8月10日の礼拝の内容です。讃美歌は、57.351.361.451.26です。
礼拝のオンライン配信は、「瀬戸永泉教会」YouTubeチャンネルから入ってください。
礼拝説教 使徒17:22~27「世界を造られた神」 2025.8.10
日本に住んでいる私たちは、自然豊かな場所に住んでいます。四季があり、暑い時も寒い時もあります。今は夏、最近では異常な熱さが、私たちに日常生活を襲います。クーラーをつけないと生きていけないそんな環境になってしまいました。今まで経験したことのない熱さを日々過ごしています。ただ、本来日本は四季豊かであり、季節の変化を楽しみながら生きてきました。その豊かな自然の変化の中で、宗教として仏教や神道があります。普段は感じないかもしれませんが、年末や正月などや人の死などに、その宗教の中に生きていることを感じるのです。
私たちは仏教や神道の中で生きているといってもいいかもしれません。それが、私たちは教会に来ている、キリスト教を信じているキリスト者として生きているのです。日本の中でキリスト教徒は少数者ということができると思います。私たち1人1人は、人生のいろいろな場面で、キリスト教と出会い、教会に来るようになって、キリスト者として歩んでいるのです。
少し前のことです。1人の若者が、私たちの教会の祈祷会に参加していました。名前は仏教の影響を受けた名前でした。その若者は、人生の中で仏教に出会い、また、少しですが、キリスト教にも興味を持って、祈祷会に来るようになりました。短い時間でしたが、真剣に聖書のことを学ばれ、するどい質問もしていました。本当に求道とはこのようなことをいうのかと感じるのでした。その後、来ることはなくなりましたが、風のうわさで、彼が仕事を止めて、出家して仏門の道を歩み始めたということでした。彼はいろいろと悩まれ、そして、仏教にかけてみようと決断したのでしょう。彼の本当の気持ちは分かりませんが、良き歩みとなりますようにと祈りたいと思います。
ふと、自分のことを振り返ると、私の田舎は神社が中心の生活でした。四季の移り変わりには、神社のいろいろな行事があり、親はそのことでよく神社に行っていたことを思い出します。そんな私が高校生の時に、教会に行って、キリスト者となって、神学校に行って、牧師として歩み続けていることは本当に不思議なことだと改めて思うのですが、今思うに、自分が神道とキリスト教を比較して、キリスト教を選んだという気持ちはないのです。今までの人生を振り返ると、ただ神の導き以外ないということができます。神に導かれて、今日までキリスト者として歩むことができたと思っています。
ここに集まっている私たち1人1人も、それぞれの神との出会いがあったと思います。1人1人違う神の導きです。さて、使徒言行録に入っていきたいと思います。ここは、パウロの第2回伝道旅行の様子が書かれてあります。アテネでの伝道の様子が書かれてあります。先週もお話したのですが、当時のアテネの町は、ギリシャ哲学の中心地でした。パウロはアテネの町に着くと「会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、広場では居合わせた人々と毎日論じて会っていました」のです。すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過していたということです。ギリシャ哲学の中心地であるアテネ、そこでは何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで毎日論じ合っていたということで、哲学を通して、人間の課題を掘り下げていったと思われます。
その一方で、アテネの町は至る所に偶像があるのです。パウロはアテネの町を歩きながら、いろいろな偶像があること、「しられざる神に」と刻まれている祭壇を見つけたといいます。アテネの町はギリシャ哲学の町でありながら、哲学だけでなく、多くの偶像に囲まれていた。また「知られざる神に」と刻まれている祭壇がたくさんあったというのです。哲学といろいろな宗教に囲まれて生きていたということができるでしょう。どうして、このようなことになったかといえば、当時、数年前にアテネではペストが大流行して、多くの人々がなくなったということがあったというのです。アテネの町の人々は、ペストの前では何もできず、人々の死を見つめることしかできなかったという経験をした。それが、多くの偶像に囲まれて生きていたということです。
私たちも数年前に、新型コロナウィルス感染症に苦しみました。初期の時の緊急事態宣言があって、外出してはいけない。人と人があってはいけないということを経験したのです。未知のウィルスの恐怖におびえていた時がありました。今では、その時のことを忘れかけています。
パウロは、そのアテネの町の人々にイエス・キリストの福音をアレオパゴスの真ん中に立って話しかけていきます。その話しかけは非常に丁寧です。そして、アテネの町の人々に対して尊敬を込めて話しかけていきます。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、知られざる神にと刻まれている祭壇を見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」と。パウルのアテネの町に人々に対して深い愛情を示しています。今までのようなユダヤ人たちとは違う視点で、相手の立場をしっかりと受け止めて、そこから伝道していっています。
パウロは本格的に福音を語り始めていきます。「あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それはこの世界とその中の万物を造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、人間の手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません」と。パウロが伝える神は、天地を創造されたお方、世界の万物を造られたお方です。天地を創造された神は、人間の手で造った神殿にはお住みになるはずはありません。このようにパウロは、アテネの町に人々に、天地創造の神を紹介しています。
そして、「すべての人に命を息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。神は1人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました」といいます。ここでパウロは、私たち人間を創造されたのも神であること、すべての人々に命と息を与えてくださり、生きる者としてくださったこと、その他のすべてのものを与えてくださったのもこの神であることを紹介しています。民族を造ったのも神であり、地上の至る所に住まわせ、その境界もお決めになったということもいっています。
パウロは続けます。「これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見い出すことができるということなのです。実際、神はわたしたち1人1人からは遠く離れてはおられません」といっています。更に「神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません」といいます。人間で造ったものは、神ではないということをここではっきりといっています。
神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたといい、今は、どこにいる人でも皆、悔い改めようにと命じているといいます。ここから、パウロはイエス・キリストの役割について話していきます。「それは先にお選びになった1人の方(イエス・キリスト)によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです」といいます。
パウロのアテネでの説教は、素晴らしい内容だと私は思います。アテネの町の状況に合わせて、イエス・キリストの福音を分かりやすく話しているからです。私たちは日本で生活しています。日本に住んでいる隣人にどのように神の福音を語りかければいいのでしょうか。神の導きを祈り、また、私たちの隣人のために、神の救いのために祈っていきたいと思います。
祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。パウロのアテネでの伝道の様子をみてきました。アテネの人々への説教をみてきました。アテネの人々の生活の視点からやさしく語りかけていました。私たちも、パウロのように、身近な人々に、私たちの隣人に、どのような語りかけで福音を語っていけばいいのか知恵を与えてください。隣人の思いを知り、あなたの福音を大胆に語ることができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。