2025.7.9

 サムエル記では、イスラエルに新しい王が誕生します。最初に選ばれた王がサウルでした。サウルは、神によって選ばれた王でした。神の目からすれば、サウルはイスラエルにふさわしい王として見えたのでしょう。そのサウルですが、最初は神への信仰者として登場して来ますが、少しずつ、自分への思いが強くなり、神への信仰心は薄くなっていきます。サムエル記は、そのイスラエルの最初の王として登場して来たサウルを神からもサムエルからも見捨てられていく様子を描いています。そして、最後は悲しい死を遂げていきます。サウル王の歩みを通して、人間の弱さとは何かを私たちに伝えていこうとしています。

 サウルの時代、イスラエルはペリシテ人との戦いが続いて行きます。サウルが王となって2年目に、ペリシテ軍と戦いになっていこうとします。この時に、サウルの元には3000人の兵士がいました。敵であるペリシテ軍は大軍です。軍事力を見ればイスラエルは圧倒的に不利な状況にありました。この時にサウルの息子ヨナタンは、神を信じて、ペリシテ軍と戦いに出て行きます。たった2人で出て行きます。最初の攻撃で、ペリシテ軍の守備隊20人を倒していきます。その時に、神によって大地震が起り、更にペリシテ軍が混乱します。ついには同士討ちまでしてしまいます。ペリシテ軍の混乱を知ったサウルの軍隊は一斉に攻撃をして来ます。また、ペリシテ軍の中にいたイスラエルの兵も、イスラエル軍に加わって戦っていきます。また、エフライムの山地に身を隠していたイスラエルの人々もペリシテ軍が逃げ始めたと聞くと戦いに加わって、ペリシテ軍を追っていきます。サウル王の息子ヨナタンと兵士の働きで、イスラエルに有利に戦いは進んでいこうとしています。

 この時に、サウルはイスラエル軍にある誓いを立てていました。それは、「日の落ちる前に、私が敵に報復する前に、食べ物を口にする者は呪われよ」というものでした。兵士の誰も食べ物を口にする者はいなかったのです。この地方では森に入りさえすれば、地面に蜜があったのです。兵士が森に入ると蜜が滴っていましたが、誰も蜜を口に入れる者はいませんでした。サウル王の呪いの誓いを知っていたからです。イスラエルの兵士たちは飢えで苦しんいる状態になっていました。サウルの呪いの誓いのゆえに、飢えで苦しみことになってしまったのです。ヨナタンはサウル王の呪いの誓いを知りませんでした。そのために、口に蜜をつけて目が輝いていくのです。食べた後で、兵士がサウルの誓いを話すと、サウルの誓いを批判します。兵士に飢えによって、十分な戦いができなっているという批判です。

 イスラエル軍はペリシテ軍を追っていきます。兵士は非常に疲れていました。ついに兵士は戦利品に飛びかかり、羊、牛、子牛を捕らえて地面で屠り、血を含んだまま食べてしまいました。血を含んだまま肉を食べることを律法は禁じていました。兵士がそのようになってしまったのは、サウルの呪いの誓いのゆえでした。サウルは、兵士たちに罪のことをいい、大きな石を持って来させて、初めて主のために祭壇をつくり、ささげものをして、兵士たちに自分たちの家畜を連れて来て、血を取り除いたままで食べることをさせていきます。表面的なことで終らせようとしていました。

 さて、サウルは祭司の勧めもあって、神に「ペリシテ軍を追っていくべきでしょうか」と尋ねます。しかし、この時に、神はサウルに答えられませんでした。サウルは、イスラエルの中で、自分の呪いの誓いを破った者がいると判断して、くじ引きによって犯人捜しをします。神がサウルに答えてくれなかったっこと、それが神の答えでした。すべてはサウル自身の罪によって、兵士の罪を起してしまったのです。そのことにサウルは気づいていません。そこで、誓いを破った者を捜そうとして、くじ引きを選択するのです。くじでヨナタンが選ばれました。ヨナタンは父サウルに、自分が蜜を食べたことを告白しています。しかし、この時にヨナタンは父の呪いの誓いを知りませんでした。そのことを言い訳にすることなく、食べたことを正直に話しています。サウルはヨナタンに「お前は死ななければならない」とはっきりといいます。サウルは自分のした過ちのことを知らずに、ヨナタンの死を宣言している。ヨナタンはサウルの誓いを知らなかったとはいわない。どうしてなのだろうかと思います。

 しかし、ここで今まで、沈黙を守っていた兵士がはっきりと反対の意をいいます。サウルに「イスラエルにこの大勝利をもたらしたヨナタンが死ぬべきだというのですか。とんでもないことです。今日、神があの方と共にいてくださったからこそ、この働きができたのです。神は生きておられます。あの方の髪の毛一本も決して地に落ちてはなりません」とはっきりといっています。サウルは自分に兵士たちの指示がなければならないと感じて、この兵士の言葉を受け入れたのでしょうか。サウルの権威が落ちて、兵士の言葉を受け入れること、サウルの最後の日々が近づいているようです。サウルはペリシテ軍をそれ以上追わず、引き上げます。ペリシテ軍も自分たちの所へ戻って行きます。

 次に、サウルがイスラエルの王権を握って、周りのすべての敵との戦いの勝利のことが書いてあります。モアブ、アンモン人、エドム、ペリシテ人、アマレク人などです。また、サウルの家族のことも書いています。サウルの息子ヨナタン、イシュビ、マルキ・シュア。娘の中で姉はメラブ、妹がミカル。サウル軍の司令官アブネルなどです。サウルの一生を通じて、ペリシテ軍との激戦が続いたこと、サウルは勇敢な男、戦士を見れば、皆召し抱えたことも書いています。サウル王の歩みを見ながら、何が神から離れていったのか、自分の思いを優先していく、自分の罪の本質を見ることができなっていく、そのことをしっかりと見ていきたいと思います。私たち自身に通じるものがあるはずです。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございました。サウル王の歩みを見てきました。サウルは最初、神の前に謙遜で歩んでいました。それが王となってから次第に神から離れていってしまいます。結局、自分の思いを優先し、神の思いは二の次になってしまいます。どうして、そのようなことになってしまうのでしょうか。そのことを私たちがしっかりと受け止めることができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                                」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)


7月6日の礼拝の内容です。

2025-07-05 19:55:00 | 日記
7月6日の礼拝の内容です。讃美歌は、197.411.433.457.78.27です。
礼拝のオンライン配信は、「瀬戸永泉教会」YouTubeチャンネルから入ってください。

礼拝説教       使徒16:35~40「安心して行きなさい」    2025.7.6

 7月20日に参議院選挙があります。18才以上で、日本国籍を持つ者は、この選挙に参加することができるのです。選挙に行くのが当たり前になっていますが、選挙に行けるということはとても貴重なことなのです。日本人としての生きる権利というのでしょうか。その選挙を大切にして、私たちの生活に生かしていきたいと願うのです。

なぜ、選挙の話をしたかといいますと、パウロは、ローマ帝国の市民権を持っていました。その権利をパウロはどのように用いているのでしょうか。今日の聖書の箇所で、パウロは、自分はローマ帝国の市民権を持っていると話しています。今日の聖書の箇所は、パウロの第2回伝道旅行のフィリピでの出来事です。当時、フィリピはローマの植民都市でした。ローマではないのですが、ここに小ローマがあるという町でした。ローマ帝国の市民権とはどのようなものかといえば、37節に「高官たちは、ローマ帝国の市民権を持つわたしたちを、裁判もかけずに公衆の面前で鞭打ってから投獄した」とありますが、ローマ帝国の新民権を持っている人は、裁判をかけられず、公衆の面前で鞭打ちや投獄ということはないということです。

パウロの第2回伝道旅行は、イエス・キリストの福音がアジアからヨーロッパに伝えられてことになっていきます。フィリピは最初の伝道地でした。ここでティアティラ市出身の紫布の商いをしている人で、神をあがめるリディアと出会っています。リディアの家がフィリピの教会の基となっていくのです。このフィリピでは、占いの霊に取りつかれている女奴隷と出会いました。この女性は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていました。この女性は、パウロたちの後ろをついて来て、「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と叫び続けるのです。こんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、女性に取りついている占いの霊に「イエス・キリストの名によって命じる。この女性から出て行け」と命じますと、霊は女性から出て行きました。この女性は、今まで取りついていた占いの霊が出て行きました。苦しみから解放されたのです。

この後の問題は、占いの霊が出て行った女性は、もう占いができないということになりました。それは、この女性を使って、金儲けしていた主人たちは、金儲けの望みがなくなってしまったことを意味します。それは、主人たちにとって大きな損失です。主人たちはパウロたちを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行き、高官たちに引き渡して「この者たちはユダヤ人で、私たちの町を混乱させています。ローマ帝国の市民である私たちが受け入れることも、実行することもできない風習を宣伝しています」と訴えます。この女性の主人たちも、役人も、高官たちも、パウロたちがユダヤ人であることを知って低く見ている感じです。まさか、パウロたち彼らと同じくローマ帝国の市民権を持っているとは思わなかったのでしょう。

この時に、パウロたちは自分たちが、ローマ帝国の市民権を持っていると主張すれば、次に起って来る服をはぎ取られ、何度も鞭打ちを味わうことはないはずでした。そして投獄されることもありませんでした。どうして、ここでパウロは、自分が持っているローマ帝国の市民権を主張しなかったのかと思います。それは、次の流れがあるからです。看守たちの救いです。それにしても厳しい試練と会うことになっていきます。パウロたちは着ている服をはぎ取られ、鞭で何度も打たれ、牢に投げ込まれ、看守に厳重に見張るように命じるのです。この命令を受けた看守は、パウロたちを一番奥の牢に投げ込み、足には木の足枷をはめておいたのです。この看守たちの救いが、次に起るために、パウロたちは自分たちのローマ帝国の市民権を主張しなかったような感じです。民衆の前で、裸にされ、激しい鞭打ちを味わい、一番奥の牢の中で、足には木の足枷をはめられている、占いの霊に取りつかれていた女奴隷を助けたために、このような厳しい仕打ちを受けているのです。神のために働いているとしながらも、パウロたちは牢の中で、激しい痛みと苦しみと絶望の中にあるような感じだったと想像します。

しかし、そうではありませんでした。真夜中ごろ、パウロたちは賛美の歌を歌っていたのです。神に祈っていたのです。他の囚人たちも賛美に聞き入っていました。突然に、大地震が起って、牢の土台が揺れ動きました。たちまち牢の戸が皆開き、すべての囚人の鎖も外れてしまいました。目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人が逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとしました。当時の看守は、囚人を逃がしてしまったら、責任をとって死刑になることになっていたのです。考えてみると、厳しい仕事でした。その時に、パウロは大きな声で叫ぶのです。「自害してはいけない。私たちは皆ここにいる」と。看守は明かりを持って来て、牢の中に飛び込み、パウロたちの前に震えながらひれ伏し、パウロたちは外に連れて行って、「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」といいました。パウロたちは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と答えます。そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語るのです。まだ、真夜中でしたが、看守はパウロたちを連れて行って、打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けるのです。この後で、パウロたちを家に案内して食事を出し、神を信じる者となったことを家族ともども喜んでいきました。このように看守とその家族の救いのために、神はパウロたちを用いられるのです。

そして、今日の聖書の箇所になりますが、朝になると、高官たちは下役を差し向けて「あの者どもを釈放せよ」と命じました。それで、看守はパウロのこの言葉を伝えています。「高官たちが、あなたがたを釈放するようにと、いってよこしました。さあ、安心して行きなさい」と。しかし、そこでパウロは下役にいうのです。「高官たちは、ローマ帝国の市民権を持つ私たちを、裁判をかけずに公衆の面前で鞭打って投獄したのに、今ひそかに釈放しようとするのか。いや、それはいけない。高官たちが自分でここに来て、私たちを連れ出すべきだ」といいます。パウロは自分たちが牢から釈放される時に、初めて、自分たちがローマ帝国の市民権を持っていることを主張しています。ここでローマ帝国の市民権を持つということは、裁判をかけずに公衆の面前で鞭打ってから牢獄するようなことはしてはいけないということです。

パウロの言葉を聞いた下役たちは高官たちに報告しました。高官たちは、パウロたちがローマの市民権を持つ者であることを聞いて恐れるのです。ローマ帝国の市民権を持つ者にしてはいけないことをしてしまった。その結果として、高官たちがその責任をローマ当局から問われることになり、辞任や裁きを受けることなど厳しい状況が考えられるのです。だから、高官たちは恐れたのです。高官たちはパウロたちの所に出向いて来て、詫びをいい、パウロたちを牢から連れ出し、町から出て行くように頼みました。これ以上、問題が大きくなって、自分たちの身が危なくなるのを避けたい思いがあるからです。どうして、パウロは自分たちの釈放の時に、ローマ帝国の市民権を持つ者であるということを高官たちにいったかといえば、新しいフィリピの教会のためでした。牢を出たパウロたちは、リディアの家に行って、兄弟たちに会い、彼らを励ましてから次の伝道地に出発して行きます。リディアの家、つまり後のフィリピの教会が、パウロたちのローマ帝国の市民権を持つ者が関係していると知らせば、フィリピの教会の人々は安心して伝道活動をすることができるというものです。

パウロは自分が持っているローマ帝国の市民権について、必要に応じて、使っているようです。当時は、ローマ帝国が全世界を支配していました。ローマ帝国の力によって、パウロたちは安心して伝道を続けることができていたのです。そして、必要に応じて、パウロはその自分が持っているローマ帝国の市民権を使っています。後に、パウロはエルサレムで、ユダヤ人に捕まってしまいます。その時に、助けてくれたのがローマ帝国の兵士たちでした。最後に、パウロはローマ帝国の新民権を利用して、ローマ皇帝に上訴することを選び、ローマ帝国の首都ローマにまで行くことができるようになるのです。

パウロは自分が持っている権利を十分に利用していますが、もっと大切なことがあります。それは、この地上で持っている市民権もありますが、神の国の市民権を持っているということです。パウロは次のような言葉をいっています。

ローマ7:38~39
わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

 この言葉から、パウロは神の国の市民権を持っていることを考えて、いっているのです。それは、パウロだけではなくて、私たち1人1人のキリスト者も神の国の市民権を持っているのです。私たちはその神の国の市民権を持っていることをどれほど考えているのでしょうか。確かに、私たちキリスト者は皆、神の国の市民権を持っているのです。やがて、この地上を離れて、神の国に行った時に、その市民権は生きて来るのです。

祈り 神よ。あなたのことを礼拝することができましたことを心から感謝します。パウロの働きから神の国の市民権について考えてみました。私たちはこの地上に生きる市民権を持っています。そして、もっと大きな神の国の市民権を持っているのです。キリスト者になった時に、神から与えられた神の国の市民権を与えられ、やがて行くべき神の国においてその市民権を生かすことができるのです。この恵みを感謝して、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。