そらのはじまり

昔オノヨーコが書いてた。「そらはどこから始まると思う?」「わたしたちの足元からよ。アリにとってはここがもうそらなのよ。」

開発もしくは追憶・・

2012年07月09日 | 日記
うちから南へ100メートルの東山電停。
岡山駅から路面電車で15分の終点。
半径500m以内に小学校2、中学校1、高校3の朝夕にぎやかな交差点。
その電停に面してた八百屋さんが店を閉めた。

市場直送の八百屋さん。
売ってたものは、野菜と季節の果物、仏壇に供える花、お豆腐と揚げ、ちりめんじゃこ、干物とハム、卵、漬け物、乾物、油と砂糖・・
青菜は新聞紙に包んでくれる。トマトやじゃがいもは昔ながらのカゴに盛って売ってた。

たまに早く帰れると、スーパーに行かないでここで買うのが好きだった。
近くには魚屋さん、パン屋さん、文房具屋さん、肉屋さん、クリーニング屋さん、薬屋さん・・。

夕暮れに、小さなテレビがニュースをやってた。
昼は八百屋姉妹、夕方からはご主人がレジにいた。
「袋はいいです」というと、いつもえらい恐縮され、こちらの方が恐縮した。人のいいご主人。

昔はさらにお寿司屋さん、酒屋さん、お弁当屋さん、ケーキ屋さんもあった。バッティングセンターもあった小さな商店街。

店を閉めるらしいといううわさを聞いてから2週間。
今日はもうシャッターが閉まっていた。

今年の暮れにはもうここでお正月の買い物ができない。


うちの隣の駐車場。
引っ越して10年。東が開けているおかげで今までずいぶん気持ちよかった。

ここにも家が4軒建つという。(4軒も??!!)
今日帰ってみると、小ぶりのショベルカーが1台停まっていて
アスファルトが生々しくはがされてた。

子どもたちがキャッチボールやバドミントンをして遊んだ駐車場。

ノスタルジーと言われても、わたしが書かなければ誰があの八百屋さんのことを書く?

何があったのかすら、きっとそのうち忘れられてしまう。忘れてしまう。
その前に。

スーパーも、きっともっと大きなものに飲み込まれるときがくる。

大切なものは何なのか?
「安い」ということなのか?
「いろいろある」ということなのか?
「便利」ということなのか?

わたしはなぜ、八百屋さんで買うのが好きだったのか?

なぜこんなにものすごい勢いでわたしたちは「失っ」てしまうのか?

















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2 コメント

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郷愁 (竹島)
2012-07-23 12:55:37
分かります

隣の文房具屋さんは同級生の家だった

八百屋にはよくお遣いに行きました。子どもの頃はあのほくろおばさんがちょっと怖かったなあ

バッティングセンターは従兄弟と遊びに行ったなあ

今、小生は息子を連れて電停上の公園にちょこちょこ行きます

噴水の水に哀愁を感じながら

※思わずコメントしてしまいました
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ありがとう (meiko)
2012-07-27 23:44:04
ありがとうございます。追憶を共有してくれる人がいてうれしいです。万物は移り変わるけれど、誰かと記憶を共有できるかぎり、それは確かにあるものですね。
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