白い花の唄

笛吹カトリ(karicobo)の日記、一次創作SF小説『神隠しの惑星』と『星の杜観察日記』のブログです。

東の魔女見習い

2019年06月22日 20時53分43秒 | 星の杜観察日記

 西の魔女から知らせが届く。

 明後日入稿の記事デザインをあちこちいじって目がシパシパし出した頃、PCのメッセージポップが立ち上がった。

 ”南紀。3箇所補修。1週間ぐらい”

 南紀か。去年の秋にも手入れしたばかりだけど、先月の大雨で緩んだらしい。学生の頃なら講義ほっぽって駆けつけたところだが、今は一応社会人だ。同人誌に毛が生えたような小さな雑誌とはいえ、お給料をもらっている以上それなりに責任がある。魔女業は本業ではない。ライターとの兼業なのだ。
 思案していると、これまた思案顔のドンちゃんがふわりと現れる。いつもは少し紫がかった深い青に輝いている長い髪が、今日は少し色あせて緑がかっている。これはこれでオオミズアオのようで綺麗なのだが本人はしんどそうだ。この子は西の水源から連れて来たから、南紀の揺らぎの影響をかぶっているのだろう。
 屈むと膝まで届く長い髪にほっそりした白い顔。一応現代風俗に合わせたつもりか細身のスーツを着ているが、長髪と馴染まないことこの上ない。こんな妙な風体の青年が白昼のオフィスに出現したというのに、それに気づいて顔を上げたのは編集長の大江ひとりだった。
「高山、今度は何だ」
 編集業というとそれなりに華やかな職種のイメージだが、大江はいつも髪をボサボサ広げてこれまた印象的というか異様な風体である。
「南紀で一週間ほどだそうです」
「一週間ね」
 ボサボサした髪をわさわさかいている。金田一耕助とちがってフケは飛ばない。このクセが出た時は思案しているわけでなく、もう彼の中で結論が出ていて交渉の算段に入っているのだ。
「またパンダ生まれたそうですよ」
「ふむ」

 こちらも交渉に入る。急いでチャットを打って情報を集める。
”メンツは?”

 ピロロンと鳴ってすぐ返事が来る。
”桐、みっちゃん、紫ちゃん、リューカ”

「ルーマニアの彼、来るそうです」
「あのやたら綺麗なキュレーターの彼ね」
「温泉特集は去年やったので、ギャラリー巡りはいかがでしょう」
「白浜美術館と紀州博物館。それとパンダ」
「うわあ」
「まあ、あまりえげつなく無く綺麗な感じでまとめろ。それと7月号だから海とか滝の写真を適当に。今回、幼女は?」
「2人とも来ます」

 8歳児コンビの桐花と魅月は黙っていれば美少女なので、密かに読者の人気を集めている。リューカとこの2人がいればモデル要らずなのだ。
「じゃ、それもな。カラーで8ページ。記事4ページ。移動費と日当は出してやる」
「ありがとうございます」
「今やってる書評ページ仕上げて行けよ」
「もちろんです」

 早速ネットで新幹線の指定を取って、母親に連絡して、ああそれから表紙の色刷りもらいに行ったついでに何かおみやげ買っておかなきゃ。8歳児コンビに何がいいか聞いておこう。広告出してくれてる洋菓子店で何か見繕って、それとマグライトの予備の電球に、あ、ゴアテックスのスパッツ破れてたから新調して。現代の魔女はいろいろ大変だ。心は逸る。

 西に行けば、彼に会える。


  ◇ ◇ ◇   ◇ ◇ ◇   ◇ ◇ ◇   ◇ ◇ ◇

 「都って悩み無さそうでいいね」
 いろんな人によく言われるのだが、実際のところ悩みが無いわけではないので羨まれても困る。悩みが無さそうに見える要因の8割は私の外見だ。油断するとすぐ二重あごになりそうな丸顔丸ポチャ。明るい色の髪にそばかす。そしていつもヘラヘラ笑っている。自慢では無いが物心ついてから私は泣いたことも怒ったこともない。

 なぜなら私が泣くと雨が降るし、怒ると地震が起こるからだ。


髪の色のせいで小さい頃から随分イジメられたが、泣かなくてもイラッとしただけで地響きが起こってオロオロしたドンちゃんがなだめに来る。仕方ないのでため息ひとつついてへらっと流すしかない。かなり明るい栗色にところどころ金色や銀色のメッシュが入っている。それにウェーブのきついクセっ毛。中学高校の風紀の先生にはかなりネチネチ言われたが、その度に私の3ヶ月時の写真を見せて時には母から説明してもらう。当時の担当医に一筆書いてもらったこともある。
 生まれた時、私はほぼ金髪だったらしい。そして薄い緑色の目。お腹がすいて泣く度に雷が鳴ったり地響きがするので、自分でもびっくりして泣き止む。慌てて母や叔母たちや兄たちや従兄弟たちや何やかやが私の周りに集まって来る。そんな乳児時代を過ごしたせいで、保育園に入る頃にはすでにヘラヘラぼーっとした人格が固まっていた。何事も受け流すしかない。自分の苦痛を誰にも訴えることができない。

 私の抱えるやっかい事の始まりは千年を遡る。平安時代の我が家のご先祖さまに銀の髪、金の瞳のお姫様がいたそうだ。泣くと雨が降るし、怒ると地鳴りがする。歌うと山が揺れるので、ひとこともしゃべらない。山里でひっそり暮らしていたのに、どういう経緯か都の下級貴族に輿入れして政争に巻き込まれた。夫を殺され、まだ赤子だった息子を奪われた時、彼女は叫んだ。
 彼女の泣き叫ぶ声に感応して、竜宮が開いた。

 豪雨に稲妻。山が崩れ始め、津波が押し寄せる。
 姫は竜宮へと続く奈落に身を投げた。そして姫の3人の妹がその奈落を閉じた。ひとりは東へ、ひとりは西へ。まつろわぬ人々に守られながら、鉱脈や水源を綴り、大地が裂けないよう結界を張っていく。最後のひとりの妹姫は、姉が身を投げた奈落の縫い目の上に立ち、柱となった。東と西の姉妹が引く力と、地の底の竜宮が引く力を天につなぎ、十字の要に立ち続けた。

 我が家は東の妹姫の末裔になる。
 
 姫を守る一団は旅の先々で、丹を生む谷を見つけたり、温泉を沸かしたり、ついでに大石を動かして溜池を作ったりしながら、その土地の人々にかくまってもらったようだ。その土地に馴染んで残る者もいれば、新しく旅に加わる者もいる。霊能者ばかりを選んだわけではないはずだが、異能者を理解するのはやはり何らかの異能を持つ人間が多かったようだ。
 というわけで、うちの家系には時々ヘンな子供が生まれる。

 私の11歳上の従兄弟、鷹史は銀の髪、金の瞳だった。声を出す度に山鳴りがするので、丸っきりひとこともしゃべらない子供だった。それでも家族には通じるので、不便は無い。物を飛ばすし、自分も飛ぶ、天狗の落し子のような子だった。私なんか鷹史に比べれば全然生易しいものだ。

 タカちゃんは私の王子さまだった。王子様には当然美しいお姫様がいて、私は遠くから見つめる人魚だった。
 お妃に選ばれたのは都のはずれのお社で子供の頃から柱を務めている、末の妹姫の末裔。つまり東と西の一族から一身に守られている宝だ。私たちはすべて、この柱の姫のために日々身を捧げている。もちろん柱の姫も命懸けで要を務めている。前の柱の姫が心臓を壊して仮死状態になり、お役目が孫の彼女に降って来た時、まだ5歳だったそうだ。24時間365日前後左右から引っ張られ続け、身体への負担が半端じゃない。内蔵に負荷がかからない物しか食べられないし、お社からだいたい半径5キロ範囲しか出られない。
 だから彼女は5歳からチョコレートもケーキもハンバーグも食べたことがない。新幹線も飛行機も乗ったことがない。結界内の水脈が濁る度に、あるいは地底のプレートが揺れる度に、熱を出したり倒れたりする。そうして必死で守って来た結界が、彼女が10歳の時に破れた。彼女を守り、結界を繕うために竜宮に身を投げたのは姫の父親だった。物心つく前からそんな過酷な運命にもかかわらず、姫はスネずイジケずふんわり微笑んで日々お社の掃除をしている。
 敵わない。

 私は波間で揺れながら、姫とタカちゃんを見守っていければいいや、と思っていた。でも泡となって消えたのは私ではなくタカちゃんの方だった。彼は24の時、1000年前の姫のように奈落に身を投げて竜宮に身を捧げた。姫の父親と同じだ。遺体も無く、ただ消えた。行方不明扱いで、10年前に失踪宣告となった。
 そして私はタカちゃんが守ったものを守り続けるために、東で魔女見習いをやっている。
 泣かず怒らず、ヘラヘラしながら。

 新幹線の車窓に映った自分の丸ポチャ顔を見て、ため息をひとつつく。

 タカちゃんが守った姫は今も都のはずれで暮らしている。参道に賑やかな商店街のある、緑の杜に囲まれた神社で石畳の落ち葉を掃いているだろう。彼女はチョコレートもクッキーも食べられないから、8歳児コンビへのおみやげと別にさっくり軽いレモン風味のメレンゲを買った。いつも穏やかにふんわり微笑む彼女の顔を思い浮かべると胸がチリッと痛む。

”都”

 ドンちゃんが青い顔で現れた。

”何よ。別に揺れてないでしょ”
 私は声に出さず答える。
”そうじゃない”
 消えそうな青い顔だ。実際彼はほぼ透明でほぼ誰にも見えない。編集長のような特異体質の人間以外は。
”ああ。水? 袋で寝ていればいいのにうろうろするから”
”久方ぶりなので景色を見たかったのだ”

 新幹線の窓に貼り付いて車窓の風景にはしゃぐ水神のお使いなんて聞いたことがない。

”仕方ないわね。通路においで”

 私はミネラルウォーターのボトルを取り出して席を立った。


 ◇ ◇ ◇   ◇ ◇ ◇   ◇ ◇ ◇   ◇ ◇ ◇

  ドンちゃんのことを話そう。

 ドンちゃんは個体名、種名はホタルという。両生類だ。
 両生類というのは陸と水の間に棲むという意味だけど、ホタルの場合はあっちとこっちの間を行き来している。あっちというのは彼岸、あるいは別の位相、天と地、とにかくここでないどこか、なのだ。
1000年前に亀裂が開いて竜宮とこの地がつながってしまったために、本来別々の時間の波に乗っているはずが共鳴するようになってしまった。亀裂が広がってこの地がバラバラにならないように結界を張っているのが私たちの一族だ。竜宮は海の底、地の底、物理的にはつながっているが時間の流れが違う世界。竜宮の一日は私たちの100年にも1000年にも値する。竜宮が私たちの慌ただしい時間サイクルで揺らいだら、四国辺りが沈んでフォッサマグナで日本がまっぷたつになるような、本来数十万年後に起こるかもしれない地殻変動が100年単位で実現するかもしれないのだ。

 1000年前、竜宮に届く声を持つ姫が悲痛な叫びを上げた時、竜宮に住まう竜神さまがこの地に現れた。
 ”何もかも元通りにしてやろうか? お前が大事なものを失う前に戻してやろうか?”
 竜神さまは違う時間感覚に生きているので、元通りのケタが違う。

 結界を張ったことで、竜神さまは竜宮に帰ってうとうとしていらっしゃる。でも糸がつながったままなのだ。この地の波の揺らぎが竜神の耳に入らないよう、銀の髪、金の瞳の姫が地の底で歌っている。それでも大地は地の底の深いところで少しずつ動き、たわみ、細い糸で張った結界が緩んだり捻れたり、あるいは水脈が移動して結界の中の空気や水が澱んだり、常に補修しないといけない。でないと竜神さまが目を覚ます。

 ホタルは1000年前に竜神さまに付き従ってこの地に来てしまった。そしてあっちとこっちを行き来している。ホタルが生きるにはこっちとあっちの接している澄んだ水脈が必要だ。大地が裂けてこの地の水が濁ると生きていけない。というわけで1000年前から私たちの一族を手伝ってくれているのだ。
 
”随分、また森の相が変わったな。大地が乾いて風の流れも違う”
 ドンちゃんは新幹線の窓に張り付いて、車窓の外を流れる風景を一生懸命見つめている。
”この半年で? 悪い変化? あんた達が住みにくくなる?”
”変化は悪いばかりじゃない。実際に泳いでみればどこか新しく泉か滝でもできているかもしれない”
”本当?”
 ドンちゃんは人間との付き合いが長いので、けっこうデリケートな気遣いもできるホタルなのだ。人型を取れるようになるまで数百年かかるらしい。あっちとこっちを行き来しているので、どっちから見ても半透明な存在なのだが、年取るとある程度の時間は実体化することもできる。

 私は2リットルのミネラルウォーターのボトルを差し出した。
”とにかく水飲んで。ボトル自分で持てる?”
 差し出したドンちゃんの手はボトルをすり抜けてしまう。
”仕方ないわね。ほら、飲んで”

 誰もいない新幹線の乗降スペースで、ミネラルウォーターを手のひらに受けてドンちゃんのノドに滴れさせる。少しずつドンちゃんの姿がはっきりして来て、私の腕を支えているひんやりした手の感触が実感できるようになった。1リットルも飲み干した頃、ようやくドンちゃんは自分でペットボトルを持ち上げられるまでに実体化できた。そうなるともうラッパ飲みである。あっという間に残りの1リットルを飲み干した。
”どう? もう1本飲む?”
”うむ”
 2リットルをもう1本空けて、ドンちゃんはひとここちついたらしい。私のデイパックもおかげで軽くなった。
”もう終点までお水買えないから、後はトイレのまずい水で我慢しなさいね”
”いや、満ち足りた。かたじけない”

 ドンちゃんは本当はドナウと言う。私がつけた名前だ。
 一族に私のようなヘンな子が生まれると、齢数百年のホタルが守り役につく。ホタルはお互いにつながっているので、まあ、連絡係だ。竜神無線LANである。
 つながっているので、ホタル達はあまり自分の個体名に頓着しない。多分、お互いを波長か何かで見分けているのだと思う。というわけで、いろんな名前で呼ばれるし、お守りされる人間が好きなようにつけていいことになっている。
 4歳の時、私はこどもクラシックアルバムの中で『美しく青くドナウ』が気に入っていた。
 そういうわけでドナウ。青い髪のドナウ。恥ずかしいので主にドンちゃんと呼んでいる。

 ホタルは本来、サンショウウオを半透明にしたような、ウミウシに手足をつけたような、そんな姿をしていて、綺麗な水でちゃぷちゃぷしているか、宙に浮かんでちゃぷちゃぷしている。幼体の時はルルルとかリーリーとか鳴く。
 つまり人型の姿や声は、こちらのイメージに過ぎない。ホタルを感じられる人間は、それぞれ自分の好きなイメージを投影しているようなものだ。美しい可愛いイメージを持つ人もいれば、不気味でドロドロした存在を感じて怯える人もいる。
 大江さんには、ドンちゃんはどんな風に見えているんだろう。

 採用試験の面接の時、大江さんはずっと私の後ろを見ていた。人事の面接役の人が一通りの質問を終えて、「編集長、何かありますか?」と振った時、視線を私の後ろ、斜め上辺りに据えたまま、「その人誰? 付き添い?」と聞いたのだ。
 後でたずねてみると、「まあ、モノ書く人間はいろいろアンテナあった方が便利だろ。ネタがその分増えるようなもんだ」と言う。「あんたの場合、あんたを雇ったらもう一人ついて来るんだろう」と採用が決まった。私自身よりもドンちゃんが気に入られたのかもしれない。

 綺麗な青い髪のドンちゃん。私よりちょっと背の高いドンちゃん。細面の顔は、ちょっとタカちゃんに似ているかもしれない。でも、私はタカちゃんの本当の声を聞いたことがない。私に聞こえているドンちゃんの声は誰の声なんだろう。

 新幹線が西に進むにつれ、車窓に見える照葉樹林が増えて来た。ドンちゃんはクスノキが大好きなので機嫌がいい。熊野の暗い豊かな森に着いて、揺らいだ水脈を補修したら、青ざめた顔が元気になるはずだ。

”さ、あと2駅で下りるわよ。そしたら美味しい水を買ってあげる”


 ◇ ◇ ◇   ◇ ◇ ◇   ◇ ◇ ◇   ◇ ◇ ◇

 
  第六感というものは、強弱の差はあれ人間誰もが持っているものなのだなあ、とドンちゃんと人混みを歩いているといつも感心する。おそらく半数以上の人間にはドンちゃんは見えていないと思うのだが、みなちゃんと避けて行くのだ。見えずにぶつかった人は、「あっ、ごめんなさいっ」と思わず謝って、その後首をかしげていたりする。
 新幹線から在来線乗り換えに続くコンコースは、夕方というにはまだ早い時間だというのにけっこう混んでいた。さっき車内でミネラルウォーター4リットル一気飲みしたおかげで、普段よりドンちゃんははっきり見えている。それでも人の流れに混乱を生じさせていた。それに、ぶつかられるとドンちゃんにも少々ダメージがあるようなのだ。

”電車やめようか?”
”いや、大丈夫だ”
 いつも青い顔をさらに青くしてドンちゃんは健気に答えたが、すぐにきょろきょろ見回した。
”赤い”
”赤い?”
 私もつられて見回したところに、メールの着信音が鳴った。

”北口のバスコンコースに車つけてる。桂清水あるから水買わんでいいぞ”

 7人乗りのミニバンで迎えに来てくれていたのは、私の3つ違いの従兄弟だった。
「おう、お疲れさん。ポリタンで神社の水20リットル汲んで来たぞ。要るか?」
「殿。わざわざ痛み入る。今は大丈夫だ」
「ホタル連れてうろうろするのは面倒臭いだろうと思ってな」
 麒次郎はタカちゃんの9つ下の弟なのだが、外見も中身も全然似ていない。身体はがっしりしているし顔つきもゴツイし、黒いゴワゴワの髪に普通の黒い瞳。もちろん泣きわめいても地震も嵐も来ない。
 タカちゃんときーちゃんの母親である咲(えみ)さんは、私の母の姉に当たる。母の家系は女系でどういうわけかほとんど女しか生まれないし、男が生まれても婿にやられることが多いのだが、家系図に記されない名前がある。”秦野”の女は千里眼で肝が据わっている、と呼ばれて鎌倉時代ぐらいから東国で重宝されてたらしい。しかし、秦野の女を嫁にする時、ひとつ条件がある。

『銀の髪、金の目の子供が生まれたらいぶきやまに返すこと』

 さもなくば山が割れ海に落ちる、という言い伝えがあった。家系図に残らないのではっきりしないが、100年に4、5人はいたんじゃないかと思う。もっといたのかもしれない。私が直接知っているだけでタカちゃんともうひとりいるのだ。遠い従姉妹に銀の髪、青い瞳の双子がいるし、私だってこんな外見だ。
 秦野の女は九州から東北まで散らばっている。昔は長旅も困難だった。いぶきやまに返す代わりに異形だと殺された子供も多かったと思う。

 こんな風に生まれていたら、タカちゃんは今もここにいたかもしれない。
 きーちゃんを見る度にそんな風に考えてしまう。きーちゃんは、タカちゃんが亡くなった後に残された妻と再婚して、今や一児の父親なのだ。それが一族への使命感なのか、幼馴染の義理の姉への思慕なのか、私から見るとよく区別がつかない。それでも美人の妻と美少女の娘、反抗期の義理の息子に囲まれてけっこう幸せそうだ。

「都、よく来たな。仕事大丈夫だったのか?」
 ミニバンからひょいと顔を出したのは、金の髪、赤い瞳の美女だ。
「鏡ちゃん!」
「よーしよしよし。いつもすまんな、ムリさせて」
 抱き付いた私の髪をぐしゃぐしゃにしながら、背中をぽんぽんと叩いてくれる。強張っていた背中がふうっと軽くなって、深呼吸ができた。
「真朱(まそお)殿。かたじけない、私なぞのために」
 ドンちゃんは鏡ちゃんの前に三つ指ついて土下座せんばかりだ。
「ああ、いい、いいって。目立つだろ。さっさと車に乗れ」
 私にはよくわからないが、ホタルはどうも鏡ちゃんの子分格らしい。さっき、ドンちゃんが”赤い”と言ったのは鏡ちゃんの存在を感じてのことなのだ。そして鏡ちゃんにもドンちゃんの存在がわかる。知らせていなかったのにドンピシャ新幹線の到着時間に迎えに来てくれたのは、そんなわけなのだ。

 鏡ちゃんの事情というのは、ややこしいわが一族の事情の中でもさらにややこしい部類に入る。鏡ちゃんの中身は、綺麗な赤い色の精霊というか妖魔なのだ。鳥の形になったり鹿のような姿になったり魚や竜のように見えることもある。いつから生きてるの?と聞いても、自分でもよくわからないらしい。とりあえずこの湖の西に人が住み始めてからずっとこの辺りにいたそうだ。いろいろ名前を持っているそうで、ホタルたちには真朱と呼ばれている。
 そしてどういう事情なのか、今は人間の身体の中で暮らしている。その身体というのが、私の義理の大叔母に当たるのだ。身体年齢は80を超えているはずなのに、どう見ても20を過ぎているように見えない。

「着いた早々悪いが、神社に帰る前にちょっと寄り道して手伝ってもらいたいんだ。だから今のうちにこれ喰ってリフレッシュしてくれ」
 きーちゃんが車を出すと、すぐに鏡ちゃんがポットと紙の箱を差し出した。
「お茶教室の余りだが、橘屋の黄身しぐれ。好きだったろ。それとお薄」
「ありがとう。大好き」
「よしよし。神社に着いたら、夕食はお前の好きな湯豆腐だからな」
 鏡ちゃんは女の子に甘い。中身は雌雄関係ないらしいが、”オレ、女のコの涙に弱いんだ”とチャラい男のようなことを言う。人間の女の子に入れ込んで故郷の山を捨てた、そのきっかけが私のご先祖のあのお姫様だったらしい。

 車の中ながら、ちゃんとお茶碗にお薄を注いで、クロモジを添えてお菓子を出してくれる。鏡ちゃんは、咲さんを手伝って時々神社の下手で子供たちにお茶を教えているのだ。
「美味しい」
「よしよし」
 私が笑うと鏡ちゃんはニコニコする。想像するに、幼い頃から姫を見守って来た鏡ちゃんは、姫を失ってずっと悔やんでいたのだと思う。結界を守る女衆に、鏡ちゃんはことさらに甘いのである。

「阿鳥と呼んでたんだ」
 一度、鏡ちゃんが銀の髪の姫のことを話してくれたことがある。
「父母や女房たちには”大姫”とか”一の姫”とか”兄姫”とか呼ばれてた。妹姫が3人もいたからだ。あの子を阿鳥と呼ぶのは、オレと祖母様ともうひとり、黒曜だけだった」
 私は黒曜に会ったことがない。その頃、鏡ちゃんが大鳥に宿っていたように、黒曜は小さなお社の桂の古木に宿って小さな泉を守っていた。2人は地下深い地脈と結びついた妖魔だったので、地底の竜王が愛した少女を幼い頃から見守っていたそうだ。
「都なんかに行かせるんじゃなかった」
 藤原の末流に嫁いだのは両家の政略のためでしかなかった。
「あの子は嫌だと言ってたんだ。オレと黒曜にさらってくれ、三輪山に連れていってくれ、と泣いて訴えてた」
 それでも婿は優しい男だった。銀の髪、金の瞳、物言わぬ異形の姫をそのまま受け入れて慈しんだ。2人はひととき、確かに幸せな時間を持ったのだ。
「赤ん坊が普通に黒い髪、黒い目で泣いても雨が降らなかった時、阿鳥は涙を流して喜んだ」
 平安末期、力をつけ始めた地頭方と力を結ぼうと地方に屋敷を構えて武人を集めていたのが良くなかった。謀反を一派に組すると見られて一族おとりつぶしになった。
「謀略だよ。荘園を取り上げたかっただけさ。阿鳥の四代前の姫が宮廷に輿入れしてたのも悪かった。あの結婚は、それだけ当時の関白に不都合だったわけだ。そんなことのために」
 そんなくだらないことのために、阿鳥はすべてを失った。ほんの幼い頃から、山を崩さないために、海を狂わさぬように、泣くことも怒ることも無く自分を抑えてひとことも言葉を発して来なかった娘が、その時、初めて泣き叫んだ。
「オレも黒曜も何もできなかった。ただ、あの子の最後の望みを叶えて、あの子が命をかけた結界を守る他は」
 
 それから千年、鏡ちゃんと黒曜は妹姫が柱になった小さなお社を守って来た。
 鏡ちゃんは八つの赤い宝珠に宿って神宝の鏡になった。黒曜は避雷針となって都を砕く大雷をすべて自分の桂に呼んだ。古木は炭化して今はツヤツヤと輝く黒い切り株となり、今もお社の小さな泉を守っている。
「まあ、オレたちはそれなりに力のある妖魔だと言っても中間管理職みたいなものだからね」
 鏡ちゃんは時々自嘲的に笑う。
「竜宮さまは自分の力の大きさをご存じない。自分の寝返りひとつで人間の世界が粉々になっても気付かない。ただ、きまぐれに阿鳥を気に入ったのさ。その気持ちは純粋だったと思うけど、はた迷惑な話だよな。オレたちは上司の不始末をフォローして、1000年、結界を守る柱の姫や巫女たちや、彼女たちを支える男たちの面倒を見ているわけだ。人間の世界は人間が整えるしかない。オレたちはやっぱり、見守るぐらいしかできない」
 私は鏡ちゃんに、そんなこと無いよと言ってあげたかった。でも言えなかった。

 1000年守って来たのに、20年とちょっと前、黒曜はさらわれたのだ。鏡ちゃんの宝珠と一緒に。その時、私はまだ3つになる前で、結界の中心から遠く離れた母の実家に隔離されていた。結界の影響を受けないように、結界に影響を及ぼさないように。それでもあの時のことはよく覚えている。
 どう説明していいかわからない。あの時はっきり、私は竜宮をのぞいた。空は雷鳴と雷光、山が火を噴き鳴動する中で、自分の足元が透き通るように深淵が見渡せた。その底、黒より黒い暗闇の中に何かが身動きした。ゆっくりと頭をもたげてこちらを向いた。
 その目を一瞬のぞいた、ような気がした。

「見ちゃダメ!」
 私の目を塞いだのは母だった。
「お願い、見ないで! 行かないで!」
 私の頭を抱え込むように自分の胸に押し付けて、私を抱きしめながら母が叫んだ。
「お願い、連れていかないでください! この子を連れていかないで! どうか、鎮まって」
 母が泣くところなんか見たことなかった私はびっくりして、地底の暗闇から気を逸らしてしまった。母の身体が熱かった。私の手は氷のように冷たくなっていた。
「私には何の力も無いけど、代わりに連れて行って。私を殺してください。この子を、ここに残してください」
 もう地底は閉じていたけど、母は私を抱きしめ続けていた。ぼたぼた涙をこぼしながら、声にならない叫びをあげていた。
「お願い。この子を」

 気が付くと雷も噴火も何も消えていた。空は青く晴れ渡っていて、地面は濡れてもいなかった。
 ほんの一瞬、ただの幻だったのだ。

「お母さん、苦しいよ。息できない」
 私は何とか母の腕から抜け出そうとした。でも力が抜けて動けない。身体がぐっしょり濡れてガタガタ震えていた。
 静かになった家の中に、電話の音が鳴り響いていた。

 都のはずれの小さなお社は、私と母の見たイメージどころで無く、大揺れだったらしい。大祭の流鏑馬の真っ最中。見物に訪れていた200人以上の人が、トランス状態で鳴動を共有し、逃げ惑った。真昼間の境内が真っ暗闇に包まれた。ほんの数分のできごとだったが、その場にいた兄によると数時間にも感じられたという。
 ぽっかりと青空の下に帰って来たとき、境内は何も変わっていなかった。ただ、狂乱状態の馬と横倒しになったり、石段から転げ落ちてケガをした負傷者数名。地面は割れていないし津波も襲っていなかった。しばらく救急車だの消防車だのパトカーだの押し寄せて大騒ぎになった。見物客が
パニックに陥って通報したからだ。
 騒ぎが収まったとき、男がひとり、消えていた。

 西の魔女、咲さんの義理の弟で、鏡ちゃんが宿っている女性にとっては息子に当たる人。そして、今の柱の姫の父親だった。私は会ったことが無いけれど、ジャズピアニストで特別耳のいい人だったらしい。

 彼は、娘と結界を守るために、千年前の金と銀の姫のように地底の奈落に身を投じたのだ。

 それ以来、結界がぐらぐらになり、一族郎党大わらわで修繕に走り回ることになった。お社の柱を中心に何重もの桔梗文、つまり星の形に結ばれた結界の節をすべて整え直さなくてはならなかった。そして、お社は”男殺しの神社”という悪名を新たにしたのだ。

 あの後、兄と咲さんが駆けつけて来た時、私は高熱を出して寝込んでいた。枕元で、母が泣きながら咲さんに話していたのを途切れ途切れに聞いた気がする。
「緑色だった。この子の目が、緑色に光っていたの。それに声が聞こえた。音に聞こえないけど、この子は叫んでた」
 兄は熱が下がるまでずっと私の手を握っていてくれた。兄は咲さんや私の母のような秦野の血を引いていない。兄の父親と私の母は、つまり再婚だったのだ。なのに子供の頃からお社に出入りしていたせいか、兄にはホタルが見える。
 私の枕元で、咲さんが兄と話していた。
「あんたは道標よ、のんちゃん。あんたは揺れない。都ちゃんが地の底に引きずり込まれないように、あんたが地面につなぎ止めるのよ」
「都はどうなったの」
「結界の東の端を、この子が守ったの。この子が踏みとどまったおかげで、はじけ飛ばないで済んだのよ。でもこのまま体力を失って死んでしまったら。この子も奈落に落ちるかも」
 
 柱の姫の父親のように。阿鳥のように。これまでお社の結界を守って犠牲になって来たたくさんの巫女たち、巫女の身代わりになった男たちのように。

 私は全然覚えていないが、咲さんを中心に南部の人間が総動員で東の結界を結び直したらしい。三日めに熱が下がった時、私は初めてタカちゃんに会った。正確にはタカちゃんと、弟の麒次郎、兄の仁史、その他南部の一同に会ったはずだが、タカちゃんのことしか覚えていない。

 タカちゃんは私の金と銀の混ざったくせっ毛をくしゃくしゃと撫でて笑った。
”よくがんばったな。えらいえらい”
 タカちゃんの銀色の髪は明るい灰色のような水色のような独特の光をたたえていて、綺麗な泉をのぞき込んだようだった。金色の目は時々オパールのように黄緑やオレンジの光がきらめいた。
”のん太の妹が、俺と同じような髪だと聞いてずっと会ってみたかった。会えてよかった。よくがんばった。ちっちゃいのにえらいえらい”

 その頃、西の端っこではもうひとりの魔女、紫さんが意識を取り戻していた。私と紫さんが実際に出会ったのは、それからずっと後のことになる。

「この子、こんなに小さいのに紫ちゃんと同等の力があったわけよね」
「大丈夫かしら。この子、大丈夫かしら」
 母はまだ泣いていた。
「とにかく、この子は社に近づけちゃダメね。少なくとも7つになるまで、ここにいなさい。十分に力をつけて、自分でコントロールできるようになるまで」

 それ以来、私の髪は薄茶色、目はちょっと明るいめの茶色に落ち着いた。それでもヘンなものを見ると髪がところどころ金色に光り出すし、目が緑色になってしまう。霊感の強い子は私の周りにうずまく青い光が見えるらしい。気味悪がってイジメられた。ドンちゃんが私の専属になって、ちびのホタルをたくさん従えていつも私の周りをうろついていたせいだ。
 イジメられたけど気にならなかった。私のきらきら光る髪はタカちゃんとおそろいなのだ。山寺の修行も弓の稽古も厳しかったけど平気。いつか強くなって、タカちゃんと一緒に結界を守る。お社に行って、タカちゃんのお手伝いをする。

 タカちゃんはそれこそ日本中飛び回って結界の修繕をしていた。文字通り、タカちゃんは飛べたのだ。東に来たついでに時々、私が修行している山寺に寄ってくれた。髪をくしゃくしゃなでて、ほめてくれた。
”えらいえらい。がんばれよ”

 実際に私がタカちゃんを手伝えたのは3年にも足りない。もう一度都が揺れた時、タカちゃんは消えてしまった。

 忘れ形見の総領息子がタカちゃんの代わりにがんばっている。タカちゃんとそっくりの銀の髪、金の瞳。だけどこの子が泣いても地面は揺れない。そのことを、本人はいたく不満らしい。
 鷹史の息子の鳶ノ介。タカがトンビを生んだ。
 息子が声を出して笑えること。竜宮の生け贄にならないこと。それがタカちゃんの何よりの望みだったはず。でも鳶ノ介、トンちゃんは守られていることが悔しいらしい。ヤケクソな熱心さでお社の業務をこなしている。

「寄り道って、どうせトンちゃんの高校でしょ。さあ。ちゃっちゃと片付けて湯豆腐食べましょう」
 私が言うときーちゃんがニヤッと笑った。
「茶巾寿司とかわさび稲荷とか、お袋がいろいろ作ってたぞ。あとレンコンのしんじょ。魚はイサキだ」
「それ、私じゃなくてきーちゃんの好物でしょ」
「お前も喜んで喰ってたじゃないか。坊主もババロアだかムースだか冷やしてたし」
 
 都のはずれの小さなお社は、重過ぎる運命を跳ね飛ばすようにいつも賑やかだ。きーちゃんもトンちゃんも咲さんに仕込まれて料理上手。柱の姫は料理は苦手だが緑の指を持っていて、お社はいつも季節の花に包まれていた。今頃初夏の花が咲き乱れているに違いない。


 ◇ ◇ ◇   ◇ ◇ ◇   ◇ ◇ ◇   ◇ ◇ ◇

  アラカシとヤマモモの木立に囲まれた池は去年見た時より一段と薄暗く見えた。生臭い匂いが凝っているし、水が淀んで幼体のホタルたちが苦しそうにキューキュー鳴いている。

「これも南紀の揺れのせい?」
「多分な」

 鏡ちゃんがポリタンで汲んで来たお社の桂清水を手水鉢に注ぎいれると、十数匹のホタルがぴちぴちと水を浴び始めた。
「よーしよし。元気になって働いてくれよ。今からお前らのうち、掃除するからな」


ここは飛鳥高校の北側の池。元はおそらく5、6倍の広さだったはずだが、200年ほど前に埋め立てて今の校舎と図書館が作られて、今はちょっと広めの水路、という感じの細長い池が残っているに過ぎない。昔は弁天さまの小さな祠があったのだが、今は鳥居も壊れてしまって祠の名前も読めないし、ただ灰色の石の手水鉢だけが残っている。照葉樹の林床に縁石からシダやシャガ、ジャノヒゲなどが水面に垂れてなかなかいい雰囲気なので、図書館の利用客が散策に訪れる。木立を囲むようにサルスベリやセンダン、シダレザクラ、モミジにイチョウなどが配され、季節季節に彩りを添えるちょっとした緑地公園という趣きだ。池に面して高校の弓道場があり、弓道部員が練習する音が聞こえている。
 図書館は高校生以外の一般客も利用できるので、弓道場と池の間に柵がある。つまり池は高校の敷地の外、ということになる。そこが私たちには都合がいい。

 都のはずれに住むお社関係者の子弟は、けっこうがんばって勉強してそこそこ進学校のこの高校に通う。タカちゃんも兄も、そして今はトンちゃんもここの生徒だ。ここに進学する前から、トンちゃんは中学から自転車で放課後毎日ここに通っていた。小学校の時はバスで。どういうわけかというと、この池が神社の北東、鬼門を守る”節”のひとつだからだ。

 お社を中心に何重にも張られた結界。同心円状に桔梗文の頂点となる、水脈の節を結んで作られている。節になるのは、池だったり岩だったり、ちょっとした森だったりする。ある程度の気を貯められる場所を、妹姫の末裔が加工して結界につないでいるのだ。
 この池はもともと低地で”溜まりやすい”場所なので、結界内の水が淀まないようにトラップとして重要なのだ。

「台所のシンクの排水溝に張ったゴミ取りネットのようなもんだな。マメに掃除しないと腐って匂ってくる」
 きーちゃんが見も蓋も無い説明をしたことがある。彼もその昔、ここに通いながら日々、池の掃除をしていたのだ。毎日掃除しても年に何度か大掃除しないといけないし、大雨や地震なんかのイベントがあると緊急メンテが必要になる。池の上手に小さな湧水があるので、ここには昔からホタルのひと群れが棲んでいた。トラップのせいでしょっちゅう水が濁るのだから、どこか余所に移ればいいのにと思うが、ホタルにもホタルの事情があるのだろう。濁る度に坑道のカナリアのようにキューキュー泣いて関係者を呼んでくれる。

「鏡ちゃーん。枝、もらって来たよ。これでいいの? オガタマノキって」
「ヒイラギってこれー?」
グレーのセーラー服におそろいのベレー帽を被った小学1年生の少女2人がきちんと長さをそろえて折り取った枝を抱えて走って来た。
「そうそう。よくわかったな。手水鉢に活けておいて」

 少女のひとりは肩の長さに切り揃えたまっすぐのサラサラした黒髪が色白の顔をふっさり隠していた。濡れたような黒い大きな瞳がそろえた前髪の下でくるくる動く。もうひとりの少女は無表情な三白眼。その瞳は澄んだ朱色だった。髪は完全に色素の抜けた白髪。対照的な外見だが二人ともバレンタイン・デー生まれのアストロツインだ。血のつながりこそ無いが従姉妹同士である。
「桐ちゃん、みっちゃん、小学校の制服似合ってるね。でもちょっとおうちから遠いんでしょ? 通学大丈夫?」
「大丈夫。バスで1本だもん。帰りはトンちゃんの高校に来てここのホタル見てから一緒に買い物するし」
 トンちゃんの8歳違いの妹、桐花は通い始めた私立小学校で早速イジメられているらしい。学区のかなりの面積がお社の勢力圏内なもので、霊感の強い生徒が多いのだろう。桐花の連れたホタルが中途半端に見えて気味悪がられているようなのだ。こんな外見でクォーターの魅月の方がよっぽどイジメられそうなものだが、彼女は幼女らしからぬ迫力で同級生の悪意を跳ね飛ばしていた。
「大丈夫。みっちゃんが一緒だし」
「うん、大丈夫。私がいるし」
 大丈夫、と2回繰り返す辺り、学校生活が大変なんだろうなとわかる。でも魅月が同じクラスというのは確かに心強いに違いない。

「都ちゃん、彼氏できた?」
 魅月が無表情でしれっと聞いてくる。それにしても端正な顔だ。憎たらしいことを言われたのに思わず見とれてしまう。木漏れ日が白い髪に透けて燦いている。アルビノに感じるような不健康さはない。生命力にあふれている。
「相変わらずおひとり様ですよ、すみませんね」
「去年一緒に来たへんしゅーちょーは? 面白いオッチャンだし、いいんじゃない?」
 ニヤつくこともなく、さらにしれっと言う。小学1年生の女の子ってこんな話し方するものだろうか?
「みっちゃん、都ちゃんはメンクイなのよ。トンちゃんのパパが基準なんだから、たいていのオトコは眼中にないの。ね、都ちゃん?」
 桐花がさらに追い討ちをかけて来る。といっても、私がいつもそう冗談めかしてはぐらかしてるのだから仕方ない。
「そうそう。3歳であんな男の人見ちゃうと一生決まっちゃうのよ」
 冗談に紛らしているが、本当のことだ。あれから20年余、タカちゃんを超える人なんか見つからない。
「うちの父親は負けないぐらいびけーでゆーしゅーだと思うけど、もちろんあげないわよ」
「大丈夫。瑠奈と張り合う気はありません」
 この白黒美少女コンビと会う度に、いつもこの一連の流れを繰り返している。挨拶のようなものだ。

 無表情でクールに見えて、魅月はけっして薄情な子などではない。柱の姫の後継者でそれでなくともいろいろとプレッシャーがかかっている桐花に対して、魅月は保護者めいた意識があるらしい。実際、結界の歪みなどでしょっちゅうトランス状態に陥る桐花を引っ張り戻すのは魅月なのだ。学校でもイジメられっ子に喰ってかかって桐花を守っている。
 魅月と母親の瑠那は、私の兄と同じ体質なのだ。何と言うかニュートラル。ホタルや妖魔が見えるくせに必要以上に怖がらず嫌わない。ちょっと風変わりな隣人という距離感でうまくつきあっている。そして結界の影響を受けない。ホタルが見えるのだから霊的不感症というわけでもない。いそうでなかなかいない人材なのだ。瑠那は、先代の柱の姫、桜さんが方々探し回って見つけて来て、養女に迎えた。11歳まで施設で育った彼女は、兄が言うには最初なかなか打ち解けなかったらしい。まるでメイドのように走り回っていた。
「自分が選ばれるわけない、私は義姉さま達と違う、って勝手にシンデレラやってる感じだったね」
と、兄が言う。おせっかいな性質の兄は当時お社に下宿していたので、買い物だの境内の落ち葉掃きだのヤケクソに家事を手伝う瑠那にしょっちゅうちょっかい出してイヤがられていたらしい。
「あそこ、オバさん、オバアさんばかりじゃん。お姫さまはジミーな着物しか着たがらないし、遠出もできないし、そんなとこに瑠那だろ。恰好の餌食なわけ」
 恰好の餌食。庇護欲の。とっかえひっかえ着せ替えされて、あちこち引っ張り回して、シャワーのように可愛いがる。容易に想像できる。私も10歳で初めてお社に行った時にもみくちゃにされた。
「新しい服着せてもらうと、もったいないって尻込みするし、俺が可愛いってホメると泣いて怒るし」
 いくらおめかしさせてもらって可愛い可愛いと言われても、自惚れられない気持ちはよくわかる。私と瑠那はひとつ違いなのだ。お雛様のように綺羅綺羅しい、タカちゃんとお姫さまのカップルを見てしまったら、自分は脇役なのだと最初から弁えて控えていた方が自尊心が守れるというものだ。彼女の気持ちを勝手に忖度するのは失礼なのかもしれないけど。でも少なくとも、兄が瑠那を放っておけなかった心理は、彼女に私のイメージを重ねていたのかもしれないな、と思う。そんな瑠那もやたらイケメンな日伊ハーフの伴侶を見つけて可愛い娘を授かって、イジケ虫から脱却したようだ。娘のみっちゃんは屈託なく立派に毒舌美少女に育っている。瑠奈とひとつ違いの私は年齢イコール彼氏無しだと言うのに。

 弓道の道着を着て桐花や魅月と話しているトンちゃんを見ていると、あの頃の気持ちを思い出して胸がチリッと痛んだ。とは言え、トンちゃんは同じ銀の髪、金の瞳でもタカちゃんとあんまり似ていない。造作はそんなに違わないと思うのだけど、何だろう、表情かな。じっと見ていると、トンちゃんが顔を上げてこっちを向いた。
「都、疲れてるんじゃない? 平気?」
「こら、妙齢の女性に”疲れてる?”なんて聞くもんじゃない。化粧のノリ悪いって言ってるようなもんでしょ」
「どうせ都は化粧なんかしてないじゃん。そんなんじゃないよ。都のことだから休みもらうのにがんばって仕事終わらせて来たんだろ」
 大当たり。二徹である。
「大丈夫。新幹線で寝たから」
「寝てないくせに。そんなで弓引ける?」
「大丈夫。引けば元気になる」
 高校1年生の男子ってこんな気遣いするものだろうか。トンちゃんの場合、特別だろう。病弱の母親とイジメられっ子の妹に対する過保護な愛情と、義理の父親に対する対抗心でフツウの15歳より気が回るのかもしれない。

「でもホントいいの? 私、部外者なのに弓道場使わせてもらって」
 トンちゃんはにやっと笑った。
「顧問の先生以下、部員一同先週から楽しみにしてるよ、都の演武」
「え、演武?」
「OB、OGまで集まってる」
「え」
「竹弓、白袴、一式持って来たから蟇目矢引いてね」
「え」

 呆然としたままトンちゃんに引っ張られて弓道場に連れて行かれた。桐花と魅月もしずしずついて来る。
「牧野先生。お話してたイトコ……じゃないな。祖母の妹の娘に当たる高山都です。それと妹たち」
「お祖母さんの妹さんの娘さんというと、それはイトコ違いって言うヤツだな。こんにちは。ここの顧問の牧野です。南部先生のお弟子さんですよね。関東大会で拝見しました。全日本を辞退されたのが残念でしたよ。3年前に六段取られたまま審査を受けてらっしゃらないようですし」
「す、すみません。就職して練習もままならなくて」
 恐縮してしまった。満叔父さんにはお世話になっているのに、最近は教室の手伝いもなかなかできない。本当は上の大会に進んだり、昇段したりすれば教室の評価も上がるのに。満叔父さんは、タカちゃん、きーちゃんのお父さん、咲さんのダンナさんだ。タカちゃんがああいう風な子だったので、タカちゃんが生まれてから咲さんはほとんどお社に詰めっ放し。満さんは長男の仁史さんと関東に留守番して道場を守っている。ふたりとも、年の二度のお社の神事には弓を引きにやってくる。つまり、叔父さんの弓道場はお社の結界の重要拠点のひとつなのだ。
「いやいや。こちらこそ勝手にいろいろすみません。しかし女性で師範を狙える人材は貴重です。今日はぜひうちの生徒に演武を披露してやってください」
「え、でも」
 こんな場所で衆人環視の中、弓なんて引いたら。
「大丈夫。先生、見える人だから。装束でテキトーに誤魔化せるし」
 トンちゃんがこそっと言う。
「ええ。そろそろ暮れ時で逆光になりますし、何かあれば私がテキトーに誤魔化しますよ」
 牧野先生もにこにこする。つまり、こちらの事情は了解済みというわけだ。
「織居にはいつも手伝ってもらってますからね。うちの部員はほとんど高校で始めた子ばかりで、なかなか地区大会に出る頭数が揃わないんですよ」
 つまり正式な部員じゃないがピンチヒッターとして大会に出たりしているらしい。学生の時の私と同じだ。

「控え室、こちらです。お装束付けるの、お手伝いしましょうか」
 女子部員が案内してくれた。
「ありがとう。助かります」
 白い着物に白足袋、白袴。白い狩衣に襷。胸当てに弓掛け。くせっ毛をきゅっとゴムでひっつめた上から冠を着ける。これで髪が少しは隠れる。神事の一種なので、そういうものかと思ってもらおう。浅沓は履かずに足袋のままで行く。桐花と魅月は慣れたもので、自分でてきぱき緋袴をつけている。

 本当に生徒や卒業生らしい男女がズラリと座っている。仕方ない。しかし演武披露という形なら部外者でも堂々と引けるというものだ。

 男子用の控室から同じ装束のトンちゃんが出て来てにやっとした。
「ひとりより二人の方が、らしい、だろ? つきあうよ」
 
 ドンちゃんがすっと傍に来た。牧野先生はちら、と視線を移しただけだったが、生徒が何人か、あれっと言う顔をする。目を凝らして、あれれ、と首をひねっている。まずい。見える子がけっこういる。さすが”節”の上で毎日過ごしているだけある。
 ”あっちは用意できた。いつでもいいぞ”
 そう耳打ちしてすうと消えた。生徒たちがまた、あれれと首をきょときょとさせる。

 牧野先生が三方に新しい酒、水、塩、お米を用意して左手に供えてくださっていた。そして安土には白い幕。
 トンちゃんと並んで道場に入る。呼吸を整え、きゅっと90度回って的を向き、射位の3歩手前で正座する。桐花はトンちゃんの後ろ、魅月は私の後ろにすっと屈む。的の向こう、池を囲む木立の方からリーン、リーンと涼しい鈴のような音が聞こえる。ホタルの合図だ。
 きーちゃん、鏡ちゃん、ドンちゃんが桂清水に浸したヒイラギを池の周りに刺したはずだ。そしてそれぞれ手にはオガタマノキの枝。桐花と魅月の額を飾る白帯にも桂清水で清めた枝が左右に挿してある。
 私もドンちゃんに合図を返す。

 ”こちらもいいわ。行くわよ” 


 ◇ ◇ ◇   ◇ ◇ ◇   ◇ ◇ ◇   ◇ ◇ ◇


  金の瞳の姫には3人の妹姫がいた。
 姉姫が奈落に身を投じて一生懸命なだめているにも関わらず、竜宮さまは姫を悲しませた人の世なんか壊して緑豊かな森と野に還そうと考えていた。どうやら妹姫たちのことは姉姫ほど可哀想と思ってくれなかったようだ。そもそも、都だの寺だの醜悪なできものを作るために竜宮さまの物である地底の宝を掘り返して、静かに眠らせておくべき毒を撒き散らし、竜宮さまの眷属が住まう森をはげ山にした人間に対して、竜宮さまはずっと怒っていた。海の底でうとうと眠っていた竜宮さまを起こしたのは、そもそも人間の営みなのである。
 寝ぼけて不機嫌な竜宮さまは寝返りのついでに都をつぶすつもりだった。

「そもそも、その竜宮さまって何なの。竜みたいなもの?」
 私は鏡ちゃんに聞いたことがある。
「環太平洋造山プレート」
「何それ」
 鏡ちゃんは頭をひねりながら説明してくれた。
「いや、オレもこの身体に入ってからいろいろ勉強してみたんだが、目に見える形だとそういうことになる。いちばん近いところだと、フォッサマグナとかええと、活断層? でもひとつじゃなくて、深いところで全部つながってるんだ」
「どうしてそんなものが阿鳥を気に入ったりするの」
「だから、目に見える形ならっていったろ。別の相で見ると重力構造の異常だとか、地熱の分布とか水銀や鉛の鉱脈とかになる」
「ますますわからないわ」
「つまりもともと人間の世の中と関わりのない時間枠で動くモノなんだよ。でもあの時は200年かそこらに急にガチャガチャやったからな」

 都の周辺の乱れでイライラして寝不足だった竜宮が阿鳥を見つけた。彼女の声と耳が特殊だったからだ。
「波長って言うのかな。鷹史もそうだった。重力の歪みを音で感じて、それを調律する声を出すことができた。機嫌が悪いとぶっ壊す音も出せたがな。自分の声だと微調整が難しいので、鷹史は楽器とか金物みたいなものを使っていたけどな。こう、枝をたわめて糸を張ったようなものでも、工夫してどうにかしてたみたいだぞ」

 3人の妹姫の子孫は、この1000年、日々結界の修繕をして来たが、そのやり方はそれぞれ違う。水脈の濁りや地脈の歪みを音で感じるもの、温度でとらえるもの、匂い、色、それぞれで探知して、それぞれ自分に合った方法で調律する。

 私は歌を歌えないし楽器もできないから、弓を使う。矢が空を切る、その音が効くのか、的を狙うその集中力が効いているのか、よくわからない。トンちゃんと咲さんも弓を引く。トンちゃんは笛を使うこともある。まあ、その時に手元にあるモノで何とかしているわけだ。


 池の傍で鏡ちゃんが朱色の笛を吹く。その音が弓道場で演武の用意をしている私たちの耳にも届く。ドンちゃんが幼体のホタルを呼び寄せて、自分を囲むように輪を描かせ始めた。見えないけど見える。お社では咲さんが鈴をしゃらららんと振る。聞こえないけど聞こえる。
 私たちの作るそれぞれの輪がつながって響き合うのを感じる。青い空間が私たちを包んで輝き始める。ホタルのリーリーという声、咲さんの鈴の音、鏡ちゃんの笛が空間を満たす。

 この青い光のどこかにタカちゃんがいる。私が魔女業をつづける限り、タカちゃんをつながっていられる。

 私とトンちゃんは膝を床につけたまま、つま先を起こして的に礼をする。深く息を吸い、印を結んだ右手をすうっと前に伸ばして、声をそろえて呪を唱えた。

 光が強くなる。リーリーという音が一段を大きくなって耳の鼓膜がしびれるようだ。

 重心を前に移して片膝を起こす。後ろに控えた桐花がトンちゃんに、魅月が私に鏑矢を1本ずつ手渡した。その弓から2人が額に挿したオガタマノキの枝の波長が伝わってくる。

 足踏みして的に向かう。取懸け、手の内を整え、弓構えの動作に合わせて、きーちゃんが池の傍をドスンと踏んでいるのが伝わる。その地響きにいたたまれなくなった濁りが地面や水面から湧き上がり、笛とホタルの声に絡め取られて空中で震え始めた。きーちゃんがまたドスンと踏み締める。

 打ち起こし、引き分ける。

 鈴の音、笛の響き、ホタルのさざめく声がひとつになって、今ではビリビリと空間を揺らしている。青い光が一層強くなって、青白く輝き始めた。

 会。

 さらに光度を増して、白くまばゆい空間が、ふいにシンと鎮まり返った。
 足元がすうっと透けて、海の底が見える。でもあの時のように暗くない。怖くない。

 タカちゃんが、私とトンちゃんを、きーちゃんを、桐花や魅月、お社のお姫様、そして日々走り回っている私たち全部、この汚く騒がしい人の世を、守ってくれている。

 矢を放った瞬間、空間が揺れた。矢はブウウンともビイイインともつかない音を放って、笛に絡め取られた濁りを切り裂いた。

 第二射。今度はピイイイイイイと聴こえた。弓が空を切る音が、鏡ちゃんの笛と重なった。シンとした光の中を、ピイイイイインと弓が走って行く。それは的を通り越し、池の上を越え、北の山々の連なりを越えて海を目指した。
 春の真昼の海のような、穏やかな金色の水面がふたつに分かれた。

 嗚呼。静かだ。波の音が聴こえる。どこかから白梅の涼しい香りが漂ってくる。この風景はどこだろう。金の瞳の姫が行きたかったところだろうか。冷たい澄んだ空気。美しくて懐かしい空間。いつまでもここにいたい。でもいつまでもここにいたら、寂しいかもしれないな、とも思う。

 白い風景の一番奥で、お社の姫が箒で落ち葉を掃きながら微笑んでいる気がした。

 残心の姿勢のまま、私は目を閉じ、静かに息を吸う。少しずつ、白い光が穏やかになり、紫を帯びた夕闇の青さと、ほの暗いカシの木立の深い緑が還って来た。やかましいヒヨドリの声とせわしないメジロのおしゃべりが耳に届いた。

 嗚呼。私はまたここに帰って来てしまった。小さくため息をついて、姿勢を戻す。

 桐花と魅月がとことこ幕まで歩いて矢を拾い上げ、とことこと戻って来た。本当は弓を拾う係り、受け取る係りとそれぞれ必要なのだが、家内制小規模産業なので大目に見てもらおう。私とトンちゃんは後ずさって三歩戻り、蹲踞の姿勢を取った。すっと立って、向き直ると牧野先生はニコニコ笑っていて、その他の一同はポカンとしていた。
 自分ではわからないが、本気で弓を引くと、特に祓いの念を込めて弓を放つと、私の外見が変わって見えるらしい。冠は飛んでいるし、きつく結ったはずのくせっ毛がほどけて長く肩までさらりと垂れている。多分今、私の目は緑に、髪は金色になっているはずだ。きーちゃんの評によると、二重あごも修正されて”三割増しぐらいの美人”に見えているそうだ。

「いやいや。珍しいものを見せていただきました。どこの流派の儀礼ですか?」
 何事もなかったように牧野先生が話かけて来たので、見ていたOBや生徒たちも首をかしげながら集まって来る。どのくらいの人達が、今の光や音が感じとっていたのだろう。私の変化に気づいたのは何人ぐらいだろう。
「お伊勢さんで蟇目の犠は見たことがあるんですが、今拝見したのを大分違ってました」
 私も当たり前のような顔をして雑談をすることにした。
「山陰の流派なんですが、古書を元に再現した儀礼ということで、私と兄がせっせと通って見せていただいたんです。人前で披露する許可をいただくのに三年かかりました」
「あ、そうか。都さんは高山の妹さんだっけ」
 牧野先生は生徒たちの方に向き直った。
「この方のお兄さんはお前たちの先輩だぞ。この高校の卒業生で、歴史マニアが嵩じて今は人文学の研究者だ。お前たちの好きな言葉でいうとミステリー・ハンターとか言うんだろ。どうせまたどこかヘンなところに行ってるんでしょう、高山は?」
「三日前がルーマニアのどちら側かの国境にいるというメールが来ました。多分、今頃どこかの修道院の書庫でも漁っているでしょう」
「私はあいつが二年生の時の担任でね。あのクラスは面白かった。織居のお父さんもいたし」
 私はびっくりした。目の前の先生とタカちゃんにそんなつながりがあったなんて。道理で私の外見が変わったぐらいで動じないはずだ。
「織居くんのお父さん? ここのOBだったんですか?」
 さっき着替えを手伝ってくれた女生徒が聞いて来た。
「それが二年の一学期でアメリカにさらわれてね。結局うちは中退だ。代わりにアメリカで物理の博士号取って帰って来た」
「え。それってスゴイことなんじゃないですか?」
「そうだねえ。私は通訳で一緒に行ったけど、本人は全然その気がないのにあちらがやたら熱心で面白かったよ」
 そうか。牧野先生はタカちゃんの言葉もわかったんだ。私はちらっとトンちゃんの方を見た。この年頃の男の子は父親の話をされるのをイヤがったりしないものだろうか。特にこんな飛び抜けた父親で、さらにその父親が亡くなってる場合。
 でもトンちゃんは慣れてるのか、しれっとした顔だった。積極的に会話に参加するでも無く、桐花たちと弓や幕を片付けていた。
「まあ、また高山から連絡あったら、私がよろしく言ってたと伝えてください。たまには母校に顔出せって」
「はい。伝えます」

 弓道場を辞してきーちゃん達と合流した。
「おー、お疲れさん。やっぱり弓引くと手っ取り早くていいな。都がいると楽でいいわ。お前、ずっとこっちにいればいいのに」
「キジロー、無茶いうなよ。都はあっちに仕事あるし、第一そうしたら誰が東を守るんだよ」
 トンちゃんは義理の父親を名前で呼ぶ。赤ん坊の頃から遊んでくれていた14歳上の叔父を、今更お父さんを呼べないのだろう。ましてや最大のライバルを。
 つまり、トンちゃんは強烈なマザコンなのだ。

「お袋から電話入った。サクヤの熱が下がったらしい。ついでに豆腐買って来いって言われた」
「都、お腹すいたろ。早く帰ろう」
 鏡ちゃんが肩をぽんと叩く。
「トンちゃん、今日のデザート何?」
「ブラマンジェ」
「やったあ。都ちゃん、早く帰ろう」
「おっちゃん、豆腐屋で豆乳シフォンケーキも買ってよ」
 お役目を終えた白黒コンビの心はもう晩御飯に飛んでいるらしい。

 確かにお腹がすいた。いつも、あの白い空間に行って帰って来た後は猛烈にお腹がすくのだ。そして寝不足の頭の重さや肩凝りも綺麗に取れていた。ついでにおでこの吹き出物も。顔をなでるとお肌がすべすべもちもちになっている。髪もサラサラだ。三割増し、か。鏡で見ても、写真に撮ってもこの外見の変化は見えない。それでも一定数の人には見えるらしい。これが全国大会も昇段試験も断念した理由だ。本気出すとこうなってしまう。

「都ちゃーん。行くよー」
 桐花が手を振っている。さあ、お社へ向かおう。お姫様に謁見だ。


 ◇ ◇ ◇   ◇ ◇ ◇   ◇ ◇ ◇   ◇ ◇ ◇


  お社の裏手から母屋の横にミニバンをつけて、きーちゃんが私の荷物を下し始めるとすぐ咲さんが出て来た。
「都ちゃん。はるばるありがとなあ。早速寄り道して、疲れたやろ?」
 多分まだ金色になってる私の髪をなでる。咲さんは私の母の2歳上の姉にあたる。ふっくらした包容力のある西の魔女。こうしていると普通のお母さんというかオバサンで、全国に轟くスゴい巫女という感じがしない。神社の横手で和裁とお花とお茶の先生をしている。”仕事でさんざん着るから”と普段は着物を着たがらない。今日は草木染めの薄手のカーディガンだ。

「都ちゃんの気はホント綺麗。東でずっとがんばってるんやもんね」
 髪をなでながら私の顔をじいっと見つめるので照れてしまった。
「お袋、都ハラ空かせてるんやから、すぐ飯にしよう」
 きーちゃんが声をかける。
「あ、そうやね。入り入り。部屋はいつものところにお布団出しといたよ。離れの西向き」
「お世話になります」
「都の荷物、運んどくから母屋に上がっとけ」
「ありがと、きーちゃん」

 白黒コンビと母屋の台所に行くと、柱の姫が頭に布巾巻いてたすき掛けて蒸し器の前に立っていた。
「都ちゃん。よう来たなあ。お腹すいたやろ。すぐご飯やし。お芋の饅頭も蒸かしとるんよ」
 腰まで届くまっすぐの髪をひとつに束ね、淡い桜色の着物の上に割烹着。私は姫が洋服を着ているところをほとんど見たことがない。先代の柱の姫、桜さんがどっさり残していった着物を身に着けているらしい。
「私、10歳ぐらいから急に背ぇ伸びちゃって可愛いお洋服が似合わなくて」と言ってるのを聞いたことがある。どうやらこの姫は自分が美人だと思ってないらしい。そこがまた悔しい。

「サクヤ! 何やっとんや。寝てろて言うたやろ!」
 後ろから台所に入って来たトンちゃんが大きな声で叱ったので、姫がびくっと身をすくませた。
「だって、もう熱も下がったし、せっかく都ちゃん来たんやし」
「だってやない。先週倒れたばっかりやないか!」
 トンちゃんは学校では標準語のくせに、家では方言が出るらしい。ケンケン怒っているトンちゃんの頭に、きーちゃんがぱふ、と大きな手を置いた。
「そう、ポンポン怒鳴るな。サクヤも寝てるの飽きたんだろ」

 ギロ、と音がしそうなぐらいの形相できーちゃんをにらみ返した後、トンちゃんはぷい、と台所を出て行った。
「お道具、片付けてくる」
「あ、私も手伝う」
 私は慌ててトンちゃんを追いかけた。

 境内の北側の脇に、弓道場と相撲の土俵がある。近所の子供たちがお稽古に来るし、お祭りでは奉納試合もある。竹弓に鏑矢を運び、まぐすねで麻弦に薬煉(くすね)を塗り込む。松脂の香りが漂う空間で無言で作業をした。装束は一枚ずつ丁寧に衛門にかけて風を通す。冠は木の棚に。
 トンちゃんがまだピリピリしているのがわかる。この子の母親に対する過保護ぶりはもちろん愛情から来ているんだろうけど、いささか神経症めいた切迫感がある。
「サクヤさん、先週倒れたの?」
 手を止めて返事をするまでに三呼吸ぐらいあった。
「うん」
「胸?」
「うん」
 水脈の濁りや地脈の歪みは、結界の要である柱の姫の身体にそのまま響く。多少のズレは日常茶飯事とは言え、今回の南紀の歪みはかなりのダメージに違いない。
 タカちゃんが消えた時、トンちゃんは3つにもなっていなかった。あの時のことを、この子はどのぐらい覚えているのだろう。あの奈落を、この子は見たんだろうか。どんなに手を伸ばしても届かない、どんなに叫んでも声が吸い込まれてしまう、あの絶望的な奈落。人の思いなど意味もない彼岸の世界。
 また母親をあの空間に奪われるかもしれない。トンちゃんはそんな恐怖感をずっと抱えて育って来たのだろう。いっぽう、サクヤさんの方もトンちゃんを奪われたくない。そしてひとりでもしっかり育てなくちゃ、と互いに気を張ってほがらかに過ごして来た。トンちゃんが泣いても雨は降らないはずなのだが、私はこの子が泣いているところを見たことがない。サクヤさんの泣いているところも見たことがない。トンちゃんはいつもハキハキいい子だし、サクヤさんはいつもふんわり微笑んでいる。

 普通の反抗期の男の子のように、こうして母親を怒鳴ったり、義父親にスネて見せたりできるようになって、良かったな、と思う。きーちゃんがサクヤさんと再婚した時、トンちゃんはかなり荒れたらしい。子供らしく八つ当たりしている姿を見て、周囲の大人はかなり安心したそうだ。母親ひとりに集中していた愛情が、妹2人にも分散したのも健康的だと言える。
「湯豆腐ならサクヤさんも一緒に食べられるでしょ。ご飯行こう」
「うん」
 こうして私の前でスネたところを見せて甘えてくれるのも、特権扱いのようでうれしい。タカちゃんに似た銀の髪、金の瞳の、タカちゃんに似てない総領息子。家族以外にはひとことも話さず、話がわかっているんだかわかっていないんだかいつもニコニコ笑っていて、何というか不憫で商店街でも学校でもタカちゃんは大人達にモーレツに可愛がられていた。その人気は今も絶大で、タカちゃんのカリスマが今もトンちゃんを守っている。きーちゃんがサクヤさんとの再婚を決めた理由の3割ぐらいは、トンちゃんへの愛情のような気がする。そして私の兄は人文学への道に進んだのも。親友の忘れ形見を守るために、自分に出来る最良の方法を選んだのだと思う。兄は世界中うろうろして、さらわれた黒曜を探しているのだ。

「トンちゃーん、湯豆腐もう食べられるよー」
 白黒コンビが弓道場に呼びに来た。
「トンすけ、いい年こいていい加減直しなさいよ、そのマザコン。みっともないわよ」
 魅月がズケズケつっこむのでハラハラしてしまう。
「ほっとけ。そういうこと言うヤツにはデザート食わせん」
「何それオーボー」
「トンちゃん、マザコンはモテないよ」
 ぎゃあぎゃあ騒ぎながら境内を横切って母屋に戻る3人を見ながらちょっとほっとした。大丈夫。いろいろあるけど、この家族は大丈夫。

 ふわっと甘い香りが漂って来て足を止めた。
 母屋の東南側、サクヤ姫の部屋に面した庭の一角が白い花で溢れていた。もう目の前に差し出した自分の手の輪郭さえ定かに見えない青い夕闇の中、白い花々の群れは胸を衝くほど美しかった。梨の花、雪柳、コデマリ、スノーボール。ユスラウメにヒメウツギ、エゴノキ。草花もみんな白。原種の白いチューリップ。白いハナショウブ。白いライラック。さまざまな彩度、さまざまな形と香りの白い花々で埋もれるこの庭は、遠くに出かけられないサクヤのために、彼女の父親が作ったものだそうだ。季節季節に、誕生日やクリスマスの度に、ここの花を増やして来た。父親が亡くなった後は、その仕事をタカちゃんが引き継いだ。庭の中心の大きなサルスベリは、毎年夏になると降るように真っ白な花をつける。プロポーズした時に、タカちゃんがサクヤに贈った木なのだそうだ。

 どんな指輪も、どんな言葉も、敵わない。

 庭の前で佇んでいる間に涙があふれて来た。敵わない。誰もこんな風に私を愛してくれない。
 泡になって消えてしまえればいいのに。こんな美しい庭の影で、妬んで僻んでみっともなく泣いているしかないなんて。

「おーい。しんじょ、無くなるで」
 わざとカコカコ、草履の音を立てながらきーちゃんが近づいて来た。でかい身体に三白眼気味のひとえの眼、ボサボサの髪でいかにもガサツそうに見えながら、きーちゃんは気遣いが細やかだ。どうせ私がベソかいてるのもお見通しに違いない。

「きーちゃんは何か、花、あげたの?」
 私は鼻をすすって聞いてみた。
「へ? 何の話や?」 
「サクヤさんにプロポーズした時」
「ああ。サルスベリ。ピンクのやつ」
「へえ」
「ほら、ここいらへん」
 サクヤの部屋から縁側続きの南の池の傍に、確かにサルスベリがあった。まだ樹高が小さい。その根元にひと群れのピンクのオドリコソウが咲いていた。それに大小のツツジがピンクの花をつけている。
「きーちゃん、花の趣味、フェミニン」
「ほっとけ。白い花はもうネタ切れや」
「サクヤさん、指輪とか着物とか喜ばないし?」
「白い花ばっかしやと寂しいやろ」
「うん、そうね。いいと思うわよ、ピンクの庭」
「瑠奈と佐伯も来た。あの母子がそろうとホントにデザート残らんぞ」
「あっ。ブラマンジェとシフォンケーキ」
「そうそう」

 きーちゃんがにやっと笑って私の頭にぽふっと大きな手を載せた。
「ほれ、飯食うぞ」 




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