~日刊スポーツから~
南海、西武、大洋(現DeNA)で活躍した片平晋作(かたひら・しんさく)氏が22日午前9時58分、膵臓(すいぞう)がんのために死去した。68歳。
またまた寂しいニュースが。
南海、西武で活躍した『一本足打法』の片平晋作氏が、
22日に亡くなられたそうです。
1月に入って、
星野仙一氏に続く『我々世代が憧れてみた野球選手』が亡くなって、
なんというか、寂しいというよりも、ちょっと打ちひしがれちゃっています。
ワタシにとっては、
星野さんが亡くなられたことよりも、
より衝撃が大きい、この片平さんの逝去です。
『南海に一本足打法の選手がいる』と知ったのは、
まだまだパ・リーグの試合が世間の目に触れていない頃でした。
プロ野球ニュースだったか、
録画(ハイライト)映像の中で見たのが彼の姿を見た最初だったのではないかと記憶しています。
その頃は野球少年の間で、
王さんの一本足打法をまねるのは定番中の定番。
ゆえに片平さんの映像を見ても、
特に驚きはしなかったように記憶していますが、
世間で言われていた通り片平さんの一本足打法は、
子供たちの間では「ニセ一本足打法」なんて言われていましたっけ。
今にして考えると、
本当に失礼な話です。(まあ、子供ってそんなもんなんですね。。)
それからプロ野球チップスの中のプロ野球カードで、
南海の鮮やかな緑のユニフォームに身を纏った片平さんの姿は、
何度も目にしていた感じですね。
そしてその後、
西武が所沢に移転してくると同時に、
あっという間に地上波(その当時はTBS中心)でもU局であるテレビ埼玉でもライオンズ戦が頻繁に中継されるようになり、
ワタシもパ・リーグの試合を見る機会が一気に増えたのでした。
その当時西武をまさに”熱烈に”応援していたワタシの前に、
片平選手がやってきたのは82年のこと。
広岡監督が就任し、
『足りないピース』のところに積極的にトレードで選手を補強して、
一気に優勝を狙える陣容を作り上げていった年でした。
南海からはこの片平選手がやってきて、
ベテランの黒田捕手とともに、
西武の『第1期黄金時代』(広岡政権下)の主力を担ってくれました。
片平選手は、
中軸を担って本当に良く打ってくれました。
『ああ、いい選手を獲ったなあ』
ということを、
いつも感じていました。
トレードで獲得した片平、黒田、
そして広島から来たサブマリンの高橋直樹。
この3人は本当に、
西武初優勝と翌年の連覇、
82年、83年の優勝に、
欠かせない選手として大いに貢献してくれたと思います。
ワタシはこの頃、
西武の選手は全員が大好きでしたが、
特に『侍の風情』の大田卓司、『必殺仕事人』の永射保、そして『一本足の仕事人』片平晋作の3人衆は、
大好きでした。
なんとも言えない、
『古き良きパ・リーグの匂い』
を全身から発するプレーぶりとたたずまいに、
しびれていました。
片平さんと言って思い出すのは、
なんと言っても82年プレーオフでの江夏から放ったプッシュバント。
前後期制だった当時のパ・リーグ。
前期を制した西武と、
後期を制した日ハムの対決となったプレーオフ第1戦。
ワタシは遠くの学校から、友達+担任の先生といういわく言い難い『3人のレオファン』の徒党を組んで、
この試合に駆け付けていました。
日ハムが『骨折しているはずの工藤が先発』という奇手を打って始まったこの試合、
その工藤が好投して0-0のまま8回裏を迎えました。
日ハムのマウンドには”絶対的守護神”の江夏。
シーズン中ずっと江夏を攻略できなかった西武は、
この短期決戦の『秘策』として、
ずっと選手に練習させていた”手”がありました。
それこそが『江夏の横に強く転がすプッシュバント』。
当時の江夏は抑えのエースとして君臨していましたが、
ポテッと腹の出た風貌でバント処理が唯一のウィークポイント。
広岡監督・森ヘッドCのコンビは、
『まさにそこを責め立てる』
ために選手に対して、
徹底的にプッシュバントの練習を課していたのでした。
果たして同点の8回、
その『乾坤一擲の手』を出す機会が訪れました。
無死1塁というこの場面、
バッターは片平。
片平は江夏が『バントをさせに来た』球をしっかりとそして強く、
江夏の苦手とする右横へ、
見事に転がしました。。。。。。
確かサードの古屋はバントに備えてチャージをかけてきましたが、
その横をあざ笑うかのように、
片平の打球はコロコロと、
江夏と古屋の間を転がっていったのでした。
見事な、
本当に『乾坤一擲』と言えるようなプッシュバントでした。
動揺した江夏は、
次の『打率1割台』の黒田に対して、
今度は送りバントを警戒しすぎて四球。
無死満塁のチャンスを作った西武は、
ここで『とっておきの代打』大田を打席に送りました。
シーズンでは全く打てなかった江夏に対して大田は、
『ここしかない』という場面で、
見事に江夏からセンター前にタイムリー。
その仕事人っぷりを見せつけて、
西武は初優勝へ突き進んでいったのでした。
そして翌83年にも、
片平さんの忘れられない瞬間があります。
この年西武は連覇を目指し、
巨人と日本シリーズを戦うこととなりました。
まさにサヨナラがサヨナラを呼ぶ熱戦のシリーズは、
5戦を終わって巨人の3勝2敗。
王手をかけられた西武でしたが、
広岡監督がマスコミ向けに『2勝3敗は御の字。西武球場に帰ってくれば、必ずうちが勝つ』
とうそぶいて自信を見せ、
その言葉通り、
第6戦は西武優位に進んでいきました。
9回表を迎えて2-1と西武がリード。
しかし9回表に巨人が、
中畑のまさかの逆転3塁打が出て3-2と逆転。
そしてその裏、
巨人はマウンドに、
このシリーズ西武を完璧ともいえる投球で抑え込んでいた西本が上がりました。
ワタシはテレビ観戦だったこの試合、
この9回裏を迎えるにあたり、
『9割方』試合をあきらめていました。
『西本を打てるはず、ないよ・・・・・』
しかし西武は1死から猛反撃。
山崎がまずレフトに叩いて塁に出ると、
迎えるバッターは片平。
祈りながら見ていたワタシの眼前で、
片平の打球は1・2塁間をあざ笑うかのように抜けてランナーは1・2塁へ。
決して打球は強くはなかったのですが、
これが流れというものなのか、それとも片平の勝負強さなのか。
『だれも届かない』
場所にゴロが転がって、西武のチャンスは拡大しました。
そしてそのあと、
代打・鈴木がヒットでつないで石毛が歓喜の同点打。
そしてもつれ込んだ10回、
西武は伏兵・金森のレフト頭上を襲うサヨナラ打で逆転サヨナラ勝ち。
最終戦でも、
0-2のビハインドから、
テリーが満塁一掃の2ベースを放ち大逆転。
『盟主対決』と言われた対決を制して、
連覇を成し遂げるのでした。
思い出してみると、
本当にあの連覇はすごかった。
やっぱりワタシにとっては、
その後の森西武の黄金期よりも、
この広岡西武の最初の連覇の方が、
強く心に残っている感じですね。
片平さんを含め、
山崎、田淵、太田、テリー、スティーブなど見事に鈍足が揃って、
『ひとつのヒットで一つしか塁が進まない』
なんて揶揄されていましたし、
ピッチャーの層はすごく薄かったのですが、
そんなつぎはぎだらけな戦力ながら侍がたくさん揃っていた、
そんな『愛すべきチーム』でした。
そして西武は、
82年のプレーオフでの江夏攻略、
83年での巨人との激闘を制したこと・・・・などから、
『本当に短期決戦には強いチーム』として、
80年代~90年代初頭を駆け抜けていくんですね。
すっかり短期決戦に弱くなったのは、
長嶋巨人に初めて負けた年ぐらいからですかね。
あ~
片平さんの事を思い出していたら、
止まらなくなっちゃいました。
やっぱりワタシにとっても、
『一番野球に熱中していた』時代で、
野球の試合こそが『生活の中心』と言ってもいいぐらいの存在感があった時代でした。
片平さんはその後、
永射投手とともに横浜に移籍。
引退してから西武に戻ってきて、
打撃コーチや2軍監督を、
歴任されました。
西武ライオンズにとって、
なくてはならない存在だったと思います。
包み込むようなあたたかい指導や物腰、
素晴らしい人格者だったと思います。
確か彼が2軍監督だったころ、
『指導者講習会』なるものがありまして、
ワタシはその会に参加していました。
その会の冒頭で、
片平さんが当時の西武の不祥事(アマ選手への栄養費疑惑)に鑑み、
『西武ライオンズとして、皆さんに深くお詫びを申し上げます』
なんて頭を下げられたのを、
本当に恐縮して見ていたのを覚えています。
(そんなこと・・・・・必要ありませんよ!って喉まで出かかっていました)
その後の講習では、
本当に丁寧にいろいろなことを教えてくださって、
『子供たちに指導するあなた方が、野球の未来を担っている』
ということを何度も、
おっしゃっていたのを思い出します。
ワタシは小さいころから見ていた憧れの選手にこうして指導してもらえるということに、
なんだかとても感慨深いものを感じていました。
そんな忘れられない、いい思い出があります。
そんな片平晋作さんの訃報。
どうか安らかにお眠りください。
忘れません。
合掌。
それにしても、
このニュースは、
本当に堪えます。。。。。。