研究員便り

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清水寺の顕彰碑の説明文 はじめに

2018年01月29日 20時40分54秒 | お知らせ
「アテルイ・モレの物語」の英語版を掲載する予定でしたが、予定を変更し、清水寺の
南苑境内に建立された「北天の雄 阿弖流為・母禮」顕彰碑の裏面説明文を紹介します。
清水寺に限らず、今や京都・関西の観光地は中国や韓国、台湾をはじめとするアジア各地
欧米からの観光客で連日にぎわいを見せています。せっかく訪れる外国人へも、我が故郷
の蝦夷の歴史、アテルイ・モレの物語の一端を知っていただこうというのが大きな狙いで
す。蝦夷・アテルイ・モレの認知度の国際化、世界への拡散です。いずれ、冊子化(パン
フレット)にして、顕彰碑の前で興味・関心をもっていただける方に配布したいと考えて
います。よって、事前にこのコーナーをお借りして外国語版を順次掲載する予定です。
言語は、英語(高橋 訳)、中国語(簡体字・繁體字共に李さん)、フランス語(Felixさん)
ドイツ語(Danzさん&Julianさん)、スペイン語(名前不明)、ヒンディー語(名前不明)
韓国語(名前不明)、インドネシア語(rizqafitriasari リズカフィトリアサリさん)です。
仏・独・西・印は、私の娘の友人の知人(京大の留学生)、韓・尼(=インドネシア)の2人
は園田学園女子大の留学生です。まず最初は日本語です。(本来は縦書き)

顕彰碑の説明文 

8世紀末頃まで東北・北上川流域を日高見国と云い、大和政府の勢力圏外にあり独自の
生活と文化を形成していた。                  
 政府は服従しない東北の民を蝦夷と呼び蔑視し、その経略のため数次にわたり巨方の
征東軍を動員した。     
 胆沢(岩手県水沢市地方)の首領・大墓公阿弖流為は、近隣の部族と連合し、この侵略
を頑強に阻止した。
なかでも789年の巣伏の戦いでは勇猛果敢に奮闘し、政府軍に多大の被害を与えた。
 801年、坂上田村麻呂は4万の将兵を率いて戦地に赴き、帰順策により胆沢に進出し
胆沢城を築いた。                        
 阿弖流為は10数年に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、同胞500余名を従えて田村
麻呂の軍門に降った。       
 田村麻呂将軍は阿弖流為と副将・磐具公母礼を伴い京都に帰還し、蝦夷の両雄の武勇
と器量を惜しみ、東北経営に登用すべく政府に助命嘆願した。 
 しかし公家達の反対により阿弖流為、母礼は802年8月13日河内国で処刑された。
 平安建都2000年に当たり、田村麻呂の悲願空しく異郷の地で散った阿弖流為、母礼
の顕彰碑を、清水寺の格別の厚意により、田村麻呂開基の同寺境内に建立す。
 両雄もって冥さるべし。

1994年11月 吉祥日  
関西胆江同郷会  アテルイを顕彰する
関西岩手県人会  京都岩手県人会
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研究員:高橋正吾 
次回は、英語版 2月5日(月)掲載予定

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