☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!
●本日のコトノハ●
異質なものを知らぬものは自分自身が何ものであるかを知らない。
『「ファウスト」ヨーロッパ的人間の原型』小塩節(1996)講談社より
自分が何者なのか考えたことはありますか?
私は小学校4年生くらいから、「自分って何なのだろう?」と思うようになりました。
なんで自分がいるのか、どんな存在なのか、どう生きていけばいいのかなど、考えても分からないことばかりでした。
40歳を過ぎた今でも、それらの疑問に対する明確な答えは見つかっていません。
むしろ、今でもふと頭に浮かぶ自分自身に対する問いかけと言った方がいいかもしれません。
そして、このことについて誰かに相談したこともありません。
おそらく、誰にとっても答えを見つけるのが難しいのではないでしょうか。
小学校高学年になってから、本を沢山読むようになり、自分が探している答えかもしれないと思えるような言葉に遭遇する機会が増えました。
この言葉は、大学生の時に読んだ本の中で見つけたものです。
当時は、家族や学校の人たち、自分を取り巻く環境に漠然と馴染みづらさを感じていて、その理由も分からなかったのですが、「異質」という言葉の意味をあらためて考えてみると、自分が何者なのかという問いに対する答えが見えてくるような気になりました。
(結局、核心に迫ることはできていないのですが、、、)
日本では、集団の中で「同質」であることを暗黙のうちに求められます。
最近では、そのことについて考え直そうという風潮が出てきましたが、私が学生だった20年前は周囲と「同質」であることが当然という価値観だったと私は感じています。
それでいて、いつの時代でも人間は一人一人同じ人なんて一人もいないのです。もし、同じなのならば、争いが起こることもないのでしょう。
「異質」な人たちが無理に「同質」でいようとする。いなければならない。
あるいは、お互いに「異質」であることを認めようとしないこと。
このことは、人が社会の中で生きることがつらいと感じる原因の一つであることは間違いないと思います。
現代社会で叫ばれている「多様性」は、未来の社会には絶対に必要なことですし、今を生きる私たちが決して看過してはいけない課題ではないでしょうか。
時代を追うに従って、日本の社会の仕組みや人々の生活様式、価値観などが変わっていることが分かります。
男性と女性の在り方も、100年前と全く同じではありません。(多少、変わっていない部分があると感じる人もいると思いますが。)
ですから、いつか誰もが「異質」であることが苦しくならない日本になるのではないかと希望を持っていたいです。
私が生きている現実世界では叶わないことではありますが、50年後100年後の人たちが幸せな毎日を過ごせるように、自分にできることを探していきたいと思う今日この頃です。
ヒトコトリのコトノハ vol.8
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▼本の林の管理人ハヤシさんがお送りしています。
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『「ファウスト」ヨーロッパ的人間の原型』小塩節(1996)講談社より
自分が何者なのか考えたことはありますか?
私は小学校4年生くらいから、「自分って何なのだろう?」と思うようになりました。
なんで自分がいるのか、どんな存在なのか、どう生きていけばいいのかなど、考えても分からないことばかりでした。
40歳を過ぎた今でも、それらの疑問に対する明確な答えは見つかっていません。
むしろ、今でもふと頭に浮かぶ自分自身に対する問いかけと言った方がいいかもしれません。
そして、このことについて誰かに相談したこともありません。
おそらく、誰にとっても答えを見つけるのが難しいのではないでしょうか。
小学校高学年になってから、本を沢山読むようになり、自分が探している答えかもしれないと思えるような言葉に遭遇する機会が増えました。
この言葉は、大学生の時に読んだ本の中で見つけたものです。
当時は、家族や学校の人たち、自分を取り巻く環境に漠然と馴染みづらさを感じていて、その理由も分からなかったのですが、「異質」という言葉の意味をあらためて考えてみると、自分が何者なのかという問いに対する答えが見えてくるような気になりました。
(結局、核心に迫ることはできていないのですが、、、)
日本では、集団の中で「同質」であることを暗黙のうちに求められます。
最近では、そのことについて考え直そうという風潮が出てきましたが、私が学生だった20年前は周囲と「同質」であることが当然という価値観だったと私は感じています。
それでいて、いつの時代でも人間は一人一人同じ人なんて一人もいないのです。もし、同じなのならば、争いが起こることもないのでしょう。
「異質」な人たちが無理に「同質」でいようとする。いなければならない。
あるいは、お互いに「異質」であることを認めようとしないこと。
このことは、人が社会の中で生きることがつらいと感じる原因の一つであることは間違いないと思います。
現代社会で叫ばれている「多様性」は、未来の社会には絶対に必要なことですし、今を生きる私たちが決して看過してはいけない課題ではないでしょうか。
時代を追うに従って、日本の社会の仕組みや人々の生活様式、価値観などが変わっていることが分かります。
男性と女性の在り方も、100年前と全く同じではありません。(多少、変わっていない部分があると感じる人もいると思いますが。)
ですから、いつか誰もが「異質」であることが苦しくならない日本になるのではないかと希望を持っていたいです。
私が生きている現実世界では叶わないことではありますが、50年後100年後の人たちが幸せな毎日を過ごせるように、自分にできることを探していきたいと思う今日この頃です。
ヒトコトリのコトノハ vol.8
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