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5月11日の礼拝の内容です。

2025-05-10 11:57:00 | 日記
5月11日の礼拝の内容です。讃美歌は、351.403.405.412.26です。
礼拝のオンライン配信のアドレスはhttps://youtube.com/live/mJQFuy_i2_Y?feature=shareです。

礼拝説教     使徒15:36~41「主の恵みに導かれて」   2025.5.11

 私は、この礼拝の中で使徒言行録を読んでいます。使徒言行録は、キリスト教の教会の最初の様子を記しています。ここから私たちの教会の歩みの参考になると信じているからです。今日の聖書の箇所は、第2回伝道旅行の準備の様子が記されています。ここに悲しい現実が起っています。それはパウロとバルナバの対立です。使徒言行録は「そこで、意見が激しく衝突し、彼らは別行動をとるようになって」と、あります。このパウロとバルナバの対立の意味を考えていきたいと思います。

 その前に、話が急に変わることを許してください。旧約聖書の創世記の後半にヨセフ物語というのがあります。ヨセフ物語は創世記37章から50章にかけて書かれてあります。ヨセフは12人兄弟でした。これがイスラエルの12部族のもとになっていきます。ヨセフは父ヤコブにとって年寄り子でした。また愛するラケルの子どもでもあります。ヤコブはどの息子よりも可愛がり、特別な服を作ってあげました。他の兄弟たちは父ヤコブがどの兄弟よりもヨセフを可愛がるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すことはできなかったのです。ある日、兄弟たちはヨセフを殺そうとしました。しかし、結果的にヨセフをエジプトへ奴隷として売ることになったのです。父ヤコブのヨセフに対する溺愛から、そのような悲しい事件が起ってしまったのです。エジプトに奴隷として売られていったヨセフは、エジプトの宮廷の役人の者となっていきました。奴隷としての日々、またはある事件によって、牢獄に入れられて囚人として苦しい日々を過ごすことになりました。

 ヨセフにはある力がありました。それは夢を解く力です。ある時に、エジプト王が2つの夢を見ました。その王の夢の意味を誰も解くことができませんでした。しかし、ヨセフが王の夢を解き明かすことができたのです。牢獄に閉じ込められていたヨセフは、牢獄から出され、王の前に立たされて、王の見た2つの夢の意味を解き明かします。それは、これからエジプトには7年間、豊作が続く。その後、7年間、大飢饉が起るというものでした。ヨセフは王の前で、夢の意味を解き明かすだけでなく、その解決方法を具体的に指示したのです。そのために、エジプト王はヨセフをエジプトの大臣に任命して、エジプトに今後起る危機を乗り越えるために、その役割を与えられたのです。7年間の大豊作が始まりました。その間にヨセフはできるだけ食べ物を倉庫に備蓄するように指示するのです。大豊作が終ると、今度は、7年間の大飢饉が始まっていきました。大飢饉はエジプトだけではなく、世界中に広がっていきます。カナンに住んでいたヤコブとその家族たちもその影響を受けることになりました。食べ物がなくなっていくのです。人の命に関わることです。父ヤコブは息子たちにエジプトに行って、食べ物を買ってくるように命じるのです。

 食べ物を買うために、ヨセフの兄弟たちは、エジプトに行くのです。そこでエジプトで大臣をなったヨセフと再会することになります。結果的に、ヨセフの働きによって、エジプト人は大飢饉から命をつなぐことができました。また、世界中の人々も、ヤコブとその家族も、命をつなぐことができたのです。ヨセフがエジプトに行かなければ、大飢饉から人々を救うことができなかったのかもしれません。この時にヨセフは次のようにいっています。

創世記50:20
あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。

 ここに書かれてありますように、ヨセフの兄弟たちは、ヨセフに対して、奴隷としてエジプトに売ってしまうということをしましたが、そのことによって、世界中の人々の命を大飢饉から救うことができたのです。神は悪を善にも変えることができることをいっています。

 さて、話は戻って、使徒言行録にいきます。イエス・キリストの福音がユダヤ人から異邦人へと伝えられていきました。パウロとバルナバによって第1回伝道旅行が行われて、ますます異邦人への伝道が進んでいきました。その時に、教会は大きな問題を抱えるようになりました。それは、人が神によって救われるためには、イエス・キリストを信じること、モーセの律法を守ること、割礼を受けることなどが条件として入って来ました。その結論を得るために、エルサレムでの教会会議が行われて、人が神によって救われるためには、イエス・キリストを信じることにのみ、救われることが確認されました。このエルサレム会議の決定をパウロとバルナバはすべての教会に向けて発信するのです。ここまでパウロとバルナバは一緒になって、神のために、教会のために働いて来ました。どちらが欠けていてもダメだったと思います。

 そして、パウロによって、第2回伝道旅行の計画がバルナバに伝えられます。その内容は、第1回伝道旅行で行った先の教会の様子をもう一度見て来るというものでした。一度、行ったからいいではないかということではなくて、もう一度訪問して、教会の様子を見てくる、サポートして行こうということで大切な旅行になるはずでした。ここで大きな問題が起って来ます。マルコを連れて行くかどうかで、パウロとバルナバの間で激しい衝突が起ってしまうのです。使徒13:13「パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネ(マルコ)は一行と別れてエルサレムに帰ってしまった」とあるように、第1回伝道旅行の時に、マルコは途中でエルサレムに帰ってしまったのです。どのような理由で帰ったのかははっきりとは分かりませんが、伝道旅行の困難に耐え切れずに、帰ってしまったのだろうと想像できます。バルナバは、マルコをもう一度連れて行きたいと思ったのです。一度失敗しても、やり直すチャンスを与えてたいと思ったのでしょう。バルナバ、慰めの人といわれる意味も分かります。

 しかし、パウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は連れて行くべきではないと考えたのです。バルナバの意見とパウロの意見とどちらが間違って、どちらが正解ということができるのでしょうか。どちらも正解ということができるでしょう。そこで、意見が激しく衝突してしまうのです。あのバルナバならパウロに折れるのではないかと思いますが、ここで全く妥協の様子は出て来ません。マルコの未来を考えての思いだったのでしょう。悲しいことに、このような意見の対立が起っていることを、しっかりと受け止める必要があると思います。教会の中に、いろいろな意見の対立が起って来ることはあることなのです。

 悲しいかな、とうとうパウロとバルナバは別行動をとることになってしまいます。バルナバはマルコを連れて、キプロス島へ向かって船出しました。一方、パウロはシラスを選び、教会の兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発します。そして、シリア州やキリキア州を回って教会を力づけて行きます。パウロとバルナバが別行動とることになってしまったこと、これは悲しい現実だと思います。できれば、このようなことにならない方がよかったと私は思います。しかし、大きな視点で見ると、第2回伝道旅行が1つではなくて、2つになったと考えることもできます。全世界に、イエス・キリストの福音を広めていくということからすれば、素晴らしいこととなっていきます。人間的な対立も、神は大きな視点で、それを良き方向と変えてくださるということにつながっていきます。パウロの言葉に次のようなものがあります。

ローマ8:28
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

 パウロは、バルナバとの対立の結果として、このような言葉を語ったのでしょうか。人と人との間にも対立は起ってしまいます。教会の中でも対立は避けることができません。そのような人間の対立も神は用いて、素晴らしい御業と変えてくださるのです。パウロとバルナバの対立、そしてヨセフとその兄弟たちに対立を見てきました。そのような対立を神はすべて良い方法へと導いてくださったのです。ここで人の対立はいいといっているのではありません。人の対立は起ってしまいます。それで、悲しむのではなくて、それでも神はその対立をも良き方向へと導いてくださる信仰が大切だと思います。私たちの教会もいろいろな意見があると思います。それをも神は良き方法へと導いてくださると信じることが大切なのです。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。聖書からパウロとバルナバの激しい衝突の場面を見てきました。そのことで二人は別行動を取ることになってしました。でも、それは伝道活動がより活発になるように、神は導いてくださったのです。私たちは人間的な視点だけではなく、神への大きな視点を持って、信仰生活を送ることができますように、守り導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


5月7日の祈祷会の内容です。

2025-05-06 19:48:00 | 日記
祈祷会     サムエル記上9:14~27「神がサウルを王にする」   2025.5.7

 サムエル記はイスラエルの歩みの中で、神政政治から王政政治に変わっていくことが書かれてあります。もともと、イスラエルの人々の中では、自分たちに王が欲しいという欲求がありました。それは、イスラエルの人々は長く近隣のいろいろな民族と戦いを繰り返して来ました。その戦いの中で、敵となる他民族では戦いのリーダーとしての王がいて、王が人々を率いて戦っていたからです。イスラエルの人々は自分たちにもそのような戦いのリーダーとしての王の必要性を感じていたのです。

 イスラエルの人々がサムエルを通して神に王を求めた時、サムエルはその王を求めることは悪と受け止めていました。それは、今まで、神が王としてイスラエルを戦いの中で導いて来たのです。それは神を捨てて、人間である王と求めることになるからです。神も反対のようでした。神は、イスラエルの人々は、わたしがイスラエルの上に王として君臨することを退けているというのです。更に、イスラエルの人々はエジプトから導き上った日から今日まで、彼らのすることは、わたしを捨てて他の神々に仕えることだったとさえいうのです。

 しかし、それでも、神はイスラエルの人々が王を求める欲求に対して受け入れるようにサムエルにいいます。「人々がいうままに彼らの声に聞き従いなさい。今は彼らの声に聞き従いなさい。ただし、警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい」といいます。王の権能をひとことでまとめると、王の奴隷になるということでしょう。そして、サムエルは警告として「あなたがたが選んだ王のゆえに、あなたがたは泣き叫ぶ。しかし、主はその日に、あなたたちには答えてはくださらない」といいますが、人々はサムエルの声に聞き従おうとせずに、どうしても王が必要と主張するのです。主はサムエルに「彼らの声に聞き従い、彼らに王を立てなさい」といいます。

 そして、イスラエルの中で初めての王が選ばれるのですが、それはサウルという人物です。サウルはベニヤミン族でした。美しい若者で、彼の美しさに及ぶ者はイスラエルには誰もいなかった。人々の誰よりも肩が上の分だけ背が高かったのです。イスラエルの人々の中で初めて王として選ばれるサウルは、イケメンで背が誰よりも背が高かったというので、一目で目立った人物だということが分かります。サウルがイスラエルの王として選ばれることですが、最初にサウルの父のろばが数頭、姿を消してしまいました。それで、父の命令で、サウルは若者を一人連れてろばを捜しに行くことになりました。これがサウルとサムエルの出会いに導かれます。目に見えない神の導きがあるのです。

 サウルは父のろばを捜しに出かけて行ったのですが、なかなか見つめることができないのです。サウルは疲れて、一緒にいる若者に「もう帰ろう。これだけ捜してもろばはみつからない。ろばは諦めよう。父が心配しているから」といって家に帰ろうとします。その時に、若者はサムエルのことをいいます。「近くの町に神の人サムエルがいます。あえば、何か教えてくれるでしょう」というと、サウルは「分かった。でも、その人に持参する物は何もない」というと、若者は「ここに4分の1シュケルの銀があります。これでいかがでしょうか」というと、サウルは「それはいい。さあ行こう」となっていくのです。若者の言葉がなければサウルとサムエルの出会いはなかったのでしょうか。

 そして、今日の聖書の箇所になります。サウルと若者は、神の人サムエルがいる町に入ろうとしていきます。サムエルもその町に入って行こうとします。実は、前日に神はサムエルに「明日の今ごろ、わたしは1人の男をベニヤミンの地からあなたのもとに遣わす。あなたは彼に油を注ぎ、わたしの民をペリシテ人の手から救う。民の叫び声がわたしに届いたので、わたしは民を顧みる」と伝えています。何と、神ご自身がイスラエルの王となるサウルを指名しているのです。人々から選んだのではなく、神ご自身がサウルを王として選んでいくのです。この意味はとても大きいです。そしてサムエルがサウルに会うと、神はサムエルに「わたしがあなたにいったのはこの男のことだ。この男がわたしの民を支配する」と告げています。

 町に入る城門でサウルは、サムエルが先見者であることを初めて知ります。サムエルはサウルに「わたしが先見者であり、先に聖なる高台に行きなさい。今日はわたしと一緒に食事をしてください。明朝、あなたを送り出す時、あなたの心にかかっていることをすべて話します。いなくなったろばはすでに見つかっています。全イスラエルの期待は誰にかかっていると思いですか。あなたにです」と告げています。この時にサウルは「わたしはイスラエルで最も小さな部族でベニヤミンの者です。そのベニヤミンでも最小の一族です。どんな理由でわたしにそのようなことをいわれるのですか」と答えています。非常に謙遜な態度でいることが分かります。

 サムエルはサウルらを広間に導き、招かれた人々の上座に席を与えました。30人程が招かれていたとあります。サムエルはサウルに特別な料理を用意していました。この時にサウルはサムエルと一緒に食事をしたのです。聖なる高台から町に下って、サムエルはサウルと屋上で話っていきます。屋上で共に寝たというのでしょう。朝早く起きて、サムエルはサウルに、一緒にいる若者を先に行かせるようにいいます。神の言葉を聞かせるためという理由です。若者は先に行きます。そして10章の最初に、サムエルは油の壺を取って、サウルの頭に油を注ぎます。個人的に秘密裏に、油を注いでいることが気になります。こうして、サウルはイスラエルの最初の王として、立っていくことになります。神によってイスラエルの王として指名されたサウルが、今後どのような歩みをしていくのか見ていくことになります。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りに時を与えてくださり、ありがとうございました。あなたは、サウルをイスラエルの最初の王として指名されました。どのような思いがあって、サウルを王として指名されたのでしょうか。その後に、サウルの歩みは悲しいことにつながっていきます。あなたの御心を少しでも知ることができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                                」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)


5月4日の礼拝の内容です。

2025-05-03 20:14:00 | 日記
5月4日の礼拝の内容です。讃美歌は、210.200.451.458.78.88です。
礼拝のオンライン配信は、「瀬戸永泉教会」YouTubeチャンネルから入ってください。

礼拝説教      使徒15:30~35「励ましに満ちた決定」    2025.5.4

 5月の最初の日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から神に感謝したいと思います。この礼拝を通して、私たちの1週間の歩みがより豊かなものとなりますように願います。礼拝では、使徒言行録を読んでいます。教会の初めの歩みが書かれてあります。イエス・キリストの福音は、ユダヤ人から異邦人に伝えられていきます。アンティオキアに初めての異邦人教会が誕生しました。その教会を拠点として、パウロとバルナバによる第1回伝道旅行が行われました。この伝道旅行の結果として、多くの異邦人が、イエス・キリストの福音を受け入れ、洗礼を受けて、教会に加わっていきました。

 そのアンティオキア教会で、大きな問題と混乱が起きてしまいました。それは、ファリサイ派から信者になった人々がユダヤからやって来て、「あなたがたが救われるためには、イエス・キリストを信じるだけでなく、モーセの律法を守り、割礼を受けなければならない」といったのです。ここで問題になったことは、キリスト教の信仰にとってとても重要な内容です。いかにして、人は神によって救いを得ることができるかということです。イエス・キリストの十字架の死と復活はどのような意味を持つかということです。神によって救われるためには、イエス・キリストの十字架の贖いを信じることと、モーセの律法を守ること、割礼を受けること、この3つが必要だというのです。この問題に対して、パウロとバルナバと、ファリサイ派から信者になった人々の間で、激しい意見の対立と論争が生じたのです。

 この救いの本質の問題に関して、使徒や長老たちと議論するために、パウロとバルナバ、その他数名の者がエルサレム教会に行って、協議することになったのです。それが、第1回エルサレム会議といわれるものです。エルサレムに到着すると、パウロとバルナバは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎されました。パウロたちは、神が自分たちと共にいて、異邦人に対して、多くの人々が救いを受け入れて、教会に加わっていったことをすべて報告していきます。また、ファリサイ派から信者になった人々は「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」といって、議論になっていきます。

 このエルサレム会議で重要な役割をしたのがペトロです。ペトロは、異邦人コルネリウスとの出会いから話していきます。地中海沿岸のカイサリアの町にコルネリウスという人がいました。イタリア隊と呼ばれる部隊の百人隊長でした。コルネリウスは信仰心があつく、一家そろって神を畏れ、人々に多くの施しをし、絶えず神に祈っていたのです。コルネリウスは異邦人でありながら、熱心なユダヤ教徒のようでした。そのコルネリウスを神は選ばれるのです。一方で神は、ペトロにも働きかけます。ペトロはこの時に、近くの町にいました。ペトロは祈るために、屋上に上がって行きます。昼との12時ごろでした。ペトロは空腹を覚え、何か食べたいと思ったのです。家の中では、人々が食事の準備を整えていました。ペトロはここで幻を見るのです。天が開いて、大きな布のような入れ物が、四隅に吊るされて、地上に下りて来ました。その中にはあらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていました。それは、旧約聖書で汚れた動物とされていたものです。そして、声があって、「ペトロよ、身を起して、屠って食べなさい」というのです。しかし、ペトロは「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」と答えます。すると、また声があって、「神が清めた物を清くないなどと、あなたはいってはならない」というのです。このようなことが三度、ペトロに起りました。
 このペトロの見た幻の中で、神のご計画を知ることになります。それまでユダヤ人たちは、自分たちは清い存在で、異邦人は汚れていると考えていました。それが、その清いとか、汚れているとかの壁がなくなったことを知るのです。その清い者と汚れている者の壁は、イエス・キリストの十字架の血による贖いによって、清められてなくなってしまったのです。

 コルネリウスの所に、ペトロが行った時に、ペトロは「あなたがたもご存じの通り、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは律法で禁じられていました。けれども神は私に、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とかいってはならない、お示しになりました。それで、私は、あなたの招きを受けた時に、すぐに来たのです」と答えています。そして、コルネリウスらに、イエス・キリストの福音を語っていきます。「イエスについて、この方を信じる者は誰でもその名によって罪の赦しが受けられる」と証していくのです。ペトロがコルネリウスらに福音を語っていると、御言葉を聞いているコルネリウスらに聖霊が降っていきます。この時に、割礼を受けている、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人に上にも注がれているのを見て、大いに驚いています。異邦人が異言を語り、また神を賛美しているのを聞いたからです。そこで、ペトロは「私たちと同じように聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったい誰が妨げることができますか」といって、コルネリウスらに、イエス・キリストの名によって、洗礼を受けるようにといっています。多くの異邦人が洗礼を受けることができました。

 このペトロのコルネリウスとの出会いが、次のようにいうことができたのです。「人の心をお見通しになる神は、私たちに与えてくださったように、異邦人にも聖霊を与え、彼らも受け入れたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、私たちと彼らとの間に何の差別もなさいませんでした。私たちは、主イエスの恵みによって救われていると信じているのですが、これは異邦人も同じことです」といっています。このエルサレムの会議の結果は、イエス・キリスト信じる信仰によってのみ、人は救われるということになったのです。ここで大切なことは、エルサレム会議ですから、人の集まった会議で決まったように思いますが、そうではなくて、神がそのように導いておられるということです。

 エルサレム会議が終って、使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選んで、パウロやバルナバと一緒にアンティオキア教会に派遣することを決めます。選ばれたのが、ユダとシラスでした。彼らは兄弟たちの中で指導的な立場にいた人たちでした。使徒たちは、人を派遣することと、手紙を書いて彼らに持たせるのです。その手紙の内容は、イエス・キリストを信じるのみによって人は救われるというものです。使徒たちは、アンティオキア教会に対して、人と手紙を持たせて、よりエルサレム会議の決定をはっきりと伝えようとしています。

 さて、パウロとバルナバ、ユダとシラスは、見送りを受けて、出発し、アンティオキア教会に到着すると、教会員全体を集めて、手紙を渡します。アンティオキア教会の人々は、それを読み、励ましに満ちた決定を知って喜びました。この手紙の内容では、神によって救われるには、イエス・キリストの信仰と、モーセの律法を守ること、割礼を受けることに対する答えが書かれてあります。ファリサイ派から信者になった人々によって、混乱が生じた教会を建て直すために、開かれたエルサレム会議の決定の内容です。どうすれば、神の救いを得ることができるかという、信仰の基本的なことが書かれてあるのです。この内容は、今後の教会の歩みを決定的なものとしました。このエルサレム会議の決定は、後のキリスト教の歩みの大きな影響を与えたのです。この時から、キリスト教はユダヤ教を離れて、ユダヤ教は全く別の宗教となっていくのです。

 神の救いに預かるためには、イエス・キリストの十字架の贖いを信じるだけでいいのです。それ以外は、何もありません。アンティオキア教会の人々の喜びはとても大きなものでした。エルサレム教会からの手紙は、励ましに満ちた決定が書かれてありました。その大きな喜びの中で、教会の歩みは進んで行きます。ユダとシラスは預言する者でもあったので、いろいろと話をして、アンティオキア教会の兄弟たちを励まし、血からづけ、しばらく滞在した後で、アンティオキア教会の兄弟たちから送別の挨拶を受けて見送られ、エルサレム教会に帰って行きました。しかし、パウロとバルナバはアンティオキア教会にとどまって教え、他の多くの人々と一緒に主の言葉を告げ知らせて行きました。

ローマ3:19~24
さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

 ここに神の救いの内容が書かれてあります。イエス・キリストの十字架の死と復活を信じることによってのみ、私たちは救われるのです。これが、神の救いのすべてです。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。エルサレム会議の決定の内容を知ったアンティオキア教会の人々の大きな喜びを知りました。それは、神の救いの内容が改めて、示されたものでした。イエス・キリストの十字架の死と復活、それを信じることだけが、私たちの救いを完成させるものです。この基本に立って、神への信仰を持って、歩むことができますように、私たちを守り導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


4月30日の祈祷会の内容です。

2025-04-29 19:58:00 | 日記
祈祷会   サムエル記上9:1~13「イスラエルの最初の王サウル」   2025.4.30

 サムエル記は、イスラエルの王国物語が書かれてあります。サムエル記上には、最初の王サウルと次の王ダビデのことが書かれてあります。イスラエルの人々が王を求めたことは、それまで多くの民族と戦って来た経験からきています。戦いの度ごとに、敵には軍のリーダーである王がいて、その王のもとで戦いが進められていました。それを見て、自分たちにも王が欲しいという願いがあったのです。人々が王を求めた直接の原因は、サムエルにありました。サムエルは預言者として祭司として士師として素晴らしい働きをしていました。しかし、サムエルも高齢になっていました。後継者として任命したサムエルの息子たちは、サムエルの道を歩まず、不正な利益を求め、賄賂を受け取って裁きを曲げていました。これからのことに不安を覚えたイスラエルの長老たちは、サムエルに、イスラエルに新しい王を立てて欲しいと願い出ています。サムエル自身と神も人々が王を求めることには反対でした。今まで、イスラエルは神ご自身が王だったからです。それは神を捨てて、人間の王を立てるという意味だったからです。しかし、神はサムエルに、人々の声に聞き従い、新しい王を立てなさい。また、王の権能について具体的に説明するようにいいます。

 イスラエルの人々の王を求める声に神は聞き従い、イスラエルに最初の王が誕生していきます。それが、サウルです。サウルはベニヤミン族の出身です。父は勇敢な男であったキシュという人でした。サウルの特徴として、美しい若者で、彼の美しさに及ぶ者はイスラエルには誰もいませんでした。また民の誰よりも肩から上の分だけ背が高かったのです。王としての見栄えといいますか。それをサウルは持っていたということになります。ある日、キシュのろばが数頭、姿を消します。家畜がなくなることは大きな問題となっていきます。それで、キシュは息子のサウルに若者1人連れて、ろばを捜しに行ってくれと命じます。サウルはいろいろな場所に行きましたが、ろばを見い出せずにいました。ある場所に来た時、サウルは一緒にいた若者に「さあ、帰ろう。父がろばはともかくとして、私たちを気遣うといけない」といって帰ろうとしました。すると若者は「ちょうどこの町に神の人が来ています。尊敬されている人で、その方のおっしゃることは何でもそのとおりになります。その方を訪ねてみましょう。恐らく、私たちに進むべき道について、何かを告げてくださるでしょう」といいます。でもサウルは「訪ねるとしても、その人に何を持参できよう。神の人に持参する手土産はない。何かあるか」と聞くと、若者は「ここに4分の1シュケルの銀があります。これを神の人に差し上げて、どうしたらよいのかを教えていただきましょう」といいます。サウルは「それはいい。さあ行こう」といって、神の人のいる町に向かって行きます。町に通じる坂を上って行くと、水汲みに出て来た娘たちに出会いました。サウルたちはこの娘たちに、先見者がいるかを聞いていきます。

 これから先は、これからのサウルの歩みの全体像をみていきます。イスラエルの最初の王となるサウルですが、神が王として直接指名されたということが大切です。神に指示されて、サムエルはサウルの頭に油を注ぎ、王に任命しましたが、「しかしならず者は、こんな男が我々を救えるかと言い合って彼を侮り、贈り物を持って行かなかった。だが、サウルは何も言わなかった」(10:27)とあるように、最初は無名の若者が突然王とされたことへの人々の戸惑いがあったこと、また、サウル自身も自信を持てずにいたようです。しかし、やがて王として最初の戦いに勝利すると、人々はサウルを王として認め、本人も自信を持つようになっていきます。

 しかし、やがて、神に反することを犯してしまいます。ある時、ペリシテ人との戦いで、イスラエルは苦境に立たされていました。人々は神に焼き尽くすささげものをささげて、この苦境から救ってもらいたいと、サムエルの到着を待っていました。ところがなかなかサムエルがやって来ないのです。人々が戦意を失い欠けているのを見たサウルは、祭司しか許されていないささげものをささげる行為を自ら行ってしまいました。ちょうど、その時にサムエルが到着するのです。サムエルはサウルをとがめ、神の命令を守らなかったサウルの王国は続かないといいます。その後、神はサムエルを通してサウルにアマレクを討つように命じました。その時に、アマレクの民も家畜も財産もすべて滅ぼし、戦利品として持ち帰ることはしないようにとも命じました。しかし、サウルは肥えた家畜たちを見るとそれを滅ぼすことを惜しんで持ち帰ってしまったのです。神の命令を破ることが二度目であったこと、サムエルにとがめられた時、「命令は破っていない。これは神にささげるために持ち帰ったものだ」とうそをついています。サウルには神を畏れ、神の命令に従う姿勢が欠けています。そんなサウルにサムエルは「反逆は占いの罪に、高慢は偶像礼拝に等しい。主の御言葉を退けたあなたは王位から退けられる」(15:23)といいます。

 「あなたは王位から退けれる」という言葉は、神の霊はサウルを離れ、サムエルからも見放され、支えを失ったサウルは心が休まる時がありませんでした。一方で、神はサムエルに新しい王に油を注ぐように命じます。それはダビデでした。しかし、ダビデがイスラエルの王となるのはまだしばらく先のことです。不安と恐れに日々さいなまれているサウルに、ダビデは今でいう音楽療法のようにして竪琴の演奏者として癒すのです。やがて、ダビデが戦闘で大きな成果を上げるようになると、人々はサウルよりもダビデを称賛するようになり、サウルはダビデに嫉妬し始めます。それが高じてダビデを殺そうとしたために、ダビデは逃走します。神に見捨てられたサウルは、その後、戦闘で死ぬことになります。ここでサムエル記上が終ることになります。イスラエルの最初の王となったサウル、サウルを王として指名したのが、神ご自身でした。その点を忘れてはいけないと思います。どうして、このようなサウルを王として指名されたのか、神の御心は、私たちには分かりません。サウルは最初、謙遜でした。それが王になってから、その立場がサウル自身を変えてしまったのでしょうか。サウルの歩みを見ていきますと、人間の弱さを知ることができます。私たちはどうでしょうか。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。イスラエルの王として最初に選ばれたサウル王の歩みをみてきました。なぜ、あなたはサウルを王として選ばれたのでしょうか。そのサウルが、神を畏れることを止めて、自分勝手な道を歩んで行ってしまう。どうして、サウルはこのようになってしまったのでしょうか。人は王という立場になると、人間が変わってしまうのでしょうか。自分という者をしっかりと見極めることができますように導いてください。この願いをイエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                             」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)


4月23日の祈祷会の内容です。

2025-04-22 13:29:00 | 日記
祈祷会     サムエル記上8章「イスラエルが王を求める」   2025.4.23

 旧約聖書のサムエル記と列王記は、イスラエルの王国物語が書かれてあります。イスラエルに王が誕生する機会となったのが、今日の聖書の箇所です。それまでイスラエルを導いたのは族長であり、士師でありました。ここまでイスラエルの人々の歩みは、いろいろな民族との戦いの歴史でした。戦いには、戦いを導く者が必要でした。イスラエルと戦う他の民族には王がいて、王が人々の戦いを導いていったのです。それをイスラエルの人々は戦いの中で見ていました。それで、イスラエルの人々の間で、自分たちにも戦うリーダーとしての王が必要だと感じていたのです。

 イスラエルの人々の中で、自分たちに王が必要だと感じたきっかけは、それまでの他民族との何度も渡る戦いの経験からでした。実際にきっかけとなったのが、サムエルの晩年です。サムエルは士師として素晴らしい働きをしていました。サムエルが元気で、士師としての働きを発揮できる時は何の問題も起りませんでした。しかし、サムエルは年老いていきます。サムエルは、イスラエルのために裁きを行う者として息子たちを任命しました。サムエルが自分の息子たちを自分の後継者として任命したことは、どうしてなのだろうと思います。自分の指導者であった祭司エリとその息子たちの経験があったはずなのに、それを忘れてしまっているかのようです。この息子たちは父の道を歩まず、不正な利益を求め、賄賂を取って裁きを曲げています。そのような息子たちをどうして後継者として任命したのか、イスラエルの人々の不満が起って当然です。

 イスラエルの長老たちは全員集まって、サムエルに「あなたは既に年を取られ、息子たちはあなたの道を歩んでいません。今こそ、他のすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください」と申しれるのです。イスラエルの長老たちの言い分に対しての責任はサムエルに大いにあります。イスラエルの人々がサムエルに王を求めることに対しては、2つの意見があります。反対の立場と賛成の立場です。今日の聖書の箇所でも、同時に2つの意見が交錯していることが分かります。その点を考慮しながらみていきましょう。

 まず、反対の立場です。裁きを行う王を与えよとのイスラエルの長老たちに言い分は、サムエルの目には悪と映ったとなっています。そこで、サムエルは主に祈り、主は「民があなたにいうままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった。あなたに対しても同じことをしているのだ」と答えています。このまま聖書を読んでいると、サムエルや主が、人々が王と求めていることに対して反対の立場だといえます。

 しかし、主は「今彼らの声に従いなさい。ただし、彼らにはっきりと警告し、彼らの上に君臨する王の権能について教えておきなさい」といっています。主は、イスラエルの人々の王を求めることに対して、本音では反対だが、現実的には受け入れるしかないという立場になっています。サムエルは王を要求する人々に主の言葉を伝えます。「あなたたちの上に君臨する王の権能は次の通りである。まず、あなたたちの息子を徴用する。戦車兵、騎兵にして王の前の戦車の前を走らせ、1000人隊の長、50人隊の長として任命し、王のために耕作や刈り入れに従事させ、あるいは武器や戦車の用具を造らせるためである。また、あなたたちの娘を徴用する。香料作り、料理女、パン焼き女とする。あなたたちの最上の畑、ぶどう畑、オリーブ畑を没収し、家臣に分け与える。また、あなたたちの穀物とぶどうの10分の1を徴収し、重臣や家臣に分け与える。あなたたちの奴隷、女奴隷、若者のうち優れた者や、ろばを徴用し、王のために働かせる。また、あなたたちの羊の10分の1を徴用する。こうして、あなたたちは王の奴隷となる。その日に、あなたたちが選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない」と。

 人々はサムエルの声に聞き従おうとせず、いい張り「いいえ。我々にはどうしても王が必要なのです。我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いを戦うのです」と答えます。サムエルは人々の言葉をことごとく聞き、主の耳に入れるのです。主はサムエルに「彼らの声に聞き従い、彼らの王を立てなさい」といわれました。このようにして、イスラエルの人々の王を求める声に、主は答えて、サムエルに「彼らの王を立てなさい」と命じています。

 イスラエルの中に、新しく王が立てられていく。これは主の目からすれば悪のように見えますが、それを受け入れて容認していくことになります。主は、イスラエルの人々の欲求に配慮して答えています。現実路線といいますか、そのような対応にみえます。今後のイスラエルの人々の歩みを考えて行く時に、戦いの連続となっていきます。そのための対応なのかと考えます。今後、イスラエルの王として、サウルやダビデ、ソロモンが選ばれていきます。この王たちの歩みを通して、私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。イスラエルの人々が神に王を立てて下さるように願って、神はそれを実現すると約束しています。このことを私たちはどのように受け止めればいいのでしょうか。人間の現実といいますか、それを見て、神は王を立てることを容認したのです。ここでは神の柔軟性として受け止めていいのでしょうか。神の思いを少しでも思い計ることができますように導いてください。この願いをイエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                              」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)