あらお しゅんすけ 3.11の記録

原子力災害に巻き込まれた一市民の<その後>を発信していきます

福島たより No 133 新潟避難記録⑦

2015-01-31 08:03:42 | 日記
                     
                     新潟の典型的な豪農


   ⑦いざさらば・・豪農めぐり

新潟での避難生活の無聊を慰めてくれるものがいくつかある。
そのひとつは、豪農の館めぐりである。

米どころの新潟では戦前まで多くの豪農・大地主がいて、地主文化が栄えていたということだが、
現在もその面影に触れる事ができる。

新潟県内の地主の数は大正末期には、所有地1000町歩以上が5家、
500~1000町歩未満は12家で大地主の多さでは日本一だったという。
第2次世界大戦後、これらの地主は解放されたわけだが、
その建造物などの遺産があまりにも見事なため館のいくつかは
文化財として残されているのである。

私たちはこれらの豪農をめぐりはじめたのだが、いずれの館も豪勢で、
建物の外観も内部もまた庭園もまことにすばらしく、
さらに珍しい調度品や収集品などを有した家も多く、
そこにはまさに往時に栄えた地主文化を髣髴とさせる世界がある。
短い文章ではそれらはとても表現できないのだが、その中の数軒について記してみたい。
                     
阿賀川近くにある伊藤文吉邸は財団法人・北方文化博物館として維持管理されている。
地主規模は明治30年代には1000町歩と県下最大規模だったそうだ。
邸宅は明治22年完成という重厚なもので1200坪という邸内を移動するごとに
その見事さに圧倒されると同時に、大広間などから眺める庭の見事さにも思わず感嘆の声を上げた。
                     
                     豪農の屋敷のすごさは
                     庭にも表れている

新津市の丘陵地にある中野家は庄屋職を務め、大正13年には耕地556町歩、
林野848町歩で、小作人は1565人を抱えていたという。
中野家はそればかりか新潟の石油王ともいわれていて石油採掘に成功して多角的な経営を展開していた。
現在その邸宅と庭園は中野邸美術館として公開され、また一帯は石油の博物館を含む石油の里公園として
整備されていた。

白根市のとなりにある味方村が管理している笹川家は、武田源氏の末裔といわれ、
江戸時代は治安警察裁判権まで有する大庄屋を務めた。
ちょっとした堀がめぐらされた屋敷は敷地面積3000坪。
風格のある茅葺の表門から入ると広い前庭があってその奥に堂々とした屋敷などが建っている。
「いざさらば 草木の姿 虫小鳥」・・・・流水
この句を詠んだ俳人・流水は、笹川家の14代当主只一氏である。
実はこの人がこの屋敷の最後の住人で、昭和45年10月7日住み慣れた邸をあとに横浜に移住したという。
その折に詠んだ句のようだが、笹川家を代々生きた人たちの万感の思いが表現されているように思う。
私は同時に今回の原発事故でふるさとを追われた16万人の人たちや自分自身の事に想いを馳せ、
身につまされる思いであった。
                  
                  蒲原平野は、考えてみれば
                  豪農たちの夢の世界
                  その陰に苦難の生活を
                  送った小作農民がいた


福島たより No132 新潟避難の記録⑥

2015-01-26 20:15:31 | 日記
                   
                   温泉が多い弥彦山

    ⑥ 温泉

我々の新潟での避難生活を慰め癒してくれるもうひとつのものは温泉である。
アパートの二階の部屋から出て、小さな町を車で通り抜け広々とした野を15分も行くと弥彦山の麓だ。
その弥彦山の周辺にはいくつもの温泉がある。

その代表は岩室温泉であろう。開湯300年と謳っている岩室温泉は、
中心部を古い歴史の道「北国街道」が走っていて、旅館・ホテルが12~13軒あり
ちょっとした温泉街を形成している。ここは古来弥彦神社参拝の宿場でもある。
                  
                  弥彦神社

現在は新潟市のエリアにあり文字通り新潟市の奥座敷である。
私どもには余り縁はないが、芸妓さえも多数抱えているという。
私たちは、もっぱら日帰り温泉を巡り歩いていたのだが、
ホテルでのランチつき日帰りプランを見つけたので入ってみた。
なるほどそこは奥座敷を髣髴させるような洒落た感じのロビー、レストラン、浴場があった。

放射能汚染の問題も手伝って苦戦している我が二本松の岳温泉からすると、
この奥座敷はかなり善戦しているという感じである。
 日帰り温泉についていえば、料金も300円から1000円程度で、この方もフアンは大分多く、
特に冬場の土日曜日の夕方は、浴室は芋を洗うようなにぎわいである。
大抵の温泉では結構な食堂や風呂上りにゆったり休める部屋もあって、
想像するに米どころ新潟の農閑期の楽しみの定番なのであろう。

 そういう日帰り温泉である日、女湯からあがってくる連れ合いを待っていたときのことである。
いつもの長湯には慣れているのだが、それにしても遅い。湯殿で倒れているのではないか
とも思って気をもみだしたころ、同年輩と思われる女性とニコニコ話しながら上がってきた。
彼女がいわきから避難してきたということで、つい話しこんでしまったという。

それ以来、彼女とは夫婦ぐるみで交流する間柄になった。
彼女たちはいわきでも自然豊かな農村部の旧家に住んでいたようだが、
原発事故により大転換し、新潟のマンション生活をするようになった由。
しかし、我々と似て、新潟には好感を持って避難生活を前向きに楽しんでいるような感じである。

確か2013年に入って、避難住宅を利用させてもらっていた福島から来た若者が、
そこを風俗営業の拠点に使っていた、というニュースがあった。とんでもない事だが、
誤解を恐れずに言えば、気分としては避難者もそのくらい逞しく生き残っていく強かさが必要かもしれない。
         
         新潟県内で見かけた御殿まり


福島たより No131 新潟避難の記録⑤

2015-01-21 20:10:56 | 日記
             
              弥彦山から眺める蒲原平野
              燕三条は画面右手に位置する
        

   ⑤ 雨降り鍛冶・

「カトラリー」は、つい最近知った言葉だ。
新潟県燕市に深く関係した言葉だったのだが、私は1年近くそこに行き来していたのに、
不覚にも知らなかった。

カトラリーは、洋食器のうちナイフ、フォーク、スプーンなどの金属器をいうのだそうだ。
そのカトラリーや刃物などが燕市で作られていることは、ずいぶん前から認識していた。
最近は例のIPS細胞の中山伸弥教授が出席したノーベル賞授賞式の晩餐会で使われたカト
ラリーの映像もテレビで見ていたのだが、カトラリーという言葉は知らなかった。

それにしてもテレビを見ていたとき、その美しいカトラリーが燕三条で作られたという
アナウンスを聞いて改めて燕を見直すとともに益々親近感を抱いた。

 燕市に出入りしていて、燕三条地場産産業文化祭とかいう展示販売を兼ねた催しが行われるのを知って、
会場を覗いた事がある。実用的なカトラリーも沢山あったが、一角には刃物の作製行程が
台の上に展示されたコーナーがあった。
私と同年輩と思われる人が傍についていたので、刃物つくりに抱いていた疑問などを問いかけた。
なるほど、と思うような答えが次々に返ってきた。
話はその人が燕に住んでいて若いころ福島などへ金物や刃物を売り歩いていたこと、
そして今回の原発禍にも心をいためている事も知った。


                       
                    降雪が多く市内の植木も
                    しっかりと雪囲いがされる        
新潟と福島はさほど頻繁な交流はないと考えているが、こういう行商人の行き来や、
むかし新潟から福島に移住した人たちがあったということはうすうす承知している。
話が弾んだところで、燕は何故金属器つくりが盛んなのか、訊ねてみた。

そもそも新潟・越の国(弥彦山あたりもそうらしいのだが)では銅や鉄が産出して
都で使う和釘を作っていたとか。
そして、江戸時代には農家の副業として鍛冶が盛んだった。
農具だけでなく銅をたたいて銅器も作った。
「雨降り鍛冶」と言って、晴れた日は農、雨の日は鍛冶をして稼ぐ人が多かったという。

そうして出来た金属器を富山の薬売りのように近県に売り歩いていたのであろう。
越後人は昔から勤勉なのだ。
明治から大正にかけて手作りのスプーン、また戦後はアメリカなど海外へ製品が送られ、
昨今は70ヶ国にまで輸出されているとか。
ノーベル賞晩餐会もこの延長線上にあるということだろう。

弥彦山などを眺めながら広大な米どころ新潟平野を走り抜けるような旅では、
そこから世界のハイレベルの人たちを魅了するようなカラトリーが生産されているのを
想像できないのは私ばかりではなかろう。

                   
                   新潟平野から東の山を望む
                   越後人はこの山々を越えて
                   福島で金属器を売り歩いた    

福島たより No130 新潟避難の記録④

2015-01-16 13:22:34 | 日記
        
     秋の蒲原平野と弥彦山               

 ④ 弥彦山

ムサシ・・634、メートル。
弥彦山は東京スカイツリーと同じ高さだそうだ。
しかし、海抜0m近い新潟平野に立つこの山は平野から見ても、山の上から眺めても
しっかりと高くとても存在感のある魅力的な山だ。
弥彦山は連山で南から、良寛さんの庵がある国上山(くがみやま)、
弥彦山、多宝山、角田山などが南北約20kmにわたって連なっている。
山の西には佐渡島の浮かぶ日本海が広がっている。
東には広大な水田が季節季節の色の絨毯を広げたように展開している。
    
    夕暮れの弥彦山

よく知られている弥彦神社は弥彦山自体をご神体とする古社で創建は飛鳥時代とか。
「いやひこ神さび青雲のたなびく日すら小雨そぼ降る」と万葉集にも詠われている。
 弥彦山がほどよく望めるアパートに通いだしてみると、私は山野に惚れっぽいのかもしれないが、
この山が“第3のふるさとの山です”と言いたいほど恋してしまった。

福島から磐越高速道でトンネルの多い奥羽山地を走りぬけ新潟平野に開放されると
間もなく弥彦山は新潟での私たちの身の置き所を案内してくれるように優しく迎えてくれる。
いくつかのルートでアパートに向かうのだが、季節や時刻や天候で実に多彩な表情を見せて
私たちを案内してくれる。
あるときは広大な緑の田んぼの絨毯の上に乗って、あるときは黄金の絨毯の上で、
またあるときは山の端に落ち行く夕日で逆光になり影絵のようになって・・・・。
夜は弥彦山の裾には民家の明かりが横一線の光を展開するのが見られる。
満月の夜、月明かりにその存在を感じさせる弥彦山も魅力的である。
    
    ハサギのある風景も今では
    かなり少なくなったようだ

ハサギ(稲架木)は新潟平野の伝統的な米つくりでは刈り取った稲を乾かすのに欠かせない
サトトネリコなどの木を並木状に植えたものだが、今ではほんの一部が保存されるに留まっている。
このハサギ並木は新潟平野の田んぼの風物詩として心に沁みるような美しさをかもし出しているが、
この風景に弥彦山が参加したとき一層の美しさが演出されることを知っているのは私ばかりではないであろう。
弥彦山は眺めて楽しめるだけでなくむしろ登って楽しむべきかも知れない。

福島の暑さを体験している私も、新潟の夏の暑さには参ったのだが、そんなときは弥彦山の懐に入って
木陰を散策したり、峰に登って風に吹かれながら日本海や佐渡を眺めれば暑さも忘れるものである。
さらにもうひとつ弥彦山の恵とも言えそうなものがある。温泉である。山麓には岩室温泉はじめ、
いくつかの日帰り温泉がふるさとを離れた我々を慰めてくれるのである。
    
    弥彦山から見る蒲原平野と
    日本海


福島たより No129 新潟避難の記録③

2015-01-12 09:07:22 | 日記
 
トキメッセからの展望
西には日本海が広がる
佐渡の島影も・・

 360度の展望・・・・新潟にて

初めての土地を訪れたとき、私がよくとる行動パターンがある。
高いところに登って、その世界の全体像を展望する事である。

新潟市では、そのおあつらえのところがトキメッセである。
トキメッセは31階建てのビルで、信濃川が日本海に注ぐ河口、佐渡航路の発着所と並んだところにある。
なかなか洒落た建物で、国際会議場や催し物会場、ホテル、レストラン、美術館
などの機能がつまったコンベンション施設である。

エスプラナードという聞きなれない部分もある。
全天候型公共歩廊という日本語なら想像がつくと思うが、
信濃川沿いのいわゆるウオーターフロントを満喫できる素敵な空間だ。

しかし、私に言わせればこのビルの一番の魅力は、やはり31階、地上125mという高さの展望室である。
この展望室は日本海側で随一の高さだというが、入場無料なのがまたうれしい。
展望室は見晴らしの良い軽食レストランやお土産品コーナーもあるのだが、
かなりの広さの自由空間があってゆったりと360度の展望を楽しめる。

西を見ると佐渡島が浮かぶ大日本海、足元に目を移すとその海に流れ込む信濃川が
万代橋などのいくつかの橋の姿を見せている。
一方東側の手前には箱庭のように新潟市街地がひろがり、その先に目を延ばしていくと
広大な新潟平野、そして遠く五頭山脈などの山々が霞むというような雄大な景観を望む事ができる。

展望室から一望できる新潟平野は、そのむかし信濃川や阿賀野川が荒れた低湿地だったというが、
福島潟、など多くの湖沼はその名残なのであろう。
いずれにせよ、この低湿地が現在のような見事な水田になるまでには
新潟の人たちの途方もない努力が重ねられてきたに違いない。

ところで展望室の西側直下近く、信濃川と日本海に挟まれた古くから続いている市街地の一角に小澤家がある。
小沢家は江戸時代からの米穀商でその後、回船問屋などを営んだという。
現在新潟市の文化財として公開されていて見学できた。
その折、ボランティアガイドさんに丁寧な説明をしてもらった。
その話の中で興味深く思ったことがある。

新潟市というのは、お城がない、直接の権力者がいない商業港で、
堺や酒田のような自由都市の雰囲気が強かったとか。
私の住む小さな地方の城下町も、また聞くところによると京都も
保守性や排他性が強い傾向があるようだが、新潟はその点昔から開放的で自由闊達な雰囲気が強かったらしい。

そう言われてみれば何となくそんな印象があったが、
放射能からの避難地としてお世話になるうちにもそれはさらに明らかになるかもしれない。


眼下には信濃川の
雄大な眺めが
遠くには弥彦山