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モラ夫回顧日記

モラ夫から逃げ出し、モラ夫の生活を破綻させ一矢報いました。
しかし彼は逃がした獲物をすんなり諦める男ではなかった。

離婚成立

2005年07月16日 00時55分29秒 | モラハラ
私は、引き継ぎをした“キャリアウーマンもどき”の女性たちがすばらしく、
もう教えることは何も無いとモラ夫に報告。
そして私は気を良くしていたモラ夫に対し、すかさず離婚届を差し出しました。
すると彼はじっと黙って用紙を見つめ、口を開く。
モラ夫:「それでー、私の生活はどうするんだ」
私:「えー?それって女のセリフでしょ」
モラ夫:「しょうがないだろ。うちは逆転してるんだから」
ヒモラは最後に認めました。
自分がヒモだったことを・・・・
彼を見たのはこの日が最後です。
10日程すると離婚届に署名捺印したものが送られてきました。
「しばらくの間、提出せず持っているように」との手紙が入っていましたが、
私は届いたその日に区役所に飛んで行きました。
しかし保証人が二人必要だと言われ、残念ながらその日の受理はならず、
翌日息子二人の名前を証人欄に記載して提出、やっと受理されました。
離婚届の提出後も、モラ夫は離婚したことを認めず、
周囲には「偽装離婚」だなどと言っていたようです。

反撃準備

2005年07月16日 00時53分20秒 | モラハラ
モラ夫は、私と息子に会社を取られる事を恐れていましたが、
その二人があっさり出ていくことになり、(しかも財産は何一つやらずに)嬉しそう。
私たちが会社を辞めることが決まると、モラ夫は「これで私の好きなようにやれる」と早速社員を数名雇い入れました。
モラ夫の好みで選んだ社員はちょっとした曲者たちです。
彼は何事にも自信満々でちょっと横柄なくらいの女性が好きなんです。
私と息子が会社を辞めるまであと2週間という頃になると、私たちは引き継ぎで大忙しでした。
幸運にも、この自信満々でプライドの高いこの女性たちは、
1回のレクチャーで「もう分かりました」と顎をツンと上げて腰に手を当てて答えてくれたため、
引き継ぎは思ったより早くを終わりました。
ちゃんと引き継ぎを終えるには1ヶ月や程度で足りるはずもないのですが、
さすがは“キャリアウーマンもどき”です。
こんな彼女たちの態度に腹を立てているヒマはありません、
息子と私にはもっと重要な任務がありました。
まず、私と息子をこの会社の役員から外す手続きをすること(モラ夫は絶対にやらないから)。
モラ夫に盗られた私の意匠権などの権利を奪い返すこと。
新会社設立のため、今の会社の顧客リストを手に入れること。
取引き工場との話し合いをして協力を取り付けること。
モラ夫は普段は出社していなかったので、預けられていた代表者印を使えば、これらの手続きをとることが可能でした。
しかしお金はかけられないので法律家に頼むことも出来ず、
結局は息子が図書館通いをして調べて自分で各種の手続きを行い準備を進めて行きました。

モラ夫と別居

2005年07月15日 01時02分10秒 | モラハラ
「このまま家にいたんじゃ母さん死んじゃうよ」
「僕だってそのうち親父を殺しちゃうかもしれないしね」
息子のこんな言葉に、やっと私も行動を起こす決心をしました。
部屋を借りるための資金は私の貯金で何とかなりそうでしたが、離婚出来たとしても生活費のあてがありません。
人間、ちょっと良い生活を経験すると、レベルを下げるっていうのはなかなか難しいものです。
私が候補に挙げていた内、おしゃれなマンションはすべて息子に却下されてしまいました。
結局、息子も納得したのは家賃も超安く、古さでは地域一かと思われるビルの一室。
「僕一人がアルバイトした程度の収入でも暮らせる生活にしないとだめだろ」
そう言われては私も納得せざるを得ず、息子の成長にちょっとびっくり。これが反面教師?
その後、ついにモラ夫と離婚についても話し合いを始めました。
離婚の際には財産分与などもあるはずなのですが、モラ夫が応じるわけもなく、思った通りケチなヒモラは言いました。
「何も持っていかないなら離婚してやってもいい」
せめて2台ある車のうち、私が乗っていた車をという私の申し出に対しても、
「私だって他の車、乗りたくなることあるんだから車は2台必要だ」と
わけのわからない屁理屈で拒否されました。
借金を考えれば、すべて処分してもモラ夫が食べていく程度しか残らないことは分かっていましたので、
結局その条件を受け入れてでも離婚することを決心しました。
なぜなら、このまま離婚しないでいれば死んでしまうと思ったからです。

自殺未遂

2005年07月15日 01時01分02秒 | モラハラ
息子が仕事を覚えるにつれ、社員達は何事も息子に聞いて仕事を進めるようになっていきました。
モラ父はこんな息子に嫉妬するようになり、社員を一人づつ社長室に呼びつけては、
息子の能力の無さをあげつらうようになりました。
息子との間のトラブルに腹を立てながら、モラ夫はしょっちゅう私のいる別荘にやってきました。
そこで私にモラハラをして憂さ晴らしをしていたのかもしれません。
問題の日もモラ夫はブスッとした顔でやってきました。
私はいつも仕事が終わった後、毎晩状況を報告してくるはずの息子からの電話が無いのを不安に思い、
私から電話を入れると彼の様子が変でした。
「睡眠薬飲んだでしょ?」と私が聞くと、
「僕もう耐えらんないよ」と息子はろれつが回らない様子で泣いていました。
私はソファに寝転んでテレビを観ていたモラ夫に向かって叫びました。
「英二(仮)が死んじゃう。急いで家に連れてってちょうだい!」
モラ夫の答えは、
「えー!?わたしゃ、今着いたところだよ!それにサンディにご飯やってないし」
サンディというのは、いつもモラ夫が連れてくるの愛犬です。
ああ・・・私はこの時、モラ夫にただ一つ残されていた父親としての価値も失われたことを実感しました。

ヒモラの次のターゲット

2005年07月15日 00時59分41秒 | モラハラ
私が使い物にならなくなったことで働き手を失ったモラ夫は、
卒業後、他の会社で2年程働いていた次男を自分の会社に引き入れました。
長男は18歳から海外の大学に行き、そのまま海外で就職してしまっていましたので、
次男に白羽の矢が立ったのです。
父親の会社での様子は全く知らずにいた次男は、会社でも父親からのモラハラを受けるようになると、
入社後3ヶ月も経った頃には精神的に不安定になってしまい、心療内科に通院するようになりました。
しかし、結局睡眠薬をもらってくるだけで改善策は見出せず、
息子も母親の私と同じように苦しんでいました。誰にも理解してもらえない辛さです。
「何といっても君のお父さんなんだから」
「25年も社長してきた人だもの、お父さんが正しいに決まってるだろ」
誰に愚痴をこぼしても、皆からこんなことを言われていた様です。
そんな矛盾を感じながらも、息子は毎日深夜まで必死で働いてくれていました。
こうして「ヒモ」で「モラ夫」な夫は、徐々にターゲットを息子へと移していったのです。

難病発症

2005年07月14日 00時47分44秒 | モラハラ
私が会社に戻って半年。
最初に取り掛かったのはリストラでした。
お金も無いのに10名も雇っていた社員を、4名までに減らしました。
モラ夫は相変わらず私を責め立てます。
「おまえがやったってちっとも売上なんか良くならんじゃないか!」
「あんな家欲しいって、おまえが言ったんだからな!」
しかし、彼はこう言いながら、私がどんなに頼んでも別荘も自宅も車も手放そうとはしません。
それでも少しづつですが、以前のような商品をもう一度作ることでお客様が戻ってきました。
そうしてあともう一息・・・と思った頃、私の体調に変化が起こりました。
病院で検査を受けると、ある難病を発症していて肺炎を起こしていました。
即、入院です。
しかしモラ夫は入院の必要は無いと医者に詰め寄りました。
結局、医者の「死んじゃいますよ」の一言で入院することになりましたが・・・。
一週間の入院生活中、毎日モラ夫は私にさせる仕事を持って病室にやってきました。
「どうするつもりだ。まったく」と大きなため息も一緒に。
退院後、自宅で静養することを許されましたが、私はモラ夫の舌打ちには耐えられず、
自宅を飛び出し、ホテルを転々としました。
その後自分の食事を作れる程度にはなりましたが、
モラ夫のいる自宅に戻りたくない私は、伊豆にあった別荘で暮らすことにしました。

倒産の危機

2005年07月14日 00時35分18秒 | モラハラ
私がモラ夫から解雇されて2年目。
ある日帰ってきたモラ夫がソファに倒れ込むようにして、深刻な顔で言いました。
「もう終わりだ。倒産だ」
私はこの2年間一度も会社に行っていなかったので、どのような状況か分かりませんでした。
彼は「終わりだ。どうすればいいかわからんよ。おしまいだ」の繰り返し。
とうとう私は自分から言ってしまいました。
「私も会社に行きましょうか」
モラ夫が私に言わせたかった言葉を・・・・
2年ぶりに行った会社はお金をかけたけど趣味が悪い内装。
ん? ここってカフェバー?
まずは会社が仕事内容にはおよそそぐわない内装に変わり果てていたことにびっくり。
女子社員は10名もいて、たまにしか掛かってこない電話の早取り合戦の状態。
売れない商品の山々。
私が会社に戻ったことを確認したモラ夫が、目を三角にして言いました。
「こんなことになったのもおまえがあの家が欲しいって言ったからだからな!」

ヒモラからの解雇通知

2005年07月14日 00時26分45秒 | モラハラ
時はちょうどバブルの絶頂期。
「ヒモ」で「モラ夫」であるにもかかわらず会社社長におさまったヒモラは、
会社の業績が安定した事に気を良くして、お気に入りの女子社員とウキウキの毎日。
仕事を終えたある晩、ヒモラが言いました。
「会社、辞めてくれ。○○君(お気に入りの女子社員)が、君とは仕事やりにくいって言ってるんだ」。
これまで私が企画した商品を売って何とかやってきた会社でしたから、
企画者が突然代わることに不安はありましたが、逆らえませんでした。
そしてこの頃、私が会社を辞めるかわりに買ってくれた(?)らしいのが田園調布の一戸建住宅です。
「おまえが欲しいって言ってたから買ったんだ」
私が欲しいと言ったか言わなかったか記憶にも無いこの言葉は、この家がある限り使われました。
「いいか。お金が大変なのはおまえが欲しいって言ったこの家のせいなんだからな」
そう言ってお金が大変だと私を責めながらも、
会社の運転資金として借りたお金でポルシェを買ったのは何だったのだろう。

お前の物は俺の物

2005年07月12日 21時53分20秒 | モラハラ
社員が7~8名になった頃、ヒマなモラ夫は毎日の様に社員を呼びつけては、不毛なを打ち合わせ繰り返していました。
モラ夫は人前で話すのが大好きですが、彼の場合は決して話が上手いわけではなく、
熱っぽく話をする自分自身に酔いしれながら、
自己満足と暇つぶしのために同じ話をグルグルと何時間でも一方的に話続けるのです。
さらに月曜の朝には社員を集めてミーティングをします。
私はこのミーティングに出ることを許されていませんでしたので内容は良く知らないのですが、
そこで彼はこれからの会社の展望や構想などを話していた様です。
この月曜のミーティングに備えるため、モラ夫は毎週日曜の夜には私を部屋に缶詰状態にして迫りました。
「どうしたら良いか、何かアイディアないか」
ここで私から聞き出した仕事のアイディアを社員の前で自信満々に話すのです。そう、自分のアイディアと偽って。
モラ夫はアイディアだけなく、私が企画した商品、描いたイラスト、私が所有していた意匠権などの権利に至るまで、次々と自分の物にして行きました。
何年かが経ち、私もうんざりして来ていた頃のある日、モラ夫が例よって「どうしたら良いか、何かアイディアないか」と来ました。
この時私は、試しにとんでもないアイディアを教えてみました。
すると週明け、朝のミーティングを終えた社員の一人が、私に助けを求めて来ます。
「社長から、こんなことをやれと言われたんですが、どうしたらいいでしょうか・・・」
私は思わず笑い出してしまいました。
社長が指示していたのは、まさにあのとんでもないアイディアでした。
私もまさかモラ夫がこんな的外れなアイディアを社員に話すなんて思ってもいなかったのですが、
長年自分で働くことと考えることを放棄していた彼には、聞き出したアイディアが的外れかどうかの判断も出来なくなっていたのです。

苦痛な食卓

2005年07月12日 16時30分32秒 | モラハラ
モラ夫は、彼は会社に出社こそしていましたが、ヒモでもある彼は仕事をしません。
毎日社長室にこもり、ぼうっと時間がたつのを待っているのです。
結局18時が限界らしく、私の仕事が片付くのを待つこともなく、一人で先に帰ってしまうことが多かった。
そんな生活をを送るモラ夫にとっての一大イベントが夕食です。
仕事に追われる毎日でしたが、食事の支度はもちろん私の仕事。
子供たちを待たせているので、出来るだけ急いで家に帰って支度をしていました。
私が帰って食事の支度を始めると、先に家に帰っていたモラ夫がキッチンにやって来て私に聞きます、「何作るんだ?」。
今日のメニューを伝えると「私はいらない!」と怒ったようにカップ麺にお湯を入れ始めます。
どうも今日の食事は出来るまで待てなかった様です。
でも、ここまでは普通の家庭でも良くある話かもしれない。
彼が違うのはここから・・・・
料理が出来、テーブルに並べて、子供たちも席に付いたところで彼を呼びに行きます。
私「あなたの分も作っちゃったので食べてくれませんか」
モラ夫「いらないって言ったろ。しょうがないなあ、作っちゃったのかぁ」
もし、これをやらなかったら大変なことになります。
私と子供たちとで食事を始めたところに来て(ドタン!バタン!)。
食事の最中にあれこれ用事を言いつけたり、子供の部屋がきたないとかで怒り始めます。
二人の息子は父親との食事が大嫌いでした。
しかし、モラ夫は家族揃っての食事大好きです。
自分が父親からやられた躾とやらを、子供たちと私にやろうとします。
自分は料理の皿にお箸を突っ込んで、自分のところに引き寄せたり、大皿の料理を一人占めしちゃったりと、良い躾をされた様には思えないんですけどね。
子供たちと私が食事中に笑いながら会話してると「くだらん話はやめて食べなさい!」と怒られます。
椅子の座り方が悪いと言い出しては何度も座り直しさせられたり。
ときにはちょっとテーブルについてしまった子供の肘をぶっ飛ばしたりすることもありました。
当然食卓にはピリピリと緊張感が漂い、家族は沈黙の中で黙々と食事をします。
モラ夫は家族が緊張し、自分のご機嫌を伺っているこの状況がお気に召す様で、家族の気持ちはお構いなしに時代錯誤なジョークを言い始めたりします。
そんな緊張感の中、ひきつりながらも彼のジョークには笑わなければなりません。後が怖いですから。
こんなだから子供たちは、いかに早くこの場から立ち去れるかだけを考えていた様です。
私も過敏性大腸症で毎夕食後トイレに飛び込みました。
息子が二人ともいまいち背が伸びなかったのもこんな食卓のせいだったかと
今になって、考えたりします。