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6. 死者を偲ぶ恋の歌 和泉式部の恋の歌

2021-12-13 09:36:49 | 和泉式部の恋と歌
6. 死者を偲ぶ恋の歌 和泉式部の恋の歌

  馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」一部引用再編集

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  敦道親王亡きのち自邸に戻った式部は魂のぬけがらのような日々を送っていたのであろう。「和泉式部続集」でみると、寛弘四年(1007)十一月二日の宮の四十九日以降に大量の挽歌を残している。宮への偲び歌だが、それはもう相見ることのない人への恋の歌でもある。

   師走の晦(みそか)の夜
  亡き人の来る夜ときけど君もなしわが住む里やたまなきの里
   なほあまにやなりなまし、と思いたつも
  すてはてむと思ふさへこそ悲しけれ君に馴れにし我が身と思へば
  思ひきやありて忘れぬおのが身を君がかたみになさむものとは

  宮が亡くなった年の師走、大晦の夜の歌だ。大晦はいまの節分がそれに当る。節分は年が行き、年が来る境目の夜で、こんな時に「なき人」の魂が帰ってくるといわれていた。今日では節分に鬼が来るといって豆つぶてを打つが、昔は祖霊が族の繁栄を祈って祝福にやってきたり、親しい死者の魂が、懐かしんでくれる人のもとに帰って来たりすると考えられていた。ここでは、宮の魂が帰って来る夜ときくが、宮のけはいも感じられなかったことを悲しんで、ありし日に待ち明かした宵のことなどを回想しているのであろう。「わが住む里やたまなきの里」という下句に愛艶な情がにじんでいる。

  次の歌の詞書には、「尼」になってしまおうか、という心迷いがあったことがわかる。しかし、結果として尼にはならなかった。その理由がこの二首にうたわれている。思いつめて得た理由が卓抜で、アイデアといってしまってはいけないが、着想が面白い。「尼になってこの人生を捨ててしまおう」と思う、しかし、よくよく思ってみると、そんなことを考えること自体が悲しいことだ。なぜなら、わが身こそが、一番「君に馴れ」親しんだ形見なのだという。「君がかたみ」であるからにはみだりにかたちを変えるわけにはいかないはずである。宮の傍らにあった時と変わらぬ自分の姿に、宮を偲ぶのが形見の役割であろうという決着である。

(以下略)

参考 馬場あき子氏著作
 「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」

5. 和泉式部の恋の哀れ 和泉式部の恋の歌

2021-12-12 09:11:21 | 和泉式部の恋と歌
5. 和泉式部の恋の哀れ 和泉式部の恋の歌

  馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」一部引用再編集

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  和泉式部の評判は世間的には決定的に悪く、「大鏡」や「栄華物語」では悪女の見本のように散々だが、「和泉式部日記」はその奔放華麗な恋の遍歴の裡にある式部の本当の姿を内面的な真実の声にひびかせ、「源氏物語」の「夕顔」と重なる哀憐さをみせる。はかない人生のひとときに咲いた恋の、優しさ、あわれさ、なつかしさを、忸怩として屈折する心情とともに伝えている。

  「和泉式部日記」が、後世の他者による作品であったとしても、和泉式部の内面の真実に深く立ち入った理解は、実態以上に実感を感じさせる力をもっている点において、十分参考になるものだ。そこに描き出された式部像を幾つかあげてみる。

 〇あやしかりける身のありさまかな。故宮(為尊親王)のさばかりのたまわせたまへせしものを、と恋しくて思ひ乱るる程にー
 〇ー女は雲間なき眺めに、世の中(宮(敦道親王)と自分との間柄)をいかになりぬらんと、つきせず眺めて、すきごとする人々はあまたあれど(式部に対して)、ただ今はともかくも思はぬを、世の人はさまざまに言ふめれどー
 〇人の言ふ程よりも児(こ)めきて、あはれにおぼさる(宮)
 〇あはれにはかなく、頼むベくもなきかやうのはかなしごと(宮との贈答)に、世の中を慰めてあるも、うち思へばあさましう。
 〇ー奥は暗くておそろしければ、端近くうち臥させ給ひて、あはれなることのかぎりのたまはするに、かひなく(効果が無い)はあらずー
 〇人の便(びん)なげにのみ言ふを、あやしきわざかな、ここにかくてあるよ(宮の考え)
 〇世になれたる人にはあらず、ただいと物はかなげに見ゆるも、いと心苦しくおぼされて、あはれに語らせ給ふ。
 〇ーただいかにも、のたまはするままにと思ひ給ふるを、よそにても見苦しきことに聞こえさすらん。
 〇(宮は御自邸に式部を迎えようと考えて、昼間から女車を仕立てておいでになった)
ー恥ずかしけれど、さまあしう恥ぢ隠るべきにもあらず。ーともかくものたまはせんままにと思ひ給ふるにー

  このように、宮の愛情に対して、純一な真心から慕い、殉じようとする式部の姿は、世間の見る好色な女ではなく、真実の愛を求めながら越えることのできない身分の壁の前に悩む女の姿である。それはこのような宮との交際の間にも多くの男が言い寄ってくる式部の、内的な真実を探り当てたものとして、式部そのものを語り得ているように思える。

(以下略)

参考 馬場あき子氏著作
 「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」

4. 「和泉式部日記」の恋の歌 和泉式部の恋の歌

2021-12-11 09:26:04 | 和泉式部の恋と歌
4. 「和泉式部日記」の恋の歌 和泉式部の恋の歌

  馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」一部引用再編集

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  和泉式部の恋といえば誰しもが思いうかべるのは冷泉院の第四皇子 (帥宮:そちのみや)との短いながら充実した恋の日々であろう。「和泉式部日記」につぶさに記されたそのゆくたては、物語のように濃密な愛と、悩みにみちている。その出会いの場に交わされた歌は勅撰集にも採られ、「和泉式部集」でも、場面のある歌の冒頭を飾るものだ。しばらく「和泉式部日記」によって、歌の場面とともに鑑賞してみたい。

  和泉式部が敦道親王と知りあう前には、親王の兄為尊親王(弾正宮:だんじょうのみや)との恋愛があったことが知られている。冷泉院の第三皇子であるが、長保四年(1002)6月13日に薨去された。なぜかこの親王との愛の歌は残っていない。わずか一年ほどの交際の中で、式部は親の勘当をを受けたり、去って行った夫、橘道貞の第二子を出産したり、それが誰の子なのか糾弾されたり、親王が病に倒れたり、この恋はあまりにも波乱が多かったからであろうか。その為尊親王の喪が明ける頃、敦道親王から橘の花咲く一枝が届けられたことが恋愛のきっかけになった。

  「和泉式部日記」ではきわめて劇的にこの恋の幕開けを描いている。それは陰暦の4月10日余りの頃で、木々の茂りが濃くなり、築地の上に生えた青草も、すでに初夏の気配を感じさせるような或る日である。式部は為尊親王との「夢よりもはかなき」えにしを嘆きつつ物思いをしているところに、敦道親王から「橘の花」が届けられたという場面である。思わず「昔の人の」と声に出してしまう式部。「千載集」では親王から「いかがみる」と感想を問われて詠んだ歌として次の歌がある。

  かおる香によそふるよりはほととぎす聞かばや同じ声やしたると  「千載集」雑上 和泉式部
  (昔の人の袖の香ぞするという古歌もありますけど、橘の香に故宮をお偲びするよりは、この橘に来鳴くほととぎすは、もしや故宮と同じ声の方ではないかと、語り合いたい思いです)

  式部は本当に故宮のことを語り合いたい気持ちだったかもしれないが、受け手としてはずいぶん積極的な返事に心ときめきしたことであろう。宮はすぐ返歌として「おなじ枝に鳴きつつをりしほととぎす声はかはらぬものと知らずや」とお書きになり、交際がはじまったのである。この頃の初々しい贈答歌を「新勅撰集」も収録している。詞書は簡潔に、「和泉式部につかはしける」とある。

  うちいででも ありにしものを なかなか(中途半端)に 苦しきまでも 嘆く今日かな  敦道親王

  今日のまの 心にかへて 思ひやれ 眺めつつのみ 過ぐす月日を  和泉式部

  親王は式部との交際がはじまると、たちまち苦しいまでの恋におちいってしまい、「こんな思いを口に出して言わなければよかった。ひとたび逢って語らってしまった後は、苦しい嘆きばかりの日々だ」と訴え、式部もまた、「そのように苦しく思ってくださる宮のお心にくらべて申しますなら、私もまた長い間、兄宮さまの愛を失って孤独な物思いに耐えつづけてきたのでございます」と応じている。

  とても順調にいきそうな恋のすべり出しだが、敦道親王の身分は高く(冷泉天皇の皇子)、気軽な「お忍び」も心にまかせることはできず、(敦道親王の)北の方も正二位大納言藤原済時(なりとき)の中の君であったから、はしたない振舞こそなかったが「夜毎に出でんもあやし」と思われるだろうし、宮も兄宮が御最期のころまで世間からそしられなさったのも、この和泉式部ゆえであった。と世間をはばかる心があったので、なかなか困難の多い恋であった。

(以下略)

参考 馬場あき子氏著作
 「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」

3. 恋する黒髪 和泉式部の恋の歌

2021-12-10 09:00:30 | 和泉式部の恋と歌
3. 恋する黒髪 和泉式部の恋の歌

  馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」一部引用再編集

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  同じく「和泉式部集上」にある有名な恋の歌。これは「後拾遺集」にも採られている。

  黒髪の みだれもしらず うちふせば まづかきやりし 人ぞ恋しき  「後拾遺集」恋三

  和泉式部の恋の代表歌の一つである。具体的な場面を写し出したようにリアルにうたっているが、現場があって詠まれたのではなく、さまざまな恋の中の一場面としてうたわれている。一首の中にすでに物語があるような魅力がある。黒髪のみだれを心のかたちとしてうたう習慣は、女の歌の歴史を縦に貫いて、近代の与謝野晶子の「みだれ髪」にまで及ぶが、黒髪の歌にはどれも女のじょうねんがこもったものが多い。和泉式部の上句の場面も悩み深い心の内を秘めたまま、相手の胸に訴えるように「うちふ」し嘆く姿であろう。定家はこの歌を本歌にして、男の立場からやさしい返し歌を詠んでいる。

  かきやりし その黒髪の すぢごとに うちふすほどは 面影ぞたつ  「新古今集」恋五  藤原定家

  「面影」としてその場面をみているのだから、これは現場ではない。「恋五」という部に収録されているので、読みも、過ぎ去った恋の、ある場面への回想である。その対象がはるかな昔の和泉式部の歌の場へのリアルな接近と考えてもいい。こういう作歌の場は和歌の中で少なからず工夫されているし、現代短歌の中でも一方的にある歌への返歌としてうたう場は面白さを残している。

(以下略)

参考 馬場あき子氏著作
 「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」

2. 身捨つるほどの 和泉式部の恋の歌

2021-12-09 09:27:06 | 和泉式部の恋と歌
2. 身捨つるほどの 和泉式部の恋の歌

  馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」一部引用再編集

*******本篇は特に難解です

  「和泉式部集」を繙(ひもと)いてはじめにまとめられた「恋」の部をみれば、代表作としての「恋」の名歌はかなり出揃っている。何首かを見てみる。

  いたづらに身をぞ捨てつる人を思ふ心や深き谷となるらん  「和泉式部集上」

  (人を思う心は、たとえば深い谷となってゆくのだろうか。その谷に私は、ついに身を捨ててしまったようだ)

  「人を思う心」を「深き谷」だといっている。これは言葉のあやとしての比喩ではない。式部が多くの「恋」の場を通して得た実感といった方がふさわしい。その心づくしの谷は深く、暗く、恐ろしいような空隙である。いったん身を投げればその人の人生を狂わせるような「谷」の自覚が式部の恋なのである。命がけのような真摯な眼がそこにはある。本物の心と出会おうとする冒険が式部の恋の一つ一つにあったかと思わせるような恋の部の冒頭歌である。この歌には本歌と見なされる歌がある。

  世の中の うきたびごとに 身を投げば 深き谷こそ あさくなりなめ  「古今集」雑躰 よみ人しらず

  世の中の うきたびごとに 身を投げば 一日(ひとひ)に千たび 我や死にせん  「和歌九品(藤原公任著)」

  「古今集」の歌は第三句を順接の「ば」でつないでいるので少し理屈っぽい仕上りになったいる。公任が引用した歌は下句が少し異なるものだが、同じ順接の「ば」をつなぎとしながら下句は異想性のある展開で面白味が生まれている。

(以下略)

参考 馬場あき子氏著作
 「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」