このところ訃報とか引退報道とかが相次いで、
なんだか寂しくてしょうがありません。
日曜日に飛び込んできた訃報も、
本当に寂しくなるものでした。
阪急の黄金時代の監督で、
その後オリックス、日ハムの監督を歴任した名将、
上田利治氏が亡くなりました。
享年80歳。
上田監督と言えば、
『ええで、ええで』
と若手選手を報道陣の前でほめまくって、
どんどん成長させていたという記憶が鮮明です。
巨人9連覇の時、
阪急の名将として何度もその『最強巨人』に挑み続けていたのが西本監督。
しかしその西本監督は、
挑んでも挑んでも、
巨人の厚い壁に跳ね返され日本一に輝くことはありませんでした。
そしてその壁を破り、
阪急を日本一に導いたのが、
西本監督の後を継ぐ、
若き闘将・上田監督でした。
現役時代に実績を残せなかったものの、
指導者としての腕は超一級品。
まだまだそのころ、
『名選手これ名監督なり』
という感じでネームバリューで監督を人選していたプロ野球界にあって、
選手としての実績はほぼゼロながら指導力で監督まで上り詰めた上田監督は、
異彩を放っていた存在でした。
昭和50年の阪急優勝の時、
セ・リーグの優勝は広島でした。
広島の監督は、
言わずと知れた古葉監督。
確か30代の監督同士の、
本当にフレッシュな対決でした。
しかし日本シリーズでは、
勢いに乗る広島に対して、
『年季が違うんだよ』
と言わんばかりの阪急の、
本当にどっしりとした”強さ”ばかりが目立ち、
4勝0敗2分という圧勝で日本一に輝いたのでした。
覚えているだけでも、
福本、大橋、加藤、長池、マルカーノ、ウィリアムス、森本、大橋、そして代打に高井……
投手陣では山田、足立、そして剛腕・山口高志。
いまでもすらすらと名前が出てくるほど、
阪急は完璧に強いチームでした。
翌年の日本シリーズでは、
因縁の巨人と対決。
こちらも長嶋監督初Vの年で、
これ以上ない盛り上がりを見せた日本シリーズでした。
阪急3連勝、その後巨人2連勝で迎えた第6戦、
巨人が6点差を追いつき7-6でサヨナラ勝ち。
『こんな試合見たことない』
と誰もが驚き、
長嶋巨人の3連敗からの奇跡の4連勝での初Vを”確信”していたと思います。
しかしその3勝3敗で迎えた第7戦。
阪急のベテラン・足立が見せた、
まさに一世一代のピッチング。
異様な雰囲気に後楽園に、
足立がサブマリンから投げる一球一球が、
まさにキャッチャーミットに『吸い込まれていく』感覚で決まっていくのを、
なんだかはっきりと思い浮かべることができます。
そして伏兵森本の決勝アーチ。
ビジターの3塁側に陣取っていた阪急の猛者たちが、
大喜びで三本間のファールラインに沿って並び、
森本を嬉しそうに出迎えていた光景が、
目に浮かびます。
なんだかああいう、
『仕事師っぽいたたずまい』のパ・リーグの猛者たちに、
ワタシは心を奪われてしまいました。
そして翌年も日本一になった阪急が、
V4の相手に迎えたのが広岡ヤクルト。
これも大激戦となって3勝3敗で迎えた最終戦。
これもまた後楽園球場が舞台でした。(ヤクルトの本拠地神宮は、六大学野球のため明け渡してもらえず)
この試合、
大杉がレフトポール際に放った大飛球をめぐり、
ホームランの判定に対して上田監督が猛抗議。
日本シリーズの最終戦にして1時間19分の中断という、
プロ野球史上の大事件に発展してしまいました。
上田監督の猛抗議は、
いまだに語り草になっていますね。
『審判を変えろよ!』
ものすごい剣幕で、
そんなことを途中から言っていたという記憶があります。
その時のレフトの線審であった富沢審判、
その後しばらく、
4コマ漫画などでなにをやっても『ファール!』なんて感じで、
おちょくられていましたっけね。
(確かいしいひさいち?やくみつるはまだ世に出ていなかった気がするけど・・・・)
なんだか覚えているのは、
その抗議が明けた後、
阪急は先発の足立(?…もしかしたら山田かも)が投げることができず、
マウンドに前年の甲子園優勝投手である松本(東洋大姫路)が上がって、
マニエルに2者連続アーチ【間1時間20分ほど】を食らったということが記憶にあります。
高校野球マニアとしては、
松本が高卒1年目で日本シリーズに投げたということが嬉しく、そして驚きで、
その松本が阪急のユニを着てマウンドに上がったのを見たの、
本当にこれが最初で最後になったというのもまた、
鮮明に記憶にあります。
(その頃は高卒投手は出てきても4,5年目からと相場が決まっていたので、1年目から出てきたということに、えらく驚いた思い出があるんです。)
そんなこんなで、
上田監督はあれだけの名将だったにもかかわらず、
この試合の後、監督を辞任するんですよね。
責任を取って……
と言われましたが、
ワタシは『毎年優勝しているのに、何の責任だよ』
となんだか憤ったことを思い出しました。
上田監督は本当にワタシの中では、
まごうことなき名将と位置付けられています。
上田監督が去った後阪急は、
あれだけ戦力が整っていたにもかかわらず2年間勝つことができず(その時勝ったのは、元阪急の監督で近鉄に移っていた西本監督の近鉄)、
『やっぱり野球は、監督の力が大きいんだなあ』
ということをいやがおうにも意識させられましたっけ。
結局上田監督が81年から復帰するのですが、
その時はもうパ・リーグの流れは完全に変わっていて、
西武の黄金時代がすぐに始まるわけです。
その西武の首脳陣は、あの年にヤクルトの監督として相対した因縁の広岡―森。
西武の黄金時代が始まると、
阪急は徐々にその力を落としていって対峙することができなくなり、
完全に時代は転換していきます。
最初の監督時代、
上田監督は5年間で4度の優勝、3度の日本一と常勝時代を築き上げましたが、
2度目の監督の10年間では、
優勝はわずかに1度、日本一は結局ありませんでした。
ちなみにその10年の間、黄金時代の西武は7度の優勝、6度の日本一を積み上げていきました。
そして『もう引退』が取りざたされながら、
晩年の95年から5年間、
日ハムの監督もやりましたね。
弱かった日ハムをそれなりに戦えるチームにした功績は大きかったと思います。
96年には”ビッグバン打線”を率いて優勝間違いなしの強さで突っ走るも後半失速。
そして大事なところで、
『家庭の事情』とやらで休養したりして、
物議をかもしたりしました。
そして99年に監督を辞すると、
それが実質的な引退となり、
その後は現場に帰ってくることはありませんでした。
最終的には20年も監督を続けて、
1322勝という凄い数字を積み重ねた、
本当の意味での【プロ野球監督】と言えるでしょう。
晩年に数字を落としたとはいえ、
通算勝率.538は見事な数字だと言えます。
あの『ええで、ええで』節、
阪急の時は『また言っているよ』と思っていましたが、
結構チーム自体を応援していた日ハム時代には、
その『ええで』に乗せられて、
『今度はどんな若手が出てきたのかな?』
と楽しみに名指しされたその選手を注目したりしていましたっけ。
そんなことも、
ふと思い出しました。
ワタシの『プロ野球観戦史』特に『パ・リーグ観戦史』とぴったりと重なる存在で、
常にそこにいる存在であった上田氏だけに、
逝去のニュースは、
なんだかとてつもなく、寂しいニュースです。
先ごろ西武の森慎二コーチの訃報が大きく報じられ、
『その弔い合戦』のような感じの報道が多く見受けられ、
ワタシもショックを受けたのですが、
実はその数日前に亡くなった元西武の永射投手とか、
この上田監督とかの逝去のニュースが、
なんだかよりワタシにダメージを与えています。
堪えますねえ。。。
ご冥福をお祈りします。