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壁の落書きも文学?【動画紹介】ヒトコトリのコトノハ vol.44

2024年02月23日 | 動画紹介
☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
 ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!

 ●本日のコトノハ●
  鑑賞の対象となる言語表現なら、小学生の綴方でも、新興宗教の教義でも、青年の生活綴方でも、お涙頂戴の
  大衆小説でも、紙芝居の説明でも、落語でも、すべて文学の一つとして扱われなければなりません。
  これらの果している社会的な役割も、やはり文学の社会性として、歴史の中に正しく位置づけられなければ
  なりません。特殊なすぐれた言語表現だけが文学であり、その鑑賞者だけが文学の愛好者であると考える
  偏狭な態度を捨てなければなりません。

 『日本語はどういう言語か』三浦つとむ(1976)講談社


 数年前に亡くなった母は文学が好きで、父と結婚する前にはかなりの数の蔵書を所有していたそうです。
 ところが、ほとんど本を読まないばかりか、文学にはまったく興味のない父は、その母の蔵書の大半を結婚生活には邪魔だという理由で捨てたというのです。
 本が好きな私からしてみれば、耐えがたい蛮行です。

 父は母が大切にしている事物や、好む物について無関心でしたし、無理解でもあり、それらを否定したり、母が楽しむことを意味がないことだと辞めさせようとまでしていました。
 私の目には父の言動はとても残念なものに映りましたし、「母の好きにさせてあげればいいのに」と意見したこともありましたが、父が私の言葉に耳を傾けることはありませんでした。

 父は母がテレビを見てくつろぐことさえ許せないようでした。(ある日、ラジオを買ってきて、テレビではなくラジオを聞けと母に言っていました。母は父の言う通りにはしませんでしたが。)
 文学であろうと、何であろうと、自分以外の人間が楽しそうにしているのが、父には我慢ならないのだと思います。
 私たち子供に一切テレビを見せず、ゲームや玩具を買わなかったことも、子供から一切の楽しみを奪うことが自分の教育方針だと主張するのも、自分が一番幸せでいたいという父の願望の現れのような気がします。

 母は本を読むだけでなく、自分の思いをノートに書くことを趣味にしていました。
 大学ノートとボールペン。それは、母が唯一趣味として愛用していた物でした。
 着るものやアクセサリーにお金をかけることもなく、親しい友人たちと旅行に行くこともなく、高校の同窓会へも父が行くことを禁じたため、とうとう最後まで出席することはありませんでした。

 そんな母の楽しみが、ノートに自分の言葉を書き残すことでした。
 82歳で亡くなる前日まで、母の日記帳には母の言葉が綴られています。老齢のため手の力が弱まり、震えてもいたので、母の字はまるで古文書に書かれた謎の文字のようですが、それは母が生きた証であり、私の宝物なのです。
 いくら父が、「文学者を気取って馬鹿馬鹿しい!」と母のことを嘲笑おうと、母の日記は私にとっては「文学」なのです。


ヒトコトリのコトノハ vol.44


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