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16年目突入。ビッグイベントに心躍らせながら、草の根のスポーツの面白さにも目覚めている今日この頃です。

取手二高の物語

2018年07月28日 | 高校野球

今年の高校野球地方予選。
非常に興味深い対戦がありました。

それは茨城県大会決勝。

「茨城の盟主」常総学院と、
2年連続出場を目指す土浦日大の対決。

戦前の予想では第1シードの常総学院が有利とみられていましたが、
ふたを開けてみると連覇を狙う土浦日大が4回に爆発して試合の主導権を握り、
そのまま6-1で逃げ切り、
見事に連覇を果たしました。

この試合、
あの名将”木内マジック” あるいは”木内のおっちゃん”で知られる木内元常総学院監督も、
スタンドで見守っていました。

もちろん自分が長年采配を振るった常総学院の決勝進出ですからスタンドに陣取るのも当たり前ですが、
それ以上に心動かされるものがあったと思います。

それは、
この試合を戦った、
常総学院の佐々木監督、
そして土浦日大の小菅監督、
どちらの監督も、
木内監督の取手二高時代の教え子だからです。

そして、
全国の高校野球ファンにはおなじみの、
「あの取手二高」
のチームメイトですね。

木内監督は長く取手二高の監督を務めましたが、
「あの取手二」
といえば、
昭和59年の、あのKKコンビのPL学園を破った”元祖ルーキーズ”のあの”のびのび軍団”、
あのチームしかありません。

その時、
佐々木監督は2番を、
小菅監督は9番を打って、
取手二の優勝に大きく貢献しました。

あのチーム。
エースには石田(故人・元横浜)、
主将で切り込み隊長は吉田(元近鉄)、
そしてクリーンアップには下田・桑原・中島という個性派の面々が、
君臨していました。

あの時。。。。。

というか、あの時代。

昭和50年代の高校野球界は、
完全に「西日本の時代」でした。

それを引っ張ったのが、
PL・箕島・東洋大姫路・報徳学園・天理らの近畿勢。
滋賀・京都は今ひとつでしたので、
大阪・兵庫・奈良・和歌山の4県でした。

ま~彼らは強かった。

昭和50年代の最初はまだ関東勢もちらほらと優勝を勝ち取っていましたが、
昭和51年~60年までの10年間で、
夏の選手権での近畿勢の優勝が6回。

そのほとんどが圧勝といってもいいぐらいの凄いもので、
はっきり言って関東勢は押されっぱなしという状況だったと思います。
特にPLと箕島は別格で、
この両校にあたると「まったく勝てる気がしなかった」というのが印象として残っています。

それを追っていくのが強豪そろう四国勢。
高知商、池田を軸に、
毎年春夏ともに4校ずつしか甲子園に出場しないのに、
その存在感は抜群でした。


関東在住のワタシは、
いつも大会が進むにつれた諦めの境地に入っているような感じで、
「今年もまた、だめだったなあ」
が定番。

昭和40年代後半から51年ぐらい、
そう、東海大相模の原親子が甲子園に出てきたころまでは関東勢の甲子園の活躍は「お約束」だったのですが、
それ以降昭和60年代、いや、松坂が登場するぐらいまでは、
関東勢は完全に「埋もれた状態」で「地区レベルは3番手か4番手ぐらい?」というところでしたね。

ちなみに昭和55年に愛甲を擁した横浜が荒木擁する早実を破り初めて選手権大会を制しますが、
この年は近畿勢が例外的に弱い年でした。
前年に甲子園を席巻した箕島、PL、浪商らはスーパースターが卒業して力を落として、
選抜でも選手権でも、
優勝候補に近畿勢の名前が一つもないという、
非常に珍しい年でした。
それゆえ、横浜が頂点にまで上り詰められたのではないかと、ワタシはいまだに思っています。

そんな厳しい10年の中で、
初めて心躍らせるチームとして強く印象に残るのが、
昭和59年の取手二高のチームなのです。

前年である昭和58年にはY校こと横浜商が、
春夏ともに甲子園の決勝に進出するという快挙を成し遂げましたが、
決勝は池田、PLという”超強豪”の前になすすべなく敗れる戦いで、
最後の最後でワタシは「やっぱり近畿、四国の強豪には、Y校をもってしても通用しないのか」と強く思ったものでした。

そんな中で昭和59年。
選抜に取手二高が出場。
前年に引き続き二年連続の出場で、
その前年秋の関東大会を圧勝していたものの、
「まあ、茨城代表だからなあ。。。。。」
というのがワタシの偽らざる気持ちでした。

当時の茨城の野球のレベルは、
関東の中で最も下とみられていて、
「時折好投手が出てくるものの・・・・・・」
という感じの評価でした。

この年の取手二高も、
「エース石田が超高校級の好投手」
という触れ込みだったので、
かつての土浦日大・工藤、あるいは鉾田一・戸田らと同じような感じのチームなのかと思っていました。

当時の取手二高といえば、
木内監督は「なんだか気さくなおっちゃん」というイメージはあったものの、
甲子園における実績などは皆無。
今の常総学院などとは、比べるべくもありませんでした。

その選抜。
取手二高は準々決勝で東京の岩倉に悔しい一点差負け。

この岩倉。
高校野球では時折ある「シンデレラチーム」で、
「波に乗ったとしか、説明がつかない」快進撃で、
ついには決勝でPLをも倒し優勝しました。

しかし世間の評価は、
「二度は絶対にない」
というもので、
岩倉が”強豪”という位置づけには、
なりませんでしたね。


取手二高はこの選抜での負けを引きずり、
これ以降、
かなりチームとして迷走したようですね。

刊行された様々な本によると、
チームは完全に一体感を失って、
元からルーキーズのようなチームですから、
ずるずると時が経っていったようでした。

しかし夏の大会前にPLと招待試合をやり、
そこでまさに試合にならないぐらいぼこぼこに叩きのめされ、
そこから目が覚めて、
夏の大会に全員のベクトルを一方向に向けて、
突き進んでいったようです。


そんな中での夏の甲子園。

事前の予想では、
優勝候補のバリバリの大本命は、
もちろんPL学園。
桑田、清原が健在なうえ、
甲子園でほとんど負けたことがない中村采配に、
しかも「逆転のPL」という伝統が相手を追い詰めるというものまでくっついて、
「PLが負けるはず、ないじゃん」
というムードを醸し出していました。

今の根尾・藤原擁する大阪桐蔭と比べても、
その評価の高さは上を行っているぐらいの「盤石な優勝候補」でした。

それを追う一番手は、
剛腕二枚を擁して、
「本気でPLを倒しにいく」と公言していた強豪・箕島が上がっていました。

箕島はPLとの対戦成績でもほぼ互角で、
何しろ箕島もPLと同じく「終盤の逆転が大得意」のチームでしたので、
高校野球ファンはこの大会も「近畿二強の最終決戦」の筋書きを、
頭の中で描いていたように思われます。

そして抽選会。

その結果、
箕島の初戦の相手は、
取手二高に決まりました。

取手二高は選抜のあと迷走したということもあって、
「力はあるけど、優勝候補ではないかな?!」
ぐらいの立ち位置。

もちろん初戦の予想は「箕島有利」一辺倒でした。
取手二高としては、
「予選で不調をかこってほとんど投げなかった石田が復活すれば、あるいは」
という書かれ方でしたね。

試合は序盤から、
予想された通りに箕島のペースで進みました。

石田は先発できず、
打線は箕島の豪腕・島田に全く力負け。
七回に追加点を上げられて0-3となった時は、
箕島の強さに「さすがだなあ」と唸るとともに、
やっぱり「近畿の強豪には、かなわないんだなあ。。。。野球の厳しさが、違うんだろうなあ」
なんて思っていました。

しかし。。。。


ここから奇跡的な反撃が始まります。

これが『取手二高伝説』の始まりとなりました。

それまで全くタイミングが取れていなかった島田に対して、
取手二高の打線が爆発。
連打がつながり、
イケイケの雰囲気になると”ルーキーズ”たちが堰が切れたように躍動。

木内監督は、
なんだかベンチ前で「イケイケ」とナインを鼓舞したように記憶しています。
そしてあっという間に5点。
下田の低い打球が右中間を抜けて言った映像、
今でも脳裏にはっきりと残っています。

そのあとは、
その「夢の続き」がず~ッと続いて、
3回戦も、準々決勝も、準決勝も、
相手をものともしない強打が炸裂。

そして爆発した後の選手たちが、
当時では珍しくはじけ飛ぶような笑顔を見せて、
「いけ~~~いけ~~~」
とベンチが全体で盛り上がる。

まさにそれこそが『取手二高野球』って感じで、
ワタシはその姿に魅了されて行きました。

そして決勝へと上がっていったのです。

相手は言わずと知れたPL学園。

ここまで盤石な勝ち上がりを見せての決勝進出。
前日の準決勝では、
8回まで追い詰められながら、
桑田が起死回生の逆転2ランを打って逆転勝ちするなど、
「逆転のPL」の伝統をも見せての決勝進出に、
PLの優勝を疑うものなど、
誰もいなかったでしょう。

その日のスポーツ新聞には、
取手二高快進撃の記事が踊ってはいましたが、
片隅に「6月の招待試合では、桑田が1安打完封。16-0(確か・・・・)でPLが圧勝」
というようなトピックスもあって、
「要は、試合にならねえということが言いたいのかな?」
と思ったこともありました。

それでも、
「今度こそ、やってくれるんじゃ・・・・」
という淡い期待を抱いて決勝を観戦しました。

決勝は雨交じりの気候の中。
確か、プレーボール時間も押したんではと記憶しています。

「そういえば、選抜の決勝も、雨交じりの中だったなあ」
なんて数少ない”吉兆”を見つけようと、
ワタシも躍起になったりしていました。

そしてプレーボール。

取手二高は初回、
2死1塁から4番に座った桑原がセンター前にヒット。

強烈な打球は、
雨をたっぷりと含んだ外野の芝生でツーっと滑り、
センターをあざ笑うかのようにそのグラブの横をすり抜けてセンターの一番深いところに転々。

ランナーだけでなく桑原までホームに帰ってきて、
あっという間に取手二高は「2点を先制」しました。

この「2点」というのが大きいところで、
1点だけだったら先発の石田はPLの重圧に耐えきれなかったところ、
2点あるということで若干落ち着いて投げることができた・・・・・と思いました。

この時のPLの状況。
選抜の時もそうでしたが、
大会が深まるにつれて、
打線が活力を失ってくるという感じでした。

大会の序盤には大爆発していた打線が、
この大会でも準々決勝で2点、準決勝でも逆転の2点弾が出たが結局3得点と、
相手の投球に合わせられなくなってきたということがありましたね。

ちなみにこの傾向は翌年の選抜でも見られて、
そこに中村監督は課題を見出したか、
その年の夏、そして翌翌年の春夏連覇時などは、
大会が後半に向かうごとに打線が調子を上げていくという感じでした。

大会への入りと、
ピークに持っていく試合の設定を変えたのかな?
そんな風に感じたものでした。


そして試合は後半へ。
7回に取手二高は、
頼りになる主将・吉田の2ランが出て4-1とリード。

余裕をもって後半の戦いへともつれ込める、
本当に貴重な追加点となりました。

しかしここから、
野球における、”勝負のアヤ”というものが出始めます。

取手二高のエース石田は、
8回までスイスイと投げてPLに1点しかやらなかったものの、
ここで清原を迎えて、
「余裕を持ちすぎた」球を投げ込みます。
それは超スローボール。

1球投げて、
それを清原が驚いたように見送って、
それを見ていたワタシは「なんだかこれで清原を打ち取れば、勝負は決まったな」なんて思っていました。

するとその次の球も、
同じような超スローボール。

清原は「なめんなよ!」とばかりレフト前に強烈なライナーでヒットを放ちます。
石田はマウンド上で照れ笑いのようなものを浮かべていましたが、
明らかにこの投球はPLのナインに火をつけました。

次の北口に投じた球が高めに入り弾き返されると、
左中間最深部のフェンスの一番上にあたった打球が明後日の方向に弾み、
中継プレーでもミスが出た取手二高をあざ笑うように、
打った北口まで還ってあっという間に4-3と一点差。

そしてそうなると、
球場全体に「PLの逆転が始まるぞ!」というムードが流れ始め、
その流れは抗うことができなくなってきます。

そして9回裏。

PLは清水哲がバッターボックスへ。

石田の浮いた速球をたたいた打球は、
あっという間にレフトのスタンドへ。
手をたたきながらホームに還る清水哲。

同点となって、
もうこの試合「いつPLがサヨナラをするか」というムードになりました。

テレビ観戦のワタシも、
「あ~これでもう、だめだな~」
と半ばあきらめモード。

しかも次打者に動揺した石田が死球を与えると、
大歓声が甲子園を包み込みました。


しかし。。。。。。

ここからが、
取手二高の、
いや、木内監督が『まごうこと無き名将』であるということを見せつける場面がやってきました。

この大事なところで、
木内監督は石田を下げて柏葉をワンポイントリリーフとして起用。

エース石田にはライトで冷静さを取り戻させました。

柏葉は次打者に対してバントをさせ、
キャッチャー手前に転がったそのバントを、
今度はキャッチャーの中島が拾って2塁へ矢のような送球で刺しました。

そして石田を再びマウンドへ。
バッターは清原。

高校野球史に残る「しびれる場面」でしたが、
石田は見事にこの場面で、
清原を内角球で三振に打ち取りました。

マウンドに戻った石田の表情に、
その前に見せた、おどおどしたような表情は消えて、
笑顔すら見せるようなリラックスした、
この場面を楽しんでいるようなものが感じられ、
これは今でも「高校野球名シーン」の一つに数えられています。

次の桑田も打ち取った石田に対して、
取手二高のベンチは頭をたたいて大歓迎。
この雰囲気、
いかにも取手二高らしい、
「このチーム、何かでかいことやるんじゃないか」
と思わせてくれるような感じでした。

しっかりと指示を与える箕島・尾藤監督のような監督に対して、
木内監督はこういう場面でもサラッと流し、
選手のイケイケの雰囲気や流れを、
決して途切れさせないような采配を振るっていました。


迎えた延長10回。

もうすでにPLの桑田は限界を迎えており、
1・2塁のチャンスを作った取手二高は、
迎えた中島が高めのボールをまさに”大根切り”。

打球は歓声と悲鳴を乗せて、
左中間のスタンドまで吸い込まれて行きました。
歓喜の勝ち越し3ランでした。

泣きながら中島を迎える”ルーキーズ”の面々。

高校野球でよく言われる、
『いい子ちゃんよりも、やんちゃなプレーヤーの方が、ここぞという時は頼りになるんだよ!』
という言葉、
この時ほどかみしめたことはなかったんじゃないですかね。

そしてそのあとに出たエース石田の二塁打、
石田の「解き放たれた思い」が全部詰まっているような打球で、
思わずニヤリとしてしまいました。

そしてその石田を返したのが確か小菅。(もしかしたら塙だったかも?)
彼のレフト前ヒットも、
いかにも取手二高らしいイケイケっぷりが、
よく出た一打でした。


こうしてあの桑田から10回に4点を奪った取手二高に、
夏の栄冠は輝いたのでした。

取手二高・木内監督集大成の夏。

木内監督は、
その後すぐに新設の常総学院の監督に就任し、
茨城に「初めての強豪校」である常総王国を築いていきます。

一方の取手二高は、
この年が本当に「最後の輝き」でした。

この年以降徐々にその力を落としていき、
近年では甲子園はおろか、
県大会の1勝もままならないという状況になっていますね。

しかし甲子園のファンにとって、
『茨城の取手二高』
という名前は、
いまだにまばゆいばかりの光を放ち続けています。


ワタシも、
本当に関東のチームが毎年苦しくやられ続けていた時代の中で、
これほど胸のすくような戦いをしてくれた取手二高というチームを、
忘れることなどできようはずもありません。

”甲子園史上最強”とまで言われるあの当時のPL学園に対して、
果敢に攻めて行って大金星を挙げたあの夏の決勝戦、
ワタシにとっての「甲子園ベストゲーム」の一つなのは、
間違いないところです。


そして34年の時を経て、
その時のメンバーだった二人が、
それぞれのチームを率いて、
『あの時の名将』が見守る中で県の決勝を戦う。

そう聞いただけで、
なんだか高校野球オヤジとして、
本当に胸が熱くなってしみました。

だめだなあ、年取ると。
すぐ涙腺が緩んできちゃう。

でも、
茨城県民だけではなく全国の高校野球ファンが熱い思いを持ったあの対戦のDNAは、
確かに引き継がれているんだなあと、
強く感じることができますね。

木内さんも、
いつまでもお元気で、
安心しています。


そんなこんなで、
やっぱり高校野球とは、
日本のスポーツ文化そのものなんだなあと、
そんな気持ちを持った、
ワタシなのでした。

長々とお付き合いいただき、
ありがとうございました。




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まさしく黄金期 (hanahana)
2018-07-28 15:53:09
高校野球が一番輝いていた時期ではないでしょうか。

現在でも昔と同じように、数々のドラマ、感動する名勝負は生まれてきています。
しかし何故でしょう。
同じドラマでも、今とは質が違うような、言葉ではうまく説明できない何かが違うような。。。

球場から伝わってくる観客の熱量、選手たちのひたむきさ・・・  う~ん
自分では、当時の打球音といいますか、甲高い金属音が
あの頃を思い起こさせるからではないかと思っています。

つまり、自分がオッサンになった。そういうことなんでしょうね笑

ラジオで聞いていても、打球音で
「やられた!!」「ヨッシャー!!」
というように、感じ取れましたもん。


その、取手二高とPLの試合映像を朝日新聞のバーチャル高校野球で改めて拝見いたしました。

いやあ鳥肌たちます。

完全にPLの勝ちパターンを「木内マジック」で強引に引き戻しましたもんねえ。

石田を一旦外野で落ち着かせ、直後に再びマウンドに送る采配なんか神懸かっています。
(明徳-横浜の、寺本-高橋-寺本なんかは馬渕が完全に焦っていました笑)


また、ユニホームがいいですねえ。
無骨なブロック体。しかも必要以上に太字で「取手二高」
今ではおそらく採用されないであろうデザイン。笑 ← 褒めてます

(浦和学院は絶対昔がいいです。あと、中京も。(あえて中京といいます))


当時の高校野球の話題を語りだすと、どうしても熱くなってしまいますね。笑


PLと箕島は別格で、
この両校にあたると「まったく勝てる気がしなかった」というのが印象として残っています。

高知県人も同じ思いでした。
対戦が決まると、ああ、ここまでかな・・・という諦めの雰囲気。

強豪校が放つオーラの次元がこの2校は違っていましたねえ。
ユニホーム負けしてしまう元祖ではないでしょうか。

コテンパンにやられそうな圧倒的破壊力のPL。
ハデさは無くともジワジワ点差を広げられ気がつくともう9回・・・という試合巧者の箕島。
対照的なチームカラーですが、双方とも共通しているのは、逆境を跳ね返す精神力の強さでしょう。
9回になると勝っているチームの方が次第に飲み込まれていってしまう威圧感は
この2校以外に現在過去、見当たりません。
まさに伝説のチームですね。

畠山、水野の池田に対してはそこまでは感じませんでした。
逆に、池田のほうが高知商、明徳に苦手意識持っていたようです。


東北、北陸はもちろん関東のチームは当時、申し訳ございませんがお客さんでした。
帝京でも意に介さずといったところで、勝っても「当然!!」といった印象でしたね。


現在は反対に北陸、東北のチームですら当ると厳しいなと思う昨今です。



あと、今回星稜が出場決めた時点で「明徳-星稜」のチャンスだ
と思った高校野球ファンが多くいたと思います。
まだ高知県の出場校は決まっていないにもかかわらず。笑

今回、例年以上に明徳と思っていましたから。


分かりませんね。高校野球は。

ミットにボールが収まるまで何が起こるかわかりません。

だから感動、ドラマが生まれやすいのでしょうね。




またもや、長々と失礼いたしました。

膝突き合わせて話すと、おそらく夜が明けます。

特に井上の大ファンで、(先日の3階級制覇も夜行バスで単独現地観戦しました)大のアンチ「最近の白鵬」ですし。笑


だから、まめちち様のブログ、大好きですよ。

これからも頑張って下さいね。
応援してます。
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ありがとうございます (まめちち)
2018-07-28 16:10:22
hanahana様、コメントありがとうございます。
やっぱりあの頃の熱気、すごかったような気がします。自分が若かったせいもあるんでしょうね。
斎藤佑樹が大人気といっても、「荒木や原とは、比べるべくもないんじゃ・・」と思ったり、大阪桐蔭が「史上最強」という文字が踊ると、「いやいや、あの頃のPLは・・」と思ったり、そんな事、多いです。「今の若い奴は・・・」って事を言うオッサンにだけはならない様に、なんて昔から思っていたんですが、知らないうちに自分も・・・なんて感じなんですかね(笑)。
何か私は、昔の甲子園は、良くも悪くもアナログ感満載という感じを持っていて、それが自分には何かしっくり来るというか、心地いいんですね。うまく説明はできないんですが。
これからもよろしくお願いします。
長く可愛がってやってください。
(井上くんの試合に来られていたとはビックリです。いい試合でしたね。またこれからも楽しみな試合が続きますね。)
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