あらお しゅんすけ 3.11の記録

原子力災害に巻き込まれた一市民の<その後>を発信していきます

札幌たより No51 アイヌモシリにて ③シャクシャインの丘

2013-12-27 15:36:30 | 日記

③ シャクシャインの丘
                                        
静内のビジネスホテルで朝を迎えたあと、静内川河口近くにあるシャクシャインの丘に立ち寄った。
シャクシャインは江戸時代初期、松前藩から自分たちの権益を守るために
(正当に!)戦ったアイヌの英雄である。
                                   
“丘”はその砦があったところだという。
行ってみると一帯は現在、史跡公園になっていて一角にはシャクシャインの
大きい立派な像が立っていた。
丘の西北端に立つ展望台からは眼下に静内川や静内の町が見下ろせ、
右手寄りには太平洋が茫々と広がっていた。

公園内には記念館とともにアイヌ民族資料館があった。
規模はそれほど大きくないが展示は充実していた。
その中でイタオマチップ(板綴船)が私の注意を引いた。
アイヌの船といえば丸木船という印象が強かったのだが、その船は板を組み合わせた大型の船で
外洋に乗り出して漁や交易に使っていたのである。
資料館には漁労具や生活用具も展示されていたが、アイヌにとって魚は重要な食べ物だったという。
ちなみに鮭はカムイチェプ、つまり神の魚と呼ばれていたが、それと同時にシェペシペ、
本当の食べ物=主食とも呼ばれていて、アイヌの食の多くが鮭に支えられていたという。
それを裏付けるように鮭漁の道具や鮭の食べ方(料理)が驚くほど多彩だということも知った。

さらにアイヌの人たちは、鮭が上る川筋などに小さな集落・コタンをつくって生活したが、
河口に住んでいるからといってそこでむやみに鮭を捕ることなく、
上流のアイヌまた熊やシマフクロウともこの大自然の恵みを分け合うようにしていたということだ。

鮭はアイヌ民族にとって、このように命をつなぐ重要なものだったのだが、明治政府は明治6年から
次々に道内での鮭のアイヌ伝統漁法を禁止した。
さらにこのあと鹿の伝統猟法も禁止したことによりアイヌ民族は食の多くを絶たれたという歴史がある。

 アイヌの食に関連してこの資料館で興味ひかれるものがあった。
庭にアイヌ野草園があって、アイヌの人たちが伝統的に食べたり、生活に活用していた多くの植物が
植えられていてそれぞれ解説がつけられていた。
男たちが冬場を中心にして漁労や狩猟をして食を確保したのに対して、
女たちは春先から秋まで山野で山菜をとった。
オオウバユリからデンプンをとり円盤状に乾燥して保存食をつくったことはよく知られている。
行者ニンニク、フキ、ミツバ、草ソテツ、ニリンソウ、ハンゴンソウ、モミジガサ等々
その一部を知るだけで、アイヌにとって山野は彼らの豊かな野菜畑だったことを認識できた。
現代の我々からすると、それらが無農薬・有機栽培だったことも特筆されて良いように思う。
                                    


札幌たより No50 アイヌモシリにて ②静内へ

2013-12-21 11:33:55 | 日記
                                                                 
② 静内へ

新緑の広大な大地を、札幌から高速道路で1時間ほど走って苫小牧に南下した。
さらに前方左寄りに日高山脈、右手に太平洋を意識しながら海岸線を40㎞ほど走ると
沙流川の河口に至った。
沙流川の上流に二風谷はあるのだが、我々はその河口を通り越してさらに東に40㎞程の
静内(新ひだか市)まで車を走らせた。
丁度桜の時期だったので、新冠の二百間道路の桜並木を愛でるつもりだったからだ。
 
しかし、二百間道路の桜は、残念ながら例年より10日も遅れていて3分咲き程度だった。
それでも延々8kmにも及ぶ桜並木は見事なもので、幅広い並木道の両側に展開する馬の牧場の
緑とともにとても印象的だった。
日高山脈の懐に、こんな広やかな土地のあることに私は驚くと同時に、明治そして大正の先人が
そこに36mもの幅の道路を敷いて開拓を進めたことにも感嘆した。
北海道が豊かな森林や山川の国であることは、今でもそれを十分感じることが出来るが、
開発の手が入る百数十年前の幕末にも思いを馳せた。
本州の人間・和人が出入りする前の大いなる島・アイヌモシリはまさに自然そのものであったであろう。
重要なことは、自然を大切にして暮らしたアイヌの人たちがいた故にこの大きな島の自然は
今につながったと言えるのではないかということだ。

明治の初め、そこに和人がクワをいれ北海道の現在の景観が形つくられてきたわけだが、
そこには先住民であるアイヌの国を強引に奪って開拓とか近代化とかの言葉で開発を続けてきた
歴史の一面があることを忘れてはならないだろう。
                          

私も若いころからの北海道体験で、そういう開拓や近代化の陰でアイヌ民族が
急速に衰亡していったことも概念的には知っていた。
同時に、この冬の厳しい大地で何代も生き抜いてきた彼らの確かな知恵や生活力の
強靭さも感じていた。
さらに、アイヌ文様、木彫などに代表される伝統工芸やユーカラなどに見られる
豊かな伝承文学などにも彼らの並々ならぬ力量や資質に圧倒される思いを持っていた。

今回、短期間ながら北海道に身を置いて、改めてそこの先住民の足跡を訪ねてみると、
私にとっては次々に新たな驚きや発見があった。
私は古希に近い人生の段階で、戦争にも匹敵すると思われる原発事故という未曽有の大事件に遭遇した。
そこで私は被爆地の住民のひとりとして“国に見捨てられる”という理不尽な思いを経験してきた。
そういう立場にあって幕末から1世紀以上にわたって大きな力に翻弄されてきたこのアイヌモシリの
本来の主たちに一層心を寄せる気持ちにさせられたようにも思う。 

                              

札幌たより No49 アイヌモシリにて ①アイヌモシリの旅

2013-12-12 20:10:38 | 日記

     「札幌たより」では、当面11回にわたって、福島原発事故被災者がアイヌの国で見聞きして考えたことを、
      エッセイ風に綴ってお届けする予定です。

                                  

    ①  アイヌモシリの旅
                           
北海道の二風谷(ニブタニ)や静内などを訪れ、アイヌの歴史や文化に触れた。
2013年春の事である。
そのころ私と妻は、福島原発の被災地である二本松市の我が家から、
娘の3人の子育て応援のため、放射能からの避難保養を兼ねて札幌に滞在していた。
ほとんどの週末は、子守は娘夫婦にバトンタッチし我々は福島から乗ってきた軽乗用車で
あちこちを自由に歩くことが多かった。
                                                 
“二本松のトラさん”と旅好きの仲間からいわれるくらい旅や歴史や民俗が好きな私は、
特に退職後はよくあちこち一人旅をした。それは妻が退職してからは二人旅になって続いていた。
緑豊かな福島を拠点にして時々旅に出るというこうした我々の生活も、
原発事故後は大きなダメージを受けた。

しかし、我々は悔しく、しおれてしまいそうな気持ちを切り替え開き直るように努めた。
そういう回り合わせを前向きに捉え、避難や保養で福島から離れたときは極力「旅」を楽しんでやろうと思った。

実は北海道滞在前の1年間、新潟に避難住宅を確保していたのだが、その時もそこをベースキャンプにして
北陸のあちこちを探訪していた。
災害救助法の避難住宅制度の適用状況からしても、さらにもう1年、
我々は新潟で保養を続けるつもりでいたのだが、
娘の強い要請もあって北海道に渡ることにしたのである。

もっとも、娘が事故直後、我々に何回か涙声で札幌に避難してくるように電話をよこしたことからしても、
彼女が我々の健康などを考えての要請だったと思っている。

ところで北海道は私にとって、処女地ではない。
若いころから酪農部門の獣医技術者という立場もあって道内のあちこちを訪れそれなりに親しんでいた。
今回の、北海道滞在で私はもう一度北海道の要所を探訪すると同時に、
中でもアイヌや北海道開拓にまつわる歴史などについて探ってみたいと考えた。
北海道の地名はアイヌ語由来のものが多い事も気づいていたので、
この際にと思ってそのテーマの本も当たってみた。
入手した北道邦彦著「アイヌ語地名で旅する北海道」は、そういう私の旅心を大いに誘った。

アイヌの歴史や文化については、いままで多少の知識を持っていたつもりであったが、
この本を読み、また手始めに訪ねた静内と二風谷で私はまだまだ知らない事、
興味引かれるものが山ほどあることに気がついた。

 私の人生の最終コーナーで短いながらも身を置く機会を得た
自然豊かなアイヌの大いなる島・アイヌモシリについてエッセイ風に綴ってみた。




札幌たより No48 (詩集「安達太良のあおい空」より 3)

2013-12-08 19:42:06 | 日記


  哀しい生き物:ひと
冷たい事はチエルノブイリもスリーマイルも
ひとごととしか聞いていなかったこと
哀しい事は権力や金力にとりこまれやすいこと
おぞましい事は「科学的に認められていない」と無視すること
心得るべき事は放射能は見えず感じないこと
忘れてならない事は人は忘れやすいこと
温かい事は一緒に涙を流してくれる人がいること


   あなたなら
あなたならどうしますか
あなたのふるさとに
突然プルームが忍び寄ってきて
放射能を降らせるとしたら
それを知っている国も県もマスコミも
黙っていたとしたら

あなたならどうしますか
原発がそんなに危険なものだったと知ったとき
原発推進グループや沢山の企業や科学者が
利益をひとつにしていることを知ったとき

あなたならどうしますか
あなたの住んでいる街が
年5msvもの放射線量下にあって
「年20msv以下だから心配ないです」
と言われたとき
全てを捨てて避難しますか

あなたならどうしますか
「“自主避難地域”に住むあなたに
迷惑をかけたから、賠償金は
2011年3月から2012年8月まで
12万円だけあげます」と言われたら


   平和ボケ
金の力は絶大らしい
それがたとえ毒まんじゅうであっても
1度口にしたら食べ続けたくなるらしい
僕もそれに逆らえないかもしれない

権力のいすは座り心地が良いらしい
権力のいすに座ると
誰もが“権力者”になるらしい
権力に連なる人たちもそれに追随する
そしてやがて権力は腐敗する
その繰り返しが歴史というものらしい

権力者が書いた歴史の陰で
多くの庶民が生きた
笑ったり泣いたり歯軋りしたりしながら

ひとつ大事な事があるらしい
民主主義の国で生きるときでも
自分たちが選んだ代表・権力者を
しっかり監視し続ける事

2011年に起きた原発禍の日本で
いろいろ体験したり見聞きして
僕はこんなことがようやく
判ったような気がしています
どうも平和ボケしていたらしい