鴎外が、日漬・日露両大戦で脚気の原因を特定できなかったこと。ために後者の大戦では陸軍において約二五万人の脚気患者が発生、約二万七千人が死亡する事態となった。この惨禍は前者・日清戦争においても絶対数は少ないが同然だった。
一方、海軍においては海軍省医務局長に昇進した高木兼寛は、イギリスに留学した経験を持ち、イギリス海軍に脚気がないことを実見していたから、脚気の大流行を海軍にも見れば、日本海軍の死命に関わる重大事として対策にのり出し、明治十六年十一月、川村海軍卿同伴のもと、赤坂皇居で天皇に謁見、脚気の原因および予防法を奉上した。
その要点は「食物配合の不適。滋養品の欠乏」であり、この直訴が通ることによって、「海軍の洋食化、次いで麦飯の給与」によって日清戦争の時の海軍の脚気は激減した。陸軍の野戦衛生長官石黒忠悳は米飯至上主義であったが、医学でまだビタミンが知られておらず、日清戦争においては脚気患者三万四七八三人、死亡数三九四四人という惨害であった(前記「6」の志田信男『鷗外は何故袴をはいて死んだのか』に拠る)。
引き続いての台湾遠征(征台戦)においてもおなじ惨状となり、第二軍医部長土岐頼徳は、脚気予防のため麦飯給与を上申したが、石黒と森の反対によって、その実施は阻止された。
海軍からは猛省を促されたにもかかわらず「脚気の病原病理はいまだ不明」とし、その裏打ちは森軍医正の兵食試論だった。森が拠り所とするドイツ医学では科学的に麦飯と脚気改善の相関関係は証明されなかったからだが、経験的・実証的に脚気を激減させた海軍側も、それで止むなく引き下がったのだった。
石黒・森の陸軍軍医たちによる脚気大量発生を難じた著は、先記したリストの「2」以下「6」まで。「2」「3」を受けて「4」がコンパクトで読み易く、「5」が拡大再生産で精しい。「6」は既述した通りの内容で、サブタイトルがとスキャンダラスだ。
「6」の著者志田信男は、陸軍軍医中枢部の権力エリート軍医鷗外が「脚気病原菌説」に固執して、日清・日露戦役で三万数千人の脚気による戦病死者を出した。この事実は、わが身の利養を専らとして「医」の本質に対する認識の欠除、患者をマテリアルとした倒錯した思い上がりであり、学理を振りかざして多くの兵士を死に到らせた姿勢は現在のエイズ薬害に通じる、と指弾している。
こうして、脚気問題の浮上で四面楚歌の感となった鷗外と、対するに経験的・実際的に海軍から脚気を追放した高木兼寛について、特に「高木と脚気、そして鷗外・陸軍との戦い」について高木にエールを贈った小説作品が、先年逝去した吉村昭の『白い航跡』上・下(一九九一年刊 講談社)だ。
吉村は、随筆「脚気と高木兼寛」(『私の引出し』所収。一九九六年刊、文芸春秋)でこう書いている。
「興味深かったのは彼(高木)の周辺には著名な文学者がいたことであった。かれの長男嘉寛は有島家の娘・島を妻としたが、島の兄は有島武郎、弟は里見である。
さらにかれを医学者として徹底的に批判した中心人物は軍医総監にもなった森林太郎であった。
鴎外は私の最も尊敬する文学者の一人で、その歴史小説を書く姿勢を範としている。
文学者閥外は同時にドイツに留学し最析の医学を身につけた陸軍軍医、森林太郎でもある。
私は『白い航跡』を書くことによって、医学者としての鷗外を知ることができた。
ドイツ医学を信奉し、自脱を頑なに曲げようとしない医学者の姿がそこにあった。
このことが鷗外の作品と退官後の生き方になにか影を落していないだろうか。
私には関心のないことで、燦然とした鴎外の歴史小説があるだけである。」
付言すると高木兼寛は慈恵医大の創設者。脚気の撲滅に尽力し、「ビタミンの父」とも呼ばれる。吉村昭の小説他で、今や周知となっているが、高木は日露戦役で麦飯の有効性が注目されていた一九〇五年(明冶三八年)、華族に列せられ男爵位を授けられた。この時、人々は親愛と揶揄の両方の意味をこめて「麦飯男爵」と呼んだ。一九二〇年(大正九)四月に死去、直後に従二位の位と 勲一等旭日大綬章が追贈されている。
では、鴎外は、やはり授爵は困難であったのか。
私は、鴎外の遺書について、以前次のように書いたことがある。
私見だが、鴎外が乃木希典が明治天皇大葬の日、自刃したことを知って衝撃を受けたこと、いかばかりかと、これまで以上に想像する。
――もしも鴎外が、日清日露の両戦争に軍医部長であった際に、寺内正毅運輸通信部長(後の陸軍大臣)が、経験的に麦飯が脚気に効くと主張した時、いまだ脚気の病因が特定されていなかったとはいえ、耳を傾けるなどしていたならば、と鷗外は後になって臍を噛む思いに居たのではないか。
歴史に、もしもは有り得ないが、さきに引いた橋川文三の「明治におけるロヤルティの問題」と重ね合わせてみると、鴎外の遺書に、二度も「森林太郎トシテ死セン」と執拗に繰り返している(この遺書は、一度書き取らせて、さらに清書させた念入りのものだ)理由もまた、乃木の死と通底する“多くの部下を死なせたこと”への「森林太郎」一身の処決の仕方であったのではないか。(「墨」二〇〇〇年五・六月号)
今度、これに加えると、正装したままで瞑目したのは、鴎外(と盟友賀古鶴所)だけが知るサムシング、それは右記したが「沢山の将兵を死なせた」後に追尾する所業のようにも重ねて思われてくるということになる。
前出「1」の大谷の著では、「爵位はいらない」、「6」の志田の著だと「欲しい」というのが、それぞれの著者のイイタイコトだが、私は、鴎外は威儀を正して死ぬことで「自刃」を、ようやっと果たせる、と安堵していたように思う。
昨年八月刊の「7」山下政三『鴎外 森林太郎と脚気紛争』は、鴎外を擁護する著だ。著者は脚気についての第一人者で、既刊書に『脚気の歴史――ビタミン発見以前』(一九八三年、東大出版会)、『明冶期における脚気の歴史』(一九八八年、東大出版会)、『脚気の歴史――ビタミンの発見』(一九九五年、思文閣出版)がある。手短かに言えば、「7」は、鴎外が脚気問題で批判されている多くは筋違い、との見解である。鴎外への批判が起こった理由として、①海軍の兵食改良を批判しすぎたこと。②現実ではなくて論理にこだわりすぎて学術的権威に依拠しすぎたこと。③日清戦争時に上官の石黒に同調したこと、を挙げている。とにかく浩瀚な著で、「鴎外が脚気問題でたいへん誤解されている。正しい事実をぜひ書いてもらいたい」と恩師と見られる島薗順雄(ビタミン学と栄養学の権威、東大名誉教授)の要請で書かれた由。「あとがき」にこうある。
「まず森林太郎の軍医面を書いた単行本が意外に少ないことに少々驚いた。そしてさらに、それらに記された森の医学業績についての記述が疎漏であることと錯誤が多いことに、いっそう驚かされた」と。
在野の鴎外研究者苦木虎雄による新資料『鴎外 研究年表』(鷗出版、二〇〇六年)によると、大正九年(一九二〇)二月二十日「曝書堂一宇を焼く」とある。これは帝室博物館(現在の東京・奈良・京都の国立博物館)の書庫一棟である。この時期、帝室博物館総長であった鴎外は、ただちに宮内省に失火を詫び進退伺を出す。この時点で、鴎外は「爵位」を捨てたと考えるのだが、どうであろうか。