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赤ちゃん

あなたを愛してよ

人生の選択ミス

2016-08-05 16:24:37 | 歴史ヒストリアの遠野物語を見て

人さまのブログを読んでいて、ふらふらしていたら、持ち時間を大きく切った。
これなら、書かないほうがブログの品質保持のためには良いのだが。

「(誰に見られても恥ずかしくないように)気合を入れてブログをアップしています」と、
ご自分のブログに書いておられるブロガーさんもいらっしゃる。
「(聞かれてもいないのに)自分から自分のプラス要因を言わないほうが、ぜったいにいい」という記事をよく見かけるブログだけに、
自分のことと、ブログネタとは、乖離していると感じる。
わざわざ自分で書かなくても、「誰に見られても恥ずかしくない文章」というのは、読む人が感じるものだから。

が、だれだって、そんなもの。
わたしだって、最たるもの。
自分を棚の上に上げたまま放置している、わたしの上から目線は、死んでも治りません。

「わたしも、そうだから、あなたも、そうよ。」
と言うと、「あんたみないな人といっしょにしないで!」と逆鱗に触れる方もおられる。
なので、そういう方には、「わたしは、たかが知れている低レベルな人間ですが、崇高なあなたは別です」
と、あえて補足説明を加えることにしよう。

というわけで、崇高な、高レベルな方は、「誰に読まれても恥ずかしくない」文章を書くのだろうけれど、
わたしは、誰に読まれても、誰にバカにされてもいい、気の抜けた文章を書くわけであります。

・・・

と、前置きをこんなに長く書いてもいいのか?

・・・

見に行ってきたブログは、結婚→離婚→再婚→目下、離活中の女性の日記。
社会人になったあたりのお子さんがおられる。
文章、おもしろい。
内容もまた、おもしろい。

結婚の条件や、幸せになるための条件、結婚相手選びのコツ、みたいなものを自分で勝手に、記事を読みながら同時進行しつつ、
わたしのアタマの中でストーリーが進んでいった。

上から目線になること、この上ないのだが、
人生の選択をするにあたって、法則のようなものを感じる。
失敗する人は、失敗を繰り返す傾向にある。
岐路におけるチョイスの判断とでもいえばいいのか。直感とでもいうのか。
(上から目線と、わたしはセットになっているので、いちいち上から目線釈明は割愛する)

自分の選んだものを信じて、突き進むとよい・・・などとは、言わない。
へんに信じたりすると、よけいに大変だ。
自分で責任を取ろうと、苦労を自分で背負い込む。
いっそ、人のせいにしておいたほうが、楽。

というか、話はもとに戻るが、岐路のチョイスは、その場で、ぱぱっと、えいやっと、思いついたように選択するかに見えるが、
実はそうではない。
岐路の前も、後も、ずっと思考や活動は続いていると考える。
止まることはなく、連続したものであり、それは、生まれた時から始まり、死ぬ時まで続く。

一朝一夕のものではなく、連続の積み重ねなのだ。


ヒマ人の逆切れ

2016-08-01 15:36:13 | 歴史ヒストリアの遠野物語を見て

 

ヒマな層、人々は、確実に存在している。
そのボリューム・ゾーンは、一日の大半を自分のために使っている。

ヒマというのは、時間がたっぷりあることだ。
自分の時間が確保できる、というと聞こえがいいが、ヒマをもてあましている場合が多い。

膨大な自由時間を「有効に」使っている人は、おそらく、あまりスマホやら、パソコンにかじりついていたりしない。
1時間以上(だったか?)、インターネットでうろうろしている人は、依存症だそうだ。
もし1時間なら、わたしも依存症になる。


無職。
これは、仕事をしていないということ。
仕事のために費やされる時間がないと、膨大な時間を確保できる。
というか、時間が余る。

仕事をしていない状態にも、いろいろある。
リタイアした人々も、その中にもちろん入る。
専業主婦も。
失業中、仕事がない人も。
仕事をしたくない人も。
したい仕事しか、しない人も。
病気やなんらかの事情で、仕事ができない人も。

どの国も、失業率で、国の、ある一面の実態が浮き彫りにされる。
ちなみに、この失業率は、気に入った仕事しかしない人のことは、カウントされているのだろうか。

とにかく、仕事をしていないと、育児や要介護の家族でも抱えていない限り、ヒマである。
退屈。

退屈との対峙は、各人、いろんな方法で取り組まれているようだが、
インターネットは、もっとも安易で手軽なお遊びとなっている。

と、じつのところ、ここまでが、今日の記事の序章、リード部分である。
じつに、じつに長いのが特徴だ。
さて、ここからが、本題。

 

わたしの参加している「ブログ村」、各カテゴリーの閲覧数(ブログ村のポチ、INやOUT数)を見てみると、
時間がたっぷりあるだろうと思われる人々の参加するカテゴリーの各ブログは、とてつもなく閲覧数が多い。
他のカテゴリーと同じような内容、濃度、質でも、桁が一つや、二つ、多い。
とりわけ、特段、極めて稀で特異な内容でもない、普通の一般的な場合であっても。

まあ、それはそれでよかったね、の話であるが。
その中で、今日、はじめて読んだブログがある。
夫との生活を嘆く主婦の愚痴ブログだが、おそらくこの夫は、モラルハラスメントの加害者にあたると思う。
部分的に感情移入できる記事もいくつかあり、なかなか興味深い内容に惹きつけられ、次々記事を読んでいった。
が、どんどん読み進み、何箇所かのところで、ぴたっとわたしの感情が止まってしまった。
と同時に、クリックする人差し指も止まった。

記事内に時々入る、商品の詳細。(広告が大きく、べたっと貼り付けてあるものではありません)
記事と思って読んでいると、自然な成り行きで広告に飛んでいく仕組みのパブ広告。

記事は、薄々で、「いかにも広告目的」というブログは見え見えで、読まないが、
今回のブログは、そうとう巧妙だった。
内容がよかっただけに、落胆も大きかった。
一回目の広告登場には、それまでの記事が、まじめな内容だっただけに、
ふう~ん・・・よほど、ご自分のおススメのお気に入りグッズがあるのね、と思っていたが、
二回目の記事を発見すると、こころのシャッターが下りた。
落とし穴が、突然、ぽっかり口を開いていたので、その不意な仕掛けに驚いた。
(このブロガーさん、文章、上手だし、うまく利用すると、資本主義経済は、うまく回る・・・
能力と時間と趣味を活かして、お小遣い、欲しかったのは、わかるけれど)


秋心無塵

2015-09-18 12:30:36 | 歴史ヒストリアの遠野物語を見て

座って浅秋の光のの中で、一人、11首のこまやかで心を打つ時間はこのようにドキドキする……

はこのような軽い、私權證到期ってる、1度の降りしきる小雨柔らかな絡げ季節の、洗濯に心の混雑

静かに座る時の隅の中で、繰り返し放送1首の純粋なティアナかすかに聞こえるようしとしとと雨の音がしはっきりの脈絡したたる、浸潤

あの時の殘した静かな良い歩いたことがあって旬日洗いの下、まるで香港服务式住宅湾仔つる、旺盛な一面の々と茂って、時には風の如くだけに滑る持っていかれた昨日のこずえの美しいです;置くことが充満しての浮世の中、いつ把握できない多くの縁で、の風景楽しい時悲しいとき、私たちが必要住ん古い時間の喫茶店で、ひとつの暖かいあるいは1段の匂いが充満して花火文字;慰め心の甘露巻き起こしの鼓動

ある人は言って、寂しさは1杯の苦い、あなたが味わうかどうか、それは微かに苦いから、まだバッグ沢山一筋の淡い香り

ある人は、孤独は1首の悲しい歌をしかし、旅の紅塵の中で誰が永遠のそばにのそばにいるの?

牛熊證買賣くの時、私達は楽しみをマスター寂しさや孤独を生命静けさに学会思考、は一人昇華するかもしれない、光陰の総会は物語の広がり老いて行く以前は結局は帰れないの、明日の風景は、何落葉たおやかで、が立ち込めて、私達はいつも学会に微笑んで、よりに一筋のの香りは、過去の風景を写し枯れ夏艳一輪

もし世の中に縁があって、もしが目の前でしばらく待っているも長すぎる;もしに着いて、待つ短い生涯


時に寂しさがいい

2015-07-22 11:08:17 | 歴史ヒストリアの遠野物語を見て

 自分が静かに考える。馨筆字を刺繍心境の灵思忙しく、誰解悲愴な気持ちは憂うつに锁眉。借りているペン本を書き、思。思いから、賦吟歳月数往事。流緒纏意よろづ若死。頭を上げて轻叹、書いて一行行紅塵余情たっぷりの生命にinvision group 洗腦散った一轮大キク。まるで夏の流星が最も美しい時に殘った絢爛瞬。流星花の考え事を読むと、紅塵万丈人生もこのように。

夜の繁華ただ眠り夢見える幻想的、瞳のほか錦燦。まるでずつ焦点距離外の白斑のようで、鮮やかなのに、寂寥溶けて比類がなくて、やがては浮世の繁華に虚空。守1禹清風雲飾美人、優形の筆の先描叙栄枯有定、俗世間の騒がしい己心の暇を埋もれた微笑。優形の筆の先描叙栄枯有定、純粋な良知の魂は、文字の薄くなった孤独、バインドのペンで溢れる柔柔、修身の道の上で書いた一筋の清音駐在の意。

外はもう暗く凝、竹蔭幽径切る透ける照明日光。紅塵婉歌、光と影の斑、清婉の心をこね潤筆昔の夢堤。一筋の本が好きと清丽文字を僕の胸に広がり、蔵は純粋でナンバーワンの魂を守るように、灣清泉碧水待って清燈、波に波打つ漓漓、あっさりした心。舒一墨やせ字安然時間、歳月の足を温めて淺渡の思考を、1筆の思い出は哭砂ぅ黙って。読んで、夢、付箋が面柳风の記憶の中で深い眠りに落ちて。この手紙をいっぱい雋景あふれた声がみずみずしい一寸肌、今夜そぼ降る雨種と淋漓落ちけむりの記憶は、湿った横たわる想い1雁南…

紅塵行思て求めて、どうしてもは月恥ずかしくて夜のやせている。徒歩で暗香並木道が笑数景刺繍のカーテン。平凡な生活を心から望むそんな毎日が過ぎて、やさしい目終から逃げられない孤独、人生の交差点南柯無数の夜に。顔は世の変転に独自の交差点、また一つ孤灯奔走して、浮世やつれた背中。人生はいくらでこぼこ清夢誰雋景に起こされる。風、悩み疲れ蝋燭痴遅れて涙の雨。出荷前に香香りない語愁無駄な詩。一筋の思い出になって若死ごとに向きを変えて、南飛の憂いと悲しみ全て落ち字は愁。すべての考えを化成唯嘆辛酸枯れた無言の断片。燈火を止めて鬱陰路海風景も、疲れたベンチで一休み. 1度の風に笑いをパイ紅の浮世の約。


片思いは粒のファメイ糖

2015-07-16 11:25:29 | 歴史ヒストリアの遠野物語を見て

若い時の片思いのようで、1粒のファメイ糖。ある人は言って、ファメイ糖が酸だったので、こんな恋も酸は、痛みは、寂しい。私はどうしてもとこれは世の中の最も甘い愛。片思い、これは一人の恋は一人で楽しいと思い、一人で泣いて、ひとり笑いをしていて、ドーピングの不純多種維他命物、好きだけと、なんの目的は、すべての喜怒哀楽は自分の。片思いは、この愛は純粋な、幸せな、このような愛はちょっと酸が甘い。

私は、もし私たちの春の時はなかったその場の片思い、私たちも行ってみてください、ファメイ糖甘い感じて。

長年後で、私はまだはっきり覚えているあ室內設計 なたのため、あなたは私を愛したの少年。あの頃の俺でも、心がどんなに苦しいが、いつもあなたを思い付いて、と思う心に花を咲かせる、明媚で憂え悲しむ。

あの1段の荒れた春の中で、あなたは私の最もにぎやかな査究。今、私はもう悲しみの後ろにあなたのに立ってました。もしある日ならば、私達が縁で1つの曲がり角に会えたら。私はきっとあなたに勇気を出して笑っていると言う:「まあ、私はかつて深くあなたを銅鑼灣通渠愛したことがある。」

座り込み窓際で、窓の外の世界を見て、日光はだらだらこぼれ大地に、白衣にシャツの少年を窓辺に、日光は斜めに刺してちょうど来て、私の目の痛みを生ずる。窓の外の少年を見ていて、なんだかその様子は本当に似て当初のあなた。私は思わず注意、さながらと笑って、頭を下げて、カバンから出して1粒のファメイ砂糖、軽く抜い糖衣、糖を口へ入れた、そっとファメイあめの味を味わう。甘酸っぱくて感じのようで、当時の1粒の好きだった君の心を。私の今の気持ちはこの心のファメイあめの味。

このまま不意に君を思い出した。永遠に知らない、私は高校の日記に書き留めた一人のすべてについていっぱいで、あの人は君。私は幻想したが、ある日、あなたが私の手を握って混雑人込みの中で、どれだけの衝突があっても、私たちは散。しかし、それだけでは私が人の幻想、私達がすべてで迷子に広大な人込みの中に、もう会う。