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安宅夏夫のBLOG

安宅夏夫のブログです。

鴎外・森林太郎の真実 その3

2013年02月01日 | 森 鴎外

その1 その2 画像版

 鴎外が、日漬・日露両大戦で脚気の原因を特定できなかったこと。ために後者の大戦では陸軍において約二五万人の脚気患者が発生、約二万七千人が死亡する事態となった。この惨禍は前者・日清戦争においても絶対数は少ないが同然だった。
 一方、海軍においては海軍省医務局長に昇進した高木兼寛は、イギリスに留学した経験を持ち、イギリス海軍に脚気がないことを実見していたから、脚気の大流行を海軍にも見れば、日本海軍の死命に関わる重大事として対策にのり出し、明治十六年十一月、川村海軍卿同伴のもと、赤坂皇居で天皇に謁見、脚気の原因および予防法を奉上した。
 その要点は「食物配合の不適。滋養品の欠乏」であり、この直訴が通ることによって、「海軍の洋食化、次いで麦飯の給与」によって日清戦争の時の海軍の脚気は激減した。陸軍の野戦衛生長官石黒忠悳は米飯至上主義であったが、医学でまだビタミンが知られておらず、日清戦争においては脚気患者三万四七八三人、死亡数三九四四人という惨害であった(前記「6」の志田信男『鷗外は何故袴をはいて死んだのか』に拠る)。
 引き続いての台湾遠征(征台戦)においてもおなじ惨状となり、第二軍医部長土岐頼徳は、脚気予防のため麦飯給与を上申したが、石黒と森の反対によって、その実施は阻止された。
 海軍からは猛省を促されたにもかかわらず「脚気の病原病理はいまだ不明」とし、その裏打ちは森軍医正の兵食試論だった。森が拠り所とするドイツ医学では科学的に麦飯と脚気改善の相関関係は証明されなかったからだが、経験的・実証的に脚気を激減させた海軍側も、それで止むなく引き下がったのだった。
 石黒・森の陸軍軍医たちによる脚気大量発生を難じた著は、先記したリストの「2」以下「6」まで。「2」「3」を受けて「4」がコンパクトで読み易く、「5」が拡大再生産で精しい。「6」は既述した通りの内容で、サブタイトルがとスキャンダラスだ。
 「6」の著者志田信男は、陸軍軍医中枢部の権力エリート軍医鷗外が「脚気病原菌説」に固執して、日清・日露戦役で三万数千人の脚気による戦病死者を出した。この事実は、わが身の利養を専らとして「医」の本質に対する認識の欠除、患者をマテリアルとした倒錯した思い上がりであり、学理を振りかざして多くの兵士を死に到らせた姿勢は現在のエイズ薬害に通じる、と指弾している。
 こうして、脚気問題の浮上で四面楚歌の感となった鷗外と、対するに経験的・実際的に海軍から脚気を追放した高木兼寛について、特に「高木と脚気、そして鷗外・陸軍との戦い」について高木にエールを贈った小説作品が、先年逝去した吉村昭の『白い航跡』上・下(一九九一年刊 講談社)だ。
 吉村は、随筆「脚気と高木兼寛」(『私の引出し』所収。一九九六年刊、文芸春秋)でこう書いている。

「興味深かったのは彼(高木)の周辺には著名な文学者がいたことであった。かれの長男嘉寛は有島家の娘・島を妻としたが、島の兄は有島武郎、弟は里見である。
さらにかれを医学者として徹底的に批判した中心人物は軍医総監にもなった森林太郎であった。
鴎外は私の最も尊敬する文学者の一人で、その歴史小説を書く姿勢を範としている。
文学者閥外は同時にドイツに留学し最析の医学を身につけた陸軍軍医、森林太郎でもある。
私は『白い航跡』を書くことによって、医学者としての鷗外を知ることができた。
ドイツ医学を信奉し、自脱を頑なに曲げようとしない医学者の姿がそこにあった。
このことが鷗外の作品と退官後の生き方になにか影を落していないだろうか。
私には関心のないことで、燦然とした鴎外の歴史小説があるだけである。」
 

 付言すると高木兼寛は慈恵医大の創設者。脚気の撲滅に尽力し、「ビタミンの父」とも呼ばれる。吉村昭の小説他で、今や周知となっているが、高木は日露戦役で麦飯の有効性が注目されていた一九〇五年(明冶三八年)、華族に列せられ男爵位を授けられた。この時、人々は親愛と揶揄の両方の意味をこめて「麦飯男爵」と呼んだ。一九二〇年(大正九)四月に死去、直後に従二位の位と 勲一等旭日大綬章が追贈されている。
 では、鴎外は、やはり授爵は困難であったのか。
 私は、鴎外の遺書について、以前次のように書いたことがある。

私見だが、鴎外が乃木希典が明治天皇大葬の日、自刃したことを知って衝撃を受けたこと、いかばかりかと、これまで以上に想像する。
――もしも鴎外が、日清日露の両戦争に軍医部長であった際に、寺内正毅運輸通信部長(後の陸軍大臣)が、経験的に麦飯が脚気に効くと主張した時、いまだ脚気の病因が特定されていなかったとはいえ、耳を傾けるなどしていたならば、と鷗外は後になって臍を噛む思いに居たのではないか。
歴史に、もしもは有り得ないが、さきに引いた橋川文三の「明治におけるロヤルティの問題」と重ね合わせてみると、鴎外の遺書に、二度も「森林太郎トシテ死セン」と執拗に繰り返している(この遺書は、一度書き取らせて、さらに清書させた念入りのものだ)理由もまた、乃木の死と通底する“多くの部下を死なせたこと”への「森林太郎」一身の処決の仕方であったのではないか。(「墨」二〇〇〇年五・六月号)
 

 今度、これに加えると、正装したままで瞑目したのは、鴎外(と盟友賀古鶴所)だけが知るサムシング、それは右記したが「沢山の将兵を死なせた」後に追尾する所業のようにも重ねて思われてくるということになる。
 前出「1」の大谷の著では、「爵位はいらない」、「6」の志田の著だと「欲しい」というのが、それぞれの著者のイイタイコトだが、私は、鴎外は威儀を正して死ぬことで「自刃」を、ようやっと果たせる、と安堵していたように思う。
 昨年八月刊の「7」山下政三『鴎外 森林太郎と脚気紛争』は、鴎外を擁護する著だ。著者は脚気についての第一人者で、既刊書に『脚気の歴史――ビタミン発見以前』(一九八三年、東大出版会)、『明冶期における脚気の歴史』(一九八八年、東大出版会)、『脚気の歴史――ビタミンの発見』(一九九五年、思文閣出版)がある。手短かに言えば、「7」は、鴎外が脚気問題で批判されている多くは筋違い、との見解である。鴎外への批判が起こった理由として、①海軍の兵食改良を批判しすぎたこと。②現実ではなくて論理にこだわりすぎて学術的権威に依拠しすぎたこと。③日清戦争時に上官の石黒に同調したこと、を挙げている。とにかく浩瀚な著で、「鴎外が脚気問題でたいへん誤解されている。正しい事実をぜひ書いてもらいたい」と恩師と見られる島薗順雄(ビタミン学と栄養学の権威、東大名誉教授)の要請で書かれた由。「あとがき」にこうある。

「まず森林太郎の軍医面を書いた単行本が意外に少ないことに少々驚いた。そしてさらに、それらに記された森の医学業績についての記述が疎漏であることと錯誤が多いことに、いっそう驚かされた」と。 

 在野の鴎外研究者苦木虎雄による新資料『鴎外 研究年表』(鷗出版、二〇〇六年)によると、大正九年(一九二〇)二月二十日「曝書堂一宇を焼く」とある。これは帝室博物館(現在の東京・奈良・京都の国立博物館)の書庫一棟である。この時期、帝室博物館総長であった鴎外は、ただちに宮内省に失火を詫び進退伺を出す。この時点で、鴎外は「爵位」を捨てたと考えるのだが、どうであろうか。


鴎外・森林太郎の真実 その2

2012年09月24日 | 森 鴎外

その1 その3 画像版

 順序として、「脚気問題、および遺書」に関わる書の一覧は次の通り。
 1 大谷晃一『鷗外、屈辱に死す』 (一九八三年三月刊、人文書院)
 2 板倉聖宣『模倣の時代』上・下 (一九八八年一〇月刊、仮説社)
 3 山本俊一『鷗外の脚気問題』 (講座森鷗外第三巻『鷗外の知的空間』所収・一九九七年六月刊、新曜社)
 4 白崎昭一郎『森鷗外 もう一つの実像』 (一九九八年六月刊、吉川弘文館)
 5 坂内正『鷗外最大の悲劇』 (二〇〇〇年一月刊、新潮社)
 6 志田信男『鷗外は何故袴をはいて死んだのか』 (二〇〇九年一月刊、公人の友社)
 7 山下政三『鷗外 森林太郎と脚気紛争』 (二〇〇八年十一月刊、日本評論社)
 まず「1」の大谷晃一の『鷗外、屈辱に死す』から。端的に書いていくと、この著のイイタイコトは、こうである。
 「(鷗外は)男爵についになれなかったという屈辱を、爵位は絶対に受けぬと先制し」「宣告することによって免れる。これを鷗外はもくろんだ」と。
 確かに鷗外に授爵はなかった。
 鷗外の遺書、「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」は、あまりにも有名である。
 しかし、晩年の、しかも死の間際になって、鷗外がこれほどまでに叙爵にこだわり、ついに「授爵はない」と見きわめて、かくも「反噬」(追いつめられて噛みつくこと。恩義にそむいて害をなすこと)、ひらたく言えば金切声を上げたであろうか。「反噬」は、鷗外の遺言についての中野重治の評語である。
 「授爵の使者」が、その人の死のギリギリに到着するということはないことではない。鷗外の奔走によって男爵を得た人として東大医学部教授で鷗外と共に脚気伝染病脱を固守した青山胤通がいる。授爵されるには、運動する味方が必要なのだ。
 大谷の著は、右記「2」以下の「脚気問題」で鷗外が批判を浴びる時期以前に刊行されており、この「鷗外のウィークポイント」か考察の視野に入っていないうらみがあるが、自分にはなぜ授爵がなされないのかと、焦る鷗外の心中を忖度していて、このところがヴィヴィッドで説得性がある。とはいえ、鷗外が、心中、この大谷の推察と全く別の思念であったと仮定すれば、すべて瓦解してしまうことにもなる。
 今、いわゆる「鷗外と脚気問題」というよりも、「日本陸軍と脚気問題」で書き進めると、確かに鷗外一人を蚊帳の外にして、日清・日露戦争で多くの軍人、高級軍医か受爵している。
 江藤淳は、祖父江頭安太郎が兵学校出身の海軍士官だった。「鷗外と立身出世」(『鷗外研究』7巻所収・一九九七年刊、和泉書店)で、以下のように書いている。

 「日露戦争当時少将だった陸軍軍人は。戦後の論功行賞で例外なく男爵を陽っている。」
 「(鷗外は)官費留学もしたけれども、軍医は所詮軍人としては三文安い二流の身分である。予備校に編入されたら、男爵は無理であるにせよ、貴族院議員に勅選されたい。貴族院の勅選議員は、俗に“一代華族”といわれた制度で、その地位は世襲されないが華族に準じていた、しかも、勅選されるかどうかについては、元老山県有朋の影響力が絶大だという評判であった。」

 鷗外は陸軍軍医監(中将相当)、鷗外の上司小池正直も同じ。江藤の言と違って、実のところ脚気問題の最大の責任者石黒忠悳は、男爵から後予爵になっており、一時、石黒と鷗外とに反対の見解を示して「脚気は麦飯を食べると治る」という立場を主張した日露戦争中医務長官だった小池も男爵を得ている。陸軍の石黒・森「脚気伝染病説」に対して、「脚気、食品内の有効成分欠如説」で烈しく対立した海軍の高木兼寛は、脚気問題を海軍においては解消した功績で明治天皇に三度も拝謁する栄誉に浴している。明冶天皇がまた脚気に悩む人であったのだから、叙爵は誰の目にも当然であった。
 では、なぜ鷗外は「蚊帳」に入れなかったのか。
 鷗外は、大正十一年七月九日に逝去するが、その二日前(七日)に、天皇よりの見舞品ワイン下賜があった。翌八日、天皇より従二位を賜う使者が見えた。「従二位」は、右記旧上司の小池が「正四位」であり、これは鷗外と同位であったのを抜く。しかし、授爵の沙汰はなかった。
 鷗外が福沢諭吉に頼まれて創刊に関わった「三田文学」の、新世代の文士に小島政二郎がいる。小島は、死の床に就いている鷗外を見舞った際に、
 「先生は袴を穿いておられた。死ぬ時袴を穿いていた人をこの年になるまで私は先生以外に見たことがない」(『万太郎・荷風・鷗外』)
 と書いている。
 なぜ、家に居て、この正装だったのか。
 鷗外は、子供の頃から、「武士の子なのだから、切腹できる覚悟を持て」と、常々言われたことを度々記している。
 医官とはいえ、軍人・軍医なのだ。『堺事件』では、土佐藩兵の集団切腹をあつかったが、そのシーンが資科にはない「切り盛り」をしたと大岡昇平に、はるか後年、厳しく批判される。しかし、大岡が、これを「事実の認定が不公平」「国粋的に美化」と言うのは「歴史そのまま」ではない「歴史小説」であるから、これでいいのではないか、と私(安宅)は考えている。『堺事件』は鷗外の子供の頃からの「武士の切腹の図。それも悲愴美」への思い入れであって良いのではないか。
 鷗外が、死の床に、「袴を穿いて」正装していたのは、鷗外にとって、アタリマエなのである。
 しかし、志田信男は、先の一覧「6」の著『鷗外は何故袴をはいて死んだのか』において、この点を衝く。
 志田は、

 鷗外は授爵の使者を待っていたのである。前述のように授爵は、往々にして本人の死の直前に行われること、場合によっては、事情を繕って死の直後に行われることもあった、ということである。鷗外が従二位を拝受した後「袴」を脱がず病床にあったのは、死の直前までに叙爵の沙汰があることを頭に入れてのことだったのである。そう思われる。急の沙汰があっても「袴」をはいていれば、病床に起座し、かたわらの羽織を羽織れば、そのまま勅使を迎える正装になる。少なくともそれに準ずる礼にかなった服装となるのである。まさに宋の重臣趙普の故事を想わせるものかある。しかるに持てども待てども御沙汰はなく、ついに「ぱかぱかしい」の呟きを残して、鷗外は昏睡状態に落入るのである。

 と書いている。
 そして、「ばかばかしい」との呟きを残して鷗外が昏睡状態に入ったということは、授爵の使者を待ちかねたあげく、遂に自分には、その使者が来なかった、ということだから、鷗外は、最後の最後まで、すなわち最期まで授爵切望の人であったのだ、というのである。
 ここで志田は本稿「はじめに」の章に引いた鷗外最期の時のことば「ばかばかしい」に収斂させ、あるいは、すべてが、この語から湧出していると演繹させて鷗外の全体像にしてしまうのである。
 すなわち、繰り返すが、前出大岡昇平・小堀杏奴の対談に見る、まちがった「ぱかばかしい」の語が、強いベクトルを持って、いや全方位に、アンチ鷗外の立場を取りたい人の「鬼の首」となっていよう。
 では、ひるがえって先に引いている「1」の大谷晃一はどうなのか。
 大正十一年二月一日、山県有朋が死んだ。その前日、小田原の山県の別荘古稀庵へ鷗外は賀古鶴所と駆けつけた。山県は、国葬のうえ、小石川の護国寺に葬られる。
 「枢密院議長元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵山縣有朋之墓」
 と墓石には刻まれる。
 山県が不在となれば、鷗外の授爵はあるのか。ないのか。
 大谷もまた、鬼の首であるキイワードを最も効果的に、スペードのエースとして切って見せる。
 大谷の着眼は、鷗外が死んだあとに、墓牌に「位階勲等爵位」が仰々しく刻まれることになる以上、自分すなわち鷗外に「爵位」が無いままであれば、これは末代までの、永遠の恥辱だ、というところにある。
 ここから、大谷は、鷗外の代表作の一つ『興津弥五衛門の遺書』に着目して述べる。

 ただ一つ、最後までひそかに頼みにしていた山県も、かくて去ってしまった。賀古が奔走してくれるにしても、その手がかりを失っている。万事は休した。
 鷗外は追い詰められた。死の前後に受けると決まった屈辱から、免れるすぺはどこにも見当たらない。どうせ死ぬのだから、男爵をもらっても仕方がないと人は言うかもしれない。それは違う。自分が生涯をかけ、あるいは恋愛をも犠牲にしてまで追い求めた森家の栄誉がそこにかかっている。
 世人が当然もらうと見ているその中で、黙殺される。そのことほど大いなる屈辱はなかった。屈辱を浴びながら死にたくない。鷗外は何を恐れているのか。それはだれにも明かさなかった。賀古ひとりだけが、察しているはずであるが。死にあたって、名を惜しみたい。

 この着眼は秀抜だと思う。同著発刊後、大岡昇平と吉川幸次郎が支持してくれた、と「あとがき」にある。しかし、何故というビコーズは書いてない。
 私は、むしろ、右に引用した大谷の文章中の、「賀古ひとりだけが、察しているはずであるが」が気にかかる。鷗外遺書の中の「コレ唯一ノ友人(賀古鶴所)ニ云ヒ残スモノ」は、「脚気見落としの事実。そのことの懺悔」と重層になっているのではないか、と。
 脚気を見落としたのは止むを得なかったとはいえども、その桔果、二度の大戦での将兵の死傷者が莫大なこと、これは如何せん事実であるのだ。このことを鴫外は賀古に話していないことはない、と私は思う。
 大谷は、興津弥五右衛門に託して鷗外は自分のことを「先取り」して書いている。と見る。『阿郎一族』ではないが、いったん受けた屈辱は容易に消え難い。名は末代に残る。

 某法名は孤峰不白と自選いたし候。身不肖ながら見苦しき最期も致間敷存居候。
 此遺書は倅才右衛門宛にいたし置候へば、……
 興津弥五右衛門は、最後に遺書を書き上げた。戒名も自分で選んだ。墓にはこの名を刻む。この上は見苦しき死にざまに、絶対にすまい。かくて、彼はみごとに死んだ。『興津弥五右衝門の遺書』にこのことを心魂を込めて書いた。ああ。彼は遺書に死後を託して死んだ。自分も見苦しき真似は露ほども見せず、しかも屈辱から逃れる方法はないのか。もだえるような思いである。

 大谷の著におけるキイワード「ばかばかしい」は、次のように使われている。
 賀古鶴所によって、鷗外口述・賀古鶴所書の遺書が書き上げられ、

 大正十一年七月六日 森林太郎言 賀古鶴所書

 と締めくくられた。宛名は無い。
 ちなみに「奈何ナル官憲威力ト雖此ニ反抗スル事ヲ得ズ」との個所は、はじめ賀古は「官権」と書いた。だが「官権」は「政府の権力・国家機関の権力」である。「官憲」は「役人・官吏」である。
 だから、「国権に対して歯を噛み鳴らし」ているのではない。先輩、同僚、後輩ら役人、官吏に向かって「余の行為に溶喙すること勿れ」と告げているのだ。
 こうして、微調整もでき、渾身の力をふるった最後の言葉が「ばかばかしい」である。と大谷は書く。
 すなわち「1」の大谷の著での「ばかばかしい」の語は、自分が死の床で「死後に残る恥辱」を避けるために一芝居打ったことの、その後に残る「枯寂の空」である。この思いが「ばかばかしい」の語に引かれて出てくるのだ。「枯寂の空」とは、鷗外作『大塩平八郎』の中に大塩が書いた『洗心洞箚記』にある言葉で、意味は、「何物をもつくり出さない空虚」だ。
 この「ばかばかしい」が、「6」の志田信男『鷗外は何故袴をはいて死んだのか』になると、欲しかった爵位が遂に貰えない、という結果の、「虚しかった自分の一生」という著者のイイタイコトで締めくくられる。「1」と通奏するところは、遂に叙爵がなかった、という口惜しさ、ということになろうか。
 それにしても、これほど、ベクトルも意味合い(ニュアンス)も変わる語を、最大のキーワードとして、鷗外の最期の言葉とされてはたまらない。


鴎外・森林太郎の真実 その1

2012年09月22日 | 森 鴎外

その2 その3 画像版

真実:1)うそいつわりでない、本当のこと。2)まこと。
真理:1)まことのこと。2)まことの道理。
(新村出編 広辞苑)

 森鷗外に関わる著は、既に汗牛充棟出されているが、近年になって「鷗外と脚気の問題」の著が急増した。
 また、植木哲『新説 鷗外の恋人エリス』(二〇〇〇年四月刊 新潮社)は、先年、篠田正浩監督の映画が、「エリスは、かなり年齢が高いユダヤ人であった」と、「新発掘研究」の成果を踏まえて話題を呼んだ内容であったのを、「それは全くの別人」とした更なる発掘の著として話題となった。刊行後、本郷の鷗外記念館での著者講演は満員であったが、これも「謎を秘めた巨人」鴎外の魅力のしからしめるところだろう。
 確かに、鷗外には謎が多く、1)「エリス問題」2)「小倉左遷の謎」3)「遺書に見る謎」と、大きいもので三つを挙げられる。ここでは、「遺書に見る謎」に関わっていくことになる輓近の「脚気問題」を中心に書く。
 そのためにも話題の根本資料である鴎外の、あまりにも有名な「遺書」を見よう。

余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友ハ賀古鶴所君ナリ コヽニ死ニ臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ 奈何ナル官憲威力ト雖 此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス余ハ石見人 森 林太郎トシテ死セント欲ス 宮内省陸軍皆縁故アレドモ 生死別ルヽ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス森 林太郎トシテ死セントス墓ハ 森 林太郎墓ノ外一字モホル可ラス 書ハ中村不折ニ依託シ宮内省陸軍ノ榮典ハ絶對ニ取リヤメヲ請フ 手續ハソレゾレアルベシ コレ唯一ノ友人ニ云ヒ殘スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許サス

大正十一年七月六日
森林太郎言 拇印
賀古鶴所書

 次いで、以下のことを確認のため呈示しておきたい。
 中央公論社版『日本の文学』第三巻『森鷗外(二)』(一九六七)の月報に、「文豪鷗外の肖像」と題して、大岡昇平と小堀杏奴(鷗外の次女)の対談が載っている。
 この中で、大岡は、鷗外が息を引き取る際に「ばかばかしい」と言った「伝説」があったことを訊ねている。これに対し、杏奴は、
「あれは嘘なんです。嘘というかまちがいなんです」
 と否定し、事実は、鷗外が妻の志げに、「もうじき治る」と言ったのが、舌がもつれて「もういきなおる」と聞こえたこと。
 これを、付きそっていた看護婦が、いろいろ空想して雑誌に書いて出したことで広がり定着してしまった事情を述べている。大岡は、
「なるほど、そういうこさえ話が、えてして伝説化されちゃうんですね」
 と受けて、この対談は終わっているが、私は、この鷗外が最後に発したのではない「ばかばかしい」という語が特段に一人立ちしてしまったことをポイント(いや、最大要素)にして書かれたと思われる二冊の著について述べてみたい。