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尹東柱-詩集『空と風と星と詩』を中心に その3

2013年09月22日 | 尹東柱

その1 その2 画像版

 尹東柱は一九四三年七月一四日、夏休みに満洲国内にある祖国朝鮮のブランチ「間島」に帰郷する準備をしていた際、「治安維持法違反」容疑で逮捕された。京都大学に学ぶ従弟の宋夢奎も同じだった。京都下鴨署に留置され、興梠特高巡査部長の取り調べが始まった。
 の著者金賛汀は、一九八二年七月、京都に行き興梠に会うことに成功した。この元内鮮(朝鮮のこと)係特高の老人は、「さあな。おぽえていませんな」の一点張りで金のインタビューに対応した。興梠老人は、日本の敗戦時に特高関係、思想犯関係の資料はすべて燃やせと指示され、府警本部の広場や各署の中庭で燃やし、京都の米軍軍政部本部に燃やし残ったものは持ち去られたといった。
 尹東柱が同志社時代に書いたと思われる作品が、きっと沢山有ったに違いない。束柱の叔父尹永春の追悼回想文がにある。この人は東京で教職についていたが、東柱と宋夢奎が上京して東京に自分を訪ねてくれたことを書いている。尹永春は甥二人が京都の警察署に逮捕されたと知って駆けつけた際、東柱が取調室で刑事に自分の書いた朝鮮語で書いた詩と散文を日本語に訳させているのを見ている。既に永春が見せてもらった原稿の他に、まだかなりあったと見え、取調室の机の上に、それは積まれていた。
 元特高興梠に会ったの金は、束柱の書いたものが、すべて失われてしまったことに落胆した。もし残っていれば朝鮮文学史に燦然と輝いたであろう尹東柱の作品である。裁判所に証拠物件として提出されたものが保管されていないか。法曹関係者の話では、一九四三年という時期に治安維持法違反で起訴されたのでは、特高が拷問でつくり上げた自白だけを拠りどころに裁判は進められているから、自白書以外の証拠が法廷に提出されていない。また、それらの保管期間は一〇年だから、処分ずみだと。だから尹東柱の日本留学時代の遺稿はもはやどこにも存在していない。
 は、尹東柱が参加したといわれる「朝鮮独立運動」を追っている。『特高月報』『思想月報』という出版物があって、今日、国立国会図書館等で閲覧出来る。しかし上に記した如く、暗黒裁判の証拠が連ねられているばかりだ。
 金賛汀は、こうした調査の過程で、尹東柱の判決原本に、

「昭和二一年勅令五一一号大赦令二依り赦免セラル」

 との印が押されているのを見る。金は書いている。 

治安維持法違反などに問われた政治犯の多くは、大赦令を待たずに、一九四五年十月四日に出された連合軍総司令部(GHQ)の覚書によって釈放されている。そして、同年十月十五日に治安維持法が廃止され、さらに十二月二十九日の勅令七三〇号「政治犯人等の資格回復に関する件」で政治犯の法的権利が回復された。
尹東柱が生きていれば、GHQの覚書によって釈放されたであろう。それが、獄死した後に、天皇の名によって、それも一九四六年にようやく「赦免」されるというのでは、尹東柱も浮かばれまい。

 私はこうした役人(今は公務員と言う)のでたらめな仕事を「責任を負わなくてもよい」という今の日本国法を腹立たしく思う。
 やはり治安維持法に引っかかって逮捕され、野方刑務所でなぶり殺しにされた川柳人鶴彬の場合もそうだ。鶴が非業の死を遂げて、その通夜が明けた日に、鶴(本名・喜多一ニ)宛に、「(出身地石川県)金沢の第七連隊からの召集令状がとどけられた」ケースがある。逮捕して、虐殺しておきながら、いくら間違いだと言っても、このようなことをしておいて「恬として恥じない(日本国権とは何だろうか)」今日現在、国家賠償法が一般の口にのぼるようになり、目下、太平洋戦争最末期、いや、敗戦後に判決を下し四名もの獄死者を出した「ヨコハマ事件」の「国賠訴訟」が始まっている。世紀の悪法・治安維持法によって敗戦時に獄中にあって死亡した学者の三木清、戸坂潤においても、たとえ遺族または関係者が、濡れ衣を晴らす訴えをしなくても、日本人全体の声で復権を具体化しなければ、「自由・民主」も、まして「国民の人権」について誰も語ることはできないと考える。

 には、「尹東柱の死因『人体実験』の可能性」という章立てがあって、精しく検証している。尹東柱と従弟宋夢奎は、京都での取り調べのあと福岡刑務所に送られた。これは多くの政治犯の中でも例外だ。なぜ「福岡刑務所」なのか。福岡にある九州大学で、墜落したB29から脱出したアメリカ兵士を捉えて生体実験をしたことは遠藤周作の小説『海と毒薬』に書かれたことで名高い。関東軍が満洲に作った731部隊での中国人大量生体解剖実験ともども世界中の人々に顔を向けられない事実だ。
 の宋友恵の著も、東柱と夢奎二人が刑務所で注射を強要され、打たれ続けられた事実を追及している。何の注射なのか。無論、生体実験のためである。
 尹の死亡は肺結核によるものだった、という論者(『光』という大邱で発行されている月刊誌の記者によるインタビューでの金憲述という人物)もいる。しかし宋は、叔父の尹永春が東柱の死骸を引き取りに福岡刑務所に出かけた時のことを書いている。彼は東柱の死後も二十日ばかり生きのびていた夢奎と面会できたのだが、夢奎は、骨と皮がくっついている状態となっていた。尹が、「どうしたんだ、その様子は」と問うと、夢奎は、「あいつら(日帝)が注射を受けろというので受けたら、こんな姿になって、(東柱)もおなじように……」と証言した。上記、金という人物は尹の二人の甥の死の五ヶ月前に出獄していることで、宋は金の証言に疑いを抱く。そして、こう書いている。

「伝記記録者の立場とは、自分の前に提示される資料と証言を余すところなく検討して、そこからより真実に近い事実と価値を究明していくことを使命とする」

 と。

 尹東柱と宋夢奎という甥同士の獄死は生体実験によるものか。その実状は、①②において追及が精しく書かれている。
 尹東柱をはじめ、多くの日本人を死に追いこんだ治安維持法と特高警察について、近年研究書が充実してきた。

一、『荻野冨士夫著、『特高警察』(岩波新書・二〇十二年刊)
二、同上著『思想検事』(岩波新書・二〇〇〇年刊)
三、中澤俊輔著『治安維持法』(中公新書・二〇一二年刊)
上、一と二の著者は一九五三年生まれ。既に、
四、『北の特高警察』(新日本出版社・一九九一年刊)
五、『特高警察体制史―社会運動抑圧取締の構造と実態』(せりか書房・一九八八年に増補版刊」
六、『多喜二の時代から見えてくるもの』(新日本出版社。二〇〇九年刊)
七、『横浜事件と治安維持法』(樹花舎、二〇〇六年刊)

 がある。三の著者は一九七九年生で格別に若い。二〇〇八年に東京大学に提出した博士論文を大幅に加筆修正したもので、サントリー文化財団「二〇〇九年若手研究者による個人研究助成」と日本学術振興会特別研究員奨励賞を得て一冊にまとめた由だ。
 三の「はじめに」において中澤は、戦前・戦後の社会学者として活躍した清水幾太郎が一九七八年の論文で「治安維持法を積極的に肯定した」(傍線は筆者)ことを要約し、「治安維持法で死刑となった者はいなかった」としたことを書いている。こういう認識や、事実を無視した意見が、まかり通っていたのだ。

 太平洋戦争が日本の敗北で終わると、上記文中に出て来ている特高警察官はどうなったか。もはや歴史の彼方のことだが以下のようなケースもあった。
 には、戦後金沢刑務所から出所した姜海星氏の元に、氏を拷問にかけた中村という刑事が訪ねて来た時のことが書かれている。当時、釈放された政治犯たちが、彼らに拷問を加えた特高をそのままにしておかないという噂が流れた。それを耳にした中村刑事は夜も眠れなくなり、先手を打って詫びに訪れ、身をふるわせ泣きつつ土下座して謝った。姜海星氏は、その様子に哀れさが先立って、
殴ってやりたい気持ちが失せたという。
 しかし、特高、そしてその上部構造の大方の者は、現在、もっとも近いところにあって問題となっているヨコハマ事件の場合を見ても「実刑」でもって罰せられてはいない。
 逆に、うまく擦り抜けて大出世した以下のような人物もいる。
 第二次田中内閣で「第95代文部大臣」、鈴木善行内閣で「第39代法務大臣」を勤めた奥野誠亮は、鹿児島県特高課長として鳴らし、「鹿児島日報」(現在、「南日本新聞」)勤務の面高秀(俳号・敬生)の俳句、

A 溶岩に苔古り椿赤く咲く
B われら馬肉大いに食らひ笠沙雨

 を、Aは「赤い花が歴史ある国体に咲くとは共産党革命・賛美」だとし、Bは、「馬は軍馬として兵士とともに戦場に行く。それを大いに喰うとはけしからん。また内地の食料不足・統制批判でもある!」として逮捕した。この奥野誠亮はキャリア出身なのだが、いかなる伝手を生かしたのか引退してから「勲一等旭日大授章」を受けている。私のような戦中に国民学校、戦後に新制中学校
に学んだ者としては不思議きわまる。
 尹東柱の詩集『空と風と星と詩』の初版に序文を書いた詩人鄭芝溶は、その文に「恐ろしい孤独のうちに死んだのだ。二十七歳になるまで詩を発表することもなく!」と書いた。日本による植民地末期、韓民族文学が不在の状態にあって、尹は、この暗黒期を克服した民族抵抗詩人として、その作品は今度の日本語版・岩波文庫が出たことで、より普遍的になろう。

【付記】
 尹東柱と同様に、やはり特高によって「虐殺」された日本の詩人に槇村浩(本名・吉田豊道、一九十二年六月一日~一九三八年九月三日)がいる。槇村の代表作である長編詩『間島パルチザンの歌』は、朝鮮人民との連帯、植民地解放を訴え、日本兵士と中国人兵士と共同して日本軍への反乱を呼びかけるコンテンツ。
 当時の日本プロレタリア文学に例のない国際連帯の視点に貫かれていた。
 槇村は、高知市立小学校四年生の時、『支那論』を書き、高知を訪問した久邇宮邦彦に「アレキサンダー大王」について進講した。歴史好きの槇村は、何人ものアレキサンダーを知りすぎていたので、最初に「どのアレキサンダーですか」と問い返して周囲を慌てさせた。
 土佐中学に飛び級で入学、海南中学、岡山の関西中学を経て卒業。『間島パルチザンの歌』が「プロレタリア文学」に発表されたのは、柳条湖事件(一九三一年九月六日)の直後。一九三二年三月一日、満洲国建国とともに尹東柱の故郷「間島」は、満洲国の領土となった。槇村は尹東柱の五歳上。直接両名の繋がりはないが、「間島」が槇村と尹束柱を結ぶ。
 尹の遺稿他を友人・家族が守秘したが、槇村の遺稿は、作家貴司山治が守った。『間島パルチザンの歌』のため検挙された槇村は、三年間の留置場と監獄生活にも非転向を貫いたが、拷問のために出所後「極度の食道狭窄症と脅迫観念」によって二六歳で死亡した。
 槇村の未発表論文「アジアチッシェ・イデオロギー」(三八五枚)と「人文主義宣言」(八〇枚)が、地元高知の旧友たちの力で一九八四年に刊行された(自費出版)。小川晴久著『アジアチッシェ・イデオロギーと現代 槇村治との対話』(凱風社、一八八八)は槇村と「間島」の繋がりを追尋した瞠目の書である。槇村と尹東柱は、不死鳥となって蘇っている。


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尹東柱-詩集『空と風と星と詩』を中心に その2

2013年09月05日 | 尹東柱

その1 その3 画像版

 尹東柱の評伝は二冊出ている。

①金賛汀『抵抗詩人 尹東柱の死』(朝日新聞社・一九八四年刊)
②宋友恵『空と風と星の詩人 尹東柱評伝』(藤原書店・二〇〇九年刊)

 ①と②の間に二五年の歳月が流れている。この間に東西冷戦が終息した。尹束柱は現下の朝鮮半島南北分断の南半分の韓国での評価が日本には上①②の著で伝わってくるが、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)での位置づけはどうなのか。詩は、書いた詩人の手を離れた時から「自分の足」で歩み出す。尹東柱の詩を受け取る側の問題でも、それは有る。
 尹東柱詩集『空と風と星の詩人』が世に出たのは、実に奇跡的であった。以下、①②を辿って、そのことを見る。
 上記したように、尹東柱は手造りの詩集として三冊を作った。最初は、ソウルの延禧専門学校文科を卒業した記念に出版しようと計画したが、ハングル語で書いた学生の詩集の出版など時局が許さなかった。そこで、尹は手書きの一冊を下級生の友人鄭ビョンウクに渡したのだ。鄭は学徒動員で徴兵された。学徒兵制度は一九四三年一〇月から実施され、鄭も引っぱられたが幸い帰還した。
 日本の敗戦後、鄭は、次のように話している。

尹東柱自身が持っていたものと李ヤンハ先生に贈られた詩稿は行方を探ることができなかったが、わたしに渡されたものが母の箪笥の奥深くに隠され、それが一九四八年に正音社から出版されたことによって、東柱の詩が初めて世に広く知られるようになった。(略)(私は母に)尹もわたしもともに死んで戻ってこなくても、祖国が独立したらこれを延禧専門学校に送って世に知らしめてくれと、遺言のように言い残して戦地に向かった。さいわい命ながらえて無事家に帰ると、母は絹の風呂敷で幾重にも包んで守っておいた東柱の詩稿を、誇らしくさし出して喜んでくださった。(鄭ビョンウク、「忘れえぬ尹東柱のこと」 一九七六年)

 二人の友情を応援した鄭の母もすばらしいが、鄭のたった一人の妹・鄭徳煕(解放後、尹東柱の弟尹一柱と結婚し二男一女をなした)は、兄の鄭は、尹の詩稿を隠した場所を間違えて覚えているという。

兄さんは兵隊に出ているあいだ家にいなかったのでわからず、母が箪笥に隠したんだと思ったのです。じっさいは床の下に隠したんですよ。

 これは②の執筆にあたって宋友恵がインタビューした際のものだ。
 鄭家は人きく、その床の下に一カ所秘密の場所があった。ふだんは床板はしつかりと閉められ何の目印もなかった。この床下の土を深く掘り、藁を敷き、大きな甕を据えた。藁を敷いたのは湿気を遮断するためだった。この妹の声を、もう少し引いておこう。

わたしが女子高時代、休みで家に行ったときのことです。ある日、家でとくに用もないときに、母が床板を開いてその甕の中の品物をぜんぶ出してわたしに見せてくれたんです。わたしの婚礼用にこしらえた貴重品もその中にありました。母はそこから『空と風と星と詩』の原稿本も取り出して見せてくれました。「これはおまえの兄が兵隊に行くときわたしに頼んでいったものだ。日本の巡査の目にふれては絶対だめだ、と固く頼んでいった」と説明してくれました。広げてみるとハングルで書かれているもので、どういうものかはとてもわかりませんでした。それで、そのまましまいましたが、そのときはわたしが日本の教育だけ受けてハングルなんてまったく知らない世代だったからです。

 このように、地上で(いや地中で!)一冊だけ残ったのが尹東柱の『空と風と星と詩』だった。

 もう一人、尹東柱の詩を解放後に広く、本格的に世に紹介したのが、これも尹束柱の友人・姜処重だ。
 一九三八年、尹二一歳、ソウル延禧専門学校文科に入学。従弟(父の妹の子)の宋夢奎はソウルの大成中学校を経て同校に入学した。寄宿舎の三階の屋根裏部屋で、尹と宋夢奎、そしてもう一人一緒に同じ室で起き臥した仲間が姜処重。三人は仲良しだった。
 後に一九四五年二月、尹は福岡刑務所で絶命。翌月、宋夢奎も絶命。二人は一九四三年七月に、京都で特高警察によって独立運動の嫌疑で検挙され下鴨警察署に入れられる。宋は京都大学に、尹は同志社大学に進み、ともに京都にいた。
 姜処重は一九一六年、咸鏡南道元山の生まれ、満洲国内の「間島」から、「本土朝鮮の首都(ただし日本支配下の)ソウル」に出て来て学問に励む尹と宋と三人が一つ部屋で延専時代を過ごしたのだ。萎は同期生たちの中で「英語の達人」と言われた。リーダーシップに優れ、四年生の時には学生会長に選ばれた。
 萎は、上記した如くソウル延禧専門学校の寄宿舎三階の屋根裏部屋で尹東柱、宋夢奎と三人で暮した仲だ。一年で尹が寄宿舎を出て下宿生活をするが、姜との友情は続き、尹が日本に一九四二年はじめに渡ったあと、四年以上もの歳月の間、尹が残していった詩稿を含む品物を保管しとおした。
 尹が自選した筆写本の詩集は、河東出身の延禧専門学校の後輩鄭ビョンウクに一冊を渡し、この一冊が鄭の母たちに守られていたことは既述した通りだが、姜もまた、尹の、詩稿と遺品をよく保管し続けたのである。日本敗戦後の翌一九四六年六月、東柱の弟尹一柱は一九歳だったが単身越南して、兄東柱がソウルに残していった物品類が無いかを探して歩いた。そして延専の同窓生姜処重と解逅する。
 姜は先にも触れたが、咸鏡道元山の富裕な漢方医の長男で、延禧専門学校では学生会長に選出されるほどリーダーシップが卓越していた。彼の延専卒業アルバムの写真が残されているが尹東柱とはまた別の、これまた見事な美男子だ。この姜が保管しておいた詩稿は、今日見る詩人尹東柱の生成発展の様相を良く示しており、さらに自選詩集を編んだのちに書いた詩、そして、尹が日本で書いて姜に手紙で送って来た詩までをも含んでいる。
 これを整理すると、以下になる。

一、自選肉筆詩集を編む以前の詩の全部。
二、自選詩集を編んだ後で書いた詩。
三、尹東柱が日本で書いた詩五篇(「たやすく書かれた詩」「白い影」「愛しい追憶」「流れる街」「春」)。姜宛の手紙の中に記されていたこれらの詩の、最後の部分は、万一「日帝」に見られたらいけない、と姜は破り棄てている。

 尹の弟一柱が姜を探しあてて会いに行った時、姜は朝鮮解放後の新聞『京郷新聞』の創刊準備作業をしていた。
 姜は、一九四七年二月十六日の尹東柱の没後二周年の追悼式を前に、鄭ビョンウクが保管しておいた筆写本『空と風と星と詩』に加えて、自身が保管しておいた詩稿から選び出した詩と合わせた尹束柱の遺稿詩集を出版することを計画した。姜は、その時期の意味を考えて、「尹東柱の獄死から三周年目である一九四八年二月十六日付」と決めて出版準備を進めた。
 この遺稿詩集に盛り込めなかったものは、以下の二である。これは「間島」の家に残されたままだった。また、尹束柱が京都で逮捕された際には存在していたはずのノート、手稿が、かなりあった様子だ。したがって、尹の作品の全量は、

一、鄭ビョンウク=筆写の自選本収録の一九篇。
二、尹恵媛=中学時代に書いた詩と童詩の原稿(尹恵媛は東柱の妹で一柱の姉)。一六四六年六月に越南した一柱は、兄東柱の遺稿や遺品をまったくもってこず、東柱の遺稿詩集の初版本がソウルで出版された後の一九四八年十二月、恵媛が二四歳で夫とともに越南した際、「間島」の龍井の家にあった東柱の中学時代の作品をソウルに持ってきた。
三、姜処重=右、一と二の二人が保管していた原稿を除いた残りの原稿のすべて。

 一と三とで『尹束柱遺稿詩集』は出た。
 この時、姜処重は、三一歳。『京郷新聞』記者として、言論界・文化界に顔が広く、鄭ビョンウクはソウル大学国文科四年。姜の詩の紹介と出版の中軸となって姜は、『京郷新聞』の主幹鄭芝溶に依頼して尹東柱の詩を世に紹介しはじめた。鄭芝溶は当代の大詩人である。芝溶は日本の同志社大学英文科を卒業。留学生の雑誌「学潮」創刊号に「カフェー・フランス」を発表。北原白秋編集の「近代風景」にも相次いで詩など二十数編を発表。卒業して帰国、教員生活の一方で「詩文学」「カトリック青年」同人として活動した。戦後に『京郷新聞』に主幹として迎えられたが、じきに退社して、梨花女子専門学校(現・梨花女子大学)で教えた。
 尹東柱の詩は、一九四七年二月から『京郷新聞』に連載が始まり、鄭の退社後の七月二七日付の紙面に「少年」が掲載された際、「故・尹東柱氏は若くして日本の監獄でさびしく世を去った私たちの先輩です」と紹介の言葉が添えられている。これは姜が読者に伝えた友人からのメッセージに他ならない。
 こうして尹東柱の詩の奇跡の復活が始まった。姜は、鄭芝溶に、『空と風と星と詩』の序文を書いて貰った。序文を書いた日付は一九四七年匸一月二八日。その後、鄭は以前教えていた梨花大学に戻り、韓国文学・ラテン語などを教えていた。
 姜は、尹の詩集発行のために事前PRをしたわけだが、鄭の退社後、右記した如く詩集序文を書いてもらい、自分でも詩集の跋文を書いた。こうした姜の骨折りが実って一九四八年一月、尹東柱遺稿詩集が出版され、尹東柱9人と作品”は解放後の朝鮮において蘇ったのである。尹を囲み、つながった友人と家族の総力が有ってこそ実現した稀有の美挙だと私は思う。

 ところで、宋友恵の評伝②によって明かされたが、『空と風と星と詩』の、序文を書いた鄭芝溶と、跋文を書いた姜処重のその後の運命は意外にも残酷なものであった。
 尹の詩集が出てから二年後、朝鮮では同族が南北に分かれて戦うことになった。国が二つに分かれることと同時に、個人の思想のぶつかりあいが生じ、激しい左右対立となり、鄭芝溶と姜処重は左翼思想の持ち主とされた。一九五五年二月に、尹東柱逝去一〇周年記念増補版『空と風と星と詩』が鄭ビョンウクと、尹の弟尹一柱によって出版された際「序文と跋文」が削除されてしまった。
 先ず、鄭芝溶はどうなったのか。昨年(二〇匸一)の八月に明石書店から出た『韓国近現代文学事典』(権寧・編)には、「一九五〇年に朝鮮戦争が起こると、すぐに政治部保衛部に拘禁され平壌監獄に移監後、死亡したと伝えられている」とあり、金時鐘訳『再訳朝鮮詩集』には、「…平壌教化所に収監中、爆撃を受けて死亡と伝えられる」とある。続けて「八八年、韓国で名誉回復。著作が復刻され、現在その詩は韓国でベストセラーとなっている。」とあって関心を抱く人の気持ちは癒される。
 ②の宋友恵は、とう書いている。

鄭芝溶は朝鮮戦争に際して越北したため、その時から彼の文章と存在はすべて忌避対象となった。それで一九八七年に公式に解禁になるまでは、学者たちの国文学関係の専門的な学術論文ですら、どんなに必要な場合でも彼の名前をそのまま引用することができず、「鄭×溶」または「鄭 溶」のようにわざと一部を伏せて表記しなければならなかった。

 姜処重は、どうなったのか。宋が尹一柱に問うたところ、今は成均館大学教授である尹は、かなりためらってから、「左翼人物であることが明らかになって……」と答えた。
 またソウル大学教授の張徳順からは、「京郷新聞社の記者をしていたが、軍事裁判で左翼として死刑宣告を受けて処刑されたことを新聞で見た記憶があり、のちに知人から姜は銃殺刑だったと聞かされた。」と言われた。
 ところが、尹の詩集の改訂版が出たあと、新聞に紹介された記事を見て、尉山に居住する姜処重の夫人から宋に連絡が来、宋は喜んで会った。夫人・李康子さん(一九一九年生)によると、「死刑宣告されたことまでは事実だが、銃殺刑で処刑されたというのは事実でない」とのことである。
 姜が刑務所に収監されていた時に夫人が面会に行くと、看守たちは、いつも「ああ、あの成鏡道の美男に会いに来たか」と口にした。姜の入れられたのは最初は陸軍刑務所で、次いで西大門刑務所に移されて処刑を待つうちに朝鮮戦争が起きた。戦争勃発から四日でソウルに入城した朝鮮人民軍は、すぐに西大門刑務所を解放し、姜はそのとき解き放されて家に戻って来た。丁度娘の生誕百日目にあたっていた。
 姜は、一九四二年匸一月に結婚した。尹東柱が日本に渡った年だ。姜は新聞社に勤め、二男一女が出来た。姜が”北側の思想の持ち主”とされて逮捕収監されたものの、北の人民軍が一方的な優勢に乗じ、さらに激しく南下している最中、”南側の刑務所”から家に戻ることを得た姜だったが、家で二ヵ月ほど養生して一九五〇年九月四日に「ソ連に行って勉強する」と言い残して家を出て、”越北”した。
 宋は②で、姜のその後を追い、一方で姜その人の生き方をつぶさに調べている。しかし姜の足取りは途絶えてしまっている。
 姜夫人は、夫の越北後の消息を全く聞くことができず、ために現在は”南で生きてゆく”以上、夫に関連する様々な文書・資料、さらには姜の写真までも捨て、夫に関する話は一切口にすることなくて来たことを宋に言った。そして、「夫はひじょうに寡黙な性質で、子どもたちをとても愛していた」と追憶した。
 かつてソウル延禧専門学校の寄宿舎三階の屋根裏部屋で尹東柱、宋夢奎(東柱の従弟)、そして姜処重は三人で学生生活を過した。この時に育まれた友情が尹の詩集『空と風と星と詩』となって、今、私たち日本人の目の前にもある。
 宋が②で姜について調べてたかぎりでは、姜は一九五三年度に起きた大型左翼事件(陸軍特務部が摘発した)に関わっていたと見られること。朝鮮戦争が休戦となった直後、まだ戒厳令が解除されていないときに死刑になった鄭クグンの上部線の人物で、南労党の「総責」である金三龍の部下で、南労党の幹部であったこと。これは姜の年齢が三二歳から三三歳のときのことだ。
 宋が調べた②での鄭クグンは、「日帝時代」の『朝日新聞』の記者をつとめた言論人。解放後は聯合新聞社駐日特派員として継続して言論界で活躍するうちにスパイ容疑で逮捕された。この事件には現役の国会議員で聯合新聞社社長梁又正、また韓国政府の内務部長官、商工部長官も連繋し辞職した。鄭クグンが銃殺される場所(ソウル市西大門区の火葬場)には数千名の見物人が押し寄せたが、その執行は延期され、別の場所で後に執行されるなど、この間諜被疑事件は大ニュースとなった。姜は、この鄭クグンが探知した国防機密を「北韓傀儡に通諜」した、というのが国防省の発表である。
 しかし宋が、その後も調べを続けたかぎりにおいて姜の死刑が執行された裏を取ることは出来ていない。更に奇妙なことには、”南労党幹部・姜処重”とされた彼についての記述が、姜と同時代の南労党幹部たちの回顧録や『南労党研究』(全三巻・南労党研究専門学者金南植著)にも姜の名前や存在が全く見出せない。つまり、姜処重は今日、韓国の左右両翼において、ともに存在を否認されていることだ。どこにも居ない人、すなわち蒸発してしまっているのである。
 宋は②の最後で、姜が友人尹東柱に捧げた深い真心と固い義理、美しい献身を思うとき、浮かび上がってくる姿があるとし、彼は本当に人を真情から愛することを知っている人であったと締めくくっている。
 この姜をはじめとして、上記した友人・肉親の力によって尹東柱は蘇った。


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尹東柱-詩集『空と風と星と詩』を中心に その1

2013年08月18日 | 尹東柱

その2 その3 画像版

 この度、太平洋戦争末期、留学先の日本で二七歳の若さで獄死した韓国の詩人尹東柱の詩集が文庫版(岩波書店、二〇十二年一〇月十六日刊)になって出た。嬉しい。この文庫版の編訳者は、大阪在住の在日文学者金時鐘。文庫の表紙に載せられている尹東柱の写真は角帽をかぶって凛々しい。韓国の青年子女は近年、美青年・美少年が人気だ。だが、この尹東柱にはとてもかなわない。
 尹東柱は、一九四一年に延禧専門学校を卒業し、翌年に日本の立教大学に入学し、その秋には同志社大学英文科に転学した。京都での最初の冬休み、帰省せずにいたところを「反日思想者」と見られて一九四三年七月一四日、「治安維持法違反」で特高警察に逮捕された。京都地方裁判所で「懲役二年」(未決拘留日数十二〇日算入)を宣告された。刑の確定は一九四四年四月一日出獄予定日は一九四五年一一月三〇日。判決後、福岡刑務所に移送された。
 この福岡刑務所内で、一九四五年二月十六日、午前、三時三六分、尹東柱は絶命した。日本の敗戦は八月一五日で丁度六ヵ月前である。
このように早逝したので、その詩の数は多くはない。詩集は、死後、日本の敗戦後に、友人と遺族の力で出た『空と風と星と詩』の一冊きり。序詩を含めて十九編。今度の岩波文庫では、詩集以外の作品から、童詩四編、散文詩と散文(どれも短い)が計三編、詩が四〇編追加されていて全部で六六編。
 以下に「序詩」を引く(もともとは詩集本体とは別になつていた作品を、現在見る詩集に加え、この作品を付けて編集された)。

死ぬ日まで天を仰ぎ
一点の恥じ入ることもないことを、
葉あいにおきる風にさえ
私は思い煩った。
星を歌う心で
すべての絶え入るものをいとおしまねば
そして私に与えられた道を
歩いていかねば。
今夜も星が 風にかすれて泣いている。

 この詩からも察知できるように尹東柱はキリスト教徒であった。父方、母方いずれも祖父母の頃からの新教徒の一家で、彼は幼児洗礼を受けている。先記したが日本に渡って学んだ学校が東京の立教大学、京都の同志社であり、両方ともに英文科だった。彼が自分の将来の設計をどのように立てていたか知ることは誰もできない。しかし、生きてゆく彼の姿に誰もが感動しよう。
 上に引いた詩「序詩」をはじめ、彼の詩作品の多くに流れているキリスト教信仰の精神から、彼の詩は彼の信仰そのものの宗教詩として受け取られることも多いし、それは間違っていない。
 その一方、獄死した彼に韓国民の苦難の歴史を重ねて「民族抵抗の象徴」としての詩を遺した抵抗詩人として高く評価されている。彼が日本語で書かず、禁じられた祖国朝鮮の文字ハングル語でしか書き遺さなかったこと。このことゆえに尹東柱は治安維持法違反者として逮捕されて死へ追いやられた。

 次に引く「また別の故郷」という一編を見てみる。

故郷に帰ってきた日の夜
私の白骨がついてきて同じ部屋に寝そべった。
暗い部屋は 宇宙に通じており
天のどの果てからか 声のように風が吹き込んでくる。
くらがりのなかできれいに風化していく
白骨をのぞき見ながら
涙ぐむのが私なのか
白骨なのか
美しい魂がむせんでいるのか
志操高い犬は
夜を徹して闇を吠える。
くら闇で吠えている犬は
私を逐っているのであろう。
行こう 行こう
逐われる人のように行こう
白骨に気取られない
美しいまた別の故郷へ行こう。

 人の一生は、「歴史という激しい流れの底を転がって行く小石」にもたとえられよう。
 詩は多義的で象徴的な文学作品である。
 「別の故郷」とは、どういった場所なのか。ふつう、故郷は一つのはずだ。
 尹東柱が生まれた場所は、現在は中国東北部吉林省の外縁部で朝鮮半島と接する延辺朝鮮族自治州。ここは現在国境を成す豆満江を隔てて存在する北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)ではなくて、韓国(大韓民国)の飛び地(ブランチ)ともいえる。それは満州国が日本の後立てで
作られたこともあるが、それ以前に豆満江の河洲、つまり「間島」であって、早くから韓民族が入植した土地なのである。ちなみに尹東柱が誕生した際は、「中国東北(当時満洲)間島省和龍県明東村」が正しい呼称である。
 この村でキリスト教の長老であった神父尹夏鉱、その子の永錫と妻金龍との間に生まれたのが尹東柱であり、父が教員をしていた明東学校を出て、近くの龍井のミッション系恩真中学校から豆満江を越えて平壌の崇美中学校に進むが、日帝(日本によって併呑された朝鮮の人たちは、日本をこう呼称する)の神社参拝強要に抗議して自主退学。故郷龍井の光明学園中学に移って一九三八年(21歳)卒業し、同年四月ソウル延禧専門学校文科に進学。一九四二年(25歳)、卒業して日本に渡り、立教大学、ついで同志社大学に学び、一九四三年(26歳)の七月、先記した如く収監されてしまったのだ。
 「また別の故郷」を見よう。尹東柱が詩を書いたのは延禧専門学校卒業の前年。彼は、卒業記念にそれまでの詩を自選(一九編)して『空と風と星と詩』の表題で出版しようと目ざしたが果たせなかった。
三部を作って李ヤンハ教授と友人の鄭ビョンウクに贈ったうち、鄭ビョンウクが保管していた一冊が現在見る詩集の原本となつた。
 まず「別の故郷」とは何処か?尹東柱は朝鮮族だが、上記した如く、豆満江の中州(間島)に先祖が移り住んだわけだから、正確に言うと、故郷朝鮮を離れて満洲族の地に居ついた開拓民の子孫なのだ。とすると、この詩は、右記したように、ソウルの延禧専門学校時代のものだが、「別の故郷」とは、自分の故郷である満洲東北部の「間島」とは別の、しかし日本の植民地となっている朝鮮、ということになる。
 つまり「自分の第一の故郷」は「満洲の間島」であり、「第二の故郷は朝鮮本土」なのだ。詩人は「第一の故郷」に「自分の白骨」を「気取られない」ように置いて、「美しいまた別の故郷」、すなわち、より具体的に特定すると母国の都ソウルがある「故郷」へ行こう……ということになる。
 ここで問題となるのは、第二の(別の)故郷ソウルに「美しい」という修飾語が冠せられていることだろう。日本の植民地「京城」として日本の統治時代(一九一〇~一九四五)を通じて、こう呼ばれたが、尹東柱にとっては、「京城」ではなく、「漢陽・漢城」など日本統治以前の呼称でもって、只今、自分が学んでいる場所「ソウル」を意味し、指示したのだ。
 「美しい」は、また朝鮮という母国、尹東柱にとっては「本土」なのだ。そこを「美しい」と言い切ることは、満州国の一部に在る自分の故郷「間島」で、既にキリスト教徒となっている自分自身を、どう措定するのか。「間島」は、歴史を遡ると朝鮮民族の出先の土地、満洲に植民した場所なのだ。
 尹東柱は「美しい」に、どのような意味を内蔵させたのか。第三連に「くらがりのなかできれいに風化していく/白骨……」とある。この「白骨」すなわち「今までの自分」を、「(第一の)故郷」に置きざりにして、新生する自分が出発する、というプロテストの意味をベクトルにして、この詩が書かれたことだけは否めない。それゆえに、「キリスト者の詩」と読み取られる尹東柱の詩が、今日現在、祖国受難を突破した「新生朝鮮・韓国」の人たちに「愛国の詩人」として指呼されるという両義的・多義的な象徴詩になったことを、この「また別の故郷」でもって示していこう。


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