皆さん、お久しぶりです。
時が過ぎるのは早いもので、6月ももう下旬、あさっては夏至。
私の妊婦生活も、6ヶ月半ばとなり、折り返し点を過ぎました。
あっすみません、最初に言わなきゃですね。
妊娠して以降、私の生活も精神も以前とは違う世界に入ってしまい、
どうしても今後の話題は、妊娠や子供がらみのことが多くなると思います。
とはいえ、読者の皆さまは、妊婦ではなくそういう話題に特に関心があるというわけでもない、方々が多いでしょうし、
このブログも、ご承知のとおりそういうつもりで始めたものでもないので、心苦しく思っています。
が…
なにぶん以前のように体がきかず、どうしてもネタ切れになってしまうので、
ある意味仕方なく、そしてこのブログはアスタの体験リポート&備忘録のはずだ!という、ある意味開き直りで、
当分は妊娠・子供ネタに終始してしまうことになるかと思います。
(もちろん、そうじゃない記事も書いてはいくつもりですが)
すみません。
こんな勝手な事情をどうぞご理解の上、今後ももしおつきあいいただけたら、たいへん嬉しいです
―
―
さて。
一応そんな言い訳をしておいて、さっそくですがちょっと、またおしゃべりさせてください。
あーあ、またアスタの長い話が始まったよ、と思われた方。
どうぞ、とばしてくださいね またいつかちゃんとした記事書きますので。
本当に、冗談抜きでまた長いので、お時間を確保の上、どうぞ。
最初は小さいと思っていたお腹も、6ヶ月に入るとみるみる大きくなってきて、見た目にも妊婦らしい体型になってきました。
去年まで着ていた普通のお気に入りキャミソールを着たら、ショックなことが。
は、腹がつかえて裾が下りないっ。しかもめっちゃゆがんで伸びてるしー!
ああ、私ってほんまに妊婦なんやわ、事実やったんや…と思った瞬間。(なんじゃそら)
一ヶ月くらい前から胎動がしているのですが、それもどんどん強くなっています。
傾向として、私が台所に立って料理を作っているとき、食卓について食事しているとき、
体を横にしてくつろいでいるor寝ようとしているとき、すごく動く。。。
と夫に言ったら、ゲラゲラ笑われました。本能的欲求に忠実なヤツめ、誰に似たんやって。
そうかて、アナタと私と、遺伝子は半々やからねっ。
それにこの子、なせだか肉料理に反応するんです。
グリルで魚を焼いているときじゃなくて、フライパンで切った肉をジャーッと焼いているときに、キャッキャと動く。しかもそれを食べ始めたときも、動き出す…
でも可笑しいことが。
この前、ブリの照り焼きを作るべく、フライパンで焼きだしたら、
案の定、動き始めたけど、さてそれを食べる段になると、シーン。
『…あ、あれっ?さっきおとがしてたのに、なんかちがーう。にくじゃなあい!』
って、思ったんだろきっと。
ならばと、後日ハンバーグを作ったら、焼いてるときも、食べてるときも、無反応。
なんで?わが子よ、これは魚じゃなくてれっきとした肉、お・に・くですよっ。
そら、ひき肉は肉にカウントしないからな、ははは。
(※注:“歯で厚みを噛み切ってこそ肉”というのが、肉好きダンナの勝手な定義)
…
肉料理をこよなく、こよなく愛してやまないダンナよ。
↑そうやって子供の代弁してくれているみたいだけど、
どう考えてもアナタの血筋ですから~~っ!!
あたし じゃないわよ、あたしじゃ
でも、これは理由がわかったんです。
6ヶ月くらいになると、胎児はもう耳が聞こえるらしいですね?
よく考えたら、焼いているフライパンとの距離は、私の耳より子供のほうが近いわけだから(調理台の高さってちょうどお腹の辺りでしょ)、
私が聞いているよりは、大きな音で聞こえているのね、きっと。
なーんだ。
でも、なぜ肉に…? ま、いずれにしても、食いしん坊であることは間違いないだろう。
動く、の話でもう一つ。
昨日は定期健診に行ってきたのですが、2時間以上待たされてお昼も過ぎ、空腹になってきた私なのに、
なぜだかゴニョゴニョ動き始めた子供。
するとちょうど呼ばれて中に入り、「お変わりありませんか?」
「ええ、今もよく動いています」
(なんかイヤな予感)
医者に行くときはいつも超音波写真を撮ってもらえるのですが、
やっぱり。先生がいざ撮ろうとすると、今回も動いて動いて…
「まあ、よう動いてはるわ、落ち着いてくれませんね」「ほ、ほんま落ち着きないですね」
は、恥ずかしー。前回もさんざん動き回って、「よう動くなぁ。。。」と先生に苦笑されたのです。
「えーと、性別は。。。う、うーん、脚が二本あるのはわかるけど。。。見えますね?でもちょっとねえ、こんなに動かれると。。。わかりませんねぇ。。。隠してるのかもしれへんけど。。。ま、次回にしましょう」
性別、不明っ!
なんてこっちゃ。その理由が、「動き過ぎ」だなんて…
こ、これって、もしかして私の血筋??
いやいや、ブルブル、そんなはずはない、きっとダンナや、ね、ね。
このおとなしーい私に限って、そんなことが、ね、ははは、ほほほ……
挙句の果てに、こんどは顔の写真を撮ろうとしたら、なんとわが子、
‘両手で顔を拭き拭き’しているではないか。
「あらまあ、お顔拭いてはるわ~。。。もうちょっとねえ、おててをどけてくれたら見えるのにねえ。。。うーん、ちょっと難しいかなあ」
…わが子よ、頼むから先生に顔をお見せしなさい
今回は女医さんで、優しく言うてくれてはるけど、こっちとしては恥ずかしいやら、あきれるやら。
結局、一瞬片手を離したすきに、かろうじて撮れたわかりづらーい横顔写真を、渡されたのでした。
というわけで、性別もちゃんとした顔も、次回へおあずけ。
次回って、4週間もあとなんですけどね。
(もっとも夫は、生まれるまでのお楽しみでもいいんじゃないかなんて、言ってますが)
それでも、家へ帰って、今までの超音波写真を全部貼り付けてある、産院でもらった小冊子に、
今回の写真を貼って、以前の写真をパラパラとめくって見ていたら…
何だか、胸がきゅんとしてきました。
―最初は、そう、目に見えない大きさだった。
そして…そう、この頃、初めて心臓の動きが見えて、びっくりした。
そして…そのうち、手足が大体分かるようになってきて…
そして、ブサイクに写っちゃってるけど、やっと、頭と目と、手足と見えて、かろうじて赤ん坊らしい姿になって、
でもそう、この頃はつわりもひどくて、しんどくて。不安になって泣いて。。。
今だから言えるけど、実は私、3月の下旬には風邪で一週間寝込み、
4月の末には大出血して、あわや流産かという状態になり、その後2週間以上も出血が止まらなかったのです。
(だからあの頃、あんなセンチメンタルなポエム書いたりしたの)
いままでは、あの頃は――本当に本当に、ちっちゃい命だった。
それがいまや、ここまで大きくなった。
涙が、ボロボロ出てきました。
すごい。これはすごいことだ。
誰に言われたわけでもなく、心臓は動き、この子は自力で、確実に成長している。
まさに神秘、ミラクル。かもしれない。
―――
話が遡りますが、
夫と私は、結婚して9年が経ったのですが、
その間、できないようにしていたわけではなかったけど、子供はできませんでした。
私は特に子供が大好きなわけでもなかったし、あまり気にしてはいなかったけど、
30を過ぎてしばらくした頃から、さすがにだんだん気になり始めて。
周りでは私より遅く結婚した友達たちが、次々に妊娠し子供を産んでいく現実。
あるときは、そんな友の一人に妊娠を告げられた後、ショックで2か月くらいその子に連絡できませんでした。
少なからずの女性が、失礼ながらきっとお思いになったことがおありでしょう、
自分が女として“欠陥商品”であるかのような感覚。
私の場合、夫が子供好きなので、彼に申し訳ないというような気持ち。
一人きりのとき、何度も泣きました。どうしようもなく、涙があふれてきて。
だけど、だからといって、私たちは「不妊治療」を受けるという選択はしませんでした。
私も最初は、徹底的に真実を知りたい気持ちでした。
夫に、どう思うかきいてみました。
「君がどうしてもと言うならしかたないが、僕はなんとなく、いやだな…」
……思いました。
もし治療なり検査なりをしたら、そこで分かることは、
“私に異常がある、夫に異常がある、どちらにも異常がある、そしてどちらにも異常がない。”
しかし、この4パターンのどれに転んだとしても、それで私たちは幸せなのだろうか?
これはあくまで私たち二人の場合ですが、
手間と費用をかけて、心身のデリケートな部分をかきまわして、それで残るものに、
少なくとも私は、自信が持てない。
たぶん私の性格からして、どう転んでも、彼か自分を、ひどく責め抜くことだろう。
夫だって、傷つくだろう。
私たちにとって、真実を知ることと、それが適切なことは、もしかしたら別のことなのかもしれない―
自分たちに子供ができないことを恥じたり、責めたりすることは、同じ境遇の他人にもそういう態度を取ることに等しい。
そうですよね。人間とは悲しいかな、そうした生き物です。自分と同じ「欠点」を持っている他人を、ゆるせないものなのです。
子供のいない他人を指差して、あんたなんて恥ずかしいだの、そんなの変だだのと、自分は言うのか?
そんなことはない。子供がいないことが、どうして恥だったり変だったりすることがあろうか。
人間の価値は、そんな“肩書き”で決まるものなんかではない。その人がどう生きているか、そもそもどんなに尊い存在かこそが、大事なこと。
だったら、それって、自分たちもそうなんじゃないの?
―私は、このように長い逡巡を繰り返した挙句、やっと、子供のいない現実を受け入れられるようになりました。
夫は、さすが男の人だけあって、昔から、二人きりの人生でもいいじゃないかと言ってくれていました。
(彼としても、複雑な思いはあっただろうに、改めて感謝)
やっとここで、私たちはかみ合ったのかもしれません。
私も、何か打ち込めるようなものを持ちたい。生きててよかったと、人生の最後に思えるようになりたい…
やっとそんなふうに、考えられるようになりました。
いやーん、またやっちゃったわ。
前振りが、長くなりましたが。
そういう経過をたどってきたので、私にとって、子供ができたというのは、子供には悪いけどまさに「青天の霹靂」でした。
なんで?なぜ今?なぜこのタイミングで??
全く、わけわかりません。
でももしかして、わけなんてないのかも。この子はただ、「やってきた」んだ。
そう考えると、これはすごい、すごいことなんだと、思えてきたのです。
いままで、努力は必ず報われるとか、理由があって結果があるとか、
そういう世界で生きてきた。
がんばれがんばれだとか、これはこうなってこうなんだとか、そういう世界しか知らなかった。
でも―
あるとき命が宿って、それが育っていくというのは、何だかそういうのとは違う価値観の世界のもとで、なされているような気すらしました。
日本語では普通に、子供を「授かる」という言い方をしますが、これって実はかなり、核心を突いた表現だったりするのかな、なんて。
たとえばこういうところに、何か宗教的、神秘的な概念が生まれたりするのも、無理もないといったら変だけど、そうだったりするのかな…
けど何にしても、説明のつかない、摩訶不思議なものであることにはちがいないと、思えてきます。
突然でびっくりしたけど、子供を産んで育て上げるという“お鉢”が、この私にも巡ってきた。
しっかり腰を入れて、向かい合わなければ…というような気持ちがしています。
でも当面、今のところは―
こちらが声を上げてしまうくらい、ポコポコ動く子供の上に手を当てて、
驚き思わず笑ってしまいながらも、どこかこの子に感謝したいような、そんな感覚を忘れたくないなと思います。
…ああ、また何だか、ごちゃごちゃと書いてしまいましたが。
そんなわけで(わけ長過ぎ)、妊娠や子供ネタのときは、浮かれたような内容に聞こえてしまうかもしれませんが、
私としては、けっこう真剣に、起こることに逐一驚いていたりするのです。
うう、結局どうまとめていいか、ほんまにわからなくなってきた。
どうしよ。
えー、というわけで、次回までごきげんよう~ ええっ、そんな普通でええの?
《終》
うちも結婚して10年子どもができなくて、治療まではしませんでしたが、病院で検査してもらった後、自然に妊娠しました。妊娠がわかったときは、とても嬉しかったけど、ずっとできなかったので、ほんとに不思議な気持ちがしたものでした。
今でもお腹の中にわが子がいることが、とても不思議です。自分のお腹の中でどんどん大きくなって、成長しているなんて。。。
妊娠は病気ではないけれど、母子ともにリスクは伴うものだし、体の変化に連れて、思いもかけないことが起こりますが、お腹の赤ちゃんと一緒に妊婦生活を楽しんでくださいね。
早いもので、私のほうは予定日までちょうど1ヶ月となりました。10ヶ月間長いような気がしていましたが、もうすぐBebeの顔が見られると思うと、とても楽しみです。
私も書いたように、妊娠を知ったとき、嬉しさよりも先にまず驚きでした。
子供のいない人生を、本気で考えつつありましたから…
しかし、人生は思いもよらぬ変化が訪れるのは、よく考えたら普通のことですね。
変化を恐れていたら、何もできないし。変化のない人生はないですものね。
今までだって、初めてのこと、なんだかんだ言いつつ通り抜けてきたんだから、
これだって、何とかなるだろう。。。え?
お腹の中に赤ちゃんがいるというのは、本当に本当に不思議な感覚ですね。
今日は、お腹がボコッと動くのを、初めて目で見ました。
すごーく不思議です。
Bebeちゃん、あと1ヶ月でご登場とは、楽しみですね!
私はちょうど、あと4ヶ月です。そうなれば会えると思うと、これまた不思議。
妊婦生活って、意外と短いのかもしれませんね。楽しんでおこうと思います。