あらお しゅんすけ 3.11の記録

原子力災害に巻き込まれた一市民の<その後>を発信していきます

札幌たより No56 アイヌモシリにて ⑧ 手作りの民具

2014-01-26 18:01:48 | 日記
                        

 ⑧ 手づくりの民具
「手作りの民具たちが、時を越えてあなたに語りかけてきます」
町立博物館のカタログの言葉を繰り返すが、全くその通りだった。
館内で私はアイヌ世界に迷い込んでしまったような時を過ごした。

以前にも私は、アイヌ民族の生活を伝える展示物や本などに多少は触れてはいたのだが、
この町立博物館では、展示内容が豊富だったし、静内やアイヌ民宿での女将さんとの
交流経過も重なったせいかより深く引き込まれた。

世界の諸民族は日本人を含めて、近世まではそれぞれの先人の知恵を
積み重ねた“手作り”の暮らしをしていたわけだが、
冬の厳しい北海道で生き抜いてきたアイヌの人たちの暮らしぶりにも私は改めて感じ入った。

幕末から明治にかけて、北海道に渡り住んだ和人が生き延びるのに
必死の苦労をしたことも伝わっているが、現代日本に生まれ育った私が
今150年前の北海道にタイムスリップして暮らせと言われたら正直に言って生き残る自信がない。

展示からは、アイヌの人たちが単に動物のように生きたのではなく、
万物に心やさしく謙虚に実に人間的に豊かに生きたことを知ることができた。

豊かさ、心のゆとりのようなものの表れの一つとして、アイヌ文様がある。
衣服や木製品に施される渦巻文や括弧文に代表されるものである。
それは、美的に鑑賞して見事な美しさを感じるばかりではない。
これらの文様は、先祖代々母系により母から娘に伝えられるのだという。
衣服の袖口や裾回りに施すのは悪い霊がそこから入り込まないように、
ひと針ひと針縫いこんでいく。
素材つくりから文様まで祈りをこめて作られているわけだ。

年頃の娘は、思う人に求愛の印に文様を施した手甲や脚絆、そしてやがて着物を贈る。
一方、若者は文様を自ら彫刻したメノコマキリ(お守り用小刀)を娘に贈るのだという。

展示物の中には克明なアイヌ文様を刻した男物だと思われるマキリがいくつかあった。
中には手垢がついて使い込まれたことがはっきりわかるようなものもあった。
このマキリを作った人はどんな人生を送ったのだろう。

館を出ると穏やかな山が取り巻き、今はダムによって堰き止められた沙流川が目の前に広がっていた。
案内書を読むまでもなく、この風景こそ二風谷のアイヌ文化を育んできた自然景観であり
歴史的景観なのだと思いながら私はゆったりとその中に身を置いた。
同時に私は、幼時から育った岩手の花巻のふるさとの山川を思った。
また、人生の中でさらに長い時間接してきた安達太良山や阿武隈の山並や阿武隈川の里に思いが行ったが、
そこが放射能でまんべんなく汚されてしまっている現実が胸に迫ってきた。
                           

札幌たより No55 アイヌモシリにて ⑦ 町立博物館

2014-01-20 20:43:16 | 日記


⑦ 町立博物館 
 
「手作りの民具たちが、時を越えてあなたに語りかけてきます」
「・・・大自然と共生し、人間としての誇りを尊ぶ、その知恵と精神を学ぶための博物館です。」
これは平取町立二風谷アイヌ文化博物館のカタログに書かれたメッセージである。

 アイヌ民宿での一夜を過ごした後、萱野茂博物館の近くにあるこの町立博物館を訪ねた。
二風谷ダム湖畔にあるこの館は外観も中の展示もそのメッセージ通り、
なかなか素晴らしいものだった。
萱野茂が設立過程で大きな協力をし、また展示資料1121点中、
202点は彼の資料館所蔵のものだということも知った。

 アイヌ人の誕生から死まで関わる生活用品やその精神文化についても学ぶことができた。
「シンタ」は赤ん坊のゆりかご。札幌で3人の孫との時間を過ごし始めていたせいか、私の目を引いた。
それは、木で作った平べったい籠状のソリのようなもので4本の縄で天井などからぶら下げる。
いわば空中ブランコ方式である。
若いお母さんに見守られながらシンタで夢を見ながらゆーらりゆーらり揺れている
アイヌの赤ちゃんが目に見えるようだ。
こういう年代から、アイヌの子どもたちは、川や森が近くまで迫るチセの囲炉裏端で
心地良い子守唄でも聞くようにジジババの含蓄に富んだウエケペレ・昔話や
ユーカラを聞きながら育ったのだろう。
都会の空に浮かぶ密室で武器などが出てくるテレビ番組を見たり、
スマホ子守で育つ現代日本の子どもたちとどちらが幸せなのだろう。

ところで、イヨマンテが熊の霊送りの壮麗な儀礼であることはよく知られているが、
アイヌ人の葬送儀礼についても葬具や写真などから精神性の高いものであることを偲ぶことができた。

大正の頃の話なのだろうか。数人のアイヌの老人たちが集まった時、次のような話が出たという。
「先に逝った方が幸せだな・・・」。
その理由は、同族の者が少なくなるなかで、先に死ぬ者の方が
アイヌの伝統的は葬送儀礼で引導をわたしてもらい、
親しく交わってきた仲間に見送られながら送ってもらえるからである。

2013年の6月頃、次のような報道があった。
「文部科学省の調査によると全国の大学が1635体のアイヌ民族の遺骨を保管しているが、
その収集、保管が必ずしも適切なものではなかった」。
もちろん学術調査のための遺骨収集、保管ではあったのだろうが、
どこかに異民族の遺骨だから、などという差別的な意識や傲慢さがあったのだろうか。

昭和61年、時の中曽根康弘総理大臣の「日本は単一民族国家」
「日本国籍を持つ方々で、差別を受けている少数民族はいない」という認識が、
残念ながら今日も教育・研究界にさえ流れ続けているということであろう。


札幌たより No54 アイヌモシリにて ⑥ユーカラ 

2014-01-14 21:01:40 | 日記
                        
⑥ ユーカラ

夕食後、宿からほんの少しのところにある大型のチセ(家)に出かけた。
山菜取りから宿に戻った時、
「丁度今晩、アイヌの語り部の会があるから行ってみませんか」
と女将さんに誘われていたのだ。

既に30人ほどの人たちが、囲炉裏を前にして座り、一方にはイスに掛けた
いかにもアイヌの古老を感じさせる風格のある3人の男女が
にこやかに話をしていた。

後で聞いたのだが、この人たちは萱野茂さんの息子さんや萱野さんなどと
交流のあったという80代の人たちで、毎週土曜日にこういう会を
続けているのだそうだ。

二人目の話し手になったおばあさんがユーカラを詠った。
初めて肉声で聞くアイヌ語、ユーカラは感動的でさえあった。
軽く膝を叩いて調子を取りながら、語るような歌うようなユーカラは
同じようなフレーズが繰り返されているようだ。
それは穏やかな鳥のさえずりのようでもあり心地良く感じられた。
口承文芸というのはこうして歌うように伝え、伝承されていくのだな、
と素直に思えた。

アイヌ民族は文字を持たず話し言葉だけだった。
しかし、ウエペケレ・散文の昔話はじめ、ユーカラ・英雄叙事詩や
カムイユーカラ・神謡は世界に誇れる伝承文学と高く評価もされている。
カムイユーカラは自然、つまり神と人間の関係が表されているという。
きっとそれを聞きながらアイヌの子どもたちは、人間はこの世界では
一番偉い存在なのではなく、自然の一部であり万物に生かされているのだ
ということを代々学んで育ったに違いない。

ある本では、アイヌの人が次のように問いかけている。
“神に祈る、万物に感謝する人がいなくなったら、神の存在は遠く、
或いはいなくなり自然が消える。
そういう大地、世界では果たして人は生きられるのか”
これに私は「沈黙の春」を連想した。

近現代人は小賢しい科学を振りかざして、西欧の思想の根底にある
“自然をねじ伏せて生きる”というような考え方や民主主義や資本主義経済を
至上のものとして歴史を進めてきたきらいがある。
原発システムなどは、それが行き着いた先にあるものだろうが、
果たしてそれは人間を幸福にしてくれるものだろうか。
また人間の継続的な営みを約束してくれるものだろうか。

一見遅れた民族などと見られがちなアイヌ民族は、人間が大自然の中で、
ありとあらゆるもの――他民族を含めて――と共生して生きていくことが大事だ
という考え方が底流に流れていて、それを実践し語り伝えてきたのではないかと思う。

 フィンランドでは「異なる民族間では、違いを認め、同化から文化を保護し、
そのうえで格差を是正する」という考え方を大切にしているという。
ユーカラやアイヌの伝統文化が伝えるアイヌ民族の知恵は、
我々に多くのことを教えてくれる。
                   

札幌たより No53 アイヌモシリにて ⑤アイヌ民宿で

2014-01-08 08:39:03 | 日記
                         

⑤ アイヌ民宿で

この日の泊りは、ダム湖近くのアイヌの人が経営する民宿を予約していた。
そこでアイヌ民族の伝統的な食事などを体験できるという情報があったからだ。
部屋で一息つくと、アイヌ民族だという女将さんが、山菜取りに誘ってくれた。
言ってみればアイヌ世界のワークショップの始まりである。

10分ほど車を走らせると、田んぼと山の間に延々と金網が張ってある場所に着いた。
金網は、むやみに人が山に入りこんで山菜を採らないように張ってあるのだな、と思ったら違った。
鹿が水田の方に出てこないように張ってあるのだ、という。
そう言いながら女将さんは柵の中に我々を誘うと「これがニリンソウ・・」
「コゴミはこうして採るんですよ・・・」などと何種類かの山菜を採りはじめた。
その時、山の上の方に登っていく鹿の姿が見えた。鹿は「さよなら」と挨拶するように
2,3度立ち止まってこちらを振り向いたが、間もなく山の陰に姿を消した。

「私たちは山菜を採るとき決して根こそぎ採るということはしないんです」とか、
どんな食べ方をするのかとか、時々女将さんの話は続いた。
そういえば、オオウバユリの根を採るとき、その根の一部を埋めもどす。
根こそぎ取り尽くすことをしないのがアイヌの知恵だという記憶がある。
夕食には採ってきたばかりの山菜も食卓を飾った。
アイヌ伝統食の色濃い食事のようで、もちろん女将さんの解説付きである。

食後、女将さんの作ったアイヌの伝統着・アツシなどの作品を見せてもらった。
手にとって子細にみたり、着てみたりしたが手間ひまをかけて作った伝統の確かさが迫ってきた。
昨日訪れた静内の資料館でも、野外の植物園を含めて、アイヌ民族の伝統的な知恵、
生活文化が奥深いものだったことを学ぶことができた。

昔はどの民族もそうだっただろうが、衣食住の材料はどれもそれぞれの地域地域で取れる
自然素材を活用していたに違いない。
アイヌの場合も野山の植物や動物をその特性をよくとらえて上手に利用していたことを改めて思った。

それにつけても、つくづく感じたのはアイヌの人たちが如何に自然を知り尽くしていたか、
しかも彼らが自然のすべてのものに神を見ているような謙虚さを持って、
それらに接し暮らしていたかということである。
科学も発展した現代に生きる我々には、何にも役に立たないように思える雑草のようなもの一つ一つも、
食用や薬や衣類や住居の素材として活かす知恵が、アイヌ民族には連綿と伝わっていたのだ。
何代にもわたって積み上げ伝えられてきた知恵が、今このアイヌモシリでどれだけ継承されているのだろうか。
                       


札幌たより No52 アイヌモシリにて ④ 萱野茂博物館

2014-01-02 14:40:07 | 日記
                       

④ 萱野茂博物館

静内から、いよいよ二風谷に向かった。
二風谷については、私が想像していたイメージがあったが、カーナビを見ながらダムが近づいたころ
私は「あれー!?」と思った。
“谷”という名称や、むかし賛否両論がある中でダムがつくられたという記憶の断片が残っていて、
私は二風谷の地形は山が迫った峡谷というようなイメージを勝手に持っていた。
しかし来てみると極めて広やかな土地だった。

ちなみに、あとから二風谷の語源を調べてみた。
「アイヌ語の“ニブタニ”からきているがその意味は“柄にする木を伐るところ”
という説があるが定かでない」との記述があった。やはり“谷“ とは関係ないらしい。

私が二風谷に行く気になったのは、以前からそこがアイヌの代表的なふるさとというイメージがあって
一度は訪ねたいと思っていたことと、萱野茂氏のことがあったからだ。
萱野はアイヌ民族で参議院議員を務めアイヌ民族の復権、アイヌ文化の振興に力を尽くした人
と聞いていた。
私もその人のホームグランドに立ってみたいと思っていたのだ。

萱野茂二風谷アイヌ博物館は、思っていた以上に私の興味を引き付けた。
彼の足跡を記録した映像も見ることができた。若いころからアイヌの民具や民話を収集記録し、
アイヌ語のラジオ講座を手掛けたり、アイヌ語辞典も出版した。
国会議員の立場からはアイヌ文化振興法の成立に力を尽くしたという。
豊富な展示物がそれらを裏付けていた。

明治政府はアイヌ民族の同化政策をすすめた。明治11年にはアイヌの人たちの呼称を「旧土人」
と統一し、アイヌ語を使うことも禁じた。
萱野は1926年の生まれだから、明治のこの激動期は彼の還暦が過ぎたころに重なる。
彼は若い時から「言葉こそ民族の証」という認識を持ち「言葉には足がある。
一人に教えればあちこちに広がっていく」と言って、消えかかったアイヌ語を復活させることにも
力を注いだ。
幕末から明治にかけて、松浦武四郎やイザベラバードなど内外の旅行家探検家が北海道を歩いて、
記録を残している。
当然のことながらアイヌのひとたちとの交流もあって、彼らの人柄などについても伝えている。
その多くは「アイヌ民族は温厚で人情に厚く礼儀正しい」ととらえている。
イサベラは二風谷(平取り)ではアイヌの長老の家で3泊している。
松浦は彼を泊めてくれたアイヌの人たちが「その後親類の者のように親しく接してくれた」
との記録を残している。
「土人」という言葉には蔑視の匂いがあるが、和人の子孫の一人として何となく
居心地の悪い思いがするのは私ばかりだろうか。