新潟の典型的な豪農
⑦いざさらば・・豪農めぐり
新潟での避難生活の無聊を慰めてくれるものがいくつかある。
そのひとつは、豪農の館めぐりである。
米どころの新潟では戦前まで多くの豪農・大地主がいて、地主文化が栄えていたということだが、
現在もその面影に触れる事ができる。
新潟県内の地主の数は大正末期には、所有地1000町歩以上が5家、
500~1000町歩未満は12家で大地主の多さでは日本一だったという。
第2次世界大戦後、これらの地主は解放されたわけだが、
その建造物などの遺産があまりにも見事なため館のいくつかは
文化財として残されているのである。
私たちはこれらの豪農をめぐりはじめたのだが、いずれの館も豪勢で、
建物の外観も内部もまた庭園もまことにすばらしく、
さらに珍しい調度品や収集品などを有した家も多く、
そこにはまさに往時に栄えた地主文化を髣髴とさせる世界がある。
短い文章ではそれらはとても表現できないのだが、その中の数軒について記してみたい。
阿賀川近くにある伊藤文吉邸は財団法人・北方文化博物館として維持管理されている。
地主規模は明治30年代には1000町歩と県下最大規模だったそうだ。
邸宅は明治22年完成という重厚なもので1200坪という邸内を移動するごとに
その見事さに圧倒されると同時に、大広間などから眺める庭の見事さにも思わず感嘆の声を上げた。
豪農の屋敷のすごさは
庭にも表れている
新津市の丘陵地にある中野家は庄屋職を務め、大正13年には耕地556町歩、
林野848町歩で、小作人は1565人を抱えていたという。
中野家はそればかりか新潟の石油王ともいわれていて石油採掘に成功して多角的な経営を展開していた。
現在その邸宅と庭園は中野邸美術館として公開され、また一帯は石油の博物館を含む石油の里公園として
整備されていた。
白根市のとなりにある味方村が管理している笹川家は、武田源氏の末裔といわれ、
江戸時代は治安警察裁判権まで有する大庄屋を務めた。
ちょっとした堀がめぐらされた屋敷は敷地面積3000坪。
風格のある茅葺の表門から入ると広い前庭があってその奥に堂々とした屋敷などが建っている。
「いざさらば 草木の姿 虫小鳥」・・・・流水
この句を詠んだ俳人・流水は、笹川家の14代当主只一氏である。
実はこの人がこの屋敷の最後の住人で、昭和45年10月7日住み慣れた邸をあとに横浜に移住したという。
その折に詠んだ句のようだが、笹川家を代々生きた人たちの万感の思いが表現されているように思う。
私は同時に今回の原発事故でふるさとを追われた16万人の人たちや自分自身の事に想いを馳せ、
身につまされる思いであった。
蒲原平野は、考えてみれば
豪農たちの夢の世界
その陰に苦難の生活を
送った小作農民がいた