投資家の目線

投資家の目線538(第二次大戦の記憶)

 父と出雲市の海軍の出西飛行場跡地に行ってきた。もとの滑走路は1500M×60Mぐらいあったようだが、現在そこまでは残っていない。跡地には記念碑があり、かつて「銀河」攻撃機が配備されており、特攻機「桜花」もあったと記されていた。
 以下、終戦時に現在の小学校低学年だった父の語ったこと(伝聞情報も多い)について書いていく。

・出西飛行場
 同飛行場は斐伊川の河川跡地に作られたもので、堤防部分には防空壕が作られ、馬の飼葉が積み上げられていたという。飛行場に機銃綜ヒがあったときは軍馬が三頭死んだようだ。
 戦後、出西には進駐軍が駐留し黒人兵もいたという。田舎なので初めて黒人を見た人も多かっただろう。

・小学校(国民学校)
 敗戦前、通っていた学校の高等科の児童は宍道湖の荒れ地を開墾させられていたそうだ。また、校庭にはサツマイモや麦が植えられていたという。都会では攻撃されてしまうため、軍の指示で地元の親方衆の蔵に食料を分散して保管するようにした。その荷物は木炭トラックで運ばれてきた。都会から疎開の子も来たが、言葉が違って珍しかった。また、当時の先生はかなり権限が強かったようだ。
 戦後直後には、防毒面(ガスマスク)が埋められたが進駐軍には発見されなかったようだ。学校にあった忠霊塔も戦後壊したという。敗戦前の教科書は軍隊の話が載っていたが、敗戦後にはその部分が切り取られ、1/3ぐらいの厚さになった。

・生活
 実家は農家だったが、戦時中にはイモや大根を混ぜて量を増やしたご飯を食べていたという。
 祖父は台湾に出征していたが、船が足りないためか敗戦後2~3年後に帰ってきた。
 戦後の改革のうち、農地解放はよかったという。小作は小作料を気にして地主のご機嫌を取る必要がなくなった。農地解放後、耕作しない元地主はお宝を売って食いつないだ。

・その他(噂話等)
 大きな空襲はなかったが、敗戦間際、斐伊川で水遊びをしていた子供たちに機銃掃射があったり、松江上空を飛行機が旋回飛行したり(航空写真撮影のためと推測される)という噂があり、敗戦の兆しはあったという。しかし、ポツダム宣言受諾後もまだ戦う気力はあったようだ。
 米英人は日本人に牛につける鼻輪のようなものをつけるとか、進駐軍におもちゃの鉄砲を向けたら射殺されたとか、結婚の行列を進駐軍の要望で見せてあげたらお金をくれたという噂があった。
 また昭和22、23年ごろに進駐軍の監視団が来たとき、ジープが階段を上るのを見てその駆動力に驚いたという。

(戦後、天皇の行幸を迎えるため、母の学校で「動員」があったという。)

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 以上より、戦時下では農家でさえ米が不足していたことがわかる。また、「メルトダウン 金融溶解」(トーマス・ウッズ著、副島隆彦監訳・解説、古村治彦訳、ロン・ポール序文、成甲書房)にも書かれているが、働き盛りの労働者が兵士にとられ、学生などの技術を持たない労働力に頼ったために生産活動は停滞しただろう。戦争は経済活動にマイナスだ。

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