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尹東柱-詩集『空と風と星と詩』を中心に その2

2013年09月05日 | 尹東柱

その1 その3 画像版

 尹東柱の評伝は二冊出ている。

①金賛汀『抵抗詩人 尹東柱の死』(朝日新聞社・一九八四年刊)
②宋友恵『空と風と星の詩人 尹東柱評伝』(藤原書店・二〇〇九年刊)

 ①と②の間に二五年の歳月が流れている。この間に東西冷戦が終息した。尹束柱は現下の朝鮮半島南北分断の南半分の韓国での評価が日本には上①②の著で伝わってくるが、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)での位置づけはどうなのか。詩は、書いた詩人の手を離れた時から「自分の足」で歩み出す。尹東柱の詩を受け取る側の問題でも、それは有る。
 尹東柱詩集『空と風と星の詩人』が世に出たのは、実に奇跡的であった。以下、①②を辿って、そのことを見る。
 上記したように、尹東柱は手造りの詩集として三冊を作った。最初は、ソウルの延禧専門学校文科を卒業した記念に出版しようと計画したが、ハングル語で書いた学生の詩集の出版など時局が許さなかった。そこで、尹は手書きの一冊を下級生の友人鄭ビョンウクに渡したのだ。鄭は学徒動員で徴兵された。学徒兵制度は一九四三年一〇月から実施され、鄭も引っぱられたが幸い帰還した。
 日本の敗戦後、鄭は、次のように話している。

尹東柱自身が持っていたものと李ヤンハ先生に贈られた詩稿は行方を探ることができなかったが、わたしに渡されたものが母の箪笥の奥深くに隠され、それが一九四八年に正音社から出版されたことによって、東柱の詩が初めて世に広く知られるようになった。(略)(私は母に)尹もわたしもともに死んで戻ってこなくても、祖国が独立したらこれを延禧専門学校に送って世に知らしめてくれと、遺言のように言い残して戦地に向かった。さいわい命ながらえて無事家に帰ると、母は絹の風呂敷で幾重にも包んで守っておいた東柱の詩稿を、誇らしくさし出して喜んでくださった。(鄭ビョンウク、「忘れえぬ尹東柱のこと」 一九七六年)

 二人の友情を応援した鄭の母もすばらしいが、鄭のたった一人の妹・鄭徳煕(解放後、尹東柱の弟尹一柱と結婚し二男一女をなした)は、兄の鄭は、尹の詩稿を隠した場所を間違えて覚えているという。

兄さんは兵隊に出ているあいだ家にいなかったのでわからず、母が箪笥に隠したんだと思ったのです。じっさいは床の下に隠したんですよ。

 これは②の執筆にあたって宋友恵がインタビューした際のものだ。
 鄭家は人きく、その床の下に一カ所秘密の場所があった。ふだんは床板はしつかりと閉められ何の目印もなかった。この床下の土を深く掘り、藁を敷き、大きな甕を据えた。藁を敷いたのは湿気を遮断するためだった。この妹の声を、もう少し引いておこう。

わたしが女子高時代、休みで家に行ったときのことです。ある日、家でとくに用もないときに、母が床板を開いてその甕の中の品物をぜんぶ出してわたしに見せてくれたんです。わたしの婚礼用にこしらえた貴重品もその中にありました。母はそこから『空と風と星と詩』の原稿本も取り出して見せてくれました。「これはおまえの兄が兵隊に行くときわたしに頼んでいったものだ。日本の巡査の目にふれては絶対だめだ、と固く頼んでいった」と説明してくれました。広げてみるとハングルで書かれているもので、どういうものかはとてもわかりませんでした。それで、そのまましまいましたが、そのときはわたしが日本の教育だけ受けてハングルなんてまったく知らない世代だったからです。

 このように、地上で(いや地中で!)一冊だけ残ったのが尹東柱の『空と風と星と詩』だった。

 もう一人、尹東柱の詩を解放後に広く、本格的に世に紹介したのが、これも尹束柱の友人・姜処重だ。
 一九三八年、尹二一歳、ソウル延禧専門学校文科に入学。従弟(父の妹の子)の宋夢奎はソウルの大成中学校を経て同校に入学した。寄宿舎の三階の屋根裏部屋で、尹と宋夢奎、そしてもう一人一緒に同じ室で起き臥した仲間が姜処重。三人は仲良しだった。
 後に一九四五年二月、尹は福岡刑務所で絶命。翌月、宋夢奎も絶命。二人は一九四三年七月に、京都で特高警察によって独立運動の嫌疑で検挙され下鴨警察署に入れられる。宋は京都大学に、尹は同志社大学に進み、ともに京都にいた。
 姜処重は一九一六年、咸鏡南道元山の生まれ、満洲国内の「間島」から、「本土朝鮮の首都(ただし日本支配下の)ソウル」に出て来て学問に励む尹と宋と三人が一つ部屋で延専時代を過ごしたのだ。萎は同期生たちの中で「英語の達人」と言われた。リーダーシップに優れ、四年生の時には学生会長に選ばれた。
 萎は、上記した如くソウル延禧専門学校の寄宿舎三階の屋根裏部屋で尹東柱、宋夢奎と三人で暮した仲だ。一年で尹が寄宿舎を出て下宿生活をするが、姜との友情は続き、尹が日本に一九四二年はじめに渡ったあと、四年以上もの歳月の間、尹が残していった詩稿を含む品物を保管しとおした。
 尹が自選した筆写本の詩集は、河東出身の延禧専門学校の後輩鄭ビョンウクに一冊を渡し、この一冊が鄭の母たちに守られていたことは既述した通りだが、姜もまた、尹の、詩稿と遺品をよく保管し続けたのである。日本敗戦後の翌一九四六年六月、東柱の弟尹一柱は一九歳だったが単身越南して、兄東柱がソウルに残していった物品類が無いかを探して歩いた。そして延専の同窓生姜処重と解逅する。
 姜は先にも触れたが、咸鏡道元山の富裕な漢方医の長男で、延禧専門学校では学生会長に選出されるほどリーダーシップが卓越していた。彼の延専卒業アルバムの写真が残されているが尹東柱とはまた別の、これまた見事な美男子だ。この姜が保管しておいた詩稿は、今日見る詩人尹東柱の生成発展の様相を良く示しており、さらに自選詩集を編んだのちに書いた詩、そして、尹が日本で書いて姜に手紙で送って来た詩までをも含んでいる。
 これを整理すると、以下になる。

一、自選肉筆詩集を編む以前の詩の全部。
二、自選詩集を編んだ後で書いた詩。
三、尹東柱が日本で書いた詩五篇(「たやすく書かれた詩」「白い影」「愛しい追憶」「流れる街」「春」)。姜宛の手紙の中に記されていたこれらの詩の、最後の部分は、万一「日帝」に見られたらいけない、と姜は破り棄てている。

 尹の弟一柱が姜を探しあてて会いに行った時、姜は朝鮮解放後の新聞『京郷新聞』の創刊準備作業をしていた。
 姜は、一九四七年二月十六日の尹東柱の没後二周年の追悼式を前に、鄭ビョンウクが保管しておいた筆写本『空と風と星と詩』に加えて、自身が保管しておいた詩稿から選び出した詩と合わせた尹束柱の遺稿詩集を出版することを計画した。姜は、その時期の意味を考えて、「尹東柱の獄死から三周年目である一九四八年二月十六日付」と決めて出版準備を進めた。
 この遺稿詩集に盛り込めなかったものは、以下の二である。これは「間島」の家に残されたままだった。また、尹束柱が京都で逮捕された際には存在していたはずのノート、手稿が、かなりあった様子だ。したがって、尹の作品の全量は、

一、鄭ビョンウク=筆写の自選本収録の一九篇。
二、尹恵媛=中学時代に書いた詩と童詩の原稿(尹恵媛は東柱の妹で一柱の姉)。一六四六年六月に越南した一柱は、兄東柱の遺稿や遺品をまったくもってこず、東柱の遺稿詩集の初版本がソウルで出版された後の一九四八年十二月、恵媛が二四歳で夫とともに越南した際、「間島」の龍井の家にあった東柱の中学時代の作品をソウルに持ってきた。
三、姜処重=右、一と二の二人が保管していた原稿を除いた残りの原稿のすべて。

 一と三とで『尹束柱遺稿詩集』は出た。
 この時、姜処重は、三一歳。『京郷新聞』記者として、言論界・文化界に顔が広く、鄭ビョンウクはソウル大学国文科四年。姜の詩の紹介と出版の中軸となって姜は、『京郷新聞』の主幹鄭芝溶に依頼して尹東柱の詩を世に紹介しはじめた。鄭芝溶は当代の大詩人である。芝溶は日本の同志社大学英文科を卒業。留学生の雑誌「学潮」創刊号に「カフェー・フランス」を発表。北原白秋編集の「近代風景」にも相次いで詩など二十数編を発表。卒業して帰国、教員生活の一方で「詩文学」「カトリック青年」同人として活動した。戦後に『京郷新聞』に主幹として迎えられたが、じきに退社して、梨花女子専門学校(現・梨花女子大学)で教えた。
 尹東柱の詩は、一九四七年二月から『京郷新聞』に連載が始まり、鄭の退社後の七月二七日付の紙面に「少年」が掲載された際、「故・尹東柱氏は若くして日本の監獄でさびしく世を去った私たちの先輩です」と紹介の言葉が添えられている。これは姜が読者に伝えた友人からのメッセージに他ならない。
 こうして尹東柱の詩の奇跡の復活が始まった。姜は、鄭芝溶に、『空と風と星と詩』の序文を書いて貰った。序文を書いた日付は一九四七年匸一月二八日。その後、鄭は以前教えていた梨花大学に戻り、韓国文学・ラテン語などを教えていた。
 姜は、尹の詩集発行のために事前PRをしたわけだが、鄭の退社後、右記した如く詩集序文を書いてもらい、自分でも詩集の跋文を書いた。こうした姜の骨折りが実って一九四八年一月、尹東柱遺稿詩集が出版され、尹東柱9人と作品”は解放後の朝鮮において蘇ったのである。尹を囲み、つながった友人と家族の総力が有ってこそ実現した稀有の美挙だと私は思う。

 ところで、宋友恵の評伝②によって明かされたが、『空と風と星と詩』の、序文を書いた鄭芝溶と、跋文を書いた姜処重のその後の運命は意外にも残酷なものであった。
 尹の詩集が出てから二年後、朝鮮では同族が南北に分かれて戦うことになった。国が二つに分かれることと同時に、個人の思想のぶつかりあいが生じ、激しい左右対立となり、鄭芝溶と姜処重は左翼思想の持ち主とされた。一九五五年二月に、尹東柱逝去一〇周年記念増補版『空と風と星と詩』が鄭ビョンウクと、尹の弟尹一柱によって出版された際「序文と跋文」が削除されてしまった。
 先ず、鄭芝溶はどうなったのか。昨年(二〇匸一)の八月に明石書店から出た『韓国近現代文学事典』(権寧・編)には、「一九五〇年に朝鮮戦争が起こると、すぐに政治部保衛部に拘禁され平壌監獄に移監後、死亡したと伝えられている」とあり、金時鐘訳『再訳朝鮮詩集』には、「…平壌教化所に収監中、爆撃を受けて死亡と伝えられる」とある。続けて「八八年、韓国で名誉回復。著作が復刻され、現在その詩は韓国でベストセラーとなっている。」とあって関心を抱く人の気持ちは癒される。
 ②の宋友恵は、とう書いている。

鄭芝溶は朝鮮戦争に際して越北したため、その時から彼の文章と存在はすべて忌避対象となった。それで一九八七年に公式に解禁になるまでは、学者たちの国文学関係の専門的な学術論文ですら、どんなに必要な場合でも彼の名前をそのまま引用することができず、「鄭×溶」または「鄭 溶」のようにわざと一部を伏せて表記しなければならなかった。

 姜処重は、どうなったのか。宋が尹一柱に問うたところ、今は成均館大学教授である尹は、かなりためらってから、「左翼人物であることが明らかになって……」と答えた。
 またソウル大学教授の張徳順からは、「京郷新聞社の記者をしていたが、軍事裁判で左翼として死刑宣告を受けて処刑されたことを新聞で見た記憶があり、のちに知人から姜は銃殺刑だったと聞かされた。」と言われた。
 ところが、尹の詩集の改訂版が出たあと、新聞に紹介された記事を見て、尉山に居住する姜処重の夫人から宋に連絡が来、宋は喜んで会った。夫人・李康子さん(一九一九年生)によると、「死刑宣告されたことまでは事実だが、銃殺刑で処刑されたというのは事実でない」とのことである。
 姜が刑務所に収監されていた時に夫人が面会に行くと、看守たちは、いつも「ああ、あの成鏡道の美男に会いに来たか」と口にした。姜の入れられたのは最初は陸軍刑務所で、次いで西大門刑務所に移されて処刑を待つうちに朝鮮戦争が起きた。戦争勃発から四日でソウルに入城した朝鮮人民軍は、すぐに西大門刑務所を解放し、姜はそのとき解き放されて家に戻って来た。丁度娘の生誕百日目にあたっていた。
 姜は、一九四二年匸一月に結婚した。尹東柱が日本に渡った年だ。姜は新聞社に勤め、二男一女が出来た。姜が”北側の思想の持ち主”とされて逮捕収監されたものの、北の人民軍が一方的な優勢に乗じ、さらに激しく南下している最中、”南側の刑務所”から家に戻ることを得た姜だったが、家で二ヵ月ほど養生して一九五〇年九月四日に「ソ連に行って勉強する」と言い残して家を出て、”越北”した。
 宋は②で、姜のその後を追い、一方で姜その人の生き方をつぶさに調べている。しかし姜の足取りは途絶えてしまっている。
 姜夫人は、夫の越北後の消息を全く聞くことができず、ために現在は”南で生きてゆく”以上、夫に関連する様々な文書・資料、さらには姜の写真までも捨て、夫に関する話は一切口にすることなくて来たことを宋に言った。そして、「夫はひじょうに寡黙な性質で、子どもたちをとても愛していた」と追憶した。
 かつてソウル延禧専門学校の寄宿舎三階の屋根裏部屋で尹東柱、宋夢奎(東柱の従弟)、そして姜処重は三人で学生生活を過した。この時に育まれた友情が尹の詩集『空と風と星と詩』となって、今、私たち日本人の目の前にもある。
 宋が②で姜について調べてたかぎりでは、姜は一九五三年度に起きた大型左翼事件(陸軍特務部が摘発した)に関わっていたと見られること。朝鮮戦争が休戦となった直後、まだ戒厳令が解除されていないときに死刑になった鄭クグンの上部線の人物で、南労党の「総責」である金三龍の部下で、南労党の幹部であったこと。これは姜の年齢が三二歳から三三歳のときのことだ。
 宋が調べた②での鄭クグンは、「日帝時代」の『朝日新聞』の記者をつとめた言論人。解放後は聯合新聞社駐日特派員として継続して言論界で活躍するうちにスパイ容疑で逮捕された。この事件には現役の国会議員で聯合新聞社社長梁又正、また韓国政府の内務部長官、商工部長官も連繋し辞職した。鄭クグンが銃殺される場所(ソウル市西大門区の火葬場)には数千名の見物人が押し寄せたが、その執行は延期され、別の場所で後に執行されるなど、この間諜被疑事件は大ニュースとなった。姜は、この鄭クグンが探知した国防機密を「北韓傀儡に通諜」した、というのが国防省の発表である。
 しかし宋が、その後も調べを続けたかぎりにおいて姜の死刑が執行された裏を取ることは出来ていない。更に奇妙なことには、”南労党幹部・姜処重”とされた彼についての記述が、姜と同時代の南労党幹部たちの回顧録や『南労党研究』(全三巻・南労党研究専門学者金南植著)にも姜の名前や存在が全く見出せない。つまり、姜処重は今日、韓国の左右両翼において、ともに存在を否認されていることだ。どこにも居ない人、すなわち蒸発してしまっているのである。
 宋は②の最後で、姜が友人尹東柱に捧げた深い真心と固い義理、美しい献身を思うとき、浮かび上がってくる姿があるとし、彼は本当に人を真情から愛することを知っている人であったと締めくくっている。
 この姜をはじめとして、上記した友人・肉親の力によって尹東柱は蘇った。


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