
船旅の間、2人の娘はずっとキジローに付き添っていた。
覚悟はしていたものの、久しぶりに会ったキジローの様子にスオミはショックを受けていた。肋骨どころか首の椎骨もひとつひとつ数えられるほど痩せてしまっている。肌には張りもツヤも無くて、触るとパリパリと破けてしまいそうだ。固形の食物をほとんど受け付けないので、常に混合栄養剤を点滴している。痛み止めや吐き気を抑える薬をフルに使っても、水さえ吐いてしまうことが往々にあった。
キジローはボニーの手をとった。
「あんたがはるばる来てくれたお陰で、俺はやっとイドラに帰る勇気が出た。ありがとう」
目を潤ませているボニーに、キジローはにやっと笑いかけた。
「それでな、そのカタコトも可愛いがイドラの言葉で話していいぞ。そっちのが話し易いんだろ?」
ボニーは再会して初めて、ふっと微笑んだ。
「ええ」
「じゃ、話してくれ。今、イドラはどんな風だ?」
キジローはイドラに最初の慈雨が降ったところも、その後、日に日に荒地に花が増えていく様もよく覚えていた。それにテトラの中で道々スオミとボニーに話してもらっていた。
それでもこの変貌には驚かないではいられなかった。
宙港で入国許可をもらった後、エクルーはドームに戻る前にテトラで脊梁山地の周りを一巡した。
スオミは寝台の背を起こして、キジローに風景が見えるように支えた。ボニーが花や木を指差して名前をひとつひとつ教えた。
8年前と空気が全然違う。空の色も違う。
清潔でぴりぴりと冷たかった空気が、しっとりと水分を含んで肌に馴染む。遠くの山が青紫に滲んで見える。潅木の間に成長の早い柳やハンノキが林を作り始めていた。
日が傾き初めて、気の早い鳥たちが塒に戻るために大きな群れを作ってギャアギャアと騒いでいた。山麓の雪が解けたところから色とりどりの雪割り草が花開いている。そして花から花へ蜜を求めて飛ぶ蜂や蝶。
この景色を見せてやりたかった。
スオミやエクルーがムービーに撮って来てはサクヤやキジローに見せてくれてはいたが、どこか信じられないでいた。この星の再生のためにどれほどの犠牲が払われたのか。でもその代償としてどれほどの恵みが与えられたか。
この土地に立って、この風を空気を味あわせてやりたかった。
一番喜んだはずの人に。
サクヤが散ってから、キジローは一度も泣かなかった。
泣いてしまったら、自分の中で何かが終わってしまう気がして、泣けなかった。自分にはまだ預かっている物がある。それを返すまで、終わらせるわけにいかない。
でも今初めて、キジローは泣いてしまいたくなった。
なぜこれを見せてやらなかったんだろう。どれほどのものをあきらめて、サクヤが自分の傍にいてくれたか。それが今、目の前に広がっている。
泣けないでいるキジローの両側で、スオミとボニーが代わりに涙を流していた。
温室ドームも様変わりしていた。主がずっと不在なので、すっかり公共の場所になっている。イドリアンの子供たちの託児所で、スオミの出張診療所で、図書館でもある。ドームは大きな水脈の上にあってその周囲に柔らかい草が生えるので、乳離れしたルパが防風林を囲んだ柵の中に放されていた。
ドームの中からいくらでもイドリアンの子供が出てくるので、キジローは驚いた。
「お静かに。もうすぐお迎えが来ますから、ちゃんと上着を着て」
執事ロボットだったはずのゲオルグとヘルベルトが保父役になっていた。
「ダンナ様、お帰りなさいませ」
アマデウスがキジローを出迎えた。
「サン・ルームを温めておきました。どうぞ、こちらへ」
ペトリの種苗を保存していた苗床が、今は明るいサン・ルームになっていた。分厚い保温性の壁を取り払って、強化プラスチックの高窓に囲まれている。いくつかの医療器具も運び込まれていた。
「父さん、少し休んで。今、エクルーがスープ持ってきてくれるから」
「スープよりバーボンがいい」
「父さん!」
スオミに叱られながら、キジローはうとうとし始めた。温めたスープが届いた時には、もうぐっすりと眠りに落ちていた。
「寝かせておきましょう。長旅の疲れが出たのよ」
「でも食後の薬は?」
「大丈夫。点滴のバッグにつないで注入するわ。少し室温を下げましょうか。灯りもしぼって」
「私、ついててもいいですか?」
ボニーが申し出た。
「いいえ。あなたは一度、家に帰りなさいよ。ずいぶん長く留守にしてるでしょう? うちは後でアルが来てくれるから」
「でも……」
「大丈夫。バイタルは安定している。すぐにどうこうなったりしない。もし急変したら、呼びに行くから」
「必ず?」
「必ず」
ボニーはしばらく躊躇っていたが、スオミに見送られて帰っていった。
”もし急変したら”
その”もし”がいつ起こってもおかしくないことを、テトラで帰って来た全員が知っていた。他でもないキジロー自身が一番よくわかっていた。でもキジローの”用事”はまだ済んでいない。
あと少し。あともう少し時間が稼げれば。
「俺もいっぺん家に帰る。何か必要なものはあるか?」
「そうだな。新鮮な卵とミルクを頼む。それから何か旬の野菜があれば」
「わかった。雪で囲っておいた青菜と白根が甘くなってるだろうから、明日の朝持ってくるよ」
「できればメドゥーラも一緒に連れてきてくれないか」
「わかった」
そうしてグレンも放牧地に帰っていった。
こうして最初の夜は平和に過ぎた。
ところが翌日、爆弾が落ちた。
キジローではなく、エクルーの上に。
翌日の午後には、キジローも床から離れて車椅子で日向ぼっこできるぐらいに元気になった。
一同が温室のソファに座ってお茶を飲んだいる時、エクルーがふいに言い出した。
「もう壊れちゃった、俺とサクヤの星の話したっけ?」
「ああ、そういえば昔言ってたな」
キジローはうなずいた。
「じゃあ、キジローがサクヤの義理の兄さんに似てるって話は?」
「その話は覚えてる」
「星が壊れる前、移住船をとばして宇宙中に散らばったんだ。そして、そこの星の人間と混血しながら生き延びた。時々、スオミみたいに覚醒して記憶がよみがえる人もいるけど、たいていはただ静かに血を受け継いでいる。でも本当の血統だ」
その辺りまでの事情はグレンも把握していた。
「何が言いたいんだ?」
「キジローは俺達の星の血が入ってると思う。つまりボニーにも」
キジローはあんぐりと口を開けた。
「あんたは最初から、サクヤの予知夢を共有していた。俺のテレパシーにふり返った。俺達の波長に相性が良すぎたんだ」
それに、とキジローの胸を差した。
「サクヤの光を飲み込んだろう? あれが何よりの証拠だ。ふつう人の身体を素通りするんだ」
絶句しているキジローに構わず、エクルーは話を続けた。
「今だから言うけど、ぺトラに行くずっと前からボニーが俺の夢に現れた。キジローに会う前だよ。だからボニーが誰かも知らないまま、ただ、きれいな夢だ、とあこがれていた」
夢の内容を知っているボニーは、眉根を寄せて唇をきゅっと結んでいた。
「サクヤがずっと彷徨ってたのは、生き残りが幸せに生きているか確かめるためだった。俺はサクヤの傍にいたかっただけだ。だからサクヤにつきあって、ずっと2人きりで宇宙を旅してきた。で、スオミに会えて、キジローに会った。ボニーにも会えた。サクヤがどのくらいわかってたか知らないけど、結果的にサクヤは願いを叶えて散っていくことができたんだよ。だろ?」
サクヤは一同を見回した。
「スオミ、今幸せなんだろ? アルと」
スオミは自分のお腹にそっと手を当てた。秋には子供が生まれてくる。
「キジローは? サクヤと過ごしてどうだった? 何かまだうじうじ後悔してるみたいだけど。比喩とか慰めじゃなくてさ、キジローが幸せならサクヤは幸せだったんだよ。だってそのために旅してきたんだから」
キジローはまだ言葉が出てこなかった。
「ボニーは? 今、幸せ?」
ボニーはそれに答えずにふいに立ち上がった。そして温室のナーサリー・ルームから子供をひとり連れて来た。7,8才くらいの黒髪の少女で、手に本を持っている。
「私の娘です。今はサラと呼んでいますが……エクルー、あなたがいいと言って下さったら、サクヤと名付けたいんです。彼女がずっとこの星で生きていけるように」
キジローもエクルーもぽかんとした。そんなこと、考えもしなかった。
「ボニーの娘?」
「そうです。アカデミーはどういうわけかフロロイドに生殖能力を残しておいた。思春期に入る前に処分するつもりだったのかもしれませんが……。アズアは……もう3年前に泉に還りました。でも、サラはまったくの生身の子供です。きっとイドリアンと同じくらい長生きするわ」
サラはとことことキジローの車椅子まで歩いて行った。
「おじさん、ご病気なの? 苦しそう。サラの手をにぎって。いい? ゆっくりと深呼吸して。私と息を合わせて……吸って、吐いて、吸って……ああ、少し手が温かくなった。今、お茶を入れて来てあげる。待ってて」
「サラはこのドームのナース見習いなんです。メドゥーラにも筋がいいってほめられたんですよ」
ボニーがほこらしげに微笑んだ。
「私が泉に還っても、あの子はこの星で、この星の人に愛されて生きてゆけます」
サラが幼い少女と思えない、危なげのない姿勢でお茶を運んできた。
「エルダーとカモミールのお茶です。ちょっとハチミツとジンジャーも入れてみたの。どうかしら」
「ああ、うまいよ。身体が楽になった。温まるよ」
サラの顔がぱあっと明るくなった。
「本当? 楽になった? 良かった。おじさん、またドームに来る? 私、毎日作ってあげる」
「うん、また来る。というか、昨日から、このドームに住んでいるんだ」
「俺も、一緒にね」
エクルーがつけ加えた。
サラがいぶかしげな顔で、母親を振り返った。だが答えをもらう前に、すぐまた2人の男の方を見た。
「キジローと、エクルー? 前にこのドームに住んでた……?」
「そうだ。初めまして、だな。サラ」
サラは最初のしっかりものの態度が消えて、後ずさりしてボニーの後ろにかくれた。
こわばった表情で、母親の服のすそをにぎって泣き出した。
「サラ、どうした。こっちへ来てくれよ」
キジローが手を差し伸べて呼びかけた。
「だって、だって、母さんは……父さんは……エクルーは……」
サラはうぇっうぇっと本格的に泣き出しそうだった。
その時ガシャーンとカップを落として、キジローが胸を押さえた。
「う、息が……」
サラが涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、キジローにかけよった。
「おじさん、おじさん、大丈夫? パニックにならないで。ゆっくり息を吸って」
必死で抱きついて来たサラの両手をつかまえて、キジローはニヤニヤした。
「ひっかかった」
「えっ、ウソだったの?」
「サクヤも良く、この手にはだまされた」
サラは泣いていいのか、笑っていいのか、くしゃくしゃの顔をしていた。
「本当に? おじさん、苦しくないの? 大丈夫?」
「うん、大丈夫。お茶をこぼして悪かった。ちゃんと効いたよ。それでな、おじさんじゃなくて、おじいさんと呼んでくれないか」
「だって、おじさんはまだお若いわ」
「つまり、おじさんは、サラのお母さんのお父さんだから」
「ママのパパ? 本当なの?」
ボニーは両手を口にあてて、涙をこぼしながらうなづいた。
「本当だ。ずっと別の星にいたけど、ここから一緒に暮らすんだ。ついでにいうと、こいつはママの兄弟だからこっちは本当におじさんってことになる」
「できればおじさんじゃなくて、エクルーと呼んでくれれば有難いけどね」
「すごい。パパがいなくなって、ママと2人きりだと思っていたのに、いっぺんにおじさんとおじいさんが出来た。ねっ、すごいね、ママ」
ボニーはまだぽろぽろ泣いていた。
エクルーとキジローはしばらく顔を見合わせていたが、やがて言った。
「サラの名前の件、ボニーに任せるよ。俺たちに異存はない。この子になら、名前を継いでもらいたい」
その午後、エクルーの眼はずっと小さなサラを追っていた。明るい笑顔。サーリャの母親があんな形で死ななければ、サクヤがこんなに長い間、宇宙をさまよわなくてすめば、こんな風に笑ったのでは、と思える未来を信じる力を持った笑顔だった。
子供たちが帰ってドームは静かになった。
スオミも放牧地の自分の診療所に戻った。
サン・ルームで星を見ながら2人でバーボンを飲む。
「小さいサクヤに見つかったら、しかられるんじゃないか?」
エクルーが指摘すると、キジローは顔をくしゃっと歪めて笑った。
「くっくっ、あのこははいいコだ」
「おっさんも、けっこうお茶目な手をつかうね」
「こっちは時間がないんだ。のんびり和解しているヒマはない」
「不思議だね、あのコ、サーリャにもサクヤにもボニーにも似てる」
ニヤッと笑って今度はキジローが指摘した。
「つまり、お前の理想のタイプだろう?」
バーボンを注いでいたエクルーの手が止まった。
グラスがあふれる前に、キジローが瓶を取り上げた。
「お前、ちゃんと自覚しとけよ。まあ、もともと血のつながりなんて無いに等しいが、この星系の法律上では叔父と姪は結婚できるんだ。ちょうどお前がサーリャを見つけた年頃だろう。サクヤを失って、心が空っぽだ。条件がそろいすぎ……」
「やめてくれよ」
珍しく、エクルーが声を荒げて、立ち上がった。
「グラス置いといてくれ。朝片づける。俺はもう寝る」
「お休み」
キジローは、後ろ姿に手を振って、ぼそりと言った。
「悩ましい青春だね」
(しかし俺にとっちゃあ、どうなんだ? 息子と孫の組み合わせなんてアリか?)
キジローはもう1杯ロックを作った。
「ふう、楽しくなってきたじゃじゃないか。なあ、姫さんよ」
グラスを宙に向ってちょっとあげた。
「あんたの星は、あの娘に渡そうか? どう思う?」
翌朝まだ早い時間に、ボニー親子がやってきた。
「グラン・パ、ご機嫌いかが? おでこと手を拝借。ん、お酒臭い。お酒飲んだ?」
「バレたか。寝る前にちょっとな。3杯ばかり」
サラは大人びたポーズでちょっと大げさにため息をつく。
「仕方ないわね。でも過ごさなければ、お酒は一番いい薬なんですって。酔っ払らわないって約束してくれる?」
「わかった約束しよう」
朝食のトレイを持って来ながら、ボニーがくすくす笑った。
「昨夜は、この子ったらあなた方の話ばかり。なかなか寝付いてくれなくって」
ボニーは娘の背中にやさしく手をそえた。
「ほら、あなた、おじい様にお話しすることがあったでしょう?」
顔を赤く染めて、サラはキジローの左腕に両手をかけた。ちょっとつま先だって、耳のそばで話した。
「あのね、私、昨日、サクヤになったの。サクヤって呼んでくれる?」
「わかった。そう呼ぼう」
「サラとサクヤは同じ人なのね。でもサクヤが本当の名前なんですって。そうなの?」
「そうだよ。花を咲かせるお姫様の名前だ」
サクヤはぱっと顔が明るくなった。
「本当? 素敵。どんな人だった?」
「それは、あいつの方が詳しい」
よく眠れなかった顔で、サンルームに入って来たエクルーに小さなサクヤが飛びついた。
「おはよう、エクルー! サクヤの話をしてくれる?」
「その話なら、おじいちゃんに聞いてくれ。俺はちょっとグレンに用事が……」
「グレンなら午後来るってメール来てたぞ」
「メドゥーラに用事があるんだ」
エクルーはくるっと背を向けて、ハンガーへのドアに出て行った。
首から耳まで真っ赤だった。
「こりゃあ、薬が効きすぎたかな」
弁当を持ってハンガーまで追いかけて来たボニーに、エクルーは決まり悪そうに頼んだ。
「すいません。今日1日、キジローを見ててもらえないかな」
「それはもちろんかまいません。毎日温室でナニーをやってますから。でも……やはり、いけませんでしたか?」
「えっ」
「名前をいただくなんて、やっぱりずうずうしかったんじゃないかと、昨日考えていたんです。」
「そんなことない。サクヤもきっと喜んでるよ。似合ってると思うし……」
言いながら、またエクルーは真っ赤になってしまった。
「ごめん。ちょっと頭を冷やしてきます」
「それで何の相談だって」
メドゥーラはむずかしい顔をして、いろりの横に座った。
「いや何というか。何に悩んでるのかも、自分で良く分からなくって……何か混乱してて」
メドゥーラはため息をついた。
「銀髪のエクルーは、優男の外見の割に、ハラのすわった男だった。まあ3000年も生きてりゃ多少のハラもすわるだろうが……。それにこの星に来た時から、あの子は覚悟してたんだものねえ」
メドゥーラはキセルをふかした。
「ほれ、お前もやるか?」
エクルーは慣れないキセルと格闘したがどうにか一息吸い込んだ。メドゥーラはくつくつ笑った。
「坊やは得な星回りだねえ。心配してくれる女に事欠かないだろう。銀髪のエクルーも女に警戒されない男だったが、あんたは若いせいか色気がある。その気になって落とせない女はいないだろう」
甘い香りのハーブティのカップを並べながら、さらにメドゥーラがくつくつ笑った。
「私だって、あんたの良くわからん悩みに付き合ってやろうか、という気にさせられる。まあ、ひとつ言えるとしたら、息子だろうが、転生だろうが、あんたは銀髪のヤツとは別の人格だ。記憶を継いでも、そりゃ、情報量が多いってだけだ。昔の情報に頼って、自分の人生を省略しないことだね」
メドゥーラはキセルの煙をくゆらせた。
「あきらめて、自分の青春をじたばたすることだ」
エクルーはお茶をすすっていた手を止めて、あんぐりと口を開けてメドゥーラを見返した。
「俺、悩みの内容話したっけ?」
「何を今更。十代の男の子が他に何を悩むっていうんだ。まったく。長老の薬師の天幕に、恋愛相談もちこんだヤツなんざ、初めてだよ」
「ご……ごめん」
エクルーは小さくなった。
「わっはっは。あんたはいつでも歓迎するよ。いろいろ人よりややこしいものを抱えてるしな。それに言ったろう。あんたには、銀髪にはない色気がある。あんたと話してると、私の寿命が延びる気がするよ」
エクルーが固まっているので、メドゥーラはからから豪快に笑った。
「今更、口説かないから安心しなさい」
メドゥーラは新しいお茶を淹れた。今度は清々しい香りのするハーブだった。
「いいかい、このことは覚悟しとくんだ。あんたは早晩、その小さい姪っ子を引き受けることになる。1番近い血縁だろう。フロロイドは全部自分の孫だって思っとるから、私が面倒みてもいい。今もすでに私の弟子だしな」
お茶を一口すすって、エクルーの方をまっすぐ見た。
「だが、私だって老い先短い身だ。坊や、あんた、あの子を引き受けてくれるかい。あの子の幸せを気にかけてくれるかい。サクヤは、私のお気に入りの弟子だったんだよ。できればこの緑のイドラを、見せてやりたかった。予知夢なんかじゃなく、な」
メドゥーラは目をおおって、顔をそむけた。
「誰の話をしてるの。サクヤだったら、オプシディアンで幸せだったよ。うん……幸せそうだった。初めて怖ろしい予兆だの、使命だのから解放されて、俺をかわいがって、キジローに寄り添って……ちょっと不安になるぐらい、いつも幸福そうに、微笑んでた。なんというか……いつでも成仏できそうな、充ち足りた笑顔だったよ」
メドゥーラはニっと笑った。
「坊やはそれが口惜しいんだね?」
「そんなことないさ。サクヤが幸せなら、それが誰のお陰であろうと、別に俺が幸せにしてやった、なんてんじゃなくても、うれしいんだから」
勢い込んでエクルーが抗議すると、メドゥーラがふっとマジメな顔になった。
「小さいサクヤについても、そういう風に考えてやってくれるかい」
エクルーは姿勢を正して座り直した。またこの婆さんにいいように誘導されてしまった。
「あの子が将来お前を選ばなくても、幸せならいい、と見守ってやってくれるかい」
「もちろんだ」
メドゥーラはキセルを差し出した。
「約束だよ」
「わかった、約束する」
エクルーは神妙な顔でうなずいた。昨日まで存在も知らなかった女の子。突然、俺の前に降って来て、俺の心を占領してしまった。そして俺がその子の面倒を見る……? 何もかも急に起こって、いささか呆然としていた。
日の射し込む天幕の中で、メドゥーラは静かに煙をくゆらせていた。背後の日だまりの光を受けて、銀色の毛が輝いて、驚くほど若く見える。
「こら、坊や、私に発情すんじゃないよ」
「そんなんじゃないよ。ただ、今まで気がつかなかったけど、キレイな人なんだなって思っただけだよ」
メドゥーラは一瞬、ぽかんとした顔をするて破顔した。
「わっはっは。この年になっても悪い気はしないもんだねえ。坊や、ジゴロの素質があるよ」
煙出しから射し込む日の光を見上げて、メドゥーラは珍しくゆったりした張りのない声でつぶやいた。
「ああ、これで気掛かりがひとつ減った。安心したよ」
その穏やかな様子に、エクルーはかえって不安になった。
「まだ成仏しないでよ。俺、修業が足りないから、まだいろいろと不安なんだからね」
メドゥーラは噴き出した。
「あと36人も孫がいるんだ。1人、引き取り先が見つかったからって、成仏できるかい」
キセルをすっとのばして、エクルーのほおをぴたぴた叩いた。
「17かそこらで、自分には修業が足りん、と言えるのは大したもんだ、坊や。あんたは自分で思ってる以上に、器の大きな男だよ」
メドゥーラはふうーっと長く煙を吐いた。
「もうひとつ教えてやろう。多分あんたの時間は止まらない。小さなサクヤと一緒に流れる。だからもう、一人で取り残されることはない。イドラを救ったことで、あんたらの星のトラウマが解けたんだよ」
エクルーはしばらく言葉が出てこなかった。ここ数日、いろんなことがいっぺんに起こりすぎてパニックの連続だ。
「……本当?」
「間違いない。ミナトもそう予言してた。そしてその通りになってる。お前はもう、巫女のお守りをしなくていい。とっくに無くなってしまった惑星の弔いもしなくていい。ただの男だ。好きに生きればいいよ」
「そんなこと、急に言われても」
口を開けたり閉めたりして言葉を探す。
「本当だ。サクヤも知ってた。だからどんなにムリしてもお前を産み直したんだ。これからは自分の人生を生きればいい」
まだエクルーが途方に暮れているのを見て、メドゥーラはニヤッとした。
「ま、何千年も女の子のお守りをしてたんだ。急に習い性は治らんだろう。当分、私の弟子の面倒を見てたらいい。そのうち何か見つかるさ」
すっかりメドゥーラの手のひらで転がされている。エクルーは観念した。
もう空っぽだと思っていた自分の人生に、突然転がり込んで来た女の子。
しばらくあの子を見つめていよう。そのうち何か見つかるまで。
覚悟はしていたものの、久しぶりに会ったキジローの様子にスオミはショックを受けていた。肋骨どころか首の椎骨もひとつひとつ数えられるほど痩せてしまっている。肌には張りもツヤも無くて、触るとパリパリと破けてしまいそうだ。固形の食物をほとんど受け付けないので、常に混合栄養剤を点滴している。痛み止めや吐き気を抑える薬をフルに使っても、水さえ吐いてしまうことが往々にあった。
キジローはボニーの手をとった。
「あんたがはるばる来てくれたお陰で、俺はやっとイドラに帰る勇気が出た。ありがとう」
目を潤ませているボニーに、キジローはにやっと笑いかけた。
「それでな、そのカタコトも可愛いがイドラの言葉で話していいぞ。そっちのが話し易いんだろ?」
ボニーは再会して初めて、ふっと微笑んだ。
「ええ」
「じゃ、話してくれ。今、イドラはどんな風だ?」
キジローはイドラに最初の慈雨が降ったところも、その後、日に日に荒地に花が増えていく様もよく覚えていた。それにテトラの中で道々スオミとボニーに話してもらっていた。
それでもこの変貌には驚かないではいられなかった。
宙港で入国許可をもらった後、エクルーはドームに戻る前にテトラで脊梁山地の周りを一巡した。
スオミは寝台の背を起こして、キジローに風景が見えるように支えた。ボニーが花や木を指差して名前をひとつひとつ教えた。
8年前と空気が全然違う。空の色も違う。
清潔でぴりぴりと冷たかった空気が、しっとりと水分を含んで肌に馴染む。遠くの山が青紫に滲んで見える。潅木の間に成長の早い柳やハンノキが林を作り始めていた。
日が傾き初めて、気の早い鳥たちが塒に戻るために大きな群れを作ってギャアギャアと騒いでいた。山麓の雪が解けたところから色とりどりの雪割り草が花開いている。そして花から花へ蜜を求めて飛ぶ蜂や蝶。
この景色を見せてやりたかった。
スオミやエクルーがムービーに撮って来てはサクヤやキジローに見せてくれてはいたが、どこか信じられないでいた。この星の再生のためにどれほどの犠牲が払われたのか。でもその代償としてどれほどの恵みが与えられたか。
この土地に立って、この風を空気を味あわせてやりたかった。
一番喜んだはずの人に。
サクヤが散ってから、キジローは一度も泣かなかった。
泣いてしまったら、自分の中で何かが終わってしまう気がして、泣けなかった。自分にはまだ預かっている物がある。それを返すまで、終わらせるわけにいかない。
でも今初めて、キジローは泣いてしまいたくなった。
なぜこれを見せてやらなかったんだろう。どれほどのものをあきらめて、サクヤが自分の傍にいてくれたか。それが今、目の前に広がっている。
泣けないでいるキジローの両側で、スオミとボニーが代わりに涙を流していた。
温室ドームも様変わりしていた。主がずっと不在なので、すっかり公共の場所になっている。イドリアンの子供たちの託児所で、スオミの出張診療所で、図書館でもある。ドームは大きな水脈の上にあってその周囲に柔らかい草が生えるので、乳離れしたルパが防風林を囲んだ柵の中に放されていた。
ドームの中からいくらでもイドリアンの子供が出てくるので、キジローは驚いた。
「お静かに。もうすぐお迎えが来ますから、ちゃんと上着を着て」
執事ロボットだったはずのゲオルグとヘルベルトが保父役になっていた。
「ダンナ様、お帰りなさいませ」
アマデウスがキジローを出迎えた。
「サン・ルームを温めておきました。どうぞ、こちらへ」
ペトリの種苗を保存していた苗床が、今は明るいサン・ルームになっていた。分厚い保温性の壁を取り払って、強化プラスチックの高窓に囲まれている。いくつかの医療器具も運び込まれていた。
「父さん、少し休んで。今、エクルーがスープ持ってきてくれるから」
「スープよりバーボンがいい」
「父さん!」
スオミに叱られながら、キジローはうとうとし始めた。温めたスープが届いた時には、もうぐっすりと眠りに落ちていた。
「寝かせておきましょう。長旅の疲れが出たのよ」
「でも食後の薬は?」
「大丈夫。点滴のバッグにつないで注入するわ。少し室温を下げましょうか。灯りもしぼって」
「私、ついててもいいですか?」
ボニーが申し出た。
「いいえ。あなたは一度、家に帰りなさいよ。ずいぶん長く留守にしてるでしょう? うちは後でアルが来てくれるから」
「でも……」
「大丈夫。バイタルは安定している。すぐにどうこうなったりしない。もし急変したら、呼びに行くから」
「必ず?」
「必ず」
ボニーはしばらく躊躇っていたが、スオミに見送られて帰っていった。
”もし急変したら”
その”もし”がいつ起こってもおかしくないことを、テトラで帰って来た全員が知っていた。他でもないキジロー自身が一番よくわかっていた。でもキジローの”用事”はまだ済んでいない。
あと少し。あともう少し時間が稼げれば。
「俺もいっぺん家に帰る。何か必要なものはあるか?」
「そうだな。新鮮な卵とミルクを頼む。それから何か旬の野菜があれば」
「わかった。雪で囲っておいた青菜と白根が甘くなってるだろうから、明日の朝持ってくるよ」
「できればメドゥーラも一緒に連れてきてくれないか」
「わかった」
そうしてグレンも放牧地に帰っていった。
こうして最初の夜は平和に過ぎた。
ところが翌日、爆弾が落ちた。
キジローではなく、エクルーの上に。
翌日の午後には、キジローも床から離れて車椅子で日向ぼっこできるぐらいに元気になった。
一同が温室のソファに座ってお茶を飲んだいる時、エクルーがふいに言い出した。
「もう壊れちゃった、俺とサクヤの星の話したっけ?」
「ああ、そういえば昔言ってたな」
キジローはうなずいた。
「じゃあ、キジローがサクヤの義理の兄さんに似てるって話は?」
「その話は覚えてる」
「星が壊れる前、移住船をとばして宇宙中に散らばったんだ。そして、そこの星の人間と混血しながら生き延びた。時々、スオミみたいに覚醒して記憶がよみがえる人もいるけど、たいていはただ静かに血を受け継いでいる。でも本当の血統だ」
その辺りまでの事情はグレンも把握していた。
「何が言いたいんだ?」
「キジローは俺達の星の血が入ってると思う。つまりボニーにも」
キジローはあんぐりと口を開けた。
「あんたは最初から、サクヤの予知夢を共有していた。俺のテレパシーにふり返った。俺達の波長に相性が良すぎたんだ」
それに、とキジローの胸を差した。
「サクヤの光を飲み込んだろう? あれが何よりの証拠だ。ふつう人の身体を素通りするんだ」
絶句しているキジローに構わず、エクルーは話を続けた。
「今だから言うけど、ぺトラに行くずっと前からボニーが俺の夢に現れた。キジローに会う前だよ。だからボニーが誰かも知らないまま、ただ、きれいな夢だ、とあこがれていた」
夢の内容を知っているボニーは、眉根を寄せて唇をきゅっと結んでいた。
「サクヤがずっと彷徨ってたのは、生き残りが幸せに生きているか確かめるためだった。俺はサクヤの傍にいたかっただけだ。だからサクヤにつきあって、ずっと2人きりで宇宙を旅してきた。で、スオミに会えて、キジローに会った。ボニーにも会えた。サクヤがどのくらいわかってたか知らないけど、結果的にサクヤは願いを叶えて散っていくことができたんだよ。だろ?」
サクヤは一同を見回した。
「スオミ、今幸せなんだろ? アルと」
スオミは自分のお腹にそっと手を当てた。秋には子供が生まれてくる。
「キジローは? サクヤと過ごしてどうだった? 何かまだうじうじ後悔してるみたいだけど。比喩とか慰めじゃなくてさ、キジローが幸せならサクヤは幸せだったんだよ。だってそのために旅してきたんだから」
キジローはまだ言葉が出てこなかった。
「ボニーは? 今、幸せ?」
ボニーはそれに答えずにふいに立ち上がった。そして温室のナーサリー・ルームから子供をひとり連れて来た。7,8才くらいの黒髪の少女で、手に本を持っている。
「私の娘です。今はサラと呼んでいますが……エクルー、あなたがいいと言って下さったら、サクヤと名付けたいんです。彼女がずっとこの星で生きていけるように」
キジローもエクルーもぽかんとした。そんなこと、考えもしなかった。
「ボニーの娘?」
「そうです。アカデミーはどういうわけかフロロイドに生殖能力を残しておいた。思春期に入る前に処分するつもりだったのかもしれませんが……。アズアは……もう3年前に泉に還りました。でも、サラはまったくの生身の子供です。きっとイドリアンと同じくらい長生きするわ」
サラはとことことキジローの車椅子まで歩いて行った。
「おじさん、ご病気なの? 苦しそう。サラの手をにぎって。いい? ゆっくりと深呼吸して。私と息を合わせて……吸って、吐いて、吸って……ああ、少し手が温かくなった。今、お茶を入れて来てあげる。待ってて」
「サラはこのドームのナース見習いなんです。メドゥーラにも筋がいいってほめられたんですよ」
ボニーがほこらしげに微笑んだ。
「私が泉に還っても、あの子はこの星で、この星の人に愛されて生きてゆけます」
サラが幼い少女と思えない、危なげのない姿勢でお茶を運んできた。
「エルダーとカモミールのお茶です。ちょっとハチミツとジンジャーも入れてみたの。どうかしら」
「ああ、うまいよ。身体が楽になった。温まるよ」
サラの顔がぱあっと明るくなった。
「本当? 楽になった? 良かった。おじさん、またドームに来る? 私、毎日作ってあげる」
「うん、また来る。というか、昨日から、このドームに住んでいるんだ」
「俺も、一緒にね」
エクルーがつけ加えた。
サラがいぶかしげな顔で、母親を振り返った。だが答えをもらう前に、すぐまた2人の男の方を見た。
「キジローと、エクルー? 前にこのドームに住んでた……?」
「そうだ。初めまして、だな。サラ」
サラは最初のしっかりものの態度が消えて、後ずさりしてボニーの後ろにかくれた。
こわばった表情で、母親の服のすそをにぎって泣き出した。
「サラ、どうした。こっちへ来てくれよ」
キジローが手を差し伸べて呼びかけた。
「だって、だって、母さんは……父さんは……エクルーは……」
サラはうぇっうぇっと本格的に泣き出しそうだった。
その時ガシャーンとカップを落として、キジローが胸を押さえた。
「う、息が……」
サラが涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、キジローにかけよった。
「おじさん、おじさん、大丈夫? パニックにならないで。ゆっくり息を吸って」
必死で抱きついて来たサラの両手をつかまえて、キジローはニヤニヤした。
「ひっかかった」
「えっ、ウソだったの?」
「サクヤも良く、この手にはだまされた」
サラは泣いていいのか、笑っていいのか、くしゃくしゃの顔をしていた。
「本当に? おじさん、苦しくないの? 大丈夫?」
「うん、大丈夫。お茶をこぼして悪かった。ちゃんと効いたよ。それでな、おじさんじゃなくて、おじいさんと呼んでくれないか」
「だって、おじさんはまだお若いわ」
「つまり、おじさんは、サラのお母さんのお父さんだから」
「ママのパパ? 本当なの?」
ボニーは両手を口にあてて、涙をこぼしながらうなづいた。
「本当だ。ずっと別の星にいたけど、ここから一緒に暮らすんだ。ついでにいうと、こいつはママの兄弟だからこっちは本当におじさんってことになる」
「できればおじさんじゃなくて、エクルーと呼んでくれれば有難いけどね」
「すごい。パパがいなくなって、ママと2人きりだと思っていたのに、いっぺんにおじさんとおじいさんが出来た。ねっ、すごいね、ママ」
ボニーはまだぽろぽろ泣いていた。
エクルーとキジローはしばらく顔を見合わせていたが、やがて言った。
「サラの名前の件、ボニーに任せるよ。俺たちに異存はない。この子になら、名前を継いでもらいたい」
その午後、エクルーの眼はずっと小さなサラを追っていた。明るい笑顔。サーリャの母親があんな形で死ななければ、サクヤがこんなに長い間、宇宙をさまよわなくてすめば、こんな風に笑ったのでは、と思える未来を信じる力を持った笑顔だった。
子供たちが帰ってドームは静かになった。
スオミも放牧地の自分の診療所に戻った。
サン・ルームで星を見ながら2人でバーボンを飲む。
「小さいサクヤに見つかったら、しかられるんじゃないか?」
エクルーが指摘すると、キジローは顔をくしゃっと歪めて笑った。
「くっくっ、あのこははいいコだ」
「おっさんも、けっこうお茶目な手をつかうね」
「こっちは時間がないんだ。のんびり和解しているヒマはない」
「不思議だね、あのコ、サーリャにもサクヤにもボニーにも似てる」
ニヤッと笑って今度はキジローが指摘した。
「つまり、お前の理想のタイプだろう?」
バーボンを注いでいたエクルーの手が止まった。
グラスがあふれる前に、キジローが瓶を取り上げた。
「お前、ちゃんと自覚しとけよ。まあ、もともと血のつながりなんて無いに等しいが、この星系の法律上では叔父と姪は結婚できるんだ。ちょうどお前がサーリャを見つけた年頃だろう。サクヤを失って、心が空っぽだ。条件がそろいすぎ……」
「やめてくれよ」
珍しく、エクルーが声を荒げて、立ち上がった。
「グラス置いといてくれ。朝片づける。俺はもう寝る」
「お休み」
キジローは、後ろ姿に手を振って、ぼそりと言った。
「悩ましい青春だね」
(しかし俺にとっちゃあ、どうなんだ? 息子と孫の組み合わせなんてアリか?)
キジローはもう1杯ロックを作った。
「ふう、楽しくなってきたじゃじゃないか。なあ、姫さんよ」
グラスを宙に向ってちょっとあげた。
「あんたの星は、あの娘に渡そうか? どう思う?」
翌朝まだ早い時間に、ボニー親子がやってきた。
「グラン・パ、ご機嫌いかが? おでこと手を拝借。ん、お酒臭い。お酒飲んだ?」
「バレたか。寝る前にちょっとな。3杯ばかり」
サラは大人びたポーズでちょっと大げさにため息をつく。
「仕方ないわね。でも過ごさなければ、お酒は一番いい薬なんですって。酔っ払らわないって約束してくれる?」
「わかった約束しよう」
朝食のトレイを持って来ながら、ボニーがくすくす笑った。
「昨夜は、この子ったらあなた方の話ばかり。なかなか寝付いてくれなくって」
ボニーは娘の背中にやさしく手をそえた。
「ほら、あなた、おじい様にお話しすることがあったでしょう?」
顔を赤く染めて、サラはキジローの左腕に両手をかけた。ちょっとつま先だって、耳のそばで話した。
「あのね、私、昨日、サクヤになったの。サクヤって呼んでくれる?」
「わかった。そう呼ぼう」
「サラとサクヤは同じ人なのね。でもサクヤが本当の名前なんですって。そうなの?」
「そうだよ。花を咲かせるお姫様の名前だ」
サクヤはぱっと顔が明るくなった。
「本当? 素敵。どんな人だった?」
「それは、あいつの方が詳しい」
よく眠れなかった顔で、サンルームに入って来たエクルーに小さなサクヤが飛びついた。
「おはよう、エクルー! サクヤの話をしてくれる?」
「その話なら、おじいちゃんに聞いてくれ。俺はちょっとグレンに用事が……」
「グレンなら午後来るってメール来てたぞ」
「メドゥーラに用事があるんだ」
エクルーはくるっと背を向けて、ハンガーへのドアに出て行った。
首から耳まで真っ赤だった。
「こりゃあ、薬が効きすぎたかな」
弁当を持ってハンガーまで追いかけて来たボニーに、エクルーは決まり悪そうに頼んだ。
「すいません。今日1日、キジローを見ててもらえないかな」
「それはもちろんかまいません。毎日温室でナニーをやってますから。でも……やはり、いけませんでしたか?」
「えっ」
「名前をいただくなんて、やっぱりずうずうしかったんじゃないかと、昨日考えていたんです。」
「そんなことない。サクヤもきっと喜んでるよ。似合ってると思うし……」
言いながら、またエクルーは真っ赤になってしまった。
「ごめん。ちょっと頭を冷やしてきます」
「それで何の相談だって」
メドゥーラはむずかしい顔をして、いろりの横に座った。
「いや何というか。何に悩んでるのかも、自分で良く分からなくって……何か混乱してて」
メドゥーラはため息をついた。
「銀髪のエクルーは、優男の外見の割に、ハラのすわった男だった。まあ3000年も生きてりゃ多少のハラもすわるだろうが……。それにこの星に来た時から、あの子は覚悟してたんだものねえ」
メドゥーラはキセルをふかした。
「ほれ、お前もやるか?」
エクルーは慣れないキセルと格闘したがどうにか一息吸い込んだ。メドゥーラはくつくつ笑った。
「坊やは得な星回りだねえ。心配してくれる女に事欠かないだろう。銀髪のエクルーも女に警戒されない男だったが、あんたは若いせいか色気がある。その気になって落とせない女はいないだろう」
甘い香りのハーブティのカップを並べながら、さらにメドゥーラがくつくつ笑った。
「私だって、あんたの良くわからん悩みに付き合ってやろうか、という気にさせられる。まあ、ひとつ言えるとしたら、息子だろうが、転生だろうが、あんたは銀髪のヤツとは別の人格だ。記憶を継いでも、そりゃ、情報量が多いってだけだ。昔の情報に頼って、自分の人生を省略しないことだね」
メドゥーラはキセルの煙をくゆらせた。
「あきらめて、自分の青春をじたばたすることだ」
エクルーはお茶をすすっていた手を止めて、あんぐりと口を開けてメドゥーラを見返した。
「俺、悩みの内容話したっけ?」
「何を今更。十代の男の子が他に何を悩むっていうんだ。まったく。長老の薬師の天幕に、恋愛相談もちこんだヤツなんざ、初めてだよ」
「ご……ごめん」
エクルーは小さくなった。
「わっはっは。あんたはいつでも歓迎するよ。いろいろ人よりややこしいものを抱えてるしな。それに言ったろう。あんたには、銀髪にはない色気がある。あんたと話してると、私の寿命が延びる気がするよ」
エクルーが固まっているので、メドゥーラはからから豪快に笑った。
「今更、口説かないから安心しなさい」
メドゥーラは新しいお茶を淹れた。今度は清々しい香りのするハーブだった。
「いいかい、このことは覚悟しとくんだ。あんたは早晩、その小さい姪っ子を引き受けることになる。1番近い血縁だろう。フロロイドは全部自分の孫だって思っとるから、私が面倒みてもいい。今もすでに私の弟子だしな」
お茶を一口すすって、エクルーの方をまっすぐ見た。
「だが、私だって老い先短い身だ。坊や、あんた、あの子を引き受けてくれるかい。あの子の幸せを気にかけてくれるかい。サクヤは、私のお気に入りの弟子だったんだよ。できればこの緑のイドラを、見せてやりたかった。予知夢なんかじゃなく、な」
メドゥーラは目をおおって、顔をそむけた。
「誰の話をしてるの。サクヤだったら、オプシディアンで幸せだったよ。うん……幸せそうだった。初めて怖ろしい予兆だの、使命だのから解放されて、俺をかわいがって、キジローに寄り添って……ちょっと不安になるぐらい、いつも幸福そうに、微笑んでた。なんというか……いつでも成仏できそうな、充ち足りた笑顔だったよ」
メドゥーラはニっと笑った。
「坊やはそれが口惜しいんだね?」
「そんなことないさ。サクヤが幸せなら、それが誰のお陰であろうと、別に俺が幸せにしてやった、なんてんじゃなくても、うれしいんだから」
勢い込んでエクルーが抗議すると、メドゥーラがふっとマジメな顔になった。
「小さいサクヤについても、そういう風に考えてやってくれるかい」
エクルーは姿勢を正して座り直した。またこの婆さんにいいように誘導されてしまった。
「あの子が将来お前を選ばなくても、幸せならいい、と見守ってやってくれるかい」
「もちろんだ」
メドゥーラはキセルを差し出した。
「約束だよ」
「わかった、約束する」
エクルーは神妙な顔でうなずいた。昨日まで存在も知らなかった女の子。突然、俺の前に降って来て、俺の心を占領してしまった。そして俺がその子の面倒を見る……? 何もかも急に起こって、いささか呆然としていた。
日の射し込む天幕の中で、メドゥーラは静かに煙をくゆらせていた。背後の日だまりの光を受けて、銀色の毛が輝いて、驚くほど若く見える。
「こら、坊や、私に発情すんじゃないよ」
「そんなんじゃないよ。ただ、今まで気がつかなかったけど、キレイな人なんだなって思っただけだよ」
メドゥーラは一瞬、ぽかんとした顔をするて破顔した。
「わっはっは。この年になっても悪い気はしないもんだねえ。坊や、ジゴロの素質があるよ」
煙出しから射し込む日の光を見上げて、メドゥーラは珍しくゆったりした張りのない声でつぶやいた。
「ああ、これで気掛かりがひとつ減った。安心したよ」
その穏やかな様子に、エクルーはかえって不安になった。
「まだ成仏しないでよ。俺、修業が足りないから、まだいろいろと不安なんだからね」
メドゥーラは噴き出した。
「あと36人も孫がいるんだ。1人、引き取り先が見つかったからって、成仏できるかい」
キセルをすっとのばして、エクルーのほおをぴたぴた叩いた。
「17かそこらで、自分には修業が足りん、と言えるのは大したもんだ、坊や。あんたは自分で思ってる以上に、器の大きな男だよ」
メドゥーラはふうーっと長く煙を吐いた。
「もうひとつ教えてやろう。多分あんたの時間は止まらない。小さなサクヤと一緒に流れる。だからもう、一人で取り残されることはない。イドラを救ったことで、あんたらの星のトラウマが解けたんだよ」
エクルーはしばらく言葉が出てこなかった。ここ数日、いろんなことがいっぺんに起こりすぎてパニックの連続だ。
「……本当?」
「間違いない。ミナトもそう予言してた。そしてその通りになってる。お前はもう、巫女のお守りをしなくていい。とっくに無くなってしまった惑星の弔いもしなくていい。ただの男だ。好きに生きればいいよ」
「そんなこと、急に言われても」
口を開けたり閉めたりして言葉を探す。
「本当だ。サクヤも知ってた。だからどんなにムリしてもお前を産み直したんだ。これからは自分の人生を生きればいい」
まだエクルーが途方に暮れているのを見て、メドゥーラはニヤッとした。
「ま、何千年も女の子のお守りをしてたんだ。急に習い性は治らんだろう。当分、私の弟子の面倒を見てたらいい。そのうち何か見つかるさ」
すっかりメドゥーラの手のひらで転がされている。エクルーは観念した。
もう空っぽだと思っていた自分の人生に、突然転がり込んで来た女の子。
しばらくあの子を見つめていよう。そのうち何か見つかるまで。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます