
高校に無事、合格した。合格発表の日まで気付かなかったが、清香も同じ飛鳥高校を受験して合格していた。ニヤリと形容したくなるような微笑を浮かべて、『3年間よろしくね』と言われた。やれやれ。賑やかな高校生活になりそうだ。
受験勉強の追い込みの時期にはあまり弾けなかったので、春休みの間に少しピアノを思い出しておこうと思った。弾かないとピアノが傷むと言うし、調律も必要だろう。
土蔵に近づくとピアノの音が聴こえた。碧ちゃんかな。朝、ピアノの話をしていたのだ。地下に続く木の階段を下りてゆくと、ピアノの音と碧ちゃんの声がした。誰かが調律している。父が調律師さんを呼んだのかもしれない。でもいつもお願いする小西さんだったら、碧ちゃんは見えないだろう。階段の上からは調律師さんの顔が見えない。碧ちゃんが熱心に質問していて、調律師さんは何か説明しながら作業しているようだ。誰だろう。新しい人かな。いずれにしろ、碧ちゃんが家族以外の人と話しているなんて初めてだ。邪魔はしたくないけど、どうしても調律師さんの顔が見たくてたまらなくなった。
階段をそおっと三段降りると、顔が見えた。
「黒曜!」
でも髪をばっさり短く切っている。いつも床につくほど長く綺麗な黒髪を垂らしているのに、思い切りショートカットになっていた。前髪は少し長めで目にかかるほどだが、後ろはうなじが見えている。衣装もいつもは中国か朝鮮半島風というか、奈良時代の渡来人のような装束なのに、今日はジーンズにセーターだ。それがとても似合っている。すごいイメージチェンジだ。
「黒曜! どうしちゃったの。その格好。でもすっごく似合ってる! すっごく素敵! 髪が短いと、普通の人間みたい!」
「黒曜?」
ピアノから顔を上げた人影がこちらを見た。思い切り不機嫌な顔をしている。あれ? 黒曜じゃない? でも顔はどう見ても黒曜だ。いつものように伏し目がちの長いまつ毛に縁取られた切れ長の綺麗な目。細面の白い顔。背丈も黒曜だ。いつも通り、スラリと背が高くて姿勢がいい。でも黒曜はいつも優しく笑っていて、私にこんな怒った表情見せたことない。
「黒曜ってここの御祭神やろ? 弁天さま。俺の顔、女に見えるってか?」
「えっ。黒曜じゃないの? でも碧ちゃんがおしゃべりしてるから」
「葵ちゃん。この人、ピアノ弾きさんだよ」
「ええっ。でもこんなにそっくりなのに」
「俺は女やないッ」
ピアノ弾きさんは窮めて不機嫌そうだ。
「黒曜は女じゃないわ。といって男かどうかも確かめたことないけど。神様だから、どっちでもないんだと思う」
「弁財天はヒンズー教のサラスヴァティー。川の女神や」
「でも、うちの黒曜は女性の服、着てないもの。いつも男性の服だし、しゃべり方も男の人だし」
「……なんだか御祭神と会ったことあるような口ぶりやな」
しまった。碧ちゃんが懐いておしゃべりしているし、顔が黒曜そっくりだから、つい油断してしまった。
「……あなた、どなた? ピアノ屋さん? 私、ここの次女の葵です」
「ああ。紫さんの妹さんか。俺、南部きさの息子。次男の新です」
「眠り姫さんの息子さん!」
「母が気になるから九州の高校を卒業したんだけど、紫さんがおってくれはるし、勉強したいことがあったから、春からこっちの大学に入ることにして、織居さんの蔵で下宿させてもらうことになりました」
「うちで下宿!」
「ここの蔵の蔵書を整理して研究する条件で、食費だけで住まわしてくれはるて。そんで、調律すれば土蔵のスタンウェイ弾き放題。で、光さんのジャズ・カルテットでピアノ担当するのも条件」
「……」
父も何を考えているんだろう。高校生になる娘のいる家庭で、男子大学生の下宿人を引き受けるなんて。いくら南部が織居の遠縁とはいえ。……よほど、この人のピアノが気に入ったのだろうな。父はジャズのことになると、時々頭がぶっ飛んでしまうのだ。
「で、この坊主は? あんたの弟?」
どこから説明すべきだろう。とりあえずこの人は、ホタルが見える人間らしい。さすが眠り姫の息子。
騒ぎを聞きつけて、先生も土蔵を覗きに来た。
「葵。大丈夫か」
「新兄ちゃん、先生もピアノ弾くんだよ」
「へえ」
このいきなりの馴染みぶりは何だろう。目眩がして来た。新さんには、先生と碧ちゃんは、どんな姿に見えているんだろう。3人でわあわあ言いながらピアノを連弾し始めた。どんな姿に見えているにしろ、新さんは頓着していないようだ。父と同種で、ジャズができるなら細かいことはぶっ飛ぶタイプかもしれない。
とりあえずホタルの説明をする前に、姿を共有しておいた方が良いだろう。私は右手を差し出した。
「じゃあ、新さん。これからよろしく。住吉神社にようこそ」
「おっ。握手やな。よろしくよろしく」
新さんも右手を差し出して、握手するとぶんぶん手を振った。女と間違えられたと思って不機嫌になったが、あまり固執しない質のようだ。握手した後、先生と碧ちゃんを見て、あれ?という顔をしていたが、たいして頓着せずにまたわあわあ、連弾を始めた。実にうち向きな人種だ。
「紫さんに、住吉には赤と黒の御祭神がおらはるって聞いたんやけど?」
新さんがモーツァルト弾きながら、質問して来た。先生の顔を見ると、先生は肩をすくめた。
「見えるなら見えるだろうし、見えないならそれまでだ」
「そうね。会わせてみるか」
木苺模様のティーセットと、新さんの分のティーカップとソーサーを台所から持って来て、桂清水で水を汲んで、みんなでドヤドヤ丹生神社の社殿に向かった。白木のテーブルを出して、6人分ニルギリを淹れて、一同で礼をして柏手を打つと、拍子抜けするぐらいあっさりと、黒曜と鏡ちゃんが現れた。
「確かに似ているな」
「私はこんな顔なのか?」
「俺、こんな顔しとるか?」
この新参者は、まったくもってあっさりと、2人の御祭神と馴染んでしまった。
お茶を飲んでいると、ポケットに入れていたケータイの通知音が鳴った。紫ちゃんからメールだ。
“新さん、そっちに行った? 新さんは女顔なのを気にしてるから、顔が綺麗だと褒めると不機嫌になるから気をつけてね”
紫ちゃん、その情報、もう少し早く欲しかった。いずれにしろ異様なぐらい、あっという間に神様ズとホタル達と馴染んでしまった。やれやれ。家でも賑やかな生活になりそうだ。
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