わたしんちの医学革命と雑多な情報

「医学革命」とは薬からの解放への「個人の気づき」の事である。雑多な情報も「取捨選択」&「鵜呑み厳禁」はセルフサービスにて

岡田茂吉研究の医学編から薬毒とその他の体内の毒素について。

2018年02月07日 | 岡田茂吉医学論研究会用

こちらを参考に

薬に病気を治す力はない!唯一治すのはあなたの中の自然治癒力だけ

2018年02月07日

 

それでは「よいとこ取り」精神を忘れずに

昭和14年の岡田茂吉研究の医学編から薬毒とその他の体内の毒素について。

 

ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

薬剤の毒(
薬剤の毒(一)



 天然痘の毒素の外に薬剤の毒、すなわち薬毒という毒素が、如何に恐るべきものであるかを説明してみよう
 
 
 古今東西を問わず、病気に対する薬物療法は、人類に如何に根強く浸潤したであろうか
 
 病気に罹れば薬を服(の)むという事は、腹が減れば飯を食うという事程、それは常識となっている
 
 然るに驚くべし、薬物は“病気を治癒する力”は全然なく、反って病気を作る即ち病原となる―という、恐るべき毒素であるという事を、私は発見したのである
 
 到底信じ得べからざる大問題であるが、然し、真理は飽迄真理であって、奈何(いかん)とも為し難き事である
 
 
 昔有名なる漢方医の言に、「元来薬という物は世の中にない
 
 皆毒である
 
 病気の時薬を服むのは、毒を以て毒を制するのである」と言った事を私は何かの本でみた事がある
 
 実に至言なりというべしである
 
 又、毒薬変じて薬となる―という諺もある
 
 成程痛みに耐えられぬ時
 
 モルヒネを注射すれば、立所に痛みは去るのである
 
 之は痛む神経がモヒの毒で一時的麻痺するからである
 
 之は医学でも判っているのである
 
 
 私は、最初の方で病気の原因は、浄化作用であり、浄化作用は苦痛が伴う―その苦痛が病気である―と説いてある
 
 即ち人間は誰しも苦痛は厭だ、早く免れたいと思うのは判り切った話である
 
 その場合、苦痛を除(と)るには、二つの方法しかない
 
 一つは完全に除る―という事、それは排泄去るべき毒素を、全部排泄さして後へ残さない事である
 
 今一つの方法は、一時的苦痛から遁れる事である
 
 それは、苦痛の起る以前の状態に還元さす事である
 
 それは、浄化作用を停止し、浄化作用の起らない時の状態にする事である
 
 処が、前者の完全排泄は自然治癒法であるから時がかかり、であるから、早く苦痛から逃れたい―という事が、今日迄の薬物療法は固(もと)より、凡ゆる療法を生み出したのである
 
 又、今日迄の医学では、右の原理も分からなかったのである
 
  (昭和14年)





薬剤の毒(二)



 人間が病気に罹るとする
 
 熱が出る
 
 痛み、不快、咳、痰などが出る
 
 薬を服むと軽くなる
 
 丁度、薬によって病気が治るようにみえる
 
 然し、度々言った通り、薬と称する毒を服んで全身を弱らせる
 
 弱らせるから浄化作用が弱る
 
 苦痛が軽くなる―という訳である
 
 処が、それだけなら未だいいが、その服んだ毒はどうなるであろうか、それが問題なのである
 
 
 茲で説明をしておくが、人体には毒素を嚥下すると、解毒又は排毒作用が行われるようになっている
 
 然し、毒といっても殆んどが食物の毒である
 
 であるから、人体内には、解毒作用の力はあるが、それ以外の毒素の即時解毒作用の力はないのである
 
 であるから、食物以外である所の薬毒の解毒作用は全部行われないので、或る程度体内に集溜する
 
 それは矢張り天然痘毒素の場合と斉(ひと)しく、神経の集注個所である
 
 故に、斯(こ)ういう理屈になる
 
 陰性天然痘毒素の溜結が浄化排除作用が起った時、それを止めて新しき薬毒を加える―それが薬物療法の結果である
 
 従而、今度は二元的毒素となって溜結する
 
 それの浄化作用が起る
 
 故に、第一次浄化作用より、第二次浄化作用の方が毒素の加増によって悪性なのは勿論である
 
 故に、第二次浄化作用即ち再発の場合は初発より押並べて悪性であるのは、此理に由るのである
 
 右の理由によって、第三次、第四次も起り得るのである
 
 

(昭和14年)


尿 毒



 独逸の医界の泰斗○○氏の説によれば、万病は尿酸が原因であるという
 
 此尿酸というのはここにいう“尿毒”の事であろう
 
 陰性天然痘毒素が神経集注個所へ溜結し易いという事は、度々述べた通りであるが、人間の作業上腰部に力を入れる関係上、腎臓部に溜結するのである
 
 之はゴルフ愛好者に特に多いのにみても瞭かである
 
 此溜結が腎臓を圧迫する為に、腎臓が萎縮するのである
 
 従而、その萎縮の程度によって、例えば完全腎臓は十の尿を処置し得らるるのが、萎縮腎臓は、その萎縮の程度、例えば、九の尿を処置するとすれば、一の尿は体内に滞留するという訳で、その余剰尿“一”が即ち尿毒である
 
 此尿毒も二元毒素と同じく、神経集注個所へ溜結するが、此毒素は特に位置の関係上、腎臓部、腹部、肩部(肩の凝り)、頸部等へ集溜し勝ちである
 
 但し、左右何れか萎縮する方が、尿毒の滞溜が多いのである
 
 但だ此尿毒は、天然痘毒素には限りあり、薬毒も使用するだけのものなるが、尿毒に於ては、二六時中間段なく製出するものなる故、此点特に始末が悪いのである
 
 此尿毒と併せて、大体三毒が凡ての病原となるのである
 
  (昭和14年)





三 毒



 天然痘毒素、薬毒、尿毒の三毒は、病原であるという事は、大体説いたつもりであるが、是等の毒素の性質作用等に就て述べてみよう
 
 然毒は、遺伝性であるから古いのである
 
 此三毒共、其浄化作用の場合、古い程痛苦が軽く、新しい程其反対である
 
 従而、然毒による痛苦は比較的緩和であって、尿毒による痛苦は然毒よりも大体強いのである
 
 然し、薬毒に於ては、其痛苦が前二者に比して、断然強いのである
 
 然し、薬毒に於ては、漢薬と洋薬とは異なるのである
 
 例えば、漢薬は鈍苦痛であって範囲は洪(ひろ)く、洋薬は激痛苦であって局部的である
 
 然し孰(いず)れも、服薬による痛苦は、或る程度に止まるものであるが、注射による痛苦に至っては、其激烈なる言語に絶するものすらあり、是等は、当事者は常に見聞する所と思うのである
 
 そうして、此痛苦とは如何なる原理化というに、浄化作用とそれの停止作用との衝突の表れであるから、最も激しい痛苦という事は、最も浄化作用の旺盛なる身体へ、最も強力なる毒素によって停止せんとする大衝突であるという訳である
 
 此理に由って痛苦の激しいのが、老人でなく青壮年に多いのである
 
 故に、此理がはっきり呑込む事が出来れば、病気で死ぬという訳も判るのである
 
 即ち、浄化作用停止による痛苦の為の衰弱が主なる死の原因であるという事である
 
  (昭和14年)
 

ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

 

いずれにしても人は死ぬのは確実。

産まれたときから猫まっしぐら。死に向かっているわけですが。

(本当は死というものは無い。本体は意識なのだ。死を体験する意識は常に活き活きとしているわけ。肉体という仮想現実体験世界では死はあるが)

エゴは死を恐れるから、死を逃れる最善の手段として薬(毒なのだが)を使い始めた。

それから猫まっしぐら~~~何千年か何万年かは知らないが、、

薬が病気を治すという錯覚を信じて、信仰して来た・・・・それは必要悪だという岡田論。

 夜の世界には必要(だが、真の治癒では無いから悪)だったが、昼の世界には不要悪になるというのが岡田論の骨子だと、私は思う。

 

 それ以外の宗教論とか神観には同意できないものもあります。(私には)

 もちろん、救世主とかメシヤとかいう思想も世界共通の夢物語の話。

救世主は外に有るのではなく、内に現れる(神に帰るとか気づくとかの思考のようだが)というのが、これからの物語の屋台骨となるでしょうね。

 自分(エゴまっしぐら)を見たら、とてもそんな風に思えないのももっともだが・・・

そうは行かないのが今後の人類の一帯一路¥

これにはもう逆らえないのが宇宙の中の地球人類のようです

 あ、また下らない手前勝手な解説でした。

 

 

 

 

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