お兄ちゃん日記

2017年9月14日、今日からこのブログでやってみることにします。

神から授かった才能を活用して使命を果たす

2024-08-31 03:34:43 | 日記
神から授かった才能を活用して使命を果たす

この世に存在している人、全ては「誕生させられた」という状態で生まれてきました。
「第三者(両親)」によって自分が作り出され、この世に送り出されたのです。
誰もが自分の力でこの世に出てきたわけではなく「気づけば」この世にいたのです。
では、なぜ人間が交尾をして、子を産み続けていくのかというと、その一番の目的は「種の存続のため」です。
長く種を生存させ生き永らえるために子どもを産み、種の生存を目指しています。
しかし、種の存続だけが目的ではありません。
神はもう1つ「ある目的」を願って、この世に我々は送り出されました。
その目的が幸せと喜びです。
初めに自分の力で誕生することはできず「誕生させられた」と書きました。
では、何のためにこの世に誕生したのかというと幸せと喜びという目的を果たすために生まれてきたのです。
使わされた命、すなわち「使命」です。
人によって特別な能力を持った人がいる。
絵を上手に書ける人、上手に歌が歌える人、上手に文章を書ける人、上手に話ができる人。
不思議なことに、初めからこうしたことが得意であったり、そうなるような環境に初めから置かれていたりする場合が多い。
こうした状況を幸せと喜びのために活用しなさい、という神からの使命なのです。
才能は、神様からのプレゼントと考えることです。
目的を達成してほしいがゆえに、初めに才能のタネを植え付けてくれたのです。
神様からのプレゼント(才能)を活用して使命を果たすために誕生させられたのです。

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目標に向かう気持ちはザラザラした摩擦が火をつける

2024-08-30 03:20:21 | 日記


目標に向かう気持ちはザラザラした摩擦が火をつける  

先日、台所の引出しの奥に小さなマッチ箱を見つけた。
懐かしくて一本出して,こすって火を点けてみた。
当然だがマッチ棒に火をつけるには、マッチ箱の粗い側面でこすり、摩擦によって火がつく。
考えてみると我々は、なめらかでスムーズな生活を望もうとする。
なめらかになれば、ストレスがなく、快適な毎日を送ることができる。
しかし、なめらかな生活では摩擦がないため火がつきずらい。

にも、ざらざらしたストレスは多少あったほうがいいのかもしれない。
スムーズにいかず「イライラするなあー」というストレスがあるから、目標に向かう心に火がつく。
「負けてたまるか」という反骨精神が燃え始め、モチベーションが上がる。
ざらざらしたストレスが、自分の心に火をつける。
なんとなく、そんなことを考れるキッカケをくれたマッチ棒であった。

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イスラエルとパレスチナそして聖地エルサレム

2024-08-29 03:48:36 | 日記
イスラエルとパレスチナそして聖地エルサレム

昨年10月7日にハマスとパレスチナ過激派組織によるイスラエルに対して少なくとも3,000発のロケット弾が発射され、イスラエル領土への侵入で始まっ た。
ハマス(イスラム原理主義組織ハマス)はパレスチナのガザ地区を実行支配している極右の軍事組織です。
イスラエルはこの攻撃で1000人以上の死者がでました。
この報復としてイスラエルのガザ地区に対しての反戦攻撃が始まり現在至っている。
ガザ地区は365万平方キロメートルに200万人以上の人が住んでいる世界で一番人口密度の高い地区と言われてます。
現在、イスラエルの攻撃で民間人を含め4万人以上の死者が出ています。
停戦に向けて仲介を通して交渉を行っているが未だに合意には至っていません。
イスラエル人の75%はユダヤ教の信者で、一方パレスチナ人の85%はイスラム教徒です。
イスラエルとパレスチナは宗教間の争いが根底にあるようだ。
いずれにしても、人間の命の尊さを重んじる宗教間で命を奪って領土を獲得する手段としての戦争は絶対に許されるものではありません。

イスラエルの中にエルサレムと言う街に ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」 、 キリスト教の聖地「聖墳墓(せいふんぼ)教会」 、 イスラム教の聖地「岩のドーム 」があります。
3つの宗教の聖地は、城壁に囲まれた旧市街区の中に共存してます。
つまりエルサレムはイスラエル国内にあるが、聖地として国連による永久信託統治の地区で、イスラエルが主張する首都ではありません。

キリスト教にとっての聖地エルサレムはイエスが十字架に架けられ、復活したゴルゴダの丘は信仰の中心となる最も重要な舞台でもあります。

この聖地の近くで多くの罪が骨肉の争いとも言える残酷な行為が、一日でも早く罪から解放され、神の聖霊に目覚め清らかな心を取り戻されるよう祈ります。

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物事を自分なりに考える習慣をつける

2024-08-28 04:00:37 | 日記
物事を自分なりに考える習慣をつける
 
物事について深く考えることは、心に余裕がないとできないことかもしれない。
よく「なぜ」を5回追求すると本質にたどり着くと言われる。
だが現代ではネットて調べると瞬時にして本質がわかる。
しかし自分で考えると云うことは、今迄の学びや経験で得た知識や知恵により自分なりの答えにたどり着く。
自分なりに考えてみることは、自分個人の考え方を知る上で貴重なことだ。
たとえネットでの答えと違った答えが出たとしても、そんなことは気にすることはない。
問題は自分で考え出した答えが、そのもの物事の本質と捉える自信を持つことである。
ネットで調べて即、答えを知るより、まずは自分の頭で考える習慣をつけること大切である。
「なぜ」を追求していくと自身が納得できる自分だけの答えにたどり着く。
これは脳を活性化させ、満足感もあり、なにより楽しいことだと私は思っている。

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ひとりで生きていくことはできるのか?

2024-08-27 04:17:57 | 日記
ひとりで生きていくことはできるのか?

人間はそれぞれの立場で家族や親戚、友達や周囲の人などに支えられて生きている。
それは実生活の部分と精神的な部分とのどちらかで自分の活力のよりどころになっていると思う。
現役を終えて年を重ねるごとに、人間関係が少なくなったり疎遠になったりする。
そして生活面ではひとりになる時間が増えてくる。
しかし精神的に支えてくれる人がいなくなったら、生きていくのは辛く寂しいものになるだろう。
健康で経済的にも豊かで、ひとり自由で楽しい生活を送って充実感に満ち溢れていても、果たしてひとりで生きていると言えるのだろうか?
つまり人間は精神的に満たされていることが必要な生き物である。
それは心に想い続けてる人がいたり、支え合ったりする人がいることで生きていけると思う。
確かに僕も含めて実生活で一人暮らしで生きている方は多数いる。
それらの方々も、心の支えとなる人がいて精神的に保たれていることで生きていると思う。
私はそういう意味で、人間ひとりでは生きていくことはできないと思っている。

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