今日は藤田地区のESD研修会があって、3小学校の3年から6年までの先生方が集まって今年度の総合的な学習の時間について話し合った。
目標は、各学年ごとに、どんな力をつけさせたいか、その思いを共有すること。
昨年度末の前回、学年ごとのテーマは話し合って決まっている。
3年生 地域の宝ものってなあに?
4年生 ごみってなあに?
5年生 食べ物ってなあに?
6年生 しあわせってなあに?
私は6年生の先生たちの話し合いに入れてもらった。
岡山市では多くの学校が5年で環境をとりあげ、6年で国際理解をとりあげる。
藤田地区では、昨年度の5年生で藤田の農業を共通のテーマに取り組んだので、できればその続きとして、共通に「食」から国際理解に行きたいとのこと。
これまでは、ひとつの学校は「モッタイナイ」をテーマに50時間、国際理解をテーマに20時間ですすめていたとか、ほかの学校の先生は、最初にユニセフとかハートオブゴールドとかJICAとかの人の話をめいっぱい入れてそこから考えさせようと思ってるとか、いろいろ出た。
私もとりあえず、「地球家族」の写真教材からモノとしあわせの関係を考えることや、今回の地震津波の教材の最後の問い「このような災害の影響は、豊かな国と貧しい国とで違うところがありますか?」を紹介した。
国際理解とESD。何が本質的に子どもたちに伝えたいこと、つけたい力だろうか・・。考えているうちにあることを思い出した。
日本ユニセフ協会で働いていた頃、同僚が話してくれたエピソード。
その人は、その頃ネパール事務所にいて、あるとき山岳地帯の村に天水タンクを設置するための調査に出かけた。
(山岳地帯では水が手に入りにくく、水汲みのために子どもが学校に行けないこともよくある。また不衛生な水は高い乳幼児死亡率の原因にもなっている。想像してください。日本のような緑豊かな山ではなくごつごつした岩だらけの山です。)
一日中ランドクルーザーを走らせて、さらにふもとの村から重い荷物を背負って登ること半日。
息を切らせながらようやく村につくと、村の人たちがうれしそうに迎えてくれた。
「さぞのどが乾いたでしょう、お水をどうぞ」にこにこ顔で手渡されたコップには黒い水が・・。
まいったなあ、これは明日は下痢だなあと思ったけれど、村人たちはじっとうれしそうに見ている。
しょうがないとやけくそで一気に飲んだら、「もう一杯どうぞ」とおかわりが・・(笑)。
村人の家に泊めてもらって翌朝、見ると奥さんが3歳くらいの子どもを柱にくくりつけている。
一体この子が何をしたのですか?と聞くと、奥さんが答えるに、何も悪いことをしたわけじゃない。
私はこれから谷を降りて水を汲みに行くけれど、その間にこの子がちょろちょろして、間違ってこの険しい崖を落ちてしまったら大変だ。
だから毎朝こうやって柱にくくりつけているのです、と。
この村の女性たちはみんなこうして2時間もかけて谷底の水を汲みに行き、3時間かけて帰ってくる。
わずかしかなく、泥の混じった水だけれど、それでもこの人たちにとっては貴重ないのちの水なのだ。
同僚はいたく恥ずかしく、言葉が出なかった。
そんな苦労をして汲んできた貴重な水を、その一杯の持つ価値を想像もせず、自分のおなかのことだけ心配して、半分迷惑に思いながら2杯も飲んでしまった。
そんな自分が恥ずかしかったと、話してくれた。
私は国際理解とはこういうことだと思う。
相手の気持ちを、どのくらい理解できるか、自分の価値観で人の行為を測るのでなく、住む土地も文化もちがう相手を、初めて会った相手を、理解しようと思い、その行為の背景や理由を推し量り、その人に近づくために自分を開き、相手を受け入れ、その人の幸せを願うことができる心、態度、力を養うこと、それが国際理解教育だと思う。
外国かどうかは関係ない。
どこの人でも、どんな人でも同じことではないでしょうか。
子どもたちにそういう力をつけてほしい。
こうお話したら、先生たちがさらに話し合って、6年の総合でつけたい力は
自分の尺度とちがう尺度があることを知り、それを認められるようになること
そういう思いで各校が取り組んでみようということになった。
干拓という共通の土壌を持つとはいえ、別々の小学校の先生たちがひとつテーブルに集まり、どんな子どもに育ってほしいのか、そのためにこの学年の総合的な学習では何ができるかを話し合う。
藤田の先生たちの取り組みは大変な面もあるし、試行錯誤の連続だけど、価値ある取り組みだと思う。
目標は、各学年ごとに、どんな力をつけさせたいか、その思いを共有すること。
昨年度末の前回、学年ごとのテーマは話し合って決まっている。
3年生 地域の宝ものってなあに?
4年生 ごみってなあに?
5年生 食べ物ってなあに?
6年生 しあわせってなあに?
私は6年生の先生たちの話し合いに入れてもらった。
岡山市では多くの学校が5年で環境をとりあげ、6年で国際理解をとりあげる。
藤田地区では、昨年度の5年生で藤田の農業を共通のテーマに取り組んだので、できればその続きとして、共通に「食」から国際理解に行きたいとのこと。
これまでは、ひとつの学校は「モッタイナイ」をテーマに50時間、国際理解をテーマに20時間ですすめていたとか、ほかの学校の先生は、最初にユニセフとかハートオブゴールドとかJICAとかの人の話をめいっぱい入れてそこから考えさせようと思ってるとか、いろいろ出た。
私もとりあえず、「地球家族」の写真教材からモノとしあわせの関係を考えることや、今回の地震津波の教材の最後の問い「このような災害の影響は、豊かな国と貧しい国とで違うところがありますか?」を紹介した。
国際理解とESD。何が本質的に子どもたちに伝えたいこと、つけたい力だろうか・・。考えているうちにあることを思い出した。
日本ユニセフ協会で働いていた頃、同僚が話してくれたエピソード。
その人は、その頃ネパール事務所にいて、あるとき山岳地帯の村に天水タンクを設置するための調査に出かけた。
(山岳地帯では水が手に入りにくく、水汲みのために子どもが学校に行けないこともよくある。また不衛生な水は高い乳幼児死亡率の原因にもなっている。想像してください。日本のような緑豊かな山ではなくごつごつした岩だらけの山です。)
一日中ランドクルーザーを走らせて、さらにふもとの村から重い荷物を背負って登ること半日。
息を切らせながらようやく村につくと、村の人たちがうれしそうに迎えてくれた。
「さぞのどが乾いたでしょう、お水をどうぞ」にこにこ顔で手渡されたコップには黒い水が・・。
まいったなあ、これは明日は下痢だなあと思ったけれど、村人たちはじっとうれしそうに見ている。
しょうがないとやけくそで一気に飲んだら、「もう一杯どうぞ」とおかわりが・・(笑)。
村人の家に泊めてもらって翌朝、見ると奥さんが3歳くらいの子どもを柱にくくりつけている。
一体この子が何をしたのですか?と聞くと、奥さんが答えるに、何も悪いことをしたわけじゃない。
私はこれから谷を降りて水を汲みに行くけれど、その間にこの子がちょろちょろして、間違ってこの険しい崖を落ちてしまったら大変だ。
だから毎朝こうやって柱にくくりつけているのです、と。
この村の女性たちはみんなこうして2時間もかけて谷底の水を汲みに行き、3時間かけて帰ってくる。
わずかしかなく、泥の混じった水だけれど、それでもこの人たちにとっては貴重ないのちの水なのだ。
同僚はいたく恥ずかしく、言葉が出なかった。
そんな苦労をして汲んできた貴重な水を、その一杯の持つ価値を想像もせず、自分のおなかのことだけ心配して、半分迷惑に思いながら2杯も飲んでしまった。
そんな自分が恥ずかしかったと、話してくれた。
私は国際理解とはこういうことだと思う。
相手の気持ちを、どのくらい理解できるか、自分の価値観で人の行為を測るのでなく、住む土地も文化もちがう相手を、初めて会った相手を、理解しようと思い、その行為の背景や理由を推し量り、その人に近づくために自分を開き、相手を受け入れ、その人の幸せを願うことができる心、態度、力を養うこと、それが国際理解教育だと思う。
外国かどうかは関係ない。
どこの人でも、どんな人でも同じことではないでしょうか。
子どもたちにそういう力をつけてほしい。
こうお話したら、先生たちがさらに話し合って、6年の総合でつけたい力は
自分の尺度とちがう尺度があることを知り、それを認められるようになること
そういう思いで各校が取り組んでみようということになった。
干拓という共通の土壌を持つとはいえ、別々の小学校の先生たちがひとつテーブルに集まり、どんな子どもに育ってほしいのか、そのためにこの学年の総合的な学習では何ができるかを話し合う。
藤田の先生たちの取り組みは大変な面もあるし、試行錯誤の連続だけど、価値ある取り組みだと思う。