こうま座通信

終わりのない文章

世紀末救世主伝説ー私の家政夫ナギサさん

2020-08-14 | Weblog
『私の家政夫ナギサさん』の第6話を見ました。
ナギサさんが、メイのタブレットを病院まで届けに走ってくるとき、
病院の外、窓越しにその姿が見えただけで、
あいみょんの歌のせいだと思うんですけど
なぜかその姿だけでグッときてしまいました。
たぶん疲れてるんだと思います・・・。
またその走りっぷりがなんとも不恰好で・・・。

6話の脚本は徳尾さん。
おかげで、なんとか次の一週間、生き延びることができます。
そして早くも迫り来るナギサロスの予感。

思えばドラマにハマったのは『凪のお暇』以来でしたが、
ナギサさんを見てしまうと、
あれも相当、音楽に助けられていたのだと気付かされます。
(原作も読んでみたのですが、当然ですが原作にはパスカルズの音楽は流れていなくて、
ゴンさんも中村倫也さんじゃなかった・・・)

ナギサさんに出会ってみると、ほのぼのとしたドラマのタッチ、
涼しげな風鈴やゴーヤのカーテンとは裏腹に、凪の環境は相当苛酷だったと今更ながらに思います。
過呼吸で無職、酷暑にエアコンなしのアパート、せっかく友達になったと思ったのに
石か何か売りつけてくる人、モラハラ男にメンヘラ製造機、
意地の悪い同僚に真綿で首を絞める毒親、吉田羊の周りのママ友モドキetc・・・、
これでもかってヒドイ環境なのに、渦中にいると、それがフツーになってしまうのか。
それを癒し系のドラマに見せてしまう演出がすごかったのか。
ママと市川実日子さんは確かに癒しでしたが、
凪、冷静に考えて強すぎるし、お暇なのに、苛酷すぎる。

凪のお暇は、、、大変な傑作だとは思いますが、
ナギサさんではもう、そういう苛酷さはなくて、
ひたすら、ありがたい極楽みたいなドラマで、みんながみんなをケアしあっている、
ケアの編みの目ドラマ、です。(このまま行けば、、、ですが)
そこでは『北斗の拳』すらもケアの編み目の一つを織りなしている。
あんな世紀末なのに、だ。
ありがたすぎて、自分もいつの間にか誰かにケアされてるみたいな錯覚に陥ってしまう。

コロナでみんなが疲れ切って先が見えないってときに、
このタイミングでナギサさんが世に遣わされた感すらある。
そうだよ、ナギサさんこそが、胸に七つの傷を持つ男、世紀末救世主伝説だったのだ。

コロナの前からみんな本当は疲れ切っていたんだ。
けど、ナギサさんの登場を堰き止める何かがあった。
その堰が今、おだやかに決壊したのだ。

ナギサさん・野口体操・異教徒的リアリティ

2020-07-17 | Weblog
『私の家政夫ナギサさん』。
私にとっては『凪のお暇』以来、本当に次が待ち遠しいドラマです。

脚本の徳尾浩司さん。
たぶん、かれこれ15年ほど徳尾さんのブログの読者をしているのですが、
私はもう、早く朝ドラやって欲しい、
そしてあまちゃん以来の社会現象を巻き起こすしかない、と思っております。
徳尾さんのドラマであさイチで華大さんがどんな風に反応してくれるのか、
金曜のプレミアムトークのゲストに来てくれるんじゃないかとか、妄想が止まりません。

で、家政夫役の大森南朋さんといえば、
お父様はご存知、麿赤兒さんですが、(ひょっとしてゲスト出演・・・ないか笑)

麿赤兒さんといえば、こちらのインタビューがとても素敵です。
15年前のインタビュー。
https://performingarts.jp/J/art_interview/0506/1.html

以下殆どコピペ状態ですが・・・抜粋を。

舞踏とは何かと問われて。

「・・・みんな何とかそれを振り払って違うところに行きたいけど、一歩踏み出しては迂回して戻ってくるみたいな、常にそういう分岐点に立っている。とはいってもそこから抜けてしまおうとかいうのではなく、包含しながら進み、密教的に増殖していく。その時間なり場所を司るというか、つまりは自分自身をどう司るのかということが舞踏にはあるけど、だからといって舞踏の定義となるとそういうのでもないから、難しい。」

「言葉にしろ、身体の動きにしろ同じ感覚が司っていて、それは何か?というと何でしょうねえ(笑)。 言葉の言霊だとか、ある種の始源の強さだとか言うと、民族学みたいな話になるし。まあ、そういう面もあるとは思いますが、身体の置き方、立ち方によってあらゆる疑問が解消するというか、そういう存在の仕方というのがあるんじゃねえかってことですよね。」

「海外の出し物を観ても、文学を読んでもそれなりにわかるでしょ。細かいところは判りませんよ。でもビックリしているとか、泣いているのは悲しいんだろうとか、情念的なものは判ります。まあ、人間なら一応情緒はあるだろうというのが前提ですけど。持ってないヤツもたまにいるから(笑)。」

──情念的、情緒的なものが、麿さんの一番根っこにあると考えていいのですか?

「かなりあります。「あっ!」って驚く時は、世界共通で同じ顔をするだろう、とかね。そういうところで、まず共通認識が生まれると思うんです。」

「我々の立ち方は、カッコ良く言えば、何物かの「容れ物」であり、つまりは生け贄(サクリファイス)として存在している。舞踏人種というのは、芸術とかっていうことではなく、生け贄(サクリファイス)としての肉体の存在を証明するものでして、「他に我々は何も言うことはありません」っていう方向にいくのが、僕の癖なんですけどね。」

──なるほど。じゃあ情緒や情念がどっかにあったとして、それと身体がうまく繋がらないといけないですよね。その繋がり方を学ぶメソッドとして野口体操があるのでしょうか。

「大駱駝艦の合宿でもはじめに野口体操とはこういうものだという説明をしてやらせるけど、それだけではちょっと違うような気がする。野口さんのような身体論は理想論としてはあるけど、そこに異物をどう放り込むか、ということが私にはあります。」

「舞踏という定義はもともとそんなになくて、たとえば異教徒をうまく巻き込んで、その儀式をちょっと入れちゃったりとかしてるうちに、いつの間にかミックスして、それで形づくっていくような。そういう異教徒的なもののリアリティもまたこっちに欲しいというところがあるんですよね。肉体というのを仕事にしちゃってるから、それだけどん欲になっている面もあるとは思いますが。」

「「何ものにも入ってやらない!」「どこにも属さねえ」「輪っかの外にいなければ信用できねえ」みたいな、強い意志があったと思います。」

「土方さんはもっと無意識的でかつ強い直感力で「輪っかになんか入れねえ」っていう、疎外感みたいなものを感受性として一番もっていたように思います。」

──麿さんたちが使っている言葉は、指示というかインストラクションじゃないんですよね。

「方便なんですが、若い人には、まだやっぱり言葉に対する信用があるというか…。「行け!」って言ったら行ったりしちゃうんですよ。」

「我々の仕事として身体の置きっぷりというのがあって。何もしないで板間に立っている意味みたいなことなんだけど。何もしなくても、それこそ言霊ならぬ“体霊(タイダマ)”がウワーンとあって、止まっていてもその波長が変えられる。要するに、身体の一種の多面性(多様性)が、見てる方にいろいろな方向性をもって伝えられるようになってくれれば。「なんじゃこりゃ」「見たことねえぞ」っていうところが最初だとは思うんですが。」

──野口体操的なものからはじめて、「見たことねえぞ」っていうところにいくにはどのように進めていくのですか。


<言霊ならぬ“体霊(タイダマ)って!!>と思うけど、

そのタイダマってものがあるとすれば、息子さん演じる家政夫のナギサさんにも結実しているような気がします。
インストラクションで演じられるものと、演じられないものがある。
息子さんの存在具合は後者では・・・。

それにしても、聞き手の小沼純一先生の物凄さよ。
野口体操に異物を放り込むことの重要性を、そこで止まってちゃダメなんだと、なんかそんな風に読めてしまいます。

──情緒や情念がどっかにあったとして、それと身体がうまく繋がらないといけないですよね。その繋がり方を学ぶメソッドとして野口体操があるのでしょうか。
──野口体操的なものからはじめて、「見たことねえぞ」っていうところにいくにはどのように進めていくのですか。
──情念的、情緒的なものが、麿さんの一番根っこにあると考えていいのですか?

こういう質問ってどうやったらできるん?
インストラクションで教えて欲しいと思わざるを得ませんが、
小沼先生の言霊がインストラクションじゃないから、もう麿さんの答えも相乗効果でハレーション起こして、
とんでもないところに行ってる気がする。
ハルカ星のハルバルの言葉みたいに聞こえる人もいるのではと心配します。

ちなみに上記リンク先にある注の「野口体操」の説明も、小沼先生によるものだろうか?
<体育教師だった野口三千三が、1960年代に体操による人間改革を目指して創始した実技。「生きている人間のからだは、皮膚という生きた袋の中に、液体的なものがいっぱい入っていて、その中に骨も内臓も浮かんでいる」という独自の人間観に基づいて提唱された「野口体操」は、体操界では異端視されたが、演劇、美術、音楽など芸術の世界に多大な影響を与えた。>

とっても簡潔。これくらいでいいのね。。。いや、これくらい「が」、いいのだ。

こころの時代~宗教・人生~ 選「わかり合えないをわかりたい」安彦良和先生

2020-06-30 | Weblog
このような番組を見逃していたとは迂闊でした。
コロナのおかげか、再放送を見ることができました。

多くは、すでに著書等で語られていたことだとは思いますが、
改めて本人の口から語られる、それが格別でした。
何か一言いうごとに、自分で自分に突っ込んでしまう、
ことばにすることに、ことばを選ぶごとに、ためらいがある、
そんな安彦先生の語り。

アムロとお母さんの再会のシーンが取り上げられていました。
ジオン兵に発砲したアムロに対して、母、
「あの人たちだって子供もあるだろうに・・・荒んだねえ」
そんな、わかってくれない母に
「戦争なんだよ?!」とアムロ・・・。

家族のわかりあえなさ。

浮かばれない人々。宇宙移民から難民問題まで。

『我が名はネロ』、わかりあえなさを超えたところの赦しについて。

暴君ネロへの人々の憎悪が高まったとき、ネロを殺してしまえばそれで
読者はスッとするだろう。
けど、そこに更に、そんなネロすらも赦すという、人間存在の奇蹟。
なかなかそこまで寛大にはなれませんが、岩川直樹先生のいう、
より高次元の欲望に開かれる・・・という点とシンクロすると感じました。

また、最近の日本スゴイ、日本のマンガすごい、日本のアニメすごいという風潮にも
鼻じらむような思いがおありのようでした。
サブカルなのに図々しい(?!)、たかがマンガ、たかがアニメ、
みたいな思い。安彦先生の、偉くなりすぎたくないという矜持のようなものでしょうか。
でもそれらも、ご自身の意図が、なかなかうまく伝わらないんだと、難しそうにことばを選んでいらっしゃるのが、なんとも言えない味がありました。

「こころの時代」、いつも見れるわけではないのですが、余韻があり、奥行きがあり、好きな番組です。
私が見る回だけかわかりませんが、いつも宗教や信仰の話になるのですが、番組の作り方としてひょっとして青汁から学んでる?って思えるところがあり(褒め言葉)、そこも含めて好きです。
<アキバのガンダムカフェでガルマ推し>とかいう話題を経由して、信仰に着地するのって大変なのかなと思うけど、そこが好きです。

追記
私はここ数年、「哀戦士」を日常的に聴いていて、こんなすごい歌他にないと
思っているのですが、この番組では「めぐりあい」が流れていて、それがまた番組によく合っていました。安彦先生の語りには、哀戦士では過剰すぎますので・・・。

井上大輔さん『哀戦士』
https://www.youtube.com/watch?v=0ljS0UtL4h4

追記2;先日たまたまヤックンが28年ぶりに「100%Soかもね」をパフォーマンスというのを見かけました。こちらも井上作品。
「♪街中を、逆立ちしたまま・・・」のところ、歌詞の内容はともかく、メロディーは「哀戦士」と通じる美しさ。そこだけでジオンのモビルスーツが降りてきそうです。

『新聞記者』

2020-05-11 | Weblog
今更ですが映画『新聞記者』を見ることができました。
松坂桃李さん、私が言うまでもないですが、
よくぞ引き受けてくださった・・・素晴らしいです。
事務所の社長さんも偉いやね・・・

日本でもこういう映画が見られるとは、ありがたい・・・と思うと同時に、
松坂さんが相手役なのに、
主役の女性が、日本人の女優さんで行けなかった、そこは、怖いように思いました。
主役の女性も素晴らしかったとは思いますがそういうこととは別に。
自分としては、少し前に放送されていたドラマ『知らなくていいコト』の
吉高由里子さんだったらなあ、なんて脳内変換して見ていた部分もあったかもしれません。

関係ないけど、以前、グリコ・森永事件を描いた『罪の声』の原作を読んだとき、
勝手に主人公の新聞記者を松坂桃李で脳内変換して読んでしまったせいで、
この映画もなぜか松坂桃李が新聞記者だと思い込んで見始めてしまい、
冒頭5分くらい勝手に違和感を感じていました。

内容は何よりとっても怖かった。
長い長いウォーキング・デッドよりもずっと怖かった。。。

モヤモヤした気持ちでエンドロールを見ていたら、音楽は岩代太郎さんでした。
同じ、岩代さんが担当された、
ポン・ジュノ監督の『殺人の追憶』とどことなくシンクロしました。
(エンディング、河井英里さんの声がとてもとても素敵です・・・)

『殺人の追憶』も実際に起きた猟奇的な連続殺人事件がテーマ・・・
でも、なぜか『新聞記者』の方が怖い。。。

あと、男闘呼組のファンでよかった!と改めて思いました・・・。
高橋和也さん。
男闘呼組解散の悲劇は、SMAP解散と並ぶと私は思うのですが・・・
そういう理不尽さとか経験しているから?
なんとも言えない悲哀が滲んでおりました。
(ジャニーズ回顧番組なんかでも男闘呼組はなぜか飛ばされがちでとっても寂しい。
ものすごい人気だったのに・・・)

そして、私は生まれて初めて、3月に週刊文春という雑誌を買ったのですが、
自殺した国家公務員の奥様・・・。
あの方はこの映画を見られたのかな、、、とも思いました。
西田尚美さんも、もともと好きな女優さんですが、ますます好きになりました。

多くの方はコロナ前にこの映画を見ていると思うのですが、
自分のようにコロナの後に見ると、またちょっと違った、
背筋の凍り方を味わえるかもしれません。

ETV特集「パンデミックが変える世界」を見ました。

2020-04-12 | Weblog
改めて怖いと思ったのは、
100年前、1918年のスペイン風邪の時は、波が何回かあったということ、
特に2回目の波でウイルスが強毒化して、若い人が多く亡くなったということです。
民放のワイドショーなどでは、山型のカーブを描いて、一度で終息するかのような説明を
することが多いようですが、果たして本当に波は1度しかないのでしょうか。
なんだか無責任な説明のような気がします。

また、同じくワイドショーなどでは、子供・若者は重症化しないということも
強調されているようですが、
(少しづつ意識も変わってきているかもしれませんが)
2回目の波で、ウイルスが強毒化すれば、そうはいかない、かもしれません。
1回目ももちろんなのですが。

波があるということは、もし一度、封じ込めたように仮に見えたとしても、
そこで油断はできないということです。
この「波」が何度かある可能性については、もっと皆が知らないといけないのではと感じました。
夏には終息、なんてことを言っている人もいるが、そんな類のものではないと。
人間の願望/都合と、ウイルスの都合は全く異なるということを
受け止めなければいけないということです。

また、日本でもかつてスペイン風邪で国内で数十万人がなくなったにも関わらず、
きちんとした記録や研究が残っていないことの理由について、
それは街の風景が変わらないために人々の記憶や記録に残っていないからだ、
という専門家の師匠の話も印象深かったです。
戦争や地震は風景が変わる、だからこそ集団的な記憶に残そうとする力も働く。
それでも忘却されていくものですが・・・。

そもそもスペイン風邪と言われるのも、スペインがたまたま情報を開示していただけで、
他国が戦争中で情報統制していたからスペイン風邪と名付けられてしまったとのこと。
情報統制はウイルスの拡散につきものなのかもしれません。

経済で人が死ぬと言っても、命さえあれば、生きていれば復興できるかもしれない。
オリンピックがあるから、あれがあるから、これがあるから、とやっていると、
結局ウイルスを助けてしまうことになる、笑われても良い、非難されても良いから、
徹底的に対策することが必要なのだという風に感じました。

かつて100年に1回と言われた感染症の流行は、文明の発展と人の移動の増加のため、
今では10年に1回以上になってきていて、
(SARS、MARS、ジカ熱、エボラと、小耳に挟んでもどこか他人事だった気がします)
その原因として環境破壊・生態系の変化・気候変動が影響しているということです。
温暖化により野生動物の生息域が狭くなる、熱帯雨林の開発、
新しい宿主を求めてウイルスが活動するのは必定のようにも思えてきます。

今の所数えられているウイルスは360万種くらいで、人間にわかっているのは7つで、
戦後わかったのは3つだそうです。

コロナが最初に人類に来たのは牧畜が始まった1万年前。
(モンゴルでは結構ペストというのはタルバガン狩りのこともあり、
身近に人々が感染症を感じていたような気がします)

番組では最後に二つの問いが投げかけられていました。
・監視を強化し制限するべきか、情報公開による市民による自己決定か。
・国家主義による孤立か、グローバルな連帯か。

原始的な暮らしを守り抜いているヤノマミ族でも感染者が出たということで、
もう孤立というのは無理かもしれません。
それでも、1万年の付き合いがコロナとあるのに、発見された7つのウイルスのうち3つはこの70年間に発見されているということは、やはり私たちの暮らしに何か警鐘を鳴らしているとも受け取れるように思います。感染症のゆりかごとして文明があるなら、そこから逃れることは無理かもしれませんが、せめてこの感染症のサイクルをあけるためには、
開発の手を止め、気候変動の手を止めるしかないのかもしれません・・・・。

そんなこと言ったって、明日の食料の心配をしている多くの人にとっては、
それは無理かもしれず、ということはそこには格差是正の問題や貧困の問題が絡んでくる・・・。当然、差別や偏見といった問題も。これらがみんな、他人事ではなく自分ごとになって行く時代に、良くも悪くもなって行くのでしょう。

出演者の話は、歴史的・学際的に人類とウイルス、
地球社会の関係を考察していて、見ごたえがありました。
文化・経済・移民、難民問題・国防・安全保障・・・話が多岐に及びました。
この番組を見たら、少なくとも年単位で時間がかかりそうだということ、
そして感染症の恐怖は、生涯付き合っていくものなのだということを感じました。
もちろん、杞憂であれば良いのですが。

追悼 野村監督

2020-02-18 | Weblog
1992年の秋、日本シリーズの第6戦でした。試合開始前は、ちょっと肌寒いような秋風が吹いていたような気がします。空は気持ちよく晴れ渡っていて、私は神宮でその試合を見ていました。試合は抜きつ抜かれつの打撃戦となり、結果8―7。ものすごい試合でした。異様な熱気に包まれつつ、自分は何てものを見たんだろうと思いながら帰宅すると、その日の夜、野村監督が「野球は8―7が一番面白い」と言っているではありませんか。やはり途方もない試合を見たんだと実感しました。翌日の第7戦も神宮へ行き、西武が日本一になるのを見ました。そして、1993年の春からも何度か神宮に足を運びました。印象に残るのは、伊藤智仁さんの先発試合。息を呑むというより、息をするのを忘れてしまいそうになるような、ものすごい投手戦でした。巨人戦だったと記憶。

当時大学生でしたが、晴れているのにしょっちゅう青いビニール傘を持って登校していました。ネットもない時代、小さな黒いAMラジオをカバンに忍ばせて、いつでもどこでもナイターを聞けるようにしていました。

93年の日本シリーズは、西武球場まで足を運び、高津さんが抑え、野村監督が胴上げされるのを見ることが叶いました。1992年、93年の西武との日本シリーズ、森監督もあれこそが生涯に残る試合だったと語っていらっしゃいますが、まさに死闘でした。にわかファンではありましたが、私もあれ以上野球で熱狂したことはありません。きっとこれからもないでしょう。
95年のオリックスとの日本シリーズは、留学先にいたのですが、ありがたいことに、阪神ファンの知人が高価な短波ラジオで放送を拾ってくれて、聞くことができました。心なしかその阪神ファンの方もヤクルトの日本一を祝ってくれていたような・・・。

そういえば、試合だけじゃなくて、なぜかフジテレビの珍プレー好プレーのスタジオ収録まで見にいきました。誰かが誘ってくれたのか・・・。その日のゲストは古田さんと高津さんだったように記憶しています。石井さんもいたでしょうか?高津さんや石井さんはとにかく話が面白かった。当時のフジテレビは牛込でした。
また、スタジオゲストには大沢親分、うら若き後藤久美子さんがいました。親分に休憩時間、お願いしたら笑顔で握手をしてくれました。

グッズや雑誌なども買っていましたが、特にヤクルトの誰が好きというのはなく、やはり野村監督が好きでした。
留学先にも、野村監督の著書を持っていきました。
「捲土重来」など、野村監督のおかげで覚えた日本語もありました。

今週は、追悼特番も多く、懐かしく、嬉しいやら悲しいやら。なかでも、S-1という番組が素晴らしかった。これは保存版にしたいと思います。
監督の「言葉」に着目した番組でした。気づかせ屋としてのノムさんは、まさに一流の教育者、ファシリテーター、アウェアネスに着目された方なんだと感じました。思考や感情、経験を洞察し言語化していくことのプロセスに着目したあたりは、ヴィゴツキーにも通じそうですし、鈍感が最大の罪と言っていたことは、積ん読状態のリサ・フェルドマンの”how emotions are made”とも通じるような気がします。捕手はゲームの演出家・脚本家という言葉もありましたが、まさに1ゲームを越え、野球界全体の演出家・脚本家でもあったのではと思いました。
また、洞察力、感受性、そしてどんな人とも野球を媒介にして本音で対話をしていく、その対話の根底にある情の深さ。数々の愛弟子が語るエピソードの一つ一つに、上っ面の言葉がないことが、その証左のように思います。

NHKは、やたら奥様に先立たれた後の孤独な監督の番組を流していましたが・・・タイトルもどうなの?と思うようなのもありました・・・そうではない、森田アナの「あの日、あのとき、あの番組」は、貴重でした。また改めて、監督の哲学や思想、愛弟子のエピソード、野球人生に着目した追悼番組を作ってくれることを期待します。フジの追悼番組は、なぜかスマスマの最終回を想起してしまいました・・・。追悼番組はファンには嬉しいのに、なんかちょっと違う・・・。

にしても、現役時代の若きノムさんのことはよく知らなかったので、この機会に改めて色々知ることができました。特に、野球の神様4人で行ったヨーロッパ旅行・・・。
また、晩年、そのときの写真を集めてリーフレットにしたものを、爆笑問題の田中さんが稲尾さんのご家族から手に入れ、監督にお渡したら監督がものすごく喜んでくれたこと、そのことを田中さんがこの世に生まれてきて以来唯一した善行だ、という太田さんも好きです。(カーボーイより)

12球団に野村さんの遺伝子が受け継がれている。
久々に野球を応援したい気持ちになっているのですが、12球団全てに監督の薫陶を受けた、素晴らしい指導者や選手がいて、どのチームを応援していいかわからないです…。

もっともっとぼやいてほしかった・・・。あんなに心地よく、本質をついていて、それでいてネガティブで、かつあったかい、野球愛にあふれたぼやきってありますか。

ノムさんの冥福を祈りたいと思います。

Night Fishing Radio

2020-01-15 | Weblog
サカナクションの山口さんのラジオ(「Night Fishing Radio」)を聞いていたら、美空ひばりさんの特集でした。まさかAIひばりはかけないだろうと思いましたが、ちゃんとそこはかけなかったので安心しました。AIひばりに楽曲提供したいか?という問いかけに、正面から答えることを避け、山口さんは、僕らの時代に美空ひばりを置き換えたら国民的な存在ということでSMAP。SMAPを通して、彼らを媒介に、自分の音楽を国民に届けることができるから。ただし歌の技術とかは置いといて、ということでSMAPを非常にフェアに語っているなあと思いました。実際2曲、楽曲提供できたときは、ここまできた、これで自分の音楽を国民に・・・というような感慨があったそうです。そして、SMAPなき後のアイドルの音楽は、<狭くなってしまった>のではないか、とも語っていました・・・。

そういえば昨年、今日は一日メガヒット三昧というラジオがFMであって、MCが宮川彬良さんでした。丸一日、メガヒットをかけ続けて、番組もエンディングに近づいてきて、エンディング直前、宮川さんが同時代のヒット曲コーナーから、最後の最後に選んだのが、サカナクションの「新宝島」だったので、ラジオ(というかPC)の前で嬉しくなってしまいました。宮川さんがなぜサカナクションを最後に選んだか、コメントも良くて、それは、同じような音楽を経験してきている、(具体的にどの曲とかではなくて)ということが音楽から伝わってくる、というようなことだったと思います。それは何度「新宝島」を聞いても聴き飽きることがなく、でも懐かしさのような不思議な感覚が蘇ってくる自分にとって、腑に落ちるコメントでした。
 (ちなみに真のエンディングで選んでいらっしゃったのは「また逢う日まで」←これは別格です。)

 話をNight Fishing Radio に戻すと、番組内で「コンピューターおばあちゃん」もかかったりと、好感が持てます。「コンピューターおばあちゃん」は、子供の頃、みんなの歌でずっと聞いていた大好きな曲。また、昨年のお正月、「Eテレココロの大冒険」でもパフュームが歌い、片桐はいりさんがパフォーマンスをして、素晴らしかった。そして「コンピューターおばあちゃん」の作詞作曲者は、私のかつてのバイト先の上司。バイトを辞めて数年後、偶然千代田線の車内で正面に座っていてお互いに目を丸くして再会をしたことがある、私の中でのレジェンド・・・。伊藤部長、お元気でしょうか? 「コンピューターおばあちゃん」、歌い継がれています。AIひばりはアレですが、コンピューターおばあちゃんは永遠・・・。

昔の日誌から

2020-01-11 | Weblog
部屋を片付けていたら30年近く前の、自分の教育実習日誌が出てきた。読んでみると面白い。高校での実習だったが、その頃から生徒たちの留学したいとか、そういう悩み相談?を受けていたりする。担当は古文だったが、平安時代の仏教におけるジェンダーの問題を扱っている。今と基本的にスタンスが変わっていない。あと、購買のパン屋さんとのやりとりなどが記載されている。影の薄い自分を卒業後も覚えていてくれたことの感激が記されていた。(「覚えてるに決まってるじゃない!」と声をかけてくださった。)自分はちょっと前まで、日誌の指導という仕事をやっていたんだけど、こんな自由奔放で面白い日誌は読んだことがない。学びに関係ないことを書くな!とか指導してたんだけど、ちょっと待てと言いたい。学びに関係のないことってこの世界にはないんじゃないか。購買のおばちゃんとのやりとりも、ドラマみたいである。今で言えば同僚性、One Team といったところか。いろんな人が、生徒の成長を見守り、喜んでくれているのである。(実習生全員にそう言っていた可能性もあるけど)

しかし何より驚いたのは、教員のメンタルによる休職がニュースになっているというある日の日誌である。教員というのは大変な仕事で、メンタルを病んで休職する人が増えている、というのだ。当時の私は、そのニュースに深刻さを感じ取りつつ、自分もそうならないようにしたい、などと適当な感想を綴って字数稼ぎ?をしている。ろくな日誌とは言えないのだが、実習を通して教師という職業を考えようとしていると言えなくもない。
しかし、今、ネットニュースで毎日のように報告されている、そして身近でもしょっちゅう聞く教員の休職というニュースが、30年前から、報告されて社会問題化していることがショックである。政府が30年もこの問題を放置しているということだ・・・。教師のこころとからだは30年もいたぶられ続けているのだ。4月に担任が決まらない、年度中にコロコロと担任が変わる、・・・こんなことは今や日常茶飯事である。少子化なのにも関わらず負担感は増えているのだから、むしろ悪化しているという、構造的な問題。一番の犠牲者は児童生徒であり、将来の日本社会・・・。
給料を増やし、優秀な人が集まるようにし、当たり前だが残業手当を出し、人を増やし(集金や教材配布、教室の掲示物など、免許なくてもできる仕事が山ほどある)、クラスあたりの人数を減らし、休みを確保し労働時間を決めて子育てや介護ができるようにし、研修を減らし事務作業を減らす。。。今できることはたくさんあるはずだ。

ついでだから書くが、以前、大学で教員免許更新講習を担当したことがある。貴重な休みを丸一日潰して、受講してくださる先生方に申し訳ない気持ちもあり、自分なりに精一杯担当させていただいた。
さて、教員免許更新講習を2年担当すると、教員免許の更新の受講義務が免除されるという。自分はそれに当てはまるし、ちょうど更新期限に近づいていたので、所管の教育委員会に免除を申請したら、免除というのは大学で教員免許更新講習を担当する人が小中高の校長とか、現職教員だけの場合の特別な措置で、あなたは該当しないと却下された。なので、今、私の教員免許は無用の長物である。免許更新講習を受けなければ、現場にはそもそも立てないのである。もちろん、受講すれば効力を発揮するらしいが・・・。
当然、自分の教えていた枠の分も、高いお金払って受講するんです・・・。

???である。

<こ、こういう風に免許が失効した人がゴマンといる・・・!>

膝からくずおれました、精神的に。


これ、誰が制度設計してるん? 

こ、これが生産性・・・

こ、これでSociety5.0とか・・・・・・

あ、あほらし・・・


と無力感でいっぱいになった。

政府は何をやってんだか。
政府は無策なんかじゃなくて、やってることが全てマイナス。誰もハッピーにならない。入試制度の改悪も、そのためにどれだけの無駄な時間と予算が注ぎ込まれたか。

少子化もそうだし、氷河期もそうである。今、氷河期世代がいずれ生活保護になだれ込むことが予想されているが、たぶん、本当にそうなる、というのが、発見された自分の日誌から、確実に予見できる。その政府を選んでいて平気なのが私たち国民である限り・・・。

氷河期を4人とか採用するのもいいんです、いいんですが、免許更新制度なくすだけで、氷河期も含めたいろんな世代が、現場でやってみようかな?と思えるんじゃないかな・・・。

「100分でナショナリズム」と3人のことなど

2020-01-07 | Weblog
元日の「100分でナショナリズム」、に稲垣吾郎さんが出ていました。

100分で名著シリーズ、いつもの伊集院さんとはまた違う、
吾郎さん(呼ばわり)の良さがありました。

国民とは、国家とは、民族とは、そしてナショナリズムとは・・・

吾郎さんは、自分が「国民的」アイドルと呼ばれた経験、あるいは
大きな事務所を飛び出した経験から、ナショナリズムという話題を
自分自身と重ね合わせて考えようとしている、というか、
重ねずにはいられない、という感じで、思考に誘われているようでした。
吾郎さんがふと「独立戦争したわけではなかったんですけどね」
と微笑みながら言いましたが、
世間の注目は、まさに<帝国>からの独立の行方に注がれていたわけで・・・。
新政府樹立?
帝国における個人のふるまい、自由とは、独立とは・・・。

独立後の3人の良さは曰く言いがたいものがありますが、
帝国の中、まさに「想像の共同体」のなかでがんじがらめだったところから、
個の自由を楽しんでいる、ように見える、ところにあるのかなと思いました。
そこで、吾郎さんにMCをふる100分で名著のスタッフが素敵です。

本を紹介する番組を長らくやっていたからなのか、
本や作家に対する自然なリスペクトが感じられるのも良いなあと
思いました。かつて児玉清さんの書評番組が好きでしたが、また
あんな番組があればいいのにな、、、と思わされます。

そしてその数日後、私は、3人が出るというので、
出川さんの「充電させてもらえませんか」っ番組を
初めて見ました。充電って、本当に文字通りの充電でした。
何か比喩的な意味での「充電」かと思ってました。

で、そこでは「想像の共同体」で纏ったもの?培われたものが遺憾なく発揮されていました。
訪問した先々で、老若男女がわらわらと集まってくる・・。
視聴者はみんな、もし自分がそこにいたら?自分だったら?うちの方にも
来てくれたら?・・・と仮託しながら、
日常に紛れ込んだ「想像の共同体」の頂点にいたスーパースターの存在にドギマギする素人との化学反応を楽しむ・・・

もう一つ、年末に、これまで見たことがなかった番組を初めて見たのがもう一つ。
「ガキ使」。
3人、自由、だったのかな? だったのでしょうね。 
とりわけ、草彅くんのパート、すごかった・・・。
(元日の「ホンネテレビ」で話していた後日談では、ものすごい昔のことが
走馬灯のように思い出されていたらしく、やはり「何も考えない」で
その場その場を生ききる草彅くんの身体性が爆発というか、本領発揮って感じでした。。。
なんか、目が煌々と、爛々としてしまうというか)

こうやってまとめてみると「新しい地図」を見ずにいられない自分がいます。。。
解散前は別にファンでもなんでもなかったんですけど・・・。

3人は今、パラリンピックの大使ということだけど・・・
パラリンピックの扱いはやはりまだまだ小さい。
オリンピックとか即位とか、いろんなところで、「想像の共同体」的な
ところに呼び出される前に解散した彼ら。
帝国の中で生きる、という道もあるのでしょうが、
独立、自由とは何か、を探る道もある。
そこで、100分で名著、のMCが回ってくる、なら、解散したことは、すごくすごく意味があるんじゃないかなって、改めて思えたのでした。

中村哲さん「武器ではなく 命の水を」、と、いだてんと

2019-12-08 | Weblog
12月7日に放送されたETV特集 追悼 中村哲さん「武器ではなく 命の水を」を見ました。

番組はドキュメンタリーなのに、何か、
風の谷のナウシカの世界観の実写版みたいで、
中村さんがジブリ映画の主人公の少年のように見えて仕方ありませんでした。

小柄な、埃だらけのシャツ姿で、
枯れ果てた荒野を緑に変えていく姿。
上空は空爆のための飛行機が飛ぶ中で
医師であるというだけで、土木や地質学、用水路建設の知識があるわけでもないのに
水を引き、大地を潤していく。
いったい、どうしてこんなことができたのか、、、
ジブリ映画よりも不思議でなりません。

この番組を、私は確か2016年に見ていて、
中村さん、素敵だなあとぼーっと見ていたのですが、
中村さんの訃報があったときに、ETV特集はきっと再放送してくれるだろうと思ったら、
ものすごい仕事の速さで、びっくりしました。

奇しくも埼玉での、13年ぶりとなるU2の日本公演で、
ボノが中村さんを追悼し、PRIDEほか数曲を
中村さんのために捧げたと聞き、鳥肌が立ちました。
(公式YOUTUBEで様子を見ることができました)

アフガニスタンも、トルコ、クルド、シリアもそうですが、シルクロードの中継地点として、
昔から栄えてきた要衝だったのに、
今そんな栄華は見る影もありません。

ちょうど、『いだてん』がクライマックスを迎えようとしています。
(私は途中、見たり、見なかったりという時期があったのですが、
秋から俄然面白くなってしまい、見ない時期があったことを
激しく後悔しています。・・・再放送してくれないかな・・・。)

日本が、焦土と化したのち、わずか19年という時間でオリンピックまで持っていったなら、
ひょっとしたらいつかアフガニスタンで、シリアで、
オリンピックができる日が来るんじゃないか、というようなことを思ってしまいます。
シルクロード・オリンピックとか。

「組織委員会は政府の顔色を伺い、政府はアメリカの顔色を伺い、
いったい誰のオリンピックなんだ」というまーちゃんのセリフは、
オリンピックだけでなく、今の日本社会全体に蔓延している空気に通じています。

(この大河は、酷評されているようでしたが、顔色を伺わない、
自分たちの大河、を作ろうとしたんだなと思います)

中村さんは、番組の最後で、平和運動をしているつもりはなく、
戦争をしている暇がないから、結果として平和になっているだけ、
とおっしゃっていました。

いだてん、では、「ぺ」=平和が、一つ大きな、
テーマとして描かれていて、結果としての平和、
につながらないのなら、それは本当にオリンピックと言えるの、
色々な不透明さがある中で、誰のオリンピックなの、
という問いかけを、2020年を前に、投げかけているようにも思います。

大河ドラマと、中村さんの死、
直接は関係ないことなのですが、
どこかで響き合っているような気がしています。

『スウェーデンの小学校社会科教科書を読む』

2019-12-03 | Weblog
SNSのことを、日本を含め、中国・韓国・台湾・ベトナムなど、東アジアの人々が皆SNSと言うのに対し、ドイツの人だけが「ドイツではSNSとは言わない、ソーシャルメディアという」と話しているのをとある場所で聞いて、思い出したことがあります。

それは、『スウェーデンの小学校社会科教科書を読む』という本のことです。これを読むと大変衝撃的なのですが、スウェーデンでは、小学生にもソーシャルメディアを使って、自分の意見を社会に表明する、仲間とつながる、デモを起こすこともできると書いてあります。

スウェーデンの教科書でも、ソーシャル「メディア」と表現されています。

気候変動で時の人となったグレタさんは、まさにこの「小学校社会科教科書」に書いてあることを、まんま実践しているだけに過ぎないのでは、という気がします。

日本では、ネットは危険、SNSでは犯罪に巻き込まれる、いじめにつながる、そうでなければ、自分の無責任なポストにより社会的に抹殺される?など、色々なネガティブな側面があること、してはいけない、ということを、小学生にも教えていると思うのですが(もちろん、上記のスウェーデンの社会科教科書にもそうした記述はあります)、メディアとしての本質的な役割、市民が権力を監視し、社会をよりよく変えるための道具として、あなたも意見をポストできるのです、人と繋がることができるのです、というようなことは、あまり教えられてはいないように思います。

同じアプリを利用するにあたっても、「メディア」、と捉えているのか、「サービス」と捉えているのかによって、随分違うというか、グレタさんのような「変化の担い手」が登場する土壌にも関わっているのではないかと思います。

いやいや、権力の監視なんてしたくない、それは誰かがやってよ、自分はサービスでいいよ、というのが、私も含めて、日本の現状でしょうか・・・。

他国の小学校社会科教科書を読みあう、というのは、いい試みだなあと思います。スウエーデンの小学校教科書には、権力の監視という、メディアの果たすべき最も大切な役割が簡単な言葉で力強く書かれています。プーチン大統領は、誰も彼女に世界の複雑さを教えなかった、とグレタさんを揶揄していますが、世界の複雑さに忖度しまくりで、一番簡単で力強い本質がないがしろにされているのが、多くの国の「社会科教科書」なのではないかと思いました。いや、これは別に、以前、私がやっていることを国語では拒否されてしまうので、なんでしたら社会科とかでどうでしょうねみたいなふわっとしたご提案とも言えないような問いかけをしたら、瞬殺で「社会科でも御免こうむりたい。How dare you」とぶったぎられたことなんて、全然関係ありません・・・。

カメルーンで起こっていること 補足

2019-11-28 | Weblog
先日、『寄生虫のサバイバル』というコミックを読んでいたら、鎌状赤血球症のことが出てきて驚きました。物語の舞台はアフリカなのですが、11月17日の記事で触れた、政府軍に惨殺された知人の従兄弟は、まさにこの鎌状赤血球症で、治療中だったのです。
(鎌状赤血球症は遺伝性の病気で、マラリアに強い耐性を持つのですが、多くの人は20代で亡くなるそうです)

そんなこともあり、11月17日の記事について、少し補足しておきます。

カメルーンの憲法には、どの言語でも無料で教育を受けられると書いてあるそうなのですが、これが全くの欺瞞になっているそうです。
1992年に国立ボヤ大学が設立されるまでは、英語で授業を行う大学は一つもなかったそうです。

日本大使のメッセージにある、「カメルーンはバイリンガル教育」、というのも、ちょっと説明が必要です。実はカメルーンの学校へ行っても、二言語を身につけられるわけではないのです。カメルーンのバイリンガル学校というのは、一つの学校に、英語セクションと仏語セクションとが別れて存在していることを指します。なので、卒業してもどちらか一つの言語しか身につきません。(もちろん外国語として他方の言語を教えることはあっても、日本人のそれと一緒で、日常で使えるレベルではないそうです)。それを大使の挨拶で、「バイリンガル教育」、と言ってしまっていいのか、と思いました。だったら日本も、小学校から大学まで、多くの学校でバイリンガル教育、やってますとアピールしてもいいですよね。

私は、多和田葉子さんの考え方が好きなのですが、多和田さんは、外国語を学ぶ意味について、二つの言語で同じことに対し全く違うことが書かれていると、自分の頭で考えるしかなくなることだ、と語っています(『ことばと歩く日記』)。ましてや、今の独裁政権の長期政権が、二言語を学んだ人たちの選んだ答えだとは到底思えないのです。

何よりも驚くべきなのは、カメルーン国内では、2016年から戦争が起きていることを知らない市民が普通にいるそうなのです。特に首都では<平和>が維持されています。ある女性が事故に遭ってしまい、複雑な治療が必要になったため、たまたま軍の病院に入院する羽目になり、そこであまりに多くの兵士が入院しているのを見て、ようやく内戦が起きているのを知ったのが今年、だそうです。驚くべき言論統制です。ボヤ大学も、英語圏にある唯一の国立大学として、何かしていないのだろうかとHPを見てみましたが、ごく普通に学園祭の写真が出ていて、何か薄ら寒い思いがしました。

なお、知人は、日本政府による、「英語圏安定のための治安学校への資金援助」についてとてもショックを受けていました。そしてしばらく考えたのち、「カメルーンの英語圏に関心を持ってくれるのはありがたいこと」だとしながらも、
「意図はいいとしても、やり方が間違っている」と断定していました。

少数派英語圏の安定は、まさに英語圏の人々が心から望んでいることでしょう。しかしそれが弾圧側の政府軍に直結した組織の資金援助に使われてしまうのは、全く違います。意図がいいからって、許されるものではありません。もし日本政府がどうしてもカメルーンの英語圏の安定に貢献したいのなら、人道援助などに絞られるべきでしょう。しかし、以前にも書いたように、UNHCRなどの活動は政府から拒否されていますから、難しいはずです。

もしも、英語圏安定は単なる名目に過ぎず、治安学校への資金援助が目的なのだとしたら、政府軍による殺戮が起きている以上、即刻凍結すべきだと思います。

光の絵画~ハンセン病療養所・恵楓園 絵画クラブ“金陽会”

2019-11-18 | Weblog
「日曜美術館」で、「光の絵画~ハンセン病療養所・恵楓園 絵画クラブ“金陽会”」を見ました。

奇しくもハンセン病家族補償法が成立した直後での放送になりました。

ハンセン病患者として若くして強制隔離された中で、絶望と怒りの中でパニック状態になり、早く死ぬことばかり願っていた人々が、ふとしたきっかけで絵という表現に出会い、仲間で「金陽会」を結成。学校や教室もないなか、独学で絵を描いていき、初めは暗く否定的な絵ばかり描いていたのが、次第に肯定的な絵を描くようになっていった背景、絵に人生を託すことになった生き様が、丹念に、丁寧に取材されていました。

また、金陽会の絵を、純粋に芸術作品として評価し、療養所の外の人に見てもらおうと尽力してきた方々や、厖大な作品の保存に、個人として協力する市民の方々の姿もありました。今はたった一人のメンバーとなってしまった、90歳になり今もなおアトリエで絵筆をとり続け、死ぬときまで絵筆を握っていたいという会の代表のかたや、視力を失ってしまっても、今もずっと頭の中は忙しく絵を描き続けているという方のインタビューもありました。

何より作品が素敵でした。絵のことはわかりませんが、二頭の白い馬を描いた『母子』、海辺のゆうすげの連作、奄美大島の家で終戦直後に使っていたラードを入れる「壺」の絵、たった一度だけ参加した小学校1年生の時の遠足、鉄条網の向こうに打ち捨てられた土管の上にとまる眼光鋭いカラスなど、どの絵も、一枚一枚にストーリーがありました。打ち捨てられたもの、人に見向きもされないものにも、丁寧に向き合い、対話を紡いできた人たちの人生が、色によって表現されているようでした。

小野正嗣さんの語りも良かったです。強制収容によって、社会から世間から、全存在を徹底的に否定され、差別され、無視されてきたところに、怒りや否定で返すのではなくて、肯定で返す、その数十年という時間をかけて起きた、芸術の力といっていいのかわかりませんが、引き起こされた人間の変容のプロセスそのものに、絵を見る自分たちまでもが、すごく大きなものを受け取っている、受け止められている、祝福されているのだという、もちろんそんなことは、初めからない方が良かったのですが、それでも起きてしまった、変えることのできない人間の歴史の暗部の中から、人間の底知れぬ可能性のようなものが浮かび上がる様子に触れてしまって、素の心を動かされずにいられない、小野さんの様子が伝わってきました。
メンバーの方の語りは、番組を通して終始一貫して、苛酷さを何かすっかり飲み込み別のものに昇華させてしまったような、恬淡とした語りでした(以前Eテレで特集された山内きみえさんもそうだし、映画『あん』の樹木希林さんや市原悦子さんの演技もそうでした)。なので、なお一層、小野さんがカメラに向かって語る際に、むせぶように、感情が思わず露わになるところは、こちらももらい泣きしそうでした。

カメルーンで起きていること

2019-11-17 | Weblog
そのひとは、自分が祖国を離れていたとき、いとこが二人、銃殺されたそうです。
一人目は、40代のカカオ農家。
2018年5月20日頃。
ただ家にいただけ。いとこは頭を撃たれて死亡。
そしてその奥さんも、腹部を撃たれて死亡。

その家には村人が3人いて、合計5人が、一度に、その家で殺された。無辜の民が。
政府軍によって。

そして今年の6月。もう一人のいとこ。
もともと病気療養中だったそうです。
夜。10時過ぎ。ノックをされて玄関を開けたら、政府軍がそこに。
撃たれて死亡。一緒にいた母は、撃たれはしなかったがその後PTSDに。

***
そのひとは、2016年以降、国に帰っていない。帰りたくても帰れない。
もし帰るとしたら、すべてのソーシャルメディアのアカウントを削除すると言っていました。

カメルーンでは、すべてのソーシャルメディアは、検閲対象で、どこにも表現の自由はない。
2017年、三人の学生が、SNSに就職がないことを嘆くジョークを書いただけで、
10年懲役刑を受けたニュース。
https://www.theguardian.com/global-development/2017/sep/21/no-laughing-matter-cameroon-students-face-10-years-in-jail-for-boko-haram-joke

なので、本当に自由がないと感じるのだそうです。

冗談を書いただけで懲役10年。
上の記事には、ジャーナリストや野党のリーダー、公証人なども
次々と逮捕されているとあります。

次の記事は、英語圏の分離独立派のリーダーの逮捕と終身刑を伝え、同時に今年8月の段階で、2000人以上が殺され、50万人以上が国内難民となっていることも伝えています。
https://www.theguardian.com/world/2019/aug/20/cameroon-anglophone-separatist-leader-ayuk-tabe-handed-life-sentence

多くの子供たちが学校に通えなくなっているとも。

そして、ソーシャルメディアで伝わるのよりも、実際がひどいと。
今から1ヶ月前に、カメルーンから国外に逃れてきた人の語りでは、
道路は片付けられていない死体が累々だそうです。道なりになっている。
虐殺が起こっていると。
4ヶ月の赤ん坊まで殺されている、と。

この記事も7月の政府軍による市民の虐殺を伝えていますが、氷山の一角のようです。
https://www.theguardian.com/global-development/2019/jul/22/cameroonian-forces-in-anglophone-region-accused-of-killing-four-people

***
今の大統領は、86歳。大統領になって、37年。
一度当選すると、7年間は選挙がないので、このままいくと90歳を超えても、大統領のまま、でしょう。

内戦状況をコンパクトに伝えているのがこちらです。NHK。

https://www.nhk.or.jp/kokusaihoudou/archive/2018/11/1108.html

「一昨年(2016年)英語圏の教師や弁護士は、政府がフランス語による教育やフランス式の司法制度を強要しているとして、英語も重視するよう求める平和的なデモを行いました。」とあります。

このデモをきっかけとして、カメルーン政府軍による弾圧が始まった訳です。

また、選挙の不正や、サッカー人気を利用したおかしな政策もまかり通っているようです。
海外メディアによるインタビューにも、厳しい検閲のもとでは、「現政権で、平和が訪れる」としか答えようがないのかもしれません。

***
在日本カメルーン大使館、また在カメルーン日本大使館のHPも見てみましたが、
実態は反映されていないように思えました。

大分県中津江村は、2002年、カメルーンのおかげで全国区になりました。
いまも交流が続いているそうです。大統領出身地メヨメサラ市と友好親善協定締結、とのことですが、独裁政権やフランス語圏のみとの交流ではなく、カメルーン全体との交流であって欲しい、内戦のその先を見据えての交流であって欲しいと思います。

また、今年8月には、日・カメルーン外相会談も行われています。
外務省HPによると
「英語圏地域及びチャド湖地域の安定化に向けて,治安・平和部隊国際学校(EIFORCES)に対する約23万ドルの支援を決定した」

とありますが、これも元々は税金です。
EIFORCESのHPを見ると、まさしく大統領令によって設置された学校となっています。
日本の当時の外務副大臣の大きな写真もあり、また日本との強いコネクションが強調されるHPになっています。(とても恥ずかしいことでは?)

この外相会談の手前、今年6月にはこの学校の校長が、日本の外務副大臣を表敬訪問しています。

以下は外務省HPより。
 [参考1]カメルーン治安・平和部隊国際学校(EIFORCES)
 2008年5月設立。カメルーンの首都ヤウンデに所在する,憲兵隊,警察,文民治安専門家のための中部アフリカ地域の中核的な研修拠点。日本は,2010年以降,日UNDPパートナーシップ基金「アフリカPKO訓練センター支援」の枠組みで,累計約324万ドルを支援し,邦人文民講師3名を派遣。

2010年以降、3億円以上を出して、この現政権を支援してきたって・・・。
百歩譲って、少なくとも、2016年以降は、やめていてほしいのですが・・・。

「平和と安定」が学校のスローガンですが、カメルーンの方に見てもらったところ、
真っ赤な嘘!と笑っていました。

***
この23万ドルの支援の目的は、
「英語圏の安定」も含めているわけですが、それを引き起こしている原因を
作っている人たちに対して23万ドルの支援。って、マッチポンプ?
混乱を作り出せば作り出すほど、日本から援助が来る構造って、
どう考えてもおかしいように思います。
「英語圏の安定」の名の下、軍による虐殺のために、日本の税金が使われることのないようにして欲しいですが、どこの誰が、モニターできるのでしょう?
監視と検閲の社会で・・・。
モニターできないから、アメリカ政府は支援をストップしているそうです。
そもそも英語圏への迫害は、原油の利権争いが原因だそうです。そこにフランスが食い込んでいると、カメルーンの方は話していました。

***
それにしても、なぜ日本政府は、援助を止めないのでしょうか?令和になってからも、カメルーン政府への援助を続けているのでしょうか?これでは、せっかくの天皇陛下の、「世界の平和を願う」というお言葉も、台無しのように思います。

先のカメルーンの方は、この状況について、今まで何人かの日本人に話してはみたらしいです。けど、全然関心を持ってくれない、と。

でも、一般人が、関心を持たなくても、持てなくても、外交のプロは、わかってるはずなのでは・・・と思います。
私のようななんでもない一市民ですら、ちょっと調べようと思ったらいろんなことがわかるこの時代に、軍隊学校に資金援助を続けるだなんて、あまりにもおかしい。わかっていてやっているのだったら、当然何か裏があるのか?と思ってしまいます。

なお、在カメルーンのアメリカ大使館HPでは、アメリカ市民に対して、カメルーン情勢の不安定さと危機を警告しています。

桜を見る会や、英語民間試験業者に、納得できない形でお金が支払われるのも嫌ですが、同レベルに語るのはおかしいかも知れませんが、
外国での市民の虐殺に税金が使われるのはもっと嫌です。そんなことのために増税とか・・・。

そもそもお金の話でもないのですが、そこに知らないうちに税金という形で加担しているのは嫌です。

日本だけでなく、国際社会がだんまりをしている、特に、イギリス、フランスは、もともとの植民地支配に起因することなのだから、発言し行動する義務がある、とその方は言っていました。

***
2016年、教育や裁判を、フランス語でしか受けられなくなった、そこから始まり、内戦へ。
もともと、この話をしてくれた方も、英語では国内で希望分野の高等教育を受けられない(授業がフランス語のみ)ため、海外に留学したそうです。その方も日常会話のフランス語はできるのだけど、専門分野は英語で受けたかったとのこと。(もちろん民族語もお話になりますので、トリリンガルです)
日本大使館HPには、大使の挨拶に、カメルーンはアフリカでは珍しくバイリンガル教育です、と書いてあります。いやいや、そうかもしれないけど、でもそれがある意味、英語圏で虐殺が起き、50万人が難民化していることの背景にあるのですが・・・教育を受けたくても受けられない子供が英語圏で大量発生中ですが・・・バイリンガルであるためにむしろ国に帰れなくなっている人がいるのですが・・・。のんきすぎやしないだろうかと心配になります。
もう少し情報をアップデートしてもいいのではとも思うのですが、NHKやガーディアンのサイトと比べると、あまりにも書いてあることが違い過ぎます。

「書いてあることが違いすぎると、自分の頭で考えるしかなくなる」、という多和田葉子さんのことばが、頭をよぎります。

W杯が終わって

2019-11-07 | Weblog
全国のラグビーにわかファンの末席を汚しております。
<ん?気がついたら、いつのまにか目が、南アの9番を追っている・・・>状態になったのが日本戦、そして準決勝での<大男に胸ぐら掴まれて笑顔>などでツボを突かれました・・・。
『スクールウォーズ』以来の第二次?自分内ラグビーブームです。『ヤヌスの鏡』がリメイクされたそうですから、スクールウォーズもリメイクの話があってもおかしくないでしょう。

デクラークさんの日本でのブレークはAIも予想できなかったのでしょう、なんのテレビ出演もなくあっという間に帰国されましたが、NHKが報じた南アの現地到着のニュースでは、監督やキャプテンをさしおいて空港に到着したデクラークさんのみ、字幕入りでフィーチャーしていました。にわかファンへの忖度なら大歓迎です。
どこかの企業がCM出演を持ちかけていそうだけど・・・何か名前をもじったCMとか、お笑い系じゃないことを祈ります。

しかし、ニュージーランドや南アフリカのような国がフォーカスされるのはすごくいいことだと改めて思いました。ふと気づいたのですが、この二カ国は核兵器禁止条約を批准している国でもあります(まだ批准はわずか33カ国で、50カ国にならないと発効しない条約です。日本もまだです)。核兵器禁止条約を批准している国々を見ると、南半球に偏っています。日本をはじめとする北半球の国々は、南半球からたくさんのことを学ぶべきだと思います。ひょっとしたら、ニュージーランドや南アフリカのように、ラグビーが普及して、ノーサイド精神とか、チームワークとか、後ろにしかパスを出さない、みたいなことが当たり前になれば、めぐりめぐって批准に至らないだろうか・・・。そんな淡い期待を抱くのは、馬鹿げているでしょうか。

また、アフリカの国々が話題になるのもいいなと思います。南アのアパルトヘイトのことが政策としてはなくなったことが実況でなんども紹介されていましたが、政策としてなくなったからと言って簡単に差別がなくなるものではないことは、日本の女性政策や障害者政策を見ていても明らかで、だからこそあのキャプテンのスピーチがあるのだと思います。そのあたりをもっと知りたいと感じました。
そして、アフリカといえば、私が最近気になるのはカメルーンの現状です。カメルーンは1960年代の植民地支配からの独立後の諸々が影響し、英語圏カメルーンとフランス語圏カメルーンで内戦状態となり、多くの国内難民が生まれているのに、国連からの支援も独裁政権が断っているため大変な状況だそうです。にも関わらず、国際社会からほとんど注目されていない・・・。2016年あたりから、産油地帯に当たる少数派の英語圏カメルーンの人々が教育や裁判をフランス語でしか受けられないようになってしまい、大変な言語権の侵害が起きていて、武力衝突も多数、多くの死者が出ているそうです・・・。カメルーンの方と話す機会があり、そんなことになってるなんて知らなかった、カメルーンは平和なイメージ、2002年のW杯(サッカー)のイメージしかなくて、と言ったら、「うん、普通の日本人はそうだから」と言われてしまいました。そのかたは内戦以前にカメルーンを出られていて、英語圏カメルーン出身のため、今は戻るに戻れなくなっているそうです。親戚が複数、お亡くなりになったそうです。英語が話せる人々が独裁政権(40年くらい同じ大統領みたいです・・・しかも大統領は超高齢)によって迫害されるという、日本の英語民間試験問題騒動とは価値的には真逆のことですが、そういうことも世界では起きていて、そういうことももっと報じられていくことが必要に思います。