goo blog サービス終了のお知らせ 

gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

8月10日の礼拝の内容です。

2025-08-09 20:49:00 | 日記
8月10日の礼拝の内容です。讃美歌は、57.351.361.451.26です。
礼拝のオンライン配信は、「瀬戸永泉教会」YouTubeチャンネルから入ってください。

礼拝説教      使徒17:22~27「世界を造られた神」   2025.8.10

 日本に住んでいる私たちは、自然豊かな場所に住んでいます。四季があり、暑い時も寒い時もあります。今は夏、最近では異常な熱さが、私たちに日常生活を襲います。クーラーをつけないと生きていけないそんな環境になってしまいました。今まで経験したことのない熱さを日々過ごしています。ただ、本来日本は四季豊かであり、季節の変化を楽しみながら生きてきました。その豊かな自然の変化の中で、宗教として仏教や神道があります。普段は感じないかもしれませんが、年末や正月などや人の死などに、その宗教の中に生きていることを感じるのです。

 私たちは仏教や神道の中で生きているといってもいいかもしれません。それが、私たちは教会に来ている、キリスト教を信じているキリスト者として生きているのです。日本の中でキリスト教徒は少数者ということができると思います。私たち1人1人は、人生のいろいろな場面で、キリスト教と出会い、教会に来るようになって、キリスト者として歩んでいるのです。

 少し前のことです。1人の若者が、私たちの教会の祈祷会に参加していました。名前は仏教の影響を受けた名前でした。その若者は、人生の中で仏教に出会い、また、少しですが、キリスト教にも興味を持って、祈祷会に来るようになりました。短い時間でしたが、真剣に聖書のことを学ばれ、するどい質問もしていました。本当に求道とはこのようなことをいうのかと感じるのでした。その後、来ることはなくなりましたが、風のうわさで、彼が仕事を止めて、出家して仏門の道を歩み始めたということでした。彼はいろいろと悩まれ、そして、仏教にかけてみようと決断したのでしょう。彼の本当の気持ちは分かりませんが、良き歩みとなりますようにと祈りたいと思います。

 ふと、自分のことを振り返ると、私の田舎は神社が中心の生活でした。四季の移り変わりには、神社のいろいろな行事があり、親はそのことでよく神社に行っていたことを思い出します。そんな私が高校生の時に、教会に行って、キリスト者となって、神学校に行って、牧師として歩み続けていることは本当に不思議なことだと改めて思うのですが、今思うに、自分が神道とキリスト教を比較して、キリスト教を選んだという気持ちはないのです。今までの人生を振り返ると、ただ神の導き以外ないということができます。神に導かれて、今日までキリスト者として歩むことができたと思っています。

 ここに集まっている私たち1人1人も、それぞれの神との出会いがあったと思います。1人1人違う神の導きです。さて、使徒言行録に入っていきたいと思います。ここは、パウロの第2回伝道旅行の様子が書かれてあります。アテネでの伝道の様子が書かれてあります。先週もお話したのですが、当時のアテネの町は、ギリシャ哲学の中心地でした。パウロはアテネの町に着くと「会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、広場では居合わせた人々と毎日論じて会っていました」のです。すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過していたということです。ギリシャ哲学の中心地であるアテネ、そこでは何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで毎日論じ合っていたということで、哲学を通して、人間の課題を掘り下げていったと思われます。

 その一方で、アテネの町は至る所に偶像があるのです。パウロはアテネの町を歩きながら、いろいろな偶像があること、「しられざる神に」と刻まれている祭壇を見つけたといいます。アテネの町はギリシャ哲学の町でありながら、哲学だけでなく、多くの偶像に囲まれていた。また「知られざる神に」と刻まれている祭壇がたくさんあったというのです。哲学といろいろな宗教に囲まれて生きていたということができるでしょう。どうして、このようなことになったかといえば、当時、数年前にアテネではペストが大流行して、多くの人々がなくなったということがあったというのです。アテネの町の人々は、ペストの前では何もできず、人々の死を見つめることしかできなかったという経験をした。それが、多くの偶像に囲まれて生きていたということです。

 私たちも数年前に、新型コロナウィルス感染症に苦しみました。初期の時の緊急事態宣言があって、外出してはいけない。人と人があってはいけないということを経験したのです。未知のウィルスの恐怖におびえていた時がありました。今では、その時のことを忘れかけています。

 パウロは、そのアテネの町の人々にイエス・キリストの福音をアレオパゴスの真ん中に立って話しかけていきます。その話しかけは非常に丁寧です。そして、アテネの町の人々に対して尊敬を込めて話しかけていきます。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、知られざる神にと刻まれている祭壇を見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」と。パウルのアテネの町に人々に対して深い愛情を示しています。今までのようなユダヤ人たちとは違う視点で、相手の立場をしっかりと受け止めて、そこから伝道していっています。

 パウロは本格的に福音を語り始めていきます。「あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それはこの世界とその中の万物を造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、人間の手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません」と。パウロが伝える神は、天地を創造されたお方、世界の万物を造られたお方です。天地を創造された神は、人間の手で造った神殿にはお住みになるはずはありません。このようにパウロは、アテネの町に人々に、天地創造の神を紹介しています。

 そして、「すべての人に命を息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。神は1人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました」といいます。ここでパウロは、私たち人間を創造されたのも神であること、すべての人々に命と息を与えてくださり、生きる者としてくださったこと、その他のすべてのものを与えてくださったのもこの神であることを紹介しています。民族を造ったのも神であり、地上の至る所に住まわせ、その境界もお決めになったということもいっています。

 パウロは続けます。「これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見い出すことができるということなのです。実際、神はわたしたち1人1人からは遠く離れてはおられません」といっています。更に「神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません」といいます。人間で造ったものは、神ではないということをここではっきりといっています。
 神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたといい、今は、どこにいる人でも皆、悔い改めようにと命じているといいます。ここから、パウロはイエス・キリストの役割について話していきます。「それは先にお選びになった1人の方(イエス・キリスト)によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです」といいます。

 パウロのアテネでの説教は、素晴らしい内容だと私は思います。アテネの町の状況に合わせて、イエス・キリストの福音を分かりやすく話しているからです。私たちは日本で生活しています。日本に住んでいる隣人にどのように神の福音を語りかければいいのでしょうか。神の導きを祈り、また、私たちの隣人のために、神の救いのために祈っていきたいと思います。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。パウロのアテネでの伝道の様子をみてきました。アテネの人々への説教をみてきました。アテネの人々の生活の視点からやさしく語りかけていました。私たちも、パウロのように、身近な人々に、私たちの隣人に、どのような語りかけで福音を語っていけばいいのか知恵を与えてください。隣人の思いを知り、あなたの福音を大胆に語ることができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


8月6日の祈祷会の内容です。

2025-08-05 19:23:00 | 日記
祈祷会    サムエル記上16:14~23「サウルとダビデの出会い」   2025.8.6

 サムエル記は、イスラエルに初めて王が誕生する話です。最初に選ばれた王がサウルであり、次がダビデとなります。イスラエルに最初の王として選ばれたサウルは、最初は神に謙遜に歩み、神の導きを信じて歩んでいました。それが、途中から、自分の思いが強くなって、神への信仰心が薄くなってしまいます。それは、神に言葉に従っていかないということに発展していきます。アマレク人に対する対応では、その神への罪が決定的なものとなってしまいました。神もサムエルも、サウルの罪のために深い嘆きを味わいました。神はサウルをイスラエルの王として選んだことを悔やみます。サムエルは死ぬ日まで、再びサウルに会おうとせず、サウルのことを嘆きました。

 神はサムエルに「いつまであなたはサウルのことで嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位からサウルを退けた。わたしはエッサイの息子たちの中から、新しい王となるべき者を見い出した。角に油を満たして、ベルレヘムのエッサイのもとへ出掛けなさい」というのです。神はサムエルに、新しい王の条件として、「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」といいます。「人の心を見る」と神はサムエルに、新しい王の条件としていいます。その流れで、選ばれたのがダビデでした。ダビデは、エッサイの8番目の息子となります。最初、父エッサイの目には、ダビデは一人前と見ていませんでした。サムエルの指示で、羊の番をしていたダビデが呼び出されていきます。ダビデが、サムエルのもとに来た時に、ダビデの特徴が書かれてあります。ダビデは血色が良く、目は美しく、姿も立派でした。神はサムエルに「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ」といいます。サムエルは油をとって、兄弟たちに中でダビデに油を注ぎます。その日以来、神の霊が激しくダビデに降るようになりました。

 今日の聖書の箇所は、サウルとダビデが交わる場面が出てきます。サウルはダビデを深い愛を持って受け入れていきます。その後、サウルはダビデに対しての気持ちが、妬み、恨み、憎しみ、殺意と変っていきます。主の霊はサウルから離れてしまいました。主から来る悪霊が彼をさいなむようになっていきます。聖書を読んでいて、神から来る悪霊ということは、私たちに抵抗があります。神が悪霊を送るのかということです。サウルの場合は、サウルの罪によって、主の霊がサウルから離れていくのです。そして、主の霊が離れたことによって、サウル自身が心の病になって苦しんでいくということなのです。それを、主から来る悪霊と表現していると受け取っていきたいと思います。

 サウルの心の苦しみを見た家臣は、サウルに勧めます。「あなたをさいなむのは神からの悪霊でしょう。王様、御前に仕えるこの僕どもにお命じになり、竪琴が上手に奏でる者を探させてください。神からの悪霊が王様を襲う時、おそばで奏でる竪琴が王様の御気分を良くするでしょう」と。当時でも、今の音楽療法があったことに驚きです。音楽が人々の心を癒すことができることを知り、実践していたから、このようなことを王に申し出ることができたと思います。サウルは家臣に「わたしのために竪琴の名手を見つけ出して、連れて来なさい」と命じています。従者の1人が答えます。「わたしが会ったベツレヘムの人エッサイの息子は竪琴を巧みに奏でるうえに、勇敢な戦士で、戦術の心得もあり、しかも言葉に分別があって外見も良く、まさに主が共におられる人です」と紹介しています。

 ダビデはサムエルから油を注がれてから、どれほどの時間が過ぎていたのでしょう。サウルの家臣たちは、サウルの心の病を癒すために、竪琴を奏でることによって癒されることを知り、そして、竪琴の名手としてダビデを選んでいるのです。ダビデは成長して、竪琴を巧みに奏でることができるようになっていた。それをサウルの家臣たちが知っていたということで、かなり有名になっていたのでしょう。ダビデはそれだけでなく、勇敢な戦士であること、戦術に心もあること、言葉に分別もあり、それに外見も良いとなっています。

 すぐに、サウルはエッサイに使者を送り、「あなたの息子で、羊の番をするダビデを、わたしももとによこしなさい」といいました。聞いたエッサイは、パンを積んだろばとぶどう酒の入った革袋と子ヤギを一匹用意し、息子ダビデに持たせてサウルに送るのです。ダビデはサウルのもとに来て、サウルに仕えるようになります。サウル王はダビデが大層気に入り、王の武器を持つ者に取り立てました。サウルはエッサイに「ダビデをわたしに仕えさせるように。彼は、わたしの心に適った」といい送るのです。神の霊がサウルを襲う度に、ダビデは傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が休まって気分が良くなり、悪霊はサウルを離れていくのです。ここまではよかったのです。サウルにとってダビデは、竪琴によって心を安らかにしてくれる存在だったのです。

 しかし後に、ダビデはペリシテの巨人ゴリアトを倒し、戦いに行けば必ず勝利をして帰ってくるダビデでした。イスラエルの女たちが「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と歌い交わします。この歌声を聞いたサウルは激怒して悔しがって「ダビデは万、わたしは千。あとは王位を与えるだけか」といいます。この日以来、サウルはダビデをねたみの目で見るようになっていきます。まもなくサウルはダビデの命を狙うようになってしまうのです。ダビデも悲しくなりますが、それ以上に悲しいのはサウル王そのものです。サウル王の悲しみ、深い孤独を受け止めていきたいと思います。人間の悲しみというのでしょうか。それをサウル王から学ぶことができます。神から離れていったサウル、神に捨てられたサウル、その歩みは、私たち人間の歩みそのものです。神から離れていった人間の行くべき道を見ることになります。 今日は広島に原爆が投下されてから80年になります。あの日の悲しみと苦しみを忘れることなく、同じ過ちを犯すことがないようと祈ります。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。サウルの歩みを通して、神から離れていった者の苦難を見ることができました。サウルの歩みは、私たちの歩みと重なっていきます。サウルの歩みを通して、私たち自身の歩みを顧みることができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                           」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)


8月3日の礼拝の内容です。

2025-08-02 20:15:00 | 日記
8月3日の礼拝の内容です。讃美歌は、194.371.372.394.81.24です。
礼拝のオンライン配信は、「瀬戸永泉教会」YouTubeチャンネルから入ってください。

礼拝説教       使徒17:16~21「アテネでの伝道」     2025.8.3

 8月の第1日曜日を迎えました。この日、日本基督教団の教会暦では、平和聖日となっています。今年は戦後80年を迎えます。かつての戦争が遠い記憶になっていくように感じます。今から80年前に起って戦争の悲劇を忘れてはいけないのです。私は戦後生まれです。その意味では、戦争を体験したことはなく、本や映画や戦争体験者の話を聞くことによって、戦争の悲惨さを想像するしかありません。私が以前に勤めていた平和学園では、8月6日の広島の原爆投下の日に合わせて、広島平和の旅を実施していました。私は、その広島平和の旅に、2度ほど参加しました。8月6日、広島の原爆平和公園で行われる平和式典に参加し、その後、原爆資料館に入り、原爆の悲惨さを自分の目に見るのです。とても辛いものでした。また、日本基督教団広島教会の礼拝に参加し、教会員の中で被爆体験者がいて、その被爆体験を聞きました。被爆者が語る内容は、あまりにも悲惨で辛いものでした。話すことはとても勇気がいることだなあと思いました。戦争の悲惨さを忘れてはならない、二度と戦争を起してはならないと決意しました。

80年前の戦争では、初めて原爆が使われました。当時は新型爆弾をいわれました。人間の科学技術によって原爆が誕生したのです。今まで以上の破壊力があり、放射能による被害によって、多くの人々が苦しんでいくのです。人間の科学技術に発展によって、原爆は生まれ、今日も多くの国が持っています。どうして、人間はこのような原爆を持とうとしているのでしょう。80年前の広島と長崎で起きた悲劇を忘れてしまったのでしょうか。今、ある国の指導者は、この恐ろしい原爆を使うかもしれないと脅しています。人間は、人間が不幸になるこの原爆をどうして造り、持とうとするのでしょう。戦争が起った時に、より優位になると考えているのでしょうか。また、現在の戦争を見ていると、新しい武器がどんどん出てきます。無人機やドローンなど、戦争の仕方が変ってしまうようです。私たち人間は、今後も、このような新しい兵器を開発していくのでしょうか。人を殺すための兵器がどうして必要なのでしょうか。こういう私は、人間の現実、戦争のことを知らないからそのようなことをいうのだといわれてしまうのでしょう。戦争、ここにはどうすることもできない人間の罪があります。

使徒言行録に入っていきましょう。この聖書の箇所は、パウロの第2回伝道旅行、アテネでの伝道の様子が書かれてあります。パウロはここまで第2回伝道旅行の歩みで、フィリピ、テサロニケ、ベレアと行きました。その町々で、ユダヤ人からの迫害にあい続けて来ています。ここアテネでは、そのようなユダヤ人からの迫害がなく、無事に次のコリントに行っています。パウロは最初、1人でアテネに行きました。このアテネの町では至る所で偶像があったということです。その多さにパウロは憤慨しています。アテネの人々の宗教心を感じたからです。ユダヤ人の会堂では、ユダヤ人や神をあがめる人々と論じています。広場では、居合わせした人々と毎日論じ合っていたとあります。当時のアテネは、ギリシャ哲学の中心的な町でした。ソクラテス、プラトン、アリストテレスなど有名人がおりました。また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論していました。

ギリシャ哲学、エピクロス派、ストア派など聞いたことはありますが、どのような内容かは実際に知りませんでした。調べてみますと、エピクロス派は、快楽(気持ちよく楽しいこと)を大切にし、心の平安と肉体の苦痛のない状態を維持することを大切にしているということでした。ストア派は、理性に従った生活を大切にすること、自然に従って生きることを大切にしているそうです。人間の知恵を持って、どのようにしたら有意義な生活をすることができるのかを模索していこうというものです。このギリシャ哲学者との対話で、その中で「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」という者もいれば、「彼は外国の神々の宣伝をしるらしい」という者もいたとあります。

パウロは、イエスと復活についての福音を告げ知らせていましたが、アテネの人々はどのように受け取っていったのでしょうか。そこで、アテネの人々は、パウロをアレオパゴスに連れて行き、「あなたが説いているこの新しい教えがどのようなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ」と答えています。すべてのアテネ人やそこに在留している外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりするだけで、時を過ごしていたのであるとあります。このアテネの人々が、何か新しいことを話したり聞いたりするだけで、時を過ごしていたとありますが、どのようなことでしょうか。当時のアテネはギリシャ哲学の中心地でした。その流れから、ギリシャ哲学に関するいろいろな教えや考えたがあって、それを追及していくことは当然なことかと思ってしまいます。

アテネの人々は、常に何か新しいことの知識を求めていくことが目的なのです。その新しいことの知識を知ることで話したり聞いたりして、時を過しているとは、自分の日常生活が変わるということではないようです。この後で、パウロはアテネの人々に神の言葉を語っていきます。パウロはアテネの道を歩きながら、町の至る所に偶像があることを見ました。それをパウロは批判することなく、アテネの皆さんはあらゆる点で信仰のあつい人であると認めますと褒めています。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると「知られざる神に」刻まれている祭壇さえ見つけたからです。そこから、パウロは説教していきます。アテネの人々の目線に立って、神の言葉を語っていくのです。

パウロは「それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などなどにはお住みになりません」と続けていきます。アテネの人々の拝む多くの偶像から、本当の神はどのような方かと話を進めていきます。やがて、パウロが死者の復活について話をしていくと、ある者はあざ笑い、ある者は「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」といって、話が終ってしまう。もうそれ以上、聞こうとしないのです。

アテネの人々が、いつも何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたので、パウロの話を聞く耳を持っていないということになってしまいます。新しいことを知ることが目的なのです。それ以上のことはないということです。パウロが語る神の言葉は、人の人生に切り込んでいきます。人の生き方、人生そのものに語りかけていくのです。人間の本質の罪にまで入っていきます。

このアテネの人々の生き方、日々の生活を見ると、私たちとは違うと思うでしょうか。私たちの生き方とアテネの人々の生き方と非常に似ていると感じるのです。私たちが学校でいろいろな知識を得ます。新しい知識を得ることに必死です。それが、自分たちの人生を決定づけるものとなってしまうことがあります。いわゆる受験です。どこの学校に入ったかということで人間の価値が決めされてしまうようになっています。有名大学に入ったことで、よい人生が送ることができると思い、そうではない場合、良い人生を送ることができないと思われてしまうのです。ある人が学校に行けなくなる、それで自分の人生が終ったように感じて悲嘆に暮れてしまうのです。新しい知識をどのように自分の人生に用いるのか、新しい知識が、人間の幸福のためになっているのだろうかと問うことも必要です。

今から、80年前、戦争の悲劇を体験しました。人間の造った新しい知識、原爆、それを使ったことによっていかに人類に大きな悲劇を及ぼすか体験しました。私たちが知る新しい知識が、どう人間の生活に幸福をもたらすものとなるのか日々問う必要があります。

私たちは今日も教会に来て、神を礼拝し、神の言葉を聞き、神への賛美をしています。この意味を考えていきたいと思います。神の言葉から、私たちは日常生活の中で大切なこと受け取っていきます。何が大切で、何が必要ないのか、分かって来ます。キリスト者として、教会に集まって、皆と共に、神を礼拝していく、その中で、人としての大切なことを知り、日々の生活の中で生かしていくことができると信じています。神への信仰生活が、そのように私たちの考え方、生き方、そして人生の歩みを変えてくださるのです。神を中心にした信仰生活を大切にしていきたいと願います。戦後80年、平和聖日の日、平和を祈りつつ、神に従っていく人生を大切し、周りの人々に神の言葉を伝えていきたいと願います。

祈り 神よ。平和聖日をこのように皆様と共に守ることができました。感謝します。戦後80年、あの日の悲しみを知り、もう二度と戦争を起してはいけないと願いつつ、人間の知恵の限界性を知ると共に、神の言葉によって、平和な時をつくる者として歩むことができますように導いてください。弱い私たちに、平和を実現する力を与えてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


7月30日の祈祷会の内容です。

2025-07-29 19:36:00 | 日記
祈祷会    サムエル記上16:1~13「主は心によって見る」  2025.7.30

 サムエル記はイスラエルの新しい王の誕生を書いています。最初の王として選ばれたのがサウルでした。サウルは少数のベニヤミン族出身でした。しかし、背が誰よりも高く、美男子でした。外見上、王として選ばれるにふさわしい人物だったと思われます。サウルを王として選ばれたのが神ご自身でした。神の選びによって選ばれたサウル王、間違いのないような歩みをするかと思えば、そうではなく、神の命令を聞かず、自分の思いを優先していきます。そのことによって神はサウルを王として退けるといいました。神である主はサムエルに「いつまであなたはサウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出掛けなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見い出した」(16:1)といいます。

 サウルの罪によって、サムエルは死ぬ日まで、再びサウルに会おうとせず、サウルのことを嘆きました。主はサウルを、イスラエルの上に王として立てたことを悔いられました。神はサウルを王として退けようとしていきます。しかし、サウルがイスラエルの王であることを退けようというのではなくて、サウルは自分が死ぬ日まで、イスラエルの王であり続けるのです。神の意図はどこにあるのでしょうか。私は分かりません。今日の聖書の箇所は、新しい王としてダビデが選ばれ、サムエルから油を注がれることが書かれてあります。それは公のことではなくて、個人的な油注ぎのようです。ダビデが公式に、油を注がれてイスラエルの王となるのはサムエル記下からです。(サムエル記下5:3)

 神はサムエルにベツレヘムのエッサイの家に行き、新しい王のために油を注ぐようにといわれます。しかし、サムエルは神に「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう」といって断ろうとします。サムエルはサウルが怖いのです。神はサムエルに「若い雌牛を引いて行き、主へのいけにえをささげるために来たというように」とアドバイスをします。「いけにえをささげる時にエッサイを招きなさい。その後のことは、わたしがその時に知らせる」といいます。サムエルは神が命じられたとおりにしました。

 サムエルがベツレヘムに着くと、町の長老たちは不安げに出迎えます。長老たちは「おいでくださったのは平和なことのためでしょうか」と尋ねます。サムエルは「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒にきてください」と答えます。サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に招きました。エッサイと息子たちがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油注がれる者だと思ったのでした。しかし、主はサムエルに「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」といわれるのです。

 主はサムエルにいわれます。「容姿や背の高さに目を向けるな」と。それは、サウルが王として選ばれた時に、サウルの容姿に人々は心を奪われたのでしょうか。背が高く、美男子だったからです。主は「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」といわれます。主がいう人の心とはどのようなことでしょうか。それはこれからイスラエルの新しい王として選ばれるダビデとサウルの違いということになるでしょう。サウルは、外見上は王としてふさわしいものがありました。背が高く、美男子だったということです。サウルの心を見ると、神への思いより、自分への思いが強くあって、神に対しての信仰がなくなり、自分の思いを優先し、神に捨てられていくということになってしまいました。そのようにならないために、心を見るということなのでしょう。心を見るということは、神への思い、信仰心が見られているということになります。後のダビデの行動でそのことが分かってきます。

 エッサイの子エリアブを主は選ばないということでした。次にエッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせました。サムエルは「この者をも主はお選びにならない」といいました。エッサイは次に、シャンマを通らせました。サムエルは「この者をも主はお選びにならない」といいました。エッサイは7人の息子にサムエルの前を通らせましたが、サムエルは「主はこれらの者をお選びにならない」と伝えました。サムエルはエッサイに「あなたの息子はこれだけですか」と聞きますと、エッサイは「末の子が残っていますが、今は、羊の番をしています」と答えると、サムエルは「人をやって、彼を連れて来てください。その子がここに来ないうちは、食卓に着きません」といいます。ダビデは、父エッサイの目にはその数に入っていないことが分かります。エッサイは人をやって、その子を連れて来ました。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であったのです。主は「立って彼に油を注ぎなさい、これがその人だ」といいます。サムエルは、油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で、ダビデに油を注ぎます。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになります。

 主はサムエルを通してダビデに油を注いで、新しいイスラエルの王にします。でも、実際にはいまだにイスラエルの王はサウルのままです。ダビデはサウルのもとで、苦難を味わうことになっていきます。サウルの死後に、いくつかの困難を乗り越えて、ダビデはイスラエル全体の王となっていきます。主によって心を見られたダビデはどのような歩みをしていくのでしょうか。サウルとの違いはどこになるのでしょう。

祈り 神よ。聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございました。ダビデが主の目に適った者として選ばれていきます。「主は心によって見る」といわれました。その意味を私たちが理解できますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                                 」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)


7月23日の祈祷会の内容です。

2025-07-22 19:56:00 | 日記
祈祷会     サムエル記上15:18~35「悔いられる神」   2025.7.23

 イスラエルの最初の王として選ばれたサウル、イスラエルの人々の求めがあり、神ご自身がイスラエルの王として選ばれたのです。サウルは、最初は謙遜に神に従っていましたが、少しずつ、神から離れて、自分自身の思いを強くするようになり、神からもサムエルからも捨てられていくのです。その時に、神は、サムエルはどのような気持ちだったのでしょうか。

 15章の最初に、神はサムエルを通して、サウルに「アマレク人を討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない」と命じました。いわれる聖戦というものです。サウルにとって大切なことは、何よりも神の言葉に聞き従い、その通り実行することでした。しかし、サウルと兵士は、アマレクの王アガグ、および羊と牛の最上のもの、初子ではない肥えた動物、その他何でも上等なものは惜しんで滅ぼし尽くさず、つまらない、値打ちのないものだけを滅ぼし尽くしました。

 このサウルの行動知って、神はサムエルに「わたしはサウルを王として立てたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしの命令を果たさない」というのです。それを聞いたサムエルは深く心を痛め、夜通し主に向かって叫ぶのです。サウルはカルメルで自分のために戦勝碑を建ててしまいます。

 サムエルはサウルにあいます。サムエルはサウルに「羊の声、牛の声を聞くがどうしてか」と聞きます。サウルは答えて「兵士が、主への供え物にしようと、羊と牛の最上のものを取って置いたのです。他のものは滅ぼし尽くしました」といいます。そこでサムエルはサウルに、神の言葉を告げます。「主は油を注いで、あなたをイスラエルの王とされた。主はあなたに出陣を命じ、行って、アマレクを滅ぼし尽くせ、彼らを皆殺しにするまで戦い抜けといわれた。何故に、あなたは主の声に聞き従わず、戦利品を獲ようと飛びかかり、主の目に悪とされたことを行ったのか」と。サウルはサムエルに答えて「わたしは主の御声に聞き従いました。主の御命令の通りに出陣して、アマレクの王アガグを引いて来ました。アマレクも滅ぼし尽くしました。兵士がギルガルで、主への供え物にしようと、滅ぼし尽くす物のうち、最上の羊と牛を、戦利品の中から取り分けたのです」と答えます。

 ここまで、サウルはサムエルに対して、二度も自分は神の言葉を守り実行したといい、兵士のせいにして、自分の罪を逃れようとしています。この時に、サムエルは有名な言葉をいいます。

サムエル記上15:22~23
主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。反逆は占いの罪に、高慢は偶像崇拝に等しい。

 サウルが兵士のせいにして、兵士たちが主への供え物にしようとして、最上の羊と牛を戦利品の中から取り分けたということに対して、主が喜ぶのは、主への供え物やいけにえであろうか、いや主が喜ばれるのは神の声に聞き従うことだと強調しています。

 そして、ここで初めてサウルはサムエルに「わたしは、主の御命令とあなたの言葉に背いて罪を犯しました。兵士を恐れて、彼らの声に聞き従ってしまいました。どうぞ今、わたしの罪を赦し、わたしと一緒に帰ってください。わたしは、主を礼拝します」と、自分の罪を認めて告白しています。三度目の正直といいますか、三度目でやっと自分の罪を認めたのです。でも、その罪の悔い改めは十分なものではありませんでした。表面的なものが見えてきます。サムエルは「あなたと一緒に帰ることはできない。あなたが主の言葉を退けたから、主はあなたをイスラエルの王位から退けられたのだ」といい、身を翻して立ち去ろうとすると、サウルはサムエルの上着の裾をつかみます。上着は裂けてします。これは、サウル王家の滅亡を意味しているといいます。

 サウルは「わたしは罪を犯しました。しかし、民の長老の手前、イスラエルの手前、どうかわたしを立てて、わたしと一緒に帰ってください。そうすれば、主を礼拝します」とサムエルに願います。何かサウルが可哀そうになってしまいます。王にふさわしくない人が王となった時の孤独というのでしょうか。そのように感じてしまいます。サムエルはサウルについて帰り、サウルは主を礼拝します。この時に、サムエルはアマレクの王と連れて来させ、主の御前で切り殺します。神の命令であるアマレク人を滅ぼし尽くせとの聖戦を実行しています。

 サムエルは自分の家に帰って行きます。サムエルは死ぬ日まで、再びサウルに会おうとせず、サウルのことで嘆きます。主はサウルを、イスラエルの王として立てたことを悔いられます。ここまで見てきましたが、神の深い後悔をみることになりました。神ご自身がサウルをイスラエルの王として立てたことを深く悔いています。このことをどのように考えればいいのでしょうか。サムエルもサウルの罪のために、深く心を痛め、夜通し主に向かって叫んでいました。神とサムエルの深い後悔もそうですが、サウル自身はどうだったのだろうと思います。今後、イスラエルの王として、深い孤独の中を歩んでいくことになります。私たちは神とサムエルの後悔とサウルの孤独をどのようにみていくのでしょうか。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。神とサムエルの思いと、サウルの思いをみてきました。神に王として選ばれながらも、神に従うことができないサウルの思い、そのサウルの罪深さに深く悲しみ後悔される神、そしてサムエルの思い、どうすることもできない葛藤が出ています。神は人を愛されます。その愛に答えることのできない人間、そのよう中でも神の人に対する救いの業が終ることはありません。神の愛を信じて歩むことができるようにしてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                                」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)