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Another Day

自転車と本と写真とその他いろいろ

2019年1~6月に読んだ本

2019-07-20 21:03:19 | 

今年の1月から6月の半年間で読んだ本は26冊。ほぼ1週間で1冊のペースだ。

 

青く表示したのは26冊の中でも特に面白かった本だ。


『「死」とは何か』はイェール大学で23年間続いている講義を書籍化したもの。自分ももうじき60歳になる身として、「死」は遠い未来ではなく、差し迫ってはいないがいずれそのうちにやって来る、と最近考えるようになった。どうせいつかは死ぬのである。

内容は、死について論理的に突き詰めて考えればどういう結論に達するか、ということである。

 

『私の生き方は、やがて死ぬという事実にどのような影響を受けてしかるべきなのか?
必ず死ぬという運命に対して、私はどのような態度を取るべきなのか?
たとえば、死を恐れるべきなのか?
やがて死ぬという事実に絶望するべきなのか?』

『自分の論理的思考力のみを頼りにしたなら、どのような結論に行き着くだろう?』

『そもそも、なぜ生き続けることが私たちにとって大切なのか?』

『いずれ死ぬという事実に照らして、私たちは どう生きる べきなのか?』

『人生は一度きりで、やり直しは利かない。だから私たちは、死を免れないという事実、限られた寿命しかないという事実を踏まえて、人生を台無しにしうることにも気づかなくてはいけない。私たちは、やりそこないうるのだ。』

 


『モノが少ない、幸せがある。 だから、ぼくたちに、もうモノは必要ない。』という書き出しで始まるのが「ぼくたちに、もうモノは必要ない。 - 断捨離からミニマリストへ -」だ。

この本を読んで私も断捨離した。本を約600冊、CD/DVDを約300枚捨てた。おかげで本棚がほとんど空になった。

『自分の価値は自分が持っているモノの合計ではない。モノは自分をほんのわずかの間しか幸せにしてくれない。必要以上のモノはエネルギーも時間も、すべてを自分から奪っていく。そんなことを感じ始めているのがミニマリストたちなのだ。』

 


『ドーナツ経済学が世界を救う 人類と地球のためのパラダイムシフト』を読む

2019-03-23 06:37:49 | 

「経済成長なき未来をどう生きるか。従来の経済学では世界を救えない!GDPの成長に依存せずに、貧困問題や環境問題を解決しつつ、豊かで幸福な社会を構築するためのまったく新しい経済モデル!」(「BOOK」データベースより)

「経済成長こそがすべて」という今の政治・社会に強い違和感を抱いてきたので、この本の内容には賛同するところが多かった。

この本は「二十一世紀の経済学者にふさわしい七つの思考法」として7つの思考法をあげて、経済成長至上主義を脱し、環境再生型のバランスの取れた経済を目指すべきと主張している。

そのうちの4つを紹介する。

「第一は、「目標を変える」。経済学は七〇年以上にわたって、国内総生産(GDP)を前進の指標とすることに固執してきた。所得や富の極端な不平等も、生活環境の前例のない破壊もその固執のなかで黙認された。二十一世紀はGDPよりはるかに大きな目標を必要としている。それはこの惑星の限りある資源の範囲内で、すべての人が人間的な生活を営めるようにするという目標だ。」

「わたしたちは果てしないGDPの成長をめざすのでなく、バランスの取れた繁栄の道を探るべきときに来ている。」

「第五は、「分配を設計する」。二十世紀には、不平等は初めのうちは拡大するが、やがて縮小に転じ、最終的に成長によって解消されるだろうといわれていた。この説を強力に支えたのは、一本の単純な曲線──クズネッツ曲線──だった。しかし現在では、不平等は経済に必然的に伴うものではないことがわかっている。不平等が生じるのは、設計の失敗による。二十一世紀の経済学者は、経済から生まれる価値を今よりはるかに広く分配できる方法がたくさんあることに気づくだろう。」

「第六は、「環境再生を創造する」。「きれい」な環境はこれまで長らく経済理論のなかで贅沢品扱いされてきた。裕福な社会にだけ許されるものだ、と。このような見かたを支えたのもやはりクズネッツ曲線だった。環境汚染は初めのうちこそ悪化するが、やがて収まり、最終的には成長によって一掃されるという理論だ。しかし現実にはそんな法則はない。環境の破壊はあくまで破壊的な産業設計の結果だ。二十一世紀には、循環型──直線型ではなく──の経済を創造し、地球の生命循環のプロセスに人類を完全に復帰させられるよう、環境再生的な設計を生み出せる経済思考が求められる。」

「第七は、「成長にこだわらない」。経済理論のなかにこれまで一度も実際に描かれたことのないきわめて危険な図が一つある。それは長期的なGDPの成長を示す図だ。主流派の経済学では終わりのない経済成長が不可欠のことと見なされている。しかし自然界に永遠に成長し続けるものはない。だからその自然の摂理に逆らおうとする試みは、高所得・低成長の国々で根本的な見直しを迫られている。」

 


『メタル脳 天才は残酷な音楽を好む』を読む

2019-03-23 06:36:02 | 

脳神経学者・評論家の中野信子の著書。「メタル脳」のメタルとは「ヘヴィ・メタル・ロック」のメタルのことだ。「モーツァルトよりメタリカを聴け!孤独や不安を癒し、自己評価を下げない。ストレス耐性を上げ攻撃性を和らげる。世の中の欺瞞を見抜く強い「個」を育む。世間に流されない“非社会性”が身につくetc.脳科学が明らかにする“天才のための音楽”混沌とする世界を救うのは、ヘヴィメタルだ!」(「BOOK」データベースより)という宣伝文句に惹かれて読んだ。私もヘヴィ・メタル・ロックやハード・ロックが大好きなので、思わず「そうだ!」とうなずいてしまうところが多かった。

以下、その一部。

「メタルを聴いているときだけは、自分の孤独感が癒されていくような感じを得られました。 「別に孤立していても構わないのだ」  メタルは、そんな安心感をいつもわたしに与えてくれたのです。」

「要は、メタルは〝こじらせ〟という言葉をもっとも体現している音楽なのだと思います。少なくとも、わたしのような〝こじらせ感〟がある人間にとっては、メタルを聴くことがペインキラーになっていたという側面があります。」

「歌詞や音楽性に共感できて、かつ、モテ要素や商業的要素がないメタルは、こじらせた心には非常に受け入れやすい音楽だったわけです。わたしも御多分にもれず、世の中の欺瞞に過敏に反応して抵抗しはじめたりするような子どもだったので、いま言葉にするとちょっと痛々しいのですが……結構、いい年齢になるまでそんな感じを引きずっていました。」

「愛とか恋を叫ぶ歌よりも、もっとずっとずっと前にある人間の本性の部分。生物としての人間や、社会的な存在である人間のネガティブな部分に向き合うほうが、音楽として本源的でまっとうだと感じたのです。  だからこそ、わたしはメタルを聴き続けたのです。」

「感情移入しやすい人はR&B/ソウルやソフトロックなどの「メロウ」な音楽を好み、論理的な考え方をする傾向がある人はパンクやハードロック、そして、メタルなどのより「激しい」音楽を好む傾向がある。」

「メタルには、きれいごとを言わずに人間の暗い側面をまざまざと見せつけて、「おまえたちも本当はそうなのだろう? その孤独の世界にある暗さを隠す必要なんてないんだ。それを感情として社会にぶつければいい」というように表現するスタイルが多いと思います。」

「そのようなメタルファンが持つ「社会の一員ではない」という感覚は、意外と大人になっても心や体に残っていて、日々の生活のために自分の気持ちをなんとか抑え込みながら、この社会の一員として生きようとしている面があるのかもしれません。」

「人間が愛と平和の存在であるとする確証などほとんどなく、むしろわざわざ美しいことを言わなければ社会を保てないほど、人間は凶暴な存在です。かつての 死屍 累累 の上に生きているのがいまのわたしたちであり、そうした人間の本質をもっとダイレクトに見つめてほしいという願いがあります。」

「これが、わたしがメタルを反社会的ではなく「非社会的」な存在であると捉える意味です。メタルは、社会通念を打ち破ってくれそうな期待感を抱くに足る音楽です。一般的な人たち、「社会的」な人たちが信じているきれいごとの世界のことを社会と呼ぶならば、それに対して「ちがう」という意思表示をすることがメタルです。欺瞞に満ちた社会に対して、暴力によらずに音楽の力で強烈な一撃をくらわすこと、それこそがメタルの存在意義なのです。  だからこそ、わたしは一貫してメタルを聴いてきたし、いまだにメタルを聴き続けているのです。」

 

『反共感論』を読む

2019-03-07 02:34:01 | 

「 無条件に肯定されている共感にもとづく考え方が、実は公正を欠く政策から人種差別まで、社会のさまざまな問題を生み出している。心理学・脳科学・哲学の視点からその危険な本性に迫る、全米で物議を醸した衝撃の論考。」(「BOOK」データベースより)

これは久々に読んだ「目からウロコ」本(今まで自分が無自覚に信じてきた固定観念を打ち破ってくれる本)であった。人の悲しみ・苦しみ・怒りなどに「共感」することは人として望ましい道徳的感情と一般的には考えられているが、実は行き過ぎた共感が社会的な問題を引き起こすことも多いという内容。

その一部を抜粋する。

「概して言えば、共感は道徳的指針としては不適切である。愚かな判断を導き、無関心や残虐な行為を動機づけることも多い。」

「私が提起する反共感論は、利己的たれ、不道徳たれと主張するものではない。」

「私がもっとも大きな関心を抱いているのは、「他者が感じていると思しきことを自分でも感じること」、すなわち「他者の経験を経験する」という意味での共感である。」

「私たちが個人として社会として直面する問題のほとんどは、共感の欠如が原因で生じるのではない。それどころか、過剰な共感が原因で生じる場合が多々ある。」

「私は、日常生活において意識的で合理的な思考力を行使することの価値を強調したい。」

「共感とは、スポットライトのごとく今ここにいる特定の人々に焦点を絞る。だから私たちは身内を優先して気づかうのだ。その一方、共感は私たちを、自己の行動の長期的な影響に無関心になるよう誘導し、共感の対象にならない人々、なり得ない人々の苦難に対して盲目にする。つまり共感は偏向しており、郷党性や人種差別をもたらす。また近視眼的で、短期的には状況を改善したとしても、将来悲劇的な結果を招く場合がある。さらに言えば数的感覚を欠き、多数より一人を優先する。かくして暴力の引き金になる。身内に対する共感は、戦争の肯定、他者に向けられた残虐性の触発などの強力な要因になる。人間関係を損ない、心を消耗させ、親切心や愛情を減退させる。」

「したがって、道徳には共感以上の何かがなければならない。何が正しく何が間違っているかの判断、ならびに行動を起こす動機には、さまざまな源泉がある。人によっては、それらが宗教的な価値観や哲学的な見方に根ざしていることもあろう。道徳は、他者の運命に対する、より幅広い関心に動機づけられている場合もある。それは気づかい、あるいは思いやりなどとも呼ばれ、これから詳しく論じていくが、私の見るところ、共感よりすぐれた道徳の指針になる。」

「大勢の人々が関わる問題に直面すると黙して語らないというだけでも十分に問題だが、共感にはそれ以上に大きな問題がある。つまり、共感は大勢よりたった一人を重視するよう私たちを仕向けるのだ。この倒錯した道徳的な論理は、政府や一般市民が、数百万人、それどころか数十億人に影響を及ぼすできごとより、井戸にはまった少女に大きな注意を払う理由の一つでもある。だから人間は、数人が受けた苦痛のために、やがてそれとは比べ物にならないほど大勢の人々を苦難に突き落とす、戦争などのおぞましい行為に走ることがあるのだ。」

 


『AIの衝撃 人工知能は人類の敵か』を読む

2019-03-07 02:32:45 | 

「 脳科学とコンピュータの融合が私たちの常識を覆す!自動運転車、ドローン、ロボット兵器、雇用・産業構造、医療・介護、芸術…「自ら学んで成長する能力」を身につけた次世代ロボットは、人間社会をどのように変えるのか。」という最近話題になるAIに関する本。内容的にはちょっと物足りない本だった。AIがもらたすであろう社会への影響をもっと掘り下げてほしかった。

以下、その一部。

「産業革命を境に、人類は「蒸気機関」や「自動車」、さらには「重機」や「産業用ロボット」、そして「コンピュータ」など、力の大きさや移動速度、あるいは計算能力などの面において、人間の能力を遥かに超えるマシンを次々と開発してきました。しかし、どんなことにも対応できる柔軟な「知能」という側面だけは、人間に残された最後の砦として守られてきました。この最後の砦さえも、あえてロボットやコンピュータに譲りわたす決断を人間は下すでしょうか?」