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熊本から気ままに山と自転車のブログ

島原大津波供養塔・寛政の津波供養碑

島原大津波供養塔・寛政の津波供養碑
2021/4/23(金) 曇

今日のポタリングは、先日の津波犠牲者の扇崎千人塚供養塔に続き、飽田郡供養塔と宇土郡供養塔を目的地とする。
午前9時出発、気温23°最高気温予想26°薄曇りの空模様だが、湿度が高いのか暑い。

飽田郡供養塔(写真1参照)は、小島小学校入口右側の墓地の中にあった。
標柱は「島(原)大津波供養塔」とある。説明書きは、風化・劣化でほとんど読めない。
玉名市、宇土市は文化財に指定しているが、熊本市は指定していない。災害の記憶として残して欲しいと思う文化財である。


次に国道501を南に走り平木橋を渡る。緑川堤防沿いには、クサフジ(写真2参照)が咲いている。


更に国道57を西に走り網田駅の先を右折すると、六地蔵(写真3参照)が見える。
宇土郡の供養塔はその北側にある。


こちらの供養塔は、宇土市の指定史跡になっている。
宇土市教育委員会の説明板(写真5参照)は、「市指定史跡寛政の津波供養碑
寛政四年(1792)肥前島原の雲仙岳で大爆発があり眉山が崩壊し津波がおきました。有明海の対岸、肥後にも津波が押し寄せ4,997人の犠牲者がでました。宇土郡だけでも1,200人を超える尊い命が奪われました。
犠牲者の霊を弔うため同年、藩によって一郡一塔の供養碑が建てられ、熊本市小島町と玉名郡岱明町にも同じ碑が建立されています。」とある。


もう一つの説明板(写真6参照)は、「寛政四年(1792)四月一日雲仙岳の地震と爆発により眉山の一部が有明海に崩れ落ち大波を生じ、高さ二十メートルをこす大津波となって対岸の宇土郡・玉名郡・飽田郡に押し寄せ肥後領で死者四千九百九十七人、肥前、肥後あわせて一万五百余人にのぼる空前の大惨事をもたらし、「島原大変、肥後難題」の諺を産んだ。
宇土郡においては戸口浦村五百三十五人、長浜村三百九十人など男六百五十一人、女六百十五人あわせて千二百六十六人の死者が出た。その犠牲者の人々を供養するため一郡に一基の供養塔が建てられ、一郡一基の塔とも云われている。この供養塔は先祖殉難のあかしであり、二百年をへた現代に生きる私達は祖先を敬い、美しい心を育てるてだてとなるよう念じながら合掌いたしましょう。」とある。


現在時刻12時過ぎ帰途に就くが、途中「長部田海床路」(写真7参照)の公園で、この風景を眺めながら昼食をとる。
写真中央の山は雲仙岳。229年前のこの季節、この海を津波が押し寄せてきた。


帰宅は14時半、今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)37km→寛政の津波供養碑35km→熊本(自宅)
所要時間5.5時間(実4.5時間) 総計72km 走行累計40,252km

自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。

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