カプアン通信

93年の軌跡




きのうの朝のカプアンです。




アンジェロは散歩に行かなかったのに、
習慣で、台に乗る気になり、
抱っこされ、歯磨きと足拭きをされました(笑)




カプアはこうして見ると「シュン」としてますね(笑)




きのうは父の誕生日でした。
生きていれば94歳です。

千葉県に住む姉を呼んで、母とカプアンママと私で
お墓詣りをしました。

隣のお墓にきれいなツツジが咲いてました。
ミツバチやクマンバチが嬉しそうに蜜を吸ってました。




家から車で10分くらいなので、気軽に来れます。
自分のお墓をここに作った父の計らいですが、有り難いことです。




その後、父を偲んで昼の宴。
場所は、昨年の夏以来の「勢きね(せきね)」さんです。
写真はお通し、ふき味噌と空豆。

ここは3人でやっている、小さな小さなうなぎ屋さんですが
毎年、ミシュランの☆をもらっているんです。
料理も一流ですが、サービスが素晴らしいです。
半年ぶりで二度目ですが、私の名前・会社名・前回何の会で来たか
全て女将さんは覚えていました。白い犬(カプア)を連れていることも(笑)
私は忘れてましたが、前回は結婚記念日で来たのでした。(汗)

そして、足の悪い母のために、お店のトイレが使い辛いと
隣のホテルのトイレまで車椅子の付添いをしてくれました。
お料理も母の分だけ、食べやすいよう細かくきざんでくれたり
いたれりつくせりです。



父の献杯と、父の誕生祝いと、2回杯を交わしました。
とても飲みやすい日本酒をいただき、母まで口をつけました。




土佐のしらぎく 純米吟醸 無濾過 山田錦50%生酒




絶品。肝焼き。

この前に、みる貝、うるい、もずくの酢の物があったのですが
撮り忘れました。それくらいおいしかったです。




鰻巻き。




白焼き。写ってませんが、添えられた「花わさび」も良かったです。




器も楽しめます。
九谷。




お食事は、櫃まぶしにしました。
鰻は言うまでもなく、お出汁良し。お漬物も良し。




姉とカプアンママはうな丼。




フルーツは丁寧に包丁が入れられて
皮と実が外されています。




櫃まぶしを食べきれなかった母のために
こんなかわいいお土産を作ってくれました。
帰ってから開けると、手まり寿司風な
小さな鰻おにぎりが入ってました。

父にもこのようなおいしい料理を食べてもらいたかったですが
晩年の父は、外食を好まず、また歩く事もままならなかったので
一緒に、赤坂の名店に行くような機会はなかったです。

おいしいお料理をいただきながら、父に感謝しつつ
父の思いで語りました。



父が亡くなった日の夜
母を呼んで、一緒にごはんを食べたとき
父の思いで話がとても面白かったので
略歴の原稿を作って、お葬式で披露した話を以前しました

とくに興味深かったのは戦時中の話です。
父は、「近衛兵として昭和天皇に仕えた。全国でも数少ない兵隊だった」
ということをまわりの人に何度も自慢してましたが、
その詳細まで聞いたことがありませんでした。

当時の若者としては身体が大きく(晩年でも176センチくらいあった)
「甲種合格」で兵隊になったそうです。
大学(専修大学)にも行っていて(昭和初期は大卒は珍しかったらしい)
日本勧業銀行(現みずほ銀行)という当時としては大手銀行の行員だったことや
自分の父親が法務省の偉い役人だったらしいので、
コネもあったのかな?と想像しました。

国内で天皇陛下のお世話をしているときはまだ楽だったと思いますが
戦争が激化し、父も南方に出征することとなります。
でも、皇族が連隊長の部隊だったらしく、比較的大事にされた部隊だったそうです。
(全部、母が父から聞いた話ですが)

フィリピン島を経由してスマトラ島に通信兵として出征しましたが
じきに終戦になりました。
しかし日本に帰る船がなく。2年間もジャングルに残留することとなります。
戦争は終っているので、鉄砲の弾が飛んでくることはありませんでしたが
スマトラ虎という巨大なトラに遭遇したことがあり
戦争で最大の恐怖だったようです。

また食べるものがなく、野草ばかり食べ、後に「ハーブ料理」などは
「ジャングルで嫌と云うほど食べた」と言って、口にしようとしませんでした。
しかし、バナナには命を助けられたという思いがあったようで
亡くなる間際まで大好物で、常に大量に買ってました。

そしてなぜか、日本から英語の辞書を隠し持って戦地に行ったため
その辞書が残留部隊でとても役にたち、上官に褒められたそうです。
また、父は声楽を習っていたため、作曲ができ、
現地の人々と交流するために、上官から「盆踊り」の作曲を頼まれたそうです。
姉が父から聞いた話では、楽器もないのに、頭の中で作曲し
後で、オランダ軍が駐留している場所にピアノがあったため
自分で作曲した曲を弾いたら、合っていたとのことです。
父は80歳を過ぎてもピアノを弾いてました。

そして現地で「アメーバ赤痢」という、当時、重病の感染症にかかり
アメリカ軍の病院に入院しましたが、まわりの日本兵はほとんど亡くなったそうです。
父は身体が丈夫だったせいか生き残ることができ、赤十字の病院船で帰国しました。

帰国後、すぐに元の銀行に復職し、父親の疎開先だった山梨県で母と知りあい、
父親どうしが決めた結婚により母と結婚します。

今年は戦後70周年だそうですが、
父は終戦のときは24歳。2年残留して帰国したときは26歳。
そして翌年27歳で母と結婚しています。

そのあとは高度経済成長時代で、長いこと「宝くじ」関係の仕事をしたそうで
芸能人に会ったり、料亭に行ったりいろいろ楽しい経験をしたようです。
ちなみに、現在、数寄屋橋にある有名な宝くじ売り場
「チャンスセンター」のネーミングは父の考案とされています。

55歳で銀行を定年退職し、すぐに同行の健保組合の嘱託となり
62歳まで銀行に勤めました。
しかし50過ぎ頃から、脳梗塞や心臓病にかかり
退職後は長く療養生活を送り、
とくに趣味もなく、ただひたすら健康に留意し
94歳近くまで長寿で過ごしました。

そんな父の人生を16ページの冊子にまとめ
納骨式のときお渡ししたり、お香典・お供物を頂戴した皆様へ、お返しの品とともに送りました。
冊子づくりは自分の本職なので、どうということはありませんが
お葬式のあと、こんな小冊子をもらうことは珍しいようで
さまざまな反響がありました。

残念なのは、父に見てもらえなかったことですが
こればかりは仕方ありません。

一部のページを掲載します。実物はB5サイズの冊子です。















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コメント一覧

カプアンパパ
yumekoさん
お返事遅くなってすみません。
昨夜、旅行から戻ってきました。つかの間の休息を楽しめました。
冊子のことお褒めいただきありがとうございます。
父は、就職も戦争体験もいわゆるエリート路線でしたが
実の息子は劣等で、おまけに美大などとおかしな方面へ進学しましたが、強く反対された記憶はありません。
出来の悪い息子と、早々にあきらめていたのかもしれません。折角入社した代理店も数年で辞めてしまいましたが、その時も反対はされませんでした。
亡くなってからですが、ほんの僅かな親孝行になったかな?と思います。
yumekoさんはまだまだお若いですが、お子さまに誇れるものを沢山お持ちだと思いますよ。
yumeko
冊子
お父さまの冊子、とても素晴らしいですね。
お父さまの人生は、あの激動の時代を生き抜いた強さと重みのある素晴らしいものだったのだと、冊子を少しだけ見せて頂いただけで、感じることが出来ました。
カプアンパパさんのこの記事を読んで、なんとなく自分の人生を振り返り、ひとつでも子供に誇れるものを残しているのかな・・・なんとなく生きていないで、頑張らないといけないな・・・そんな風に考えてしまいました。
こんな風に息子さんに人生を振り返って貰えて、そして冊子を通して皆様に偲んで頂いて、カプアンパパさんのお父さま、きっととても喜んでいらっしゃると思います。
ご旅行、心の重荷を少しだけ下ろして、楽しんでいらしてくださいね。
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